↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
PR
78/82

蝕み

谷沿いの森の外れで、グラッソの荷車が木立の奥へ消えてから、六日が経った。

二月の二十日。

夕方の日が、前よりも長く崖の縁に残るようになっていた。


あの日、荷車は森の奥へ入っていった。

その轍は、森を大きく回りこんで、下町の東の端から東の台地へ上がる崖の縁の道に出ていた。

夜ごとに、ここを通っているんだ。

朝に見たときより、轍が一本増えている。

底の土に、干し魚の匂いがまだ残っていた。


崖の縁の道を、五人で上った。

左はずっと下まで崖で、下町の屋根が小さく並んでいる。

台地へ上がりきる手前で、道は切り通しに入った。

両側に、人の背の倍ほどの土の壁。

荷車一台がやっと通れる幅しかない。

西に傾いた日は壁のてっぺんだけを赤くして、底はもう薄暗い。

冷たい土の匂いがする。


切り通しの真ん中に、人が一人立っていた。

日に焼けた骨太の体で、外套の下に荷を背負ったまま。

外套の襟が開いていて、首の付け根に赤い花の跡が見える。

花の縁が、灰色に固まっていた。


ピエトロだ。


ピエトロは両足を開いて、両腕を横に広げた。

切り通しの幅いっぱいに、道をふさぐ。

手のひらに、暗い青がにじんだ。

もう片方の手を、喉に当てる。

「よお、噂の天の子さまご一行じゃねえの! ここから先は通行止めだかんな!

