蝕み
谷沿いの森の外れで、グラッソの荷車が木立の奥へ消えてから、六日が経った。
二月の二十日。
夕方の日が、前よりも長く崖の縁に残るようになっていた。
あの日、荷車は森の奥へ入っていった。
その轍は、森を大きく回りこんで、下町の東の端から東の台地へ上がる崖の縁の道に出ていた。
夜ごとに、ここを通っているんだ。
朝に見たときより、轍が一本増えている。
底の土に、干し魚の匂いがまだ残っていた。
崖の縁の道を、五人で上った。
左はずっと下まで崖で、下町の屋根が小さく並んでいる。
台地へ上がりきる手前で、道は切り通しに入った。
両側に、人の背の倍ほどの土の壁。
荷車一台がやっと通れる幅しかない。
西に傾いた日は壁のてっぺんだけを赤くして、底はもう薄暗い。
冷たい土の匂いがする。
切り通しの真ん中に、人が一人立っていた。
日に焼けた骨太の体で、外套の下に荷を背負ったまま。
外套の襟が開いていて、首の付け根に赤い花の跡が見える。
花の縁が、灰色に固まっていた。
ピエトロだ。
ピエトロは両足を開いて、両腕を横に広げた。
切り通しの幅いっぱいに、道をふさぐ。
手のひらに、暗い青がにじんだ。
もう片方の手を、喉に当てる。
「よお、噂の天の子さまご一行じゃねえの! ここから先は通行止めだかんな!
……通りてえなら、おれに頭下げてからにしやがれ!」
張り上げた声は、土の壁に跳ね返る前に、喉の奥でざらりとかすれた。
語尾が、裂けた布みたいに割れる。
東の森で聞いたときより、ずっと出てない。
花の縁の灰色も、あのときより広い。
あれからも、使ってたんだ。
それに、なんで一人で、こんなところに立ってるの。
一歩だけ前に出て、止まった。
腰の剣には、手をかけない。
首の花の跡と、喉に当てた手を見る。
「ピエトロ、声がもう割れてるよ。森のときより出てない。ねえ、それ、誰に言われてここに立ってるの?」
ピエトロの喉の手が、下りた。
拳を握る。
手のひらの青が、濃くなった。
道の真ん中から一歩も引かずに、こっちをにらむ。
「誰でもいいだろがよ! 割れてようが、おまえらを止めるくらいの声は残ってらぁ。
……薬をもらうまでは、おれはここをどかねえ。どかねえかんな!」
薬。
ドラージョの先の白い切り通しで、あの猫は殻の腕の人の口に、小瓶を押しこんでいた。
ほれフォスコ、乗れ、薬だ。
薬のために、言われるまま道をふさいでいた人。
あの人は腕だった。
ピエトロは、声だ。
ブランが、ボクの半歩後ろで足を止めた。
後ろの三人へ手のひらを下げて見せる。
抜くな、だ。
それから、ピエトロへ向き直った。
「いいか、抜くなよ。……ピエトロ。その薬、干し魚臭え猫から貰うんだろ。
あいつがドラージョの先で、殻の腕の男に同じ薬を飲ませてたのを見たぜ。
飲むたびに腕が重くなって、最後は誰の声も耳に入らなくなってた。
……あんたの声は、もう少ししか残ってねえぞ」
ピエトロの顔が、一瞬だけこわばった。
喉に手を当てて、声を落とす。
「……知るかよ、そんなやつ」
それから、足を踏ん張った。
首の花の跡が、青く光る。
「おれの声は、おれが使うんだよお! どきやがれえぇっ!」
喉から、声とも音ともつかないものが噴き出した。
夏の木立で、ノウルゼミが一斉に鳴きだしたみたいな音。
細かく震えて、高い。
両側の土の壁に跳ね返って、前からも横からも、ボクたちを包みこむ。
耳の奥が、内側から揺すられた。
音は耳だけじゃなくて、骨まで入ってくる。
膝が震えた。
腕も、指の先も。
足を前へ出そうとしても、震えて言うことをきかない。
剣の柄に手を伸ばすのも、立っているのがやっとだ。
壁の上から、土がぱらぱらとこぼれ落ちる。
