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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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2つの奇跡

籠を吊った縄が、最後まで送られた。

滑車のきしみが止まる。

穴の暗がりの底へ、グラッソの丸い顔はもう見えない。

冷たい風だけが、下から吹き上がってくる。


追えなかった。

縄の足場の前には、殻の腕の男の人が立っている。


両腕をだらりと下げたまま、男の人は動かなかった。

白い切り通しのときみたいに、腕の布をかきむしってはいない。

肩で息もしていない。

引きつった笑いも漏れてこない。

濃い隈の下の目が、ボクと、ガレナと、ブランを、順に追っていた。


十歩。

それだけの間が、詰められない。

足が、前に出ない。

翼の根をつかまれて、空と岩肌がぐるりと回った。

背中から抜けていった息。

指が一本も動かなかった、霜の冷たさ。

あのときの全部が、いっぺんに背中に戻ってくる。

隣で、ガレナがコッコの柄を握り直す音がした。

ブランも、黙っている。

後ろの岩陰のほうからは、槍と棍棒の打ち合う音と、ラウロの怒鳴り声が聞こえていた。


男の人が、右腕の殻を軽く持ち上げた。

指を握って、開いて、また握る。

それから三人を順に見て、鼻で笑った。

「どうした、来ねえのか。足がすくんでんのかよ。前に岩に叩きつけられたのが、まだ痛えってか」


声が、落ち着いている。

目も、濁っていない。

ボクたちの顔を、ちゃんと見てる。

前は、何を言っても聞こえてなかったのに。

グラッソは薬を渡さずに、先に下へ逃げた。

この人も、置いていかれたんだ。

だったら、話せるかもしれない。


二振りを抜いたまま、切っ先を下げた。

一歩も出ずに、男の人の目を正面から見る。

「ねえ、フォスコ。ボクたちは下へ行きたいだけだよ。グラッソはキミに薬も渡さないで、先に逃げた。

それでもそこに立つの? 見逃してはくれない?」


フォスコは、右腕に巻いた布を左手で一度押さえた。

足場の前から、動かない。

「だめだ。見逃すかよ。今は薬が効いてるから、こうやって口もきいてやってんだ。じきに切れる。

切れたら俺はもう止まらねえ。……そこから一歩でも前に出てみろ、出たやつから潰す」


薬が切れたら、止まらない。

自分で、そう言った。

分かってるんだ。

自分がどうなるか。


「うるせえ!」

横で、ガレナが叫んだ。

コッコを両手で握り直す。

脚から肩、指の先まで、朱の灯りが一気に灯った。

「誰が逃げるかよ! ……ノア、やるぞ!」

言い終わる前に、もう駆け出している。


ガレナを、一人で前に出させない。

切れる前に、終わらせる。

前は、殻に筋を一本引いただけだった。

今度は継ぎ目じゃない。

砕けたままの、右の付け根。

あそこなら、刃が入る。

「うん、やるよ!」

ガレナの左に並んで、地を蹴った。



白い大剣が正面から振り下ろされる。

低く駆けて、フォスコの右脇へ回りこんだ。

右手の短い剣で殻の腕を払いにいき、左手の黒鉄の切っ先に白い灯りを集めて、

筋のむき出しになった付け根へ突きこむ。

二振りと大剣が、同時に届く。


届かなかった。

フォスコの左腕の殻が、大剣を外へ逸らした。

金物を擦るような音。

右肩が、すっと引かれる。

黒鉄の切っ先は付け根の手前で空を突いた。

フォスコの口の端が、にやりと上がる。

「なんだ、前とおんなじかよ。ちっとも変わってねえな。そんなんじゃ潰すぞ。……ほらよ!」


右の殻の腕が、横から来た。

さっきまでとは、比べものにならない速さ。


速い。

膝を折って、身を沈めた。

頭の上を、殻の腕がかすめていく。

髪が、何本か持っていかれた。


でも、振り抜いたら、戻るまでに間がある。

前とおんなじ?

