初恋は
編んだ縄の足場を、五人で下りていく。
縦穴の壁は湿った岩で、手をつくたびに指先が冷たく濡れた。
見上げると、穴の口から入る光が、もう細い。
下からは、冷たい風と湿った石の匂いが上がってくる。
縄が、五人ぶんの重さでぎしぎし鳴った。
両手が縄でふさがってる。
ここで何か来たら、剣も抜けない。
早く、足のつく所へ。
しばらく下りたところで、足の下に岩が来た。
壁から張り出した岩棚が、そこだけ大きく広がっている。
五人が輪になって寝転んでも、まだ余るくらいの広さだ。
縄の足場は、棚の向こうの縁からまた垂れて、下の暗がりへ続いていた。
棚の外は、底の見えない闇。
最後のイルウェンが、棚に足をついた。
向こうの縁、縄の足場の前に、一人立っている男がいる。
黒い外套。
むき出しの、針みたいに尖った黒い左手。
ベリアトだ。
ベリアトは、無表情にボクたちを順に見た。
最後に、目がボクのところで止まる。
針の左手が、下の闇のほうへ軽く向いた。
「よう、坂の娘。ここまでだ。これ以上は行かせねえ。下にいるのはグラッソだけじゃない。
あいつを追って降りれば、あいつの後ろにいる連中と正面からぶつかる。それでも行くなら、理由を言え」
あの顔は本気だ。
本気で、止めに来てる。
後ろにいる連中。
そんなの、とっくに知ってる。
ピエトロも、籠で下ろされた三人も、あいつのせいだ。
ここで引き返したら、また見てるだけになる。
一歩出かけて、止まった。
右手を黒鉄の柄に添える。
抜かない。
「やだ。ボク、グラッソを止めに行く。あいつ、縛った人を材料って呼んで、籠で下ろしてる。
ピエトロも使い捨てにした。止めなきゃ、また同じことする。後ろに誰がいても、ボクは行くよ。
……下で待ってるって言ったの、キミでしょ」
ベリアトの顔が、緊張に歪む。
背の翼が、音を立てて半ばまで開いた。
黒い膜の向こうに、下へ続く縄の足場が隠れる。
右足を引いて、腰を落とす。
針の左手が、胸の前に低く構えられた。
目は、ボクから離れない。
「理由は聞いた。いい理由だ。だから行かせねえ。ああ、言ったさ。だが今日じゃない。
……通りたきゃ、俺を越えていけ」
なにそれ。
意味、分かんない。
「いいか、ノア。すこし待て」
ブランが、震える両手を前に出した。
フォスコのときに、ほとんど使いきったはずの灯りだ。
手のひらに、黒に近い灰色が、薄く、かき集めるみたいに溜まっていく。
「……伝承者さんよ、通せんぼの理由くらい聞かせてもらおうか」
灰の重みが、ベリアトの腰と、引いた右足に落ちた。
何も、起きなかった。
足もとの岩も沈まない。
腰も落ちない。
外套の裾ひとつ、揺れなかった。
重みは、何も無い所にかけたみたいに、ベリアトの体をすり抜けて散っていった。
「兄さん、効かねえよ、俺には」
うそ。
フォスコの腕だって、一度は止めたのに。
灯りの重みが、体に掛からない。
灯りを、持ってないんだ。
ラウロと同じ、灯らず。
それで、あの強さ。
ラウロが、背の短い剣を抜いた。
ボクの前へ、一歩出る。
「灯りが効かねえなら、俺の番だろ。どけ、ベリアト」
広い棚を斜めに駆けて、右から回りこむ。
ベリアトの体が、ラウロのほうへ向き直った。
ラウロの短い剣が、構えた左腕の肘へ走った。
黒い左手の甲が、刃の腹を外へ払う。
硬い音。
払われた勢いのまま、ラウロは刃を寝かせて、左腕の内側へ滑りこませた。
切っ先が、黒い外套の袖を裂く。
針の左手が、ラウロの右肩へまっすぐ突き出された。
ラウロは受けない。
体を半分だけ開いて針をやり過ごし、伸びきった腕の外へ、もう一歩踏みこむ。
速い。
剣も、針の左手も、目で追うのがやっとだ。
刃と針が、触れては離れる。
ラウロは一度も、正面で受けてない。
全部、ずらしてる。
宿の裏で、ブランに竿で転がされてたラウロが。
ベリアトの外套が、二か所、三か所と裂けていく。
ベリアトの口の端が、上がった。
「やるようになったな、坊主」
「うるせえ。灯りが無えなら、無えなりにやるしかねえだろ」
「ああ。そうだな。俺たちは、そうやるしかねえ」
