ラウロの灯記し
聖堂の朝は冷える。
石の床の冷たさが、靴の底から上がってくる。
壁ぎわに親たちが並び、ノアはその端に立っていた。
七つの子は今年は六人で、帳の前に一列になっている。
後ろから二番目にラウロがいた。
髪を濡らして撫でつけてあるのに、後ろだけ跳ねている。
「ラウロ、髪」
小さく言ったが、届かない。
ラウロは前を見て、拳を握ったり開いたりしている。
アンブロージオ司祭が帳の横に立ち、名を一人ずつ呼んだ。
呼ばれた子が手のひらを出す。
橙が灯る。
赤が灯る。
茶が灯る。
灯るたびに壁ぎわから息の抜ける音がして、帳の係の筆が動く。
二年前もこの音だった。
ノアはポケットの中で右手を握った。
息を止めていればいい、と母は言った。
今日は止めなくていいのに、勝手に止まっている。
「ラウロ・マリーニ」
ラウロが一歩出て、手のひらを上に向けた。
指が少し震えている。
何も出ない。
ラウロは自分の手を睨んだ。
ノアも睨んだ。
出るな、と思っているのか、出ろ、と思っているのか、自分で分からなかった。
「もう少し、待ちましょう」
司祭がゆっくり言った。
待った。
ラウロの息が荒くなって、手のひらが赤くなる。
赤くなるだけで、灯りではない。
「よろしい。手を下ろしなさい」
司祭は帳の係を見て、頷いた。
「灯らず、と」
筆が動いた。
黒い字が二つ、ノアの名の下から、ずっと下に入った。
「はい」
ラウロの声が聖堂の天井に当たった。
今日いちばん大きい声だった。
聖堂の外は日が出ていて、石段が白い。
灯った子たちが先に降りて、手のひらを見せ合っている。
その真ん中にピエトロがいた。
坂の子の中でいちばん背が高く、声もいちばん大きい。
「やっぱりな。おれ言ったろがよ、ラウロは出ねえって」
「言ってた言ってた」
「賭けてたら勝ってたじゃねえの」
子どもたちが笑う。
ラウロは石段を降りきって、笑っている輪の横を通った。
止まらない。
ノアはその後ろについた。
「ラウロぉー、ごはんよぉー」
ピエトロの声が、ラウロの母親の声になった。
そっくりだった。
輪が沸く。
ラウロだけ振り向いた。
「うるせえ。ごはんはまだだ」
「ほら振り向いた」
「灯らず二人で並んでよ。お似合いじゃねえの」
ピエトロが自分の手のひらに青を灯して、ラウロの顔の前に突き出した。
ラウロはそれを見た。
まぶしいのか、目を細めただけだった。
「行こ、ノア」
「うん」
輪はもう、二人を見ていなかった。
灯った手を寄せ合って、誰の色がいちばん濃いか、比べはじめている。
坂の上の樫の木は、幹がまだ冷たい。
ノアが先に登って、いつもの枝に腰を掛けた。
ラウロは一段下の枝に上がって、幹に背をつけた。
下に街が見えて、聖堂の屋根が小さい。
「出るかと思ったんだけどな」
ラウロが自分の手のひらを見ている。
「ぜんぜんだった。手のなか、すかすかで、あっためても何も来ない。あれ何なんだよ」
「…わからない」
ノアは自分の右手を、樫の皮に押しつけた。
ざらざらして、痛い。
「お前、なんて顔してんだよ。おれが灯らずなのは、お前のほうが先に知ってただろ」
「知ってたよ。でも」
でも、の先が出てこなかった。
ラウロは知っている。
ともし比べの夜、ノアの手に出た白いのを、ラウロだけが見た。
言わない約束で、ラウロは今日まで言っていない。
帳に書かれたノアの黒い字と、今日書かれたラウロの黒い字は、同じ形をしている。
同じなのは形だけだ。
「灯らず組」
ラウロが枝を蹴った。
「これでほんものが二人だ」
「…うん」
「なんだよ、うん、って。もっと喜べよ」
「喜んでるよ」
ノアは枝から手を離した。
手のひらに樫の皮の跡が赤くついていて、それだけだった。
「ラウロ、かっこよかった」
「どこが」
「はい、って。今日でいちばん大きい声だった。司祭さまがちょっと目を丸くしてた」
「見てたのかよ」
ラウロが笑って、それから幹に頭を打ちつけた。
一回だけ。
「痛え」
「なんで叩くの」
「跳ねてる髪、直そうと思って」
「直ってないよ」
ノアも笑った。
笑いながら、右手をポケットに入れた。
住まいに着くころには、日が坂の下まで降りていた。
戸を開けると、魚の煮える匂いがする。
「母さま、ラウロ、ごはんいっしょにしていい?」
母は鍋から顔を上げて、ラウロを見た。
「いいわよ。ラウロ、今日は朝から立っていたでしょう。そこに座ってくれる?」
「うん。…はい」
ラウロが椀を二つ運ぶノアの横で、椅子を引いて座った。
いつも走って入ってくるくせに、今日は膝を揃えている。
母は魚とパンを出して、ラウロの椀に多く盛った。
「熱いから、ゆっくりね」
「おばさん、おれ、今日」
ラウロが言いかけて、母の手が止まった。
お玉を持ったまま、鍋の上で一呼吸ぶん。
「帳に書かれたんだ。灯らずって」
「そう」
母はそれだけ言って、お玉を動かした。
「パン、まだあるわよ。ノア、取ってあげて」
「うん」
ノアは左手でパンを取って、ラウロの前に置いた。
右手はポケットの中で、まだ握ったままだった。
ラウロが魚を口に入れて、目を細めた。
「うまい」
「よかった。たくさん食べてね」
「ありがとう、おばさん」
母は頷いて、自分の椀を持って座った。
灯りのことは、もう言わなかった。
ラウロも言わなかった。
言わないのが二人、と、言えないのが一人で、椀は三つある。
ノアはようやく右手を出して、匙を持った。
手のひらの赤い跡は、もう消えかけていた。