……通りてえなら、おれに頭下げてからにしやがれ!」


張り上げた声は、土の壁に跳ね返る前に、喉の奥でざらりとかすれた。

語尾が、裂けた布みたいに割れる。


東の森で聞いたときより、ずっと出てない。

花の縁の灰色も、あのときより広い。

あれからも、使ってたんだ。

それに、なんで一人で、こんなところに立ってるの。


一歩だけ前に出て、止まった。

腰の剣には、手をかけない。

首の花の跡と、喉に当てた手を見る。

「ピエトロ、声がもう割れてるよ。森のときより出てない。ねえ、それ、誰に言われてここに立ってるの?」


ピエトロの喉の手が、下りた。

拳を握る。

手のひらの青が、濃くなった。

道の真ん中から一歩も引かずに、こっちをにらむ。

「誰でもいいだろがよ! 割れてようが、おまえらを止めるくらいの声は残ってらぁ。

……薬をもらうまでは、おれはここをどかねえ。どかねえかんな!」


薬。

ドラージョの先の白い切り通しで、あの猫は殻の腕の人の口に、小瓶を押しこんでいた。

ほれフォスコ、乗れ、薬だ。

薬のために、言われるまま道をふさいでいた人。

あの人は腕だった。

ピエトロは、声だ。


ブランが、ボクの半歩後ろで足を止めた。

後ろの三人へ手のひらを下げて見せる。

抜くな、だ。

それから、ピエトロへ向き直った。

「いいか、抜くなよ。……ピエトロ。その薬、干し魚臭え猫から貰うんだろ。

あいつがドラージョの先で、殻の腕の男に同じ薬を飲ませてたのを見たぜ。

飲むたびに腕が重くなって、最後は誰の声も耳に入らなくなってた。

……あんたの声は、もう少ししか残ってねえぞ」


ピエトロの顔が、一瞬だけこわばった。

喉に手を当てて、声を落とす。

「……知るかよ、そんなやつ」

それから、足を踏ん張った。

首の花の跡が、青く光る。

「おれの声は、おれが使うんだよお! どきやがれえぇっ!」


喉から、声とも音ともつかないものが噴き出した。


夏の木立で、ノウルゼミが一斉に鳴きだしたみたいな音。

細かく震えて、高い。

両側の土の壁に跳ね返って、前からも横からも、ボクたちを包みこむ。

耳の奥が、内側から揺すられた。

音は耳だけじゃなくて、骨まで入ってくる。

膝が震えた。

腕も、指の先も。

足を前へ出そうとしても、震えて言うことをきかない。

剣の柄に手を伸ばすのも、立っているのがやっとだ。

壁の上から、土がぱらぱらとこぼれ落ちる。


森で浴びたのと同じ音。

でも、あのときより近い。

音の真ん中に、かすれたピエトロの声が混じっている。


袖の端を、細い指がつまんだ。

イルウェンだ。

その指も、震えていた。


前で、赤いものが動いた。

ガレナが、震える膝を踏ん張っている。

片手を後ろへ振った。

「下がってろ! こいつはあたしがやる!」

脚から腕へ、指の先まで、朱の灯りが燃えるように灯る。

背のコッコの布をむしり取って、白い刃を抜いた。

刃を体の前に立てて、音を割るようにかざす。

壁からこぼれる土を浴びながら、一歩、また一歩と、底を踏みしめて前へ出ていく。

「ピエトロ! 聞こえてんだろ、今行くからな!」


ガレナも、震えてる。

外套の裾も、赤い髪も、細かく波打っている。

それでも、朱をまとった足だけは止まらない。

ボクの足は、前に出ない。

動けないのはボクも同じなのに、ガレナだけが前にいる。

白い刃が音を受けて、細かく鳴っていた。


あと五歩。


「来んなって言ってんだろがよお、ガレナァ!」

ピエトロが喉の手に力をこめた。

音が、細くなる。

ガレナ一人に、絞られたんだ。

ボクの耳の奥の揺れが、少し引いた。

膝の震えが弱まる。

代わりに、ガレナの外套が、風にあおられるみたいに激しく震えた。

ピエトロのもう片方の手のひらから、暗い青が溢れた。

水を張ったような膜が広がって、ガレナとのあいだを塞ぐ。


ドラージョの東の街道で、矢を止めた膜だ。

あのときはボクたちの前で、荷車を守っていた。


あと三歩。


「来んなって言われて止まるわけねえだろ! 歯ぁ食いしばれ、ピエトロ!」

ガレナがコッコを返して、峰を前に向けた。

肩から柄を握る指まで、朱が燃える。

朱の脚で、残りの三歩を一息に詰めた。

峰が、青い膜ごと振り下ろされる。


膜が、峰を受けてたわんだ。

粘って、勢いを吸って、それでも吸いきれずに、真ん中から裂ける。

峰がそのまま、ピエトロの左の肩口を打った。

鈍い音。

ピエトロの体が傾いて、片膝が底の土についた。


音が、途切れた。


耳鳴りだけが、頭の中に残っている。