短い剣の切っ先が、針の内側をくぐって、ベリアトの脇腹へ伸びる。
同時に、後ろでイルウェンの弓が鳴った。
「撃つー」
薄い緑の矢が、ベリアトの踏みこんだ右足の前へ走る。
半ば開いていた翼が、音を立てて前へ振り下ろされた。
黒い膜が緑の矢を払い、翼の骨が、ラウロの肩を上から叩く。
ラウロの目は、針の左手と、自分の切っ先しか見ていなかった。
体が浮いて、背中から棚の岩に打ちつけられる。
喉から、詰まった息が漏れた。
「今は寝てな」
ベリアトはそのまま三歩で、棚を横切った。
壁ぎわのイルウェンの懐に潜って、右の手のひらの付け根で顎を打ち上げる。
崩れるイルウェンの体を、岩壁に沿ってそっと下ろした。
ラウロは背から倒れたまま、息を詰まらせて起き上がれない。
イルウェンは、目を閉じたまま動かない。
ブランが、空になった両手を見下ろしていた。
指が、まだ小さく震えている。
「灯りに頼ってしくじるなんざ、変わっちまったよ」
誰に言うでもない、低い声だった。
短剣には手をかけない。
袖を肘までまくり上げると、古い傷の走った腕がむき出しになった。
イルウェンを下ろしたベリアトと、正面から向き合う。
ブランの背が、低く沈んだ。
足音も立てずに、ベリアトの懐へ入る。
右の袖口と、外套の襟を、両手でつかんだ。
ベリアトが腕を振りほどきにかかる。
その引く力に合わせて、ブランは自分から体を寄せた。
腰を入れて、踵でベリアトの踵を内から払う。
ベリアトの足が、一歩、後ろへ流れた。
そこへ、ブランの肩が胸にぶつかっていく。
二歩、三歩と押しこまれて、ベリアトの背が岩壁に叩きつけられた。
半ば開いた翼が、壁と背中のあいだに挟まって、ぐしゃりと縮む。
「灯りの無え奴の喧嘩は、こうやるのさ」
襟をつかんだまま、ブランがつぶやいた。
ベリアトは、壁から体を剥がそうとしなかった。
そのまま、膝の力をすとんと抜く。
襟と袖をつかんでいたブランの腕ごと、体が真下へ落ちた。
押しこむ相手を失ったブランの体が、前へつんのめる。
額が、岩壁に当たった。
その脇の下から、ベリアトが抜け出した。
抜け出したときには、もうブランの背中にいた。
右腕がブランの首に回って、締まる。
針の左手は、首から離したまま。
「ああ、覚えとくよ、兄さん」
ブランの手が、ベリアトの腕を二度叩いて、落ちた。
ベリアトは、力の抜けたブランを棚に横たえた。
棚の上で立っているのは、ボクとガレナと、ベリアトだけになった。
ガレナが、ボクの前に出た。
フォスコに薙がれた脇腹をかばって、まだ少し背が丸い。
それでもコッコを両手で握り直して、脚と腕に残った朱を燃やす。
「ノア、下がってろ! ……おい、どけよ黒外套。前に言ったよな、赤毛って呼ばせねえって。
通れねえなら、ぶち抜いて通る!」
棚の岩を蹴って、まっすぐ突っこんだ。
白い大剣の腹が、翼の骨に受けられて横へ流れる。
前へ泳いだガレナの体を、ベリアトの右腕が抱きとめた。
その腕の内側から、右の拳がガレナのみぞおちに深く突きこまれる。
ガレナの息が、ひゅっと止まった。
コッコが、ガレナの手を離れて棚の岩に落ちた。
高い音が、縦穴の上まで響いた。
「悪いな。……名前、まだ聞いてねえんだ」
腕をほどかれたガレナは、腹を抱えてブランのそばに崩れた。
口を開けたまま、息が吸えずにいる。
残ったのは、ボクだけ。
下へ続く縄の足場は、ベリアトの背の向こうにある。
みんな、一人ずつ倒された。
誰も、殺されてない。
あいつは、いつもそうだ。
それが、余計に悔しい。
腕も翼も、まだ痺れてる。
灯りも、ほとんど残ってない。
それでも、まだ立ってる。
右手にブランの短い剣、左手に黒鉄の短剣を抜いた。
外套の下から、痺れた翼を無理やり半ばまで開く。
骨の板が、ぎしりと鳴った。
棚の岩を蹴って、低く跳ぶ。
「みんなを倒して、ボク一人なら止まると思った? 越えていけって言ったの、キミだからね!」
右で針の左手を払いにいって、その内側へ潜る。
左の黒鉄に、残ったわずかな白い灯りをのせて、胸もとへ突き上げた。
針の左手が、すっと背に引かれた。
払いにいった短い剣が、空を切る。
