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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:外伝
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夢の残滓2 試し手の試験

昇降機の前の掲示に、人だかりができていた。

前は坑夫の背中しか見えなかったのに、いまは頭の上から、新しい貼り紙の字が読める。

坑道街では見ない白い紙に、角ばった字が並んでいた。


〈デバイス実証部隊、初期被検体を募集する〉

〈家柄は問わない、規格の合う者を選ぶ〉


「ひけんたい……なんだって?」

前のほうで、年かさの坑夫が首をひねっている。

ベリアトは、二行目で目を止めた。

デバイスはこれまで、政府が家ごとに配り先を決めてきた。

三つ目の通りの家の連中や兄貴には配っても、坑の末っ子までは届かない。

それが、規格さえ合えば選ばれるという。

体の規格がどうやって決まるのかは知らない。

紙の隅に、小さな字でもう一行足してあった。

〈規格が合わなかった場合、身の安全は保証しない〉

いいさ。

合わせりゃいい。

鍋の底しか回ってこない末っ子に、デバイスなんか回るもんかと、兄貴に笑われた。

笑われたまんまで終わってたまるか。


隣で、ハーミドが黙って紙を見上げていた。

背は、いまもベリアトの胸のあたりまでしかない。

坑で働くようになって腕は少し太くなったが、煤けた顔の中で目だけが大きいのは、昔のままだ。

ベリアトはその肩を叩いて、人だかりをかき分けた。

掲示の脇の机で、黒い前掛けの係が志願者の名を控えている。

机の前に立って、係を見下ろした。

「おい、俺を入れてくれ。ベリアト・モルヴァ。腕っぷしなら、この街の誰にも負けねえよ。

木箱だって誰より運んでる。最初の一人にするなら、俺にしときな」

周りの何人かが振り返った。

係は顔も上げずに、ペンの先でベリアトの名を書いた。

「次」

腕っぷしの話など、聞いてもいなかった。


人だかりの間を抜けて、ハーミドがベリアトの横に並んだ。

係のほうを向いて、短く言う。

「俺も入れて。ハーミド」

それから、ベリアトを見上げた。

「……付き合ってやるよ、ベリアト」

六年前のあの晩と、同じ返事だった。

こいつ、ほんとに来やがった。

ベリアトは笑って、ハーミドの黒い頭を乱暴にかき回した。

拳を突き出すと、ハーミドの拳がこつんと当たった。

あの晩の約束を、もう一度、拳で確かめる。

「へっ、言うと思った。上に着いたら、あんたの親父さんの木箱も俺が担いでやる」

係は顔を上げないまま、ハーミドの名を同じ紙に書き足した。

「明日の朝、昇降機の前に来い。上へ連れていく」

紙の隅の一行を思い出した。

合わなかったら、どうなる。

考えるな。



翌朝、二人は係に連れられて、昇降機の鉄の箱に乗った。

箱に乗るのは、二人とも初めてだった。

鎖が軋んで、格子の外を岩肌が下へ流れていく。

六年前、片手で木箱を担いで乗りこんでいくデバイス持ちを、下から見上げていた箱だ。

ハーミドは格子に顔を寄せて、黙って岩肌を見ていた。


試験の広間は、上の層の都の中にあった。

天井が高く、灯り石がいくつも吊るしてあって、坑道街の昼よりずっと明るい。

石の床に、坑夫の子ばかりが二十人ほど、一列に並ばされていた。

家でいちばんましな上着を着てきたのだろう、皆、袖の擦り切れを隠すように腕を組んでいる。

床の石が、靴の底から冷たい。


列の前に低い台が三つあり、黒い前掛けの係が、小さな器と細い道具を並べていた。

奥に一段高い壇がある。

その上の薄暗がりに椅子があって、誰かが座っていた。

目元だけが開いた覆面をかぶり、口のところに小さな格子のような通気口が付いている。

「あれが覆面の悪魔ってやつか」

「この募集をしきってるってはなしだぜ」

列の後ろで、誰かがささやいた。

覆面の悪魔は、係が壇へ上がって何か伝えるたびに、頭を少し傾けて聞き、