膝の震えが、止まった。

袖をつまんでいたイルウェンの指が、ゆっくり離れた。


ピエトロは右手を土について、体を起こそうとした。

左の腕は、だらりと下がったままだ。

右の手のひらに、残った青をかき集めている。

息を吸いこむ音が、ここまで聞こえた。

「……峰なんかで、手加減してんじゃねえよ……ばぁか……。まだ、終わってねえかんな……!」


喉から、もう一度音が出かかった。

けれど細くて、途中で千切れて、咳に変わる。

震えたのは、ガレナの外套の裾だけだった。

右の手のひらの青も、膜になる前に、指のあいだからこぼれて消えていく。


「終わりだっつってんだよ! もう声出すな!」

ガレナが、朱を腕に燃やし直した。

峰が、土についていた右腕を横から払う。

手のひらの青が、散って消えた。

続けて振り下ろされた峰が、背中を打つ。

ピエトロは、切り通しの底にうつ伏せに倒れた。


土に指を立てて、肘を起こそうとする。

肘が震えて、上がらない。

背負った荷の紐がずれて、外套の背からはみ出していた。


切り通しの上で、日が沈みきった。

壁のてっぺんの赤も消えて、底はもう暗い。


ガレナが、コッコを土に突き立てた。

うつ伏せのピエトロの横に、しゃがみこむ。

ずれた荷の紐を、背に戻してやった。

それから、顔をのぞきこむ。

「……ピエトロ。名を上げたら組んでやるって、言っただろ。今のお前じゃ組まねえ。

だから、さっさと治して名ぁ上げろ。待っててやっから」


ドラージョで、一人で発っていくピエトロの背中に、ガレナが叫んだ言葉だ。

東の街道の帰りに、門の灯を見ながら、ボクに言ってた。

名を上げたら組んでやるって、言ったんだ、あたし。

取り消してないんだ。

今でも。


ピエトロは、土に頬をつけたまま顔をそむけた。

土に立てた指を、握りこむ。

「……待ってろなんて、頼んでねえよ……」

咳きこんで、声を張ろうとして、割れた。

「……ガキが、えらそうに……おれが先に、名ぁ上げてやらぁ……」


口だけは、減らない。

でも、もう声は咳のほうが多い。

花の縁の灰色は、首の付け根から喉の脇へ伸びかけていた。

このまま置いていったら、あの猫が拾いに来る。

また薬をぶら下げて、また声を使わせる。


岩屋の集いのあと、熱の子のお母さんが言っていた。

境目に、印のある者を黙って診てくれる施術師がいるって。

下町には、町に着いた日から、印の人たちに助けてもらってきた。

あの人たちなら、戸を知ってる。

轍は、明日でも追える。

ピエトロの喉は、今じゃないと間に合わないかもしれない。


ガレナの反対側にしゃがんで、ピエトロの左の肩にそっと手を当てた。

熱い。

骨は、ずれていないみたいだ。

顔を上げて、ブランを見た。

「ピエトロ、下町に戻るよ。印の人を黙って診てくれる年寄りの施術師がいるんだって。ボクが担ぐ。

……ブラン、グラッソを追うのは明日にしよう。おねがい」


ブランは、黙ってうなずいた。

両側の壁の上を見上げて、耳を左右に向ける。

人の気配が無いのを確かめてから、ピエトロの横に落ちた荷を拾って、自分の肩にかけた。

「坊主、喋るな。」



崖の縁の道を、ピエトロを担いで下りた。

ボクとガレナで、両脇から肩を貸す。

背の荷を抜いたピエトロの体は、それでも粉袋二つぶんより重かった。

ラウロが前を、イルウェンが後ろを歩く。

ブランはピエトロの荷を担いで、ときどき後ろを振り返った。

ピエトロは何度か咳きこんだけれど、何も言わなかった。


下町の東の端に着いたころには、すっかり夜になっていた。

看板の無い宿の戸を叩く。

腰の曲がったおばあさんは、担がれたピエトロの首を一目見て、黙って奥へ引っこんだ。

しばらくして、外套の襟を立てた男の人が、戸口に来た。

荷役の厚い肩。

町に着いた日、石段で背負子の紐を結び直すふりをして、この宿を教えてくれた人だ。

首筋の花の印は、襟の中に隠れている。

男の人は何も聞かずに、先に立って歩きだした。


貧民街との境目の、崖の岩に食いこんだ石積みの小屋だった。

戸口に看板は無い。

垂れた布の隙間から、獣脂の明かりと、煎じた草の匂いが漏れている。

男の人が戸の板を、短く二つ、少し間を置いて一つ叩いた。


布が、半分だけめくれた。

背の丸まった、小柄なおじいさんだった。

白い髪を短く刈っていて、頬と顎に白い無精ひげが伸びている。

まくった袖から出た腕は骨ばって大きく、指の腹が黄色く染みていた。

煎じた草と、獣脂の匂いがする。


おばあさんだと思ってた。


おじいさんは路地の左右を見てから、荷役の男の人にうなずいた。