森で浴びたのと同じ音。
でも、あのときより近い。
音の真ん中に、かすれたピエトロの声が混じっている。
袖の端を、細い指がつまんだ。
イルウェンだ。
その指も、震えていた。
前で、赤いものが動いた。
ガレナが、震える膝を踏ん張っている。
片手を後ろへ振った。
「下がってろ! こいつはあたしがやる!」
脚から腕へ、指の先まで、朱の灯りが燃えるように灯る。
背のコッコの布をむしり取って、白い刃を抜いた。
刃を体の前に立てて、音を割るようにかざす。
壁からこぼれる土を浴びながら、一歩、また一歩と、底を踏みしめて前へ出ていく。
「ピエトロ! 聞こえてんだろ、今行くからな!」
ガレナも、震えてる。
外套の裾も、赤い髪も、細かく波打っている。
それでも、朱をまとった足だけは止まらない。
ボクの足は、前に出ない。
動けないのはボクも同じなのに、ガレナだけが前にいる。
白い刃が音を受けて、細かく鳴っていた。
あと五歩。
「来んなって言ってんだろがよお、ガレナァ!」
ピエトロが喉の手に力をこめた。
音が、細くなる。
ガレナ一人に、絞られたんだ。
ボクの耳の奥の揺れが、少し引いた。
膝の震えが弱まる。
代わりに、ガレナの外套が、風にあおられるみたいに激しく震えた。
ピエトロのもう片方の手のひらから、暗い青が溢れた。
水を張ったような膜が広がって、ガレナとのあいだを塞ぐ。
ドラージョの東の街道で、矢を止めた膜だ。
あのときはボクたちの前で、荷車を守っていた。
あと三歩。
「来んなって言われて止まるわけねえだろ! 歯ぁ食いしばれ、ピエトロ!」
ガレナがコッコを返して、峰を前に向けた。
肩から柄を握る指まで、朱が燃える。
朱の脚で、残りの三歩を一息に詰めた。
峰が、青い膜ごと振り下ろされる。
膜が、峰を受けてたわんだ。
粘って、勢いを吸って、それでも吸いきれずに、真ん中から裂ける。
峰がそのまま、ピエトロの左の肩口を打った。
鈍い音。
ピエトロの体が傾いて、片膝が底の土についた。
音が、途切れた。
耳鳴りだけが、頭の中に残っている。
膝の震えが、止まった。
袖をつまんでいたイルウェンの指が、ゆっくり離れた。
ピエトロは右手を土について、体を起こそうとした。
左の腕は、だらりと下がったままだ。
右の手のひらに、残った青をかき集めている。
息を吸いこむ音が、ここまで聞こえた。
「……峰なんかで、手加減してんじゃねえよ……ばぁか……。まだ、終わってねえかんな……!」
喉から、もう一度音が出かかった。
けれど細くて、途中で千切れて、咳に変わる。
震えたのは、ガレナの外套の裾だけだった。
右の手のひらの青も、膜になる前に、指のあいだからこぼれて消えていく。
「終わりだっつってんだよ! もう声出すな!」
ガレナが、朱を腕に燃やし直した。
峰が、土についていた右腕を横から払う。
手のひらの青が、散って消えた。
続けて振り下ろされた峰が、背中を打つ。
ピエトロは、切り通しの底にうつ伏せに倒れた。
土に指を立てて、肘を起こそうとする。
肘が震えて、上がらない。
背負った荷の紐がずれて、外套の背からはみ出していた。
切り通しの上で、日が沈みきった。
壁のてっぺんの赤も消えて、底はもう暗い。
ガレナが、コッコを土に突き立てた。
うつ伏せのピエトロの横に、しゃがみこむ。
ずれた荷の紐を、背に戻してやった。
それから、顔をのぞきこむ。
「……ピエトロ。名を上げたら組んでやるって、言っただろ。今のお前じゃ組まねえ。
だから、さっさと治して名ぁ上げろ。待っててやっから」
ドラージョで、一人で発っていくピエトロの背中に、ガレナが叫んだ言葉だ。