手もとの台帳にゆっくり書きつける。

名乗りもしなければ、こっちを見ているのかどうかさえ分からない。


列が進む。

係は志願者の首の後ろや鎖骨の下、二の腕を指で押して確かめ、器から灰色の粒を細い道具でつまみ上げる。

肌に押し当てると、たいていの粒はそのまま沈んでいった。

粒が沈まずに肌の上を転がった子は、列の脇へ下がらされた。

なんだ、合わなきゃどけられるだけか。

紙の隅の一行は、ただの脅しだったらしい。


「十一番」

ベリアトの台の係が呼んだ。

隣の台の係が、「十二番」とハーミドを呼ぶ。

横目で見ると、ハーミドの顔が白かった。

俺が先に沈めてみせりゃ、こいつも腹が据わるだろ。

ベリアトはハーミドの背中を軽く叩いて、大股で台の前へ出た。

上着の襟を引き下ろして首の後ろを出し、袖もまくって二の腕を突き出す。

「ほら、どこでも好きなとこに押しな。丈夫さだけは保証するぜ」

係は二の腕には目もくれず、冷たい指でベリアトの首の後ろを押した。

「首だ」


係が粒を首筋に当てた。

熱い。

押しこまれた所から、焼けた鉄を当てられたような熱が広がって、首の中を根のように這っていく。

歯を食いしばった。

足の裏まで汗が噴く。

熱は首から肩へ、肩から背中へ下りて、急にすっと引いた。

係がしばらく首筋をのぞきこみ、壇のほうへ顔を向けた。

「十一番、根づきました。首です」

壇の奥で、覆面の悪魔の手が動く。

台帳に、一行。

それで、ベリアトは選ばれた。


首筋に手をやると、皮膚が火傷のあとのように盛り上がって、熱を持っていた。

体が軽い。

腕を振ってみると、びゅっと風が鳴った。

いける。

これなら、あの木箱を片手で担げる。

ハーミドに見せてやろうと、振り返った。


ハーミドは、隣の台に座らされていた。

まくった右の袖の下、二の腕に、粒の沈んだ小さな穴がある。

穴のまわりの肌が、灰色に変わっていた。

煤の色ではない。

石の色だ。

灰色は、見ているあいだにも、じわりと広がっていく。

「沈みましたが、根づきません。植えた所から固まりはじめています」

ハーミドの台の係が、少し上ずった声で壇に言った。

壇の奥で、覆面の悪魔の手が止まった。

しばらくして、また台帳の上を動きだす。

ハーミドのことも、一行で済ませるのか。


保証しないって、これかよ。

ベリアトは自分の台を蹴るように離れて、隣の台へ飛びついた。

ハーミドの右腕の、灰色になった所より上、肩の近くを両手でつかむ。

そこはまだ柔らかい。

少し下の灰色の所は、岩のように硬く、冷たかった。

「ハーミド。動くな」

片手を離して、係の胸ぐらをつかんだ。

係の踵が床から浮く。

壇の奥をにらみつけた。

「……おい。止めろ。治せ。そこの覆面。あんただ。治せ」

胸ぐらをつかまれたまま、係が苦しそうに言った。

「植えたものは、取り出せない。治す手は無い」

ハーミドの腕は、もう戻らない。

ほかの台の係が二人、こっちへ駆けてくる。

覆面の悪魔は椅子から立たない。

台帳の上でペンを置き、こちらへ向き直って、浅く頭を下げた。

何も言わない。

詫びのつもりか。

頭なんか下げてんじゃねえよ。

殴りたかった。

誰を殴ればいいのかも分からなかった。


誰かが袖を引いた。

ハーミドだった。

まだ動く左手で、ベリアトの袖をつかんでいる。

「ベリアト。離せ。……そいつのせいじゃない。俺が自分で入れてって言ったんだ」

六年前から、癇癪を起こすたびに、こいつはこうやって袖を引いて止めてきた。

付き合ってやると言わせたのは、先に机の前に出た自分だ。

駆けつけた係の二人は、ベリアトの両脇で足を止めて、手を出しかねている。

「……わかった。離すよ」

ベリアトは歯を食いしばったまま、係を突き放した。

ハーミドの肩口は、握ったまま離さなかった。

「けどな、ハーミド。あんたのせいでもねえ。この腕、俺がなんとかする。絶対だ」



その日のうちに、二人は昇降機で坑道街へ帰された。