突き上げた左の手首を、右手につかまれた。
胸もとから、外へそらされる。
動かない。
六つの子どもの手首でもつかむみたいに、軽く握ってるだけなのに。
ベリアトの肩が、ボクの体を押し返した。
「まだ届かねえよ、ノア」
棚の奥へ、突き放される。
背中が、岩壁に当たった。
翼の骨が、また軋んだ。
正面から突いても、あいつの手は全部先にある。
同じことをしたら、また同じところへ転がされる。
前がだめなら、後ろ。
翼の下をくぐれば、背中が空く。
羽ばたかなくても、翼の先に灯りを送れば前へ引っぱられる。
ヤスミに教わった飛び方。
灯りは、あとちょっと。
でも、翼の先まで送るくらいなら残ってる。
岩壁に手をついて、立った。
右の短い剣を振りかぶって、正面から打ちかかる。
ふりだ。
踏みこむ寸前に、翼を開いた。
残りの白い灯りを、翼の先へ。
体が、低く前へ引かれる。
ベリアトの右脇、翼の下をくぐって、その背中へ回りこむ。
黒鉄の切っ先を、背中の真ん中へ。
「まだだよ!」
目の前に、黒い膜が下りてきた。
半ば開いた右の翼が、背中を覆っている。
膜にぶつかった体の、外套の襟をつかまれた。
振り向きもしないで、引き戻される。
「背中は取らせねえよ。……惜しかったな」
棚の真ん中へ、放り出された。
ブランとガレナのすぐそばに、転がった。
ガレナが、腹を抱えて丸まったまま、細い息を繰り返している。
ガレナの背中に、手を置いた。
目は開いてる。
でも、まだ起き上がれない。
前も、後ろも、届かなかった。
腕も脚も、震えてる。
それでも、立てる。
二振りを杖にして、立ち上がった。
倒れた四人の前に立って、ベリアトと向き合う。
拳を一度握って、二振りを構え直した。
「何回転がされても、立つよ。キミが通すまで、何回でも!」
まっすぐ、踏みこんだ。
右の短い剣で、針の左手を受けにいく。
左の黒鉄で、右の肩口を。
踏みこんだ、そのときだった。
頭の上の縄の足場が、重いものを受けて大きくきしんだ。
背中の、すぐ後ろ。
何かが、棚に飛び降りた音がした。
引きつった、笑い声。
「薬だ! 薬がいるんだって! ……ははっ、手当てなんかするから悪いんだよ、お嬢ちゃん!」
フォスコ。
なんで。
上で、縛った腕を抱えてうずくまってたのに。
後ろ。
振り向いて受ける間なんて、無い。
みんな、動けない。
翼、閉じなきゃ。
骨はもう軋んでる。
でも、これしかない。
踏みこんだ足を止めずに、ぼろぼろの翼を背中の後ろで閉じて立てた。
背中に、硬いものが当たった。
骨の板が、ほとんど手応えも無く抜かれる。
母さんの翼が。
翼を抜けた何かが、背中の皮に触れた。
冷たい。
胸の内側へ、まっすぐ入ってこようとしている。
「ノアッ!」
横から、体ごと抱えられた。
ベリアトの右腕だ。
構えも何も捨てて、踏みこんできていた。
突き飛ばされる。
背中から、冷たいものが抜けていった。
抜ける勢いで、翼の骨の板がまとめて割れる音がした。
根もとから、ばらばらに砕けていく。
白いかけらが、棚の岩に散らばった。
棚に転がって、顔を上げた。
ボクのいた所に、ベリアトがいた。
フォスコの、殻の砕けた腕の先。
割れた殻が鋭く尖って、血みどろのまま、骨がむき出しになったみたいな腕の先。
それが、ベリアトの腹に深く刺さっていた。
背中の黒い外套が、内側から押し上げられている。
血が、棚の岩に落ちはじめた。
フォスコが、刺さった腕を引き抜いた。
棚に、血を振り落とす。
「ちっ、狙ったのと違うってんだ。なんでかばった?
……まあいい、これなら猫のじじいも文句は言わねえだろ」
ボクを、一度だけ見た。
「ははっ、ノア。名前、覚えちまったよ。……またなぁ」
背を向けて、振り返らずに向こうの縁の縄をつかむ。
きしむ縄を伝って、下の暗がりへ下りていった。
縄のきしみが、遠ざかっていく。
ベリアトの体が、ゆっくり傾いた。
腹を押さえたまま、棚の岩に座りこむ。
ただ、身動き一つせず、眺めていることしかできなかった。
右手の指のあいだから、血が流れ落ちていく。
砕けた白い翼の板が、その血の中に散らばっていた。