東の街道の帰りに、門の灯を見ながら、ボクに言ってた。
名を上げたら組んでやるって、言ったんだ、あたし。
取り消してないんだ。
今でも。
ピエトロは、土に頬をつけたまま顔をそむけた。
土に立てた指を、握りこむ。
「……待ってろなんて、頼んでねえよ……」
咳きこんで、声を張ろうとして、割れた。
「……ガキが、えらそうに……おれが先に、名ぁ上げてやらぁ……」
口だけは、減らない。
でも、もう声は咳のほうが多い。
花の縁の灰色は、首の付け根から喉の脇へ伸びかけていた。
このまま置いていったら、あの猫が拾いに来る。
また薬をぶら下げて、また声を使わせる。
岩屋の集いのあと、熱の子のお母さんが言っていた。
境目に、印のある者を黙って診てくれる施術師がいるって。
下町には、町に着いた日から、印の人たちに助けてもらってきた。
あの人たちなら、戸を知ってる。
轍は、明日でも追える。
ピエトロの喉は、今じゃないと間に合わないかもしれない。
ガレナの反対側にしゃがんで、ピエトロの左の肩にそっと手を当てた。
熱い。
骨は、ずれていないみたいだ。
顔を上げて、ブランを見た。
「ピエトロ、下町に戻るよ。印の人を黙って診てくれる年寄りの施術師がいるんだって。ボクが担ぐ。
……ブラン、グラッソを追うのは明日にしよう。おねがい」
ブランは、黙ってうなずいた。
両側の壁の上を見上げて、耳を左右に向ける。
人の気配が無いのを確かめてから、ピエトロの横に落ちた荷を拾って、自分の肩にかけた。
「坊主、喋るな。」
崖の縁の道を、ピエトロを担いで下りた。
ボクとガレナで、両脇から肩を貸す。
背の荷を抜いたピエトロの体は、それでも粉袋二つぶんより重かった。
ラウロが前を、イルウェンが後ろを歩く。
ブランはピエトロの荷を担いで、ときどき後ろを振り返った。
ピエトロは何度か咳きこんだけれど、何も言わなかった。
下町の東の端に着いたころには、すっかり夜になっていた。
看板の無い宿の戸を叩く。
腰の曲がったおばあさんは、担がれたピエトロの首を一目見て、黙って奥へ引っこんだ。
しばらくして、外套の襟を立てた男の人が、戸口に来た。
荷役の厚い肩。
町に着いた日、石段で背負子の紐を結び直すふりをして、この宿を教えてくれた人だ。
首筋の花の印は、襟の中に隠れている。
男の人は何も聞かずに、先に立って歩きだした。
貧民街との境目の、崖の岩に食いこんだ石積みの小屋だった。
戸口に看板は無い。
垂れた布の隙間から、獣脂の明かりと、煎じた草の匂いが漏れている。
男の人が戸の板を、短く二つ、少し間を置いて一つ叩いた。
布が、半分だけめくれた。
背の丸まった、小柄なおじいさんだった。
白い髪を短く刈っていて、頬と顎に白い無精ひげが伸びている。
まくった袖から出た腕は骨ばって大きく、指の腹が黄色く染みていた。
煎じた草と、獣脂の匂いがする。
おばあさんだと思ってた。
おじいさんは路地の左右を見てから、荷役の男の人にうなずいた。
ピエトロの首の跡と、下がった左の肩に目をやる。
それから戸を大きく開けて、脇へ退いた。
奥の寝台を、顎で指す。
「入りな。早く。そいつはそっちに寝かせな。ほかの者は壁際で黙ってな」
小屋の中は狭くて、壁の半分が崖の岩のままだった。
棚に、草の束と壺が並んでいる。
炉の上の鍋が、湯気を立てていた。
ガレナと二人で、ピエトロを寝台に寝かせる。
ほかの三人と一緒に、壁際へ下がった。
荷役の男の人は戸口の布の内側に立って、外を見ている。
おじいさんが、獣脂の灯りの皿を寝台へ寄せた。
ピエトロの襟を開いて、首の花の跡を指の腹で押す。
灰色の縁は、押しても色が戻らない。
喉の脇に手を当てて、咳を一度させる。