ピエトロの首の跡と、下がった左の肩に目をやる。

それから戸を大きく開けて、脇へ退いた。

奥の寝台を、顎で指す。

「入りな。早く。そいつはそっちに寝かせな。ほかの者は壁際で黙ってな」


小屋の中は狭くて、壁の半分が崖の岩のままだった。

棚に、草の束と壺が並んでいる。

炉の上の鍋が、湯気を立てていた。

ガレナと二人で、ピエトロを寝台に寝かせる。

ほかの三人と一緒に、壁際へ下がった。

荷役の男の人は戸口の布の内側に立って、外を見ている。


おじいさんが、獣脂の灯りの皿を寝台へ寄せた。

ピエトロの襟を開いて、首の花の跡を指の腹で押す。

灰色の縁は、押しても色が戻らない。

喉の脇に手を当てて、咳を一度させる。

額に触れて、熱をみる。

左の肩を下から支えて、少しだけ持ち上げた。

首の筋が、硬く張っているのが、ここからでも見えた。

おじいさんは布で手を拭いて、こっちへ向き直った。

「肩は外れとらん。首の根が、肩の筋まで引っぱっとる。咳もそれだ、喉の筋が固まりかけとる。熱もある。

種は抜けん。わしにできるのは、冷やして膏薬を貼り替えて、固まるのを遅らせることだけだ」


種は、抜けない。

遅らせるだけ。


ピエトロは、天井を見ていた。

右手で、首の跡を襟ごと押さえて隠す。

壁際のボクたちのほうへは、顔を向けない。

かすれた低い声が、寝台から上がった。

「……遅らせるだけ、かよ。……じいさん、どんくらい、もつんだ。おれの声」


おじいさんは、ピエトロの右手をどけなかった。

その手の上から、喉の脇へ指を二本当てる。

もう一度咳をさせて、指を離した。

「分からん。わしが診てきた者で、喉まで根が来た者は、毎晩通って貼り替えて、ひと月ほどだった。

通わなけりゃ、もっと早い。黙ってな。しゃべるだけ喉が固まる」

棚から、冷やした布と膏薬の壺を下ろす。

煎じた草の匂いが、強くなった。


ひと月。

毎晩通って、それで、ひと月。


詰所の前で、知らないで行くのはやめてって言った。

床を空けとくって言って、待ってた。

ピエトロは、来なかった。

……でも、今それを言っても、声は戻らない。

あの猫の薬は、飲むほど悪くなる。

このおじいさんは、遅らせてくれる。

だったら、こっちだ。


壁際から寝台の脇へ寄って、ピエトロの顔の見えるところにしゃがんだ。

「ピエトロ、ここで手当てを受けて。毎晩通うんだよ。あの猫の薬は、もう飲まないで。返事はいらない。

喋ると喉が固まるからね」


ピエトロは、ボクの顔をちらっとだけ見た。

すぐに、天井へ目を戻す。

口は開かなかった。

右手の指が一本だけ、襟から浮いて、ひらひらと揺れた。


おじいさんが、冷やした布をピエトロの首に当てた。

布の上から、黄色い膏薬を指で伸ばしていく。

ピエトロは目を閉じて、息を細く吐いた。

戸口の布の内側で、荷役の男の人が外を見たまま、小さく咳払いをした。


ブランが、肩のピエトロの荷を寝台の足もとに下ろした。

懐から銅貨を数枚出して、膏薬の壺の横に置く。

おじいさんに、頭を下げた。

「親父さん、こいつを頼みます。足りねえ分は、また持ってきます」

戸口の男の人にも、軽く頭を下げる。

それから振り返って、顎で戸口を示した。

「……いいか、轍に戻る。今夜も荷車は上がってくはずだ」


おじいさんは、置かれた銅貨に目もやらなかった。

冷やした布を水に浸して絞り、ピエトロの首の跡に当て直す。

顔を上げずに、ブランの背中へ一言だけ返した。

「ああ。こいつは毎晩来させな。戸は、そこの男に合図を聞け」


ブランが、布をくぐって外へ出た。

ラウロとイルウェンが、その後に続く。


ガレナは戸口へ向かいかけて、足を止めた。

寝台の脇へ戻って、背の荷から自分の水袋を外す。

ピエトロの右手のそばに、押しつけるように置いた。

目は合わせない。

背を向けて、布をくぐりかけたところで、小さく言い残した。

「別にお前のためじゃねえぞ。喉乾いて喋られたら困るからだ。……毎晩来いよ。

来なかったら、あたしが引きずってくっからな」


ガレナの水袋が、ピエトロの右手のそばに残った。


最後に、布をくぐった。

荷役の男の人が、内側から布を下ろす。

獣脂の明かりが、細い線になって消えた。


下町の東の端は、もう灯りもまばらだった。

五人で、崖の縁の道を、もう一度東の台地のほうへ上っていく。

足もとに、荷車の轍が白く何本も重なって、暗い切り通しのほうへ続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。