ずっと離さない
信じられない。
ベリアトが、血を流して座りこんでいる。
フォスコ……?
通路の先、闇の中へ消えていった。
垂れた血の跡が続いているのが、かろうじて見える。
「ベリアト……!」
叫んで、駆け寄った。
足がもつれて、つまずく。
棚の岩に手をついて、また前へ出る。
ベリアトは岩壁に背を預けたまま、血に濡れた右手で腹を押さえ直した。
顔を上げて、笑ってみせる。
「よう、ノア。……悪い。下で待ってるって言ったのにな。待つどころか、ここで殴って止めちまった。
死なねえって約束も、ちょっと怪しくなってきた。すまん」
笑ってる。
こんなに血が出てるのに。
なんで、ボクをかばったの。
ベリアトの横に座りこんで、外套の裾を裂いた。
丸めた布を、腹を押さえる右手の上から、両手で強く押し当てる。
布が、すぐに温かく濡れていく。
「謝らないで。死なないって約束したでしょ。守ってよ。……ボク、まだ何も聞いてない。
だから黙って押さえさせて」
押し当てた手の上に、ベリアトの手が重なった。
「俺のことはいい。逃げるんだ」
よくない。
逃げろって、キミを置いていけってこと?
今ここで死にかけてるのは、キミだよ。
押さえる両手は離さずに、首を横に振った。
肩越しに、棚に倒れているブランたちを一度だけ見る。
誰も、まだ起き上がらない。
ベリアトの顔に、目を戻した。
「やだ。キミを置いて逃げるのは、選ばない。フォスコは後で、ボクが捕まえる。
今はキミの血を止めるのが先だよ」
血に濡れた右手が、ボクの両手の下からずれた。
押さえるのを、任されたのだ。
ベリアトの顔から、笑みが消えた。
声を落として、倒れた四人と、上へ続く縦穴を顎で示す。
「ああ。……けどな、ノア。あいつは下へ行った。下には、あいつの仲間がまだいる。
血の匂いで上がってくるかもしれねえ。兄さんたちを起こせ。起こして、上へ戻る支度をしろ。
理由を言え、なんて今は聞かねえ。それだけ頼む」
そう言って、ベリアトは咳きこんだ。
傷が深い。
押さえる手の下から、どんどん血が溢れてくる。
布はもう、どこを押しても温かい。
「嫌だ、とまって!」
「いい、どうにもならない」
「こんなときばっかり、そんなこと言わないでよ!」
ずっと、嫌いだった。
強いし、優しいし。
ボクにはできないことを、ずっとやってきてたから、嫌いだった。
嫌だ。
こんなところで死んじゃうなんて。
ボクを、かばって。
「好きなの。死なないで」
傷口を祈るように押さえながら、ベリアトに身を寄せた。
ベリアトの右手が、ゆっくり持ち上がった。
血に濡れた手のひらが、ボクの頭に置かれる。
一度、二度と撫でられた。
見上げると、笑っていた。
「ああ……知らなかった。ずっと、坂の娘のままで見てた。悪い。ありがとな、ノア。
……死なねえとは、もう言えねえ。嘘はつかねえって決めてるからな」
何も言えなかった。
言葉が、どこにも見つからない。
潰れそうな胸のまま、傷口を押さえて、ひたすら祈った。
止まって。
お願い、止まって。
頭の上の手が、もう一度だけ髪を撫でた。
その手が頬へ滑って、顔を上げさせられる。
目が合った。
歳より若く見える顔で、ベリアトが笑っていた。
「泣かせて、悪いな。……なあ、ノア。俺はもう案内してやれねえ。でも、あんたなら行ける。
選べなかったやつの側に立つんだろ。だったら、立ってろ。
……また会えたら、そんときはちゃんと聞いてやる。奇跡があるかどうか……、」
言い終えずに、頬に添えられていた手から、力が抜けた。
右手が、ボクの膝の上へ落ちる。
笑った顔のまま、ベリアトの頭が岩壁に傾いた。
押さえた布の下で、腹はもう上下しない。
最後まで笑って、ボクの答えも聞かないで。
膝の上の手を、両手で握った。
まだ、温かい。
額を押し当てて、しばらく動けなかった。