違うよ。

石切り場で、毎朝撃ってきたんだ。

刃の先から、絞って、まっすぐ。


振り抜かれて開いた右脇へ、踏みこんだ。

黒鉄を、付け根へ突き出す。

溜めた白い灯りを、切っ先から細く絞って放った。

「変わってないかどうか、見せてあげる!」


白い光が、付け根へ走った。

フォスコの右腕が、とっさに引き戻される。

殻の前腕が付け根の前に立って、光を受け止めた。

光が弾けて、焼けた殻の表から煙が上がる。

「があっ! 熱っ……てめえ、どこ狙ってやがる!」

フォスコが、熱さにのけぞった。

胸が、開いている。


そこへ、赤いものが落ちてきた。

逸らされた大剣を、ガレナはそのまま肩の上へ引き戻していた。

朱の灯りが、脚から肩、柄を握る指まで、燃えるように赤い。

朱は腕の中で燃えたまま、刃の根元まで流れこんでいる。

石切り場で、ボクに見せてくれた打ち方だ。

「まだだ! 前とおんなじだと思うなよ!」

焼けて煙を上げる殻の前腕へ、真上から叩きこむ。


鐘を割ったような音がした。

前腕の殻が、手首から肘まで大きく砕けた。

灰色のかけらが、汁と一緒に飛び散る。

むき出しになった灰色の筋が、生き物みたいに脈打っていた。

コッコの刃は、どこも噛んでいない。


効いた。

前は、二発入れて、やっと割れたのに。


フォスコが、砕けた右腕を見下ろした。

脈打つ筋を眺めて、喉の奥から笑いが漏れはじめる。

引きつった、あの笑い。

顔が上がった。

目が、赤く血走っている。

両腕を、大きく広げた。

「ちくしょう、俺の借金をまた割りやがったな! ……へへっ、やるじゃねえか、ちび。

おかげで熱くなっちまった。もう知らねえぞ! 止まらねえってもんよ!」


来た。

目の色が、さっきと違う。

白い切り通しで見た目だ。

ああなったら、何を言っても届かない。


「いいか、落ち着け」

後ろから、低い声がした。

ブランが一歩だけ前に出て、両の手のひらに黒に近い灰の灯りを溜めていく。

「熱くなったら向こうの思うつぼだ。……前とは違うってんだ、俺もな。足は俺が止める。

お前らは腕から目を離すな」

灰の重みが、フォスコの両足の甲と膝に落ちた。

足だけに、絞ってある。

足もとの土が沈んで、膝が一度、がくんと折れかけた。


折れなかった。

フォスコは殻の腕で地面を突いて、膝を支えた。

笑いながら、沈んだ土から足を引き抜く。

「ははっ、ひげ! また重しかよ! 前とおんなじだ! そんなもんで止まるか!」

一歩。

また一歩。

灰の灯りが、膝の上で軋むように揺れていた。


止まらない。

でも、ブランが足を押さえてる。

重みが軋んでる。

長くはもたない。

今のうちに、止める。

殺さない。

止めるだけ。


外套の前を払った。

背中で、白い翼が開く。

フォスコの左へ跳んだ。

来た左の殻の腕を、灯りを先まで流した翼を前に回して受ける。

骨の板が、腕まで響くほど鳴った。

受けた勢いのまま、懐へ。

右の短い剣で左肘の継ぎ目を突き、黒鉄の切っ先をむき出しの筋へ向けて、白を放つ。

「ガレナ、右をおねがい! ボクは左を止める!」

「ノア、止まんな! 割れるまでぶっ叩く!」

ガレナは正面を外さない。

大剣の腹と峰を振り回して、砕けた右腕、続けて左腕の殻へと、休まず叩きつけていく。

もう太刀というより、棍棒だ。


突いても、焼いても、叩いても、分厚い殻がほとんどを受け止めた。

受けたその腕が、重さと力のまま打ち返してくる。

翼で受けるたびに、骨の板が鳴る。

腕が痺れていく。

ガレナの振りが、少しずつ遅れはじめた。

叩きつける音の間が、開いていく。


あっ。


遅れたコッコが、右の殻の腕に下から跳ね上げられた。

そのまま、胴ごと薙がれる。

「どけ、ちび!」

ガレナの体が大剣ごと浮いて、縄の切れ端の散らばる地面を転がった。


ガレナ!