ハーミドは係二人に両脇を支えられて、箱を降りた。

二日のあいだ、ベリアトは坑道街の年寄りや薬売りを訪ねて回った。

固まった肉を戻せる者は、一人もいなかった。

灰色は右の肩を越えて、首の付け根と胸へ広がっていった。


三日目の夜。

四の長屋の、ハーミドの家の寝台は、ベリアトの家のものより狭い。

壁ぎわの腰掛けで、ハーミドの父親が大きな背中を丸めている。

昼に坑から戻ってから、ずっとそこを動いていない。

母親は土間で湯を沸かしていたが、その湯を使う当ては無かった。

灯り石の明かりの下で、灰色に固まった右腕と胸が鈍く光っている。

息をするたびに、胸の固い所が小さく軋んだ。


ベリアトは寝台の脇の床に座り、まだ動くハーミドの左手を握っていた。

なんとかすると約束したのに、二日歩き回って、何も見つけられなかった。

左手の指に、力がこもった。

ハーミドが握り返してきたのだ。

冷たい指だった。

顔だけを、ゆっくりこっちへ向ける。

「ベリアト。……お前は、上へ行け。約束だろ。……親父の木箱、頼む。……俺のことで、誰かを殴るなよ」

最後まで、こいつは袖を引いている。

殴らねえなんて、言い切れなかった。

こいつの前で、嘘はつきたくない。

ベリアトはハーミドの左手を両手で包み直して、冷たい指を握りこんだ。

顔を寄せて、腰掛けの父親に聞こえないくらいの声で、ゆっくり言う。

「ああ。上へ行く。親父さんの木箱も、俺が担ぐ。約束だ。

……あんたのためだって言って殴ることは、しねえ。だから、まだ寝るな、ハーミド」

ハーミドのまぶたが、半分落ちていた。

弱い力で、ベリアトの手を握る。

口の端が、少し上がった。

「……付き合って、やれなくて、ごめんな」


謝るのはお前じゃねえだろ。

言い返す前に、ハーミドの指から力が抜けていった。

胸の軋む音の間が、だんだん空いて、やがて止む。

ハーミドが、死んだ。

自分の家の薄い粥を、半分分けてくれた手だ。

人の手が、ベリアトの手の中で冷えていく。

石の冷たさではない。

ベリアトは離さなかった。

腰掛けの上で、ハーミドの父親が声を出さずに肩を震わせていた。

土間で、母親が湯の鍋を火から下ろす音がした。


戸を叩く音がしたのは、それから一刻ほど後だった。

黒い前掛けの係が立っている。

試験の日に、ベリアトの首に粒を押しこんだ男だ。

係は寝台を見て帽子を取り、それからベリアトに向き直った。

「ベリアト・モルヴァ。初期被検体として、隊に残ってもらう。明日、明かりがついたら上へ来るように」

ハーミドの父親が顔を上げ、何か言いかけて、やめた。

係はそれ以上何も言わず、返事を待っている。


上へ行くと、ハーミドに約束したばかりだ。

そこへ行く道は、もうこの首の印しか無い。

ベリアトはハーミドの冷えた左手を、寝台の上にそっと置いた。

立ち上がって、戸口の係を見る。

深くうなずいた。

「行く。……明かりがついたらな」

係は短く頭を下げ、帽子をかぶり直して出ていった。



天井の明かりが消えたあと、ベリアトは長屋の裏の横道へ入った。

奥の壁に、灯り石の筋が一本、斜めに走っている。

六年前と同じ、ぼんやりした青白い光だ。

ここで拳を当てて、二人で上へ行くと約束した。

自分は根づいて、ハーミドは石になった。

腕っぷしなんか、何の関係も無かった。

規格が合うか合わないか、それだけで分けられた。

生まれで分けられるのが嫌で上の層を目指したのに、そこでも結局、体で分けられた。

あいつが石になった日に、俺は上へ行く道をもらった。

それでも、上へは行く。

約束だからだ。


ベリアトは筋の下に立ち、握った右の拳を、青白い筋に当てた。

当て返してくる拳は、もう無い。

今度の約束は、一人でする。

首筋の印に触れると、まだ熱かった。

「ハーミド。……合わねえ奴には、もうあれをやらせねえ。今度は俺が助ける。見てろよ」

天井のどこかで、水が一滴落ちる音がしただけだった。

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