顔を上げて、傾いた頭をそっと起こし、岩壁にもたせ直す。
開いたままの目を、指で閉じた。
「ずるいよ、ベリアト。……ボク、まだ許してない。だから、ちゃんと聞きに行く。
キミが待ってるはずだった下まで、ボクの足で」
後ろから、肩に手が添えられた。
ガレナの手だ。
「つよかったな」
その後ろに、ラウロが黙って立っている気配がする。
棚の向こうで、ブランが少しずつ起き上がる音がした。
まだ、手を離せなかった。
握った手の温かさが、少しずつ抜けていく。
また、悲しいのが押し寄せてくる。
しばらく、そうしていた。
どれだけ時が経ったのか、分からない。
縦穴の上から入る光は、もうほとんど届いていなかった。
イルウェンを介抱していたブランが、こっちへ歩いてきた。
「ノア、そろそろいこう」
「でも、おいていけない」
「だが、みんなボロボロだ、連れて行ってやれねぇ」
「……うん」
誰も、何も言わなかった。
下から吹き上がってくる風だけが、冷たい。
そのとき、棚の奥から足音が聞こえてきた。
下へ続く縄の足場のほうだ。
ゆっくりと、静かに上がってくる。
縄の足場を上がりきって、男の人が一人、棚に立った。
旅の外套を着た、痩せた人。
顔は覆面で覆われていて、目元だけが空いている。
口元には、小さな通気口が付いていた。
顔つきは、まったく分からない。
外套の前から、仕立てのいいシャツがのぞいている。
上等な服なのに、体のほうが服に負けて見えた。
「……やあ」
ガレナの手が、肩から離れた。
棚に落ちていたコッコを拾い上げて、腹を押さえながら、ボクとベリアトの前へ出る。
白い刃が、覆面の人に向いた。
「なんだよ、お前。下から何しに来た。……それ以上こっち来んな」
ブランが、ふらつく足でガレナの横に並んだ。
左手でガレナの肩を押さえて、前へ出させない。
右手は、短剣の柄にかかったままだ。
「ガレナ、構えはそのままでいい。前に出るな。……よう、あんた。上がってきたってことは、下の人だろ。
用件を先に言ってくれ」
下から来た。
ベリアトが言ってた、フォスコの仲間かもしれない。
立てない。
でも、ベリアトのそばに、誰も来させたくない。
覆面の目が、ベリアトを見てる。
顔が無い。
誰なの。
ベリアトの右手を握ったまま、顔だけを上げた。
空いた左手を、外套の内の黒鉄の柄に添える。
「ベリアトに、触らないで」
覆面の人は、縄の足場の前で一度だけ止まった。
向けられた白い刃と、ブランの手に、両手を開いて見せる。
何も持っていない。
返事はしないで、二人の脇を回ってきた。
「ベリアト、逝ってしまったんだね」
ゆっくりとベリアトに近づいて、そばに跪く。
棚に広がった血が、外套の裾を濡らした。
気にする様子もない。
閉じたまぶたに、指先でそっと触れる。
悼んでいるんだ。
ガレナの切っ先が、少しだけ下がった。
ブランの肩からも、力が抜けるのが分かる。
「ノア……無事で良かったよ、仲間の皆さんも」
名前を呼ぶとき、覆面の人の手が、一瞬止まった。
「……!どうしてボクを知ってるの」
「……ベリアトからよく聞いていた。面白い娘がいると。ベリアトは、私が丁重に弔っておこう。
今は去りなさい。……その前に、翼が壊れてしまったね」
あたりを見回して、棚に散った白い骨の板から、ボクの背中へ目を移す。
「彼の翼を、持っていってやってはくれないか?君に継いでほしいんだ」
ベリアトの翼を。
ボクに。
「……なんでそんな、ううん。受け取る」
「よかった。背中を見せてくれるかい?」
握っていたベリアトの手を、そっと下ろした。
背を向ける。
覆面の人が、自分の口元の覆面に一度手を触れてから、手のひらに灯りをともした。
背中に、少しだけ当てられる。
痣のあたりが、ふっとゆるんだ。
埋まっていた母さんの翼の根もとが、ゆっくり剥がれていく。