額に触れて、熱をみる。
左の肩を下から支えて、少しだけ持ち上げた。
首の筋が、硬く張っているのが、ここからでも見えた。
おじいさんは布で手を拭いて、こっちへ向き直った。
「肩は外れとらん。首の根が、肩の筋まで引っぱっとる。咳もそれだ、喉の筋が固まりかけとる。熱もある。
種は抜けん。わしにできるのは、冷やして膏薬を貼り替えて、固まるのを遅らせることだけだ」
種は、抜けない。
遅らせるだけ。
ピエトロは、天井を見ていた。
右手で、首の跡を襟ごと押さえて隠す。
壁際のボクたちのほうへは、顔を向けない。
かすれた低い声が、寝台から上がった。
「……遅らせるだけ、かよ。……じいさん、どんくらい、もつんだ。おれの声」
おじいさんは、ピエトロの右手をどけなかった。
その手の上から、喉の脇へ指を二本当てる。
もう一度咳をさせて、指を離した。
「分からん。わしが診てきた者で、喉まで根が来た者は、毎晩通って貼り替えて、ひと月ほどだった。
通わなけりゃ、もっと早い。黙ってな。しゃべるだけ喉が固まる」
棚から、冷やした布と膏薬の壺を下ろす。
煎じた草の匂いが、強くなった。
ひと月。
毎晩通って、それで、ひと月。
詰所の前で、知らないで行くのはやめてって言った。
床を空けとくって言って、待ってた。
ピエトロは、来なかった。
……でも、今それを言っても、声は戻らない。
あの猫の薬は、飲むほど悪くなる。
このおじいさんは、遅らせてくれる。
だったら、こっちだ。
壁際から寝台の脇へ寄って、ピエトロの顔の見えるところにしゃがんだ。
「ピエトロ、ここで手当てを受けて。毎晩通うんだよ。あの猫の薬は、もう飲まないで。返事はいらない。
喋ると喉が固まるからね」
ピエトロは、ボクの顔をちらっとだけ見た。
すぐに、天井へ目を戻す。
口は開かなかった。
右手の指が一本だけ、襟から浮いて、ひらひらと揺れた。
おじいさんが、冷やした布をピエトロの首に当てた。
布の上から、黄色い膏薬を指で伸ばしていく。
ピエトロは目を閉じて、息を細く吐いた。
戸口の布の内側で、荷役の男の人が外を見たまま、小さく咳払いをした。
ブランが、肩のピエトロの荷を寝台の足もとに下ろした。
懐から銅貨を数枚出して、膏薬の壺の横に置く。
おじいさんに、頭を下げた。
「親父さん、こいつを頼みます。足りねえ分は、また持ってきます」
戸口の男の人にも、軽く頭を下げる。
それから振り返って、顎で戸口を示した。
「……いいか、轍に戻る。今夜も荷車は上がってくはずだ」
おじいさんは、置かれた銅貨に目もやらなかった。
冷やした布を水に浸して絞り、ピエトロの首の跡に当て直す。
顔を上げずに、ブランの背中へ一言だけ返した。
「ああ。こいつは毎晩来させな。戸は、そこの男に合図を聞け」
ブランが、布をくぐって外へ出た。
ラウロとイルウェンが、その後に続く。
ガレナは戸口へ向かいかけて、足を止めた。
寝台の脇へ戻って、背の荷から自分の水袋を外す。
ピエトロの右手のそばに、押しつけるように置いた。
目は合わせない。
背を向けて、布をくぐりかけたところで、小さく言い残した。
「別にお前のためじゃねえぞ。喉乾いて喋られたら困るからだ。……毎晩来いよ。
来なかったら、あたしが引きずってくっからな」
ガレナの水袋が、ピエトロの右手のそばに残った。
最後に、布をくぐった。
荷役の男の人が、内側から布を下ろす。
獣脂の明かりが、細い線になって消えた。
下町の東の端は、もう灯りもまばらだった。
五人で、崖の縁の道を、もう一度東の台地のほうへ上っていく。
足もとに、荷車の轍が白く何本も重なって、暗い切り通しのほうへ続いていた。