振り向いた、その一拍だった。

左の殻の腕が、上から来た。

黒鉄を握った腕を、叩き落とされる。

手首まで、痺れが走った。

正面から、殻の両腕が振り下ろされてくる。

とっさに、翼を前に立てた。

受けた。

受けてしまった。

膝が、地面についた。

上から、両腕の重みがのしかかる。

骨の板が、みしりと鳴った。

「へへ、へははっ! やっと捕まえたぞ、翼の娘。このまま叩き潰してやる!」


重い。

翼ごと、押し潰される。

前と、おんなじ。

また、これだ。


「そうはさせるかってんだ!」

ブランの声。

駆け寄ってくる足音。

「……潰れんのはてめえの腕だ、フォスコ!」

翼の上の重みに、もっと重いものが落ちてきた。

それなのに、ボクの体は沈まない。

殻の両腕の、肘から先だけに、重みが絞りこまれている。

振り下ろしかけた腕が、翼の上で止まった。

フォスコの肩が沈んで、腕が持ち上がらない。


足じゃ足りないって、分かってたんだ。

ブラン、腕のほうに全部かけてる。

手のひらから、灰の灯りが湯気みたいに散っていく。

あれじゃ、すぐに尽きる。


「ぐうっ……ひげ、てめえ、本気かよ。……へっ、やるじゃねえか」

フォスコが首だけ回して、ブランをにらんだ。

歯を食いしばって、背と肩に力をこめる。

重みの下で、殻の腕がじりじり持ち上がりかけた。


ブランは目を離さずに、手のひらを向けたまま声を張った。

「ガレナ! まだやれるだろ! これが最後だ、ぶち割れ!」


地面の上で、ガレナが跳ね起きた。

唇の端から、血がこぼれている。

拭わない。

朱の灯りが、脚にもう一度灯った。

「うるせえ、言われなくても……!」

全力で駆けてくる。

両手で、コッコを頭の上まで振り上げた。

肩から指まで、残っている灯りを全部燃やして。

「これで、どうだああっ!」


白い刃が、沈んだ肘の先に落ちた。

右腕の殻が、肘から手首まで割れ砕けた。

灰色の筋ごと、右腕が地面へ垂れる。

翼の上の重みが、半分になった。


でも、半分だった。

左の殻の腕だけが、まだ持ち上がりかけている。

大剣を振り下ろしきったガレナは、フォスコの脇で、がら空きのまま立っていた。


「甘えんだよ、ちび! 死ねえっ!」

左の殻の腕が、翼の上から離れた。

垂れた右腕を引きずったまま、残った力を全部こめて、ガレナの脇腹めがけて横から振られていく。


ガレナが。

だめ。

それだけは、だめ。

腕が痺れてる。

翼の骨も、きしんでる。

でも、左手はまだ動く。

見てるだけは、やだ。

絞らなくていい。

今あるの、全部。


膝をついたまま、翼を半分開いて体を起こした。

叩き落とされた腕を、もう一度持ち上げる。

黒鉄を、振られていく殻の腕へまっすぐ突き出した。

体に残った白い灯りを、留めずに全部、切っ先へ送る。

「させない!!」


切っ先から、昼の光より白い光が走った。

目の前が、真っ白になる。

光はまっすぐ殻の腕にぶつかって、肘の継ぎ目から押し潰した。

殻ごと、腕が地面へ叩き伏せられる。

ガレナの脇腹の、手のひら一枚手前だった。


焦げた殻の匂い。

土埃が、ゆっくり落ちてくる。

フォスコの両腕は、どちらも地面に垂れたまま、もう上がらなかった。

殻の割れ目から、赤黒い汁と血が地面へ流れていく。


「ぐ、うう……ああ、くそ……」

フォスコが膝をついて、背を丸めた。

流れていく血を見下ろして、乾いた声で短く笑う。

「負けだ。もうやれねえ。……へっ、血がこんだけ抜けりゃ、薬もいらねえってもんよ」


終わった。

黒鉄を握った手が、震えて止まらない。

腕も、翼も、背中も、どこも痛い。

ガレナは大剣を杖にして、肩で息をしている。

唇の血を、手の甲でやっと拭った。

ブランは両手を下ろして、大きく息を吐いた。

三人とも、ぼろぼろだ。

でも、三人とも立ってる。



打ち合う音がやんだ穴の縁に、後ろの岩陰から、肩で息をする声が届いた。

ラウロだ。

「おい、終わったのか! ……悪い、ブラン、こっちに手ぇ貸してくれ!」

振り向くと、岩陰の前で、ラウロとイルウェンが縄を解かれた人たちの前に立っていた。

地面には、脛や腕を押さえた見張りと手伝いが何人もうずくまっている。

それでも、まだ槍が二本と、棍棒が三本、岩陰へ詰め寄ろうとしていた。

ラウロの短い剣の切っ先が、少し下がっている。


ブランが、膝をついたフォスコから目を離さないまま、声を返した。

「おう、すまねえ! こっちは片付いた、すぐ行く!」

手のひらが、まだ震えていた。

岩陰の前で、イルウェンが筒を槍のほうへ構え直す。

半分の目が、ちらりとこっちを見た。

「よかったー」


ブランが加わってからは、早かった。

残った見張りと手伝いも、まもなく得物を落として地面に伏せた。

縄を解かれた人たちは、岩陰で身を寄せ合ったまま、誰も怪我をしていない。

五人が、縄の足場の前にそろった。



フォスコは、膝をついたまま動けずにいた。

潰れた両腕の割れ目から、血がまだ止まらない。


ボクが、潰したんだ。

このままにしたら、死んじゃう。

この人だって、グラッソに騙されて植えられた側だ。

放っていくのは、選ばない。

でも、グラッソは下にいる。

ここで止まったら、またあいつは逃げる。


痺れて震える手で、外套の裾を裂いた。

フォスコの前に膝をつく。

両腕の付け根を、布できつく縛った。

フォスコは、何も言わずにボクの手を見ていた。

「じっとしてて。血、止めるから。……キミも、グラッソに植えられたんでしょ。あいつは、ボクが捕まえる。

死なないで待ってて」

布を縛り終えると、うめいている見張りと手伝いのところを回って、裂いた布を巻いた。

ラウロが、黙って隣で布を押さえてくれた。


縄の足場の前に戻って、四人の顔を順に見た。

ラウロ。

ガレナ。

イルウェン。

ブラン。

「みんな、下へ行こう。グラッソを追う」


縄を解かれた人たちを、岩陰に残した。

五人で、縄の足場の前に並ぶ。

穴の底から、冷たい風が吹き上がってくる。

編んだ縄が、暗がりのずっと下まで垂れていた。

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