背中が、急に軽い。
覆面の人は、剥がれた白い根もとを拾って、外套の内にしまった。
それから同じように、ベリアトの体をゆっくり起こして、黒い翼を取り外す。
「説明もせずに、すまないね。時間さえあれば」
黒い翼が、ボクの背にあてがわれた。
あてがう指先が、細かく震えている。
黒い、ベリアトの翼が、ゆっくりとボクを包みこんだ。
あったかい。
まだ、あったかいよ、ベリアト。
母さんの翼とは違う。
重くて、背中にぴったりくっついてくる。
かっこいいと思ってた背中が、今、ボクの背中にある。
自分の肩を抱くようにして、翼の縁に触れた。
目を閉じる。
少しして、振り返った。
覆面の目元を、まっすぐ見る。
「ありがとう。……でも、キミ、誰なの。ベリアトの上にいた人?」
ガレナが、ボクの横へ一歩寄った。
切っ先は下げたまま、柄だけを握り直して、覆面の人の手元を見ている。
覆面の人は答えなかった。
ベリアトの体を抱え上げる。
「さあ、ベリアトは任せて、君たちはもう行くんだ」
「キミ、いや、あなたは、名前は?」
「……カース」
「そう、カース、ありがとう」
仲間と一緒に、岩の棚を立ち去りはじめた。
棚から上へ戻ろうとしたところで、後ろから声がかかった。
「そうそう、そこを左に進んだところに、抜け道がある、見つからずに上まで上がれるはずだ」
ベリアトを抱えて、下へ続く縄の足場へ向かいながらの声だった。
振り返りかけたころには、その姿は、ほとんど闇に消えかけていた。
「……なにからなにまで、ご丁寧なこった。あまり気を許すな……敵だ」
「うん」
敵。
分かってる。
ベリアトの上にいた人なんだから。
でも、ベリアトのそばで跪いたあの人の指は、震えていた。
カース。
名前は、覚えた。
棚の左手の岩の裂け目に、抜け道が口を開けていた。
来た道とは違う、闇の中を進む。
みんな、足取りが重い。
ふらつくイルウェンの腕を肩に回して、支えながら歩いた。
背中が重い。
キミの翼、まだ慣れないよ。
ときどき、指で黒い翼の縁に触れる。
一度だけ、後ろの闇を振り返った。
それから、前を向いた。
大穴を抜けて、台地を戻り、町まであと半日のところで夜になった。
疲れ果てた体のまま、岩陰で野営をする。
火を起こすと、みんなすぐに泥のように眠ってしまった。
眠れなかった。
眠る仲間から少し離れて、岩陰に膝を抱えて座る。
外套の内から黒鉄の短剣を抜いて、月にかざした。
刃の根元の金具に、背中合わせの印が二つ。
若木の裏に、もう一つ。
月に添えられた、摘まれた花。
親指で、花をなぞった。
柄を持ち直す。
力を入れなくても、手のひらから離れない。
短剣を、胸の前で両手に包んだ。
「忘れない。この気持ちも。……つないでいくよ、ベリアト」
短剣を胸に抱えたまま、月を見上げた。
つないでいくって言ったのに。
会いたい。
聞きに行ったら、聞いてやるって言ったじゃないか。
「ベリアト、やっぱりまた会いたい」
うつむいて、膝に額をつけた。
フォスコの腕は、ボクの背中に来てたんだ。
ボクが一人で向かっていかなきゃ。
キミは、ボクをどかしただけで、それで。
「ボクのせいで死んじゃった」
外套の袖をまくった。
二の腕に、赤いあざが残っている。
指でそっと押すと、顔がゆがんだ。
「痛い、ここは、ベリアトに叩かれたところ。明日には消えちゃうんだ」
ボクの体は、すぐ治ってしまう。
キミがいたしるしが、一個ずつ無くなっていく。
やだ。
消えないで。
短剣を鞘に戻して、胸に抱え直した。
眠るイルウェンの隣へ、這っていく。
背中の黒い翼を胸の前へ回して、体を包んだ。
丸くなって、目を閉じる。
悲しみ、後悔、苦痛。
思いを抱えきれないまま、ボクもまた、仲間のもとで眠りについた。
今はまだ、明日への望みなど、無いままに。




