咎
鐘が鐘楼に戻った日から、十二日が経った。
二月の十四日。
朝の石段の霜が、昼の鐘より前に溶けるようになっていた。
台地で夜を明かした朝、司祭がブランに耳打ちしたのは、鐘が戻ったからドラージョの手配書は表に出さない、
ということだったそうだ。
灰色の鷹の詰所の帳場の脇に貼ってあった手配の紙も、その日のうちにはがされた。
灯改めは鐘と台地の火のことを帳面にまとめて聖堂の本山へ送ったらしいけど、返事はまだ来ていない。
ボクたちは、聖堂とは行き来しないままでいる。
宿を引き払った翌日、ラウロが看板の無い宿へ顔を出すと、
腰の曲がったおばあさんは大部屋の床を空けたまま待っていた。
「荷はどこに置くんだい。いつものとこでいいだろ」
それだけ言って、奥へ引っこんだ。
五人で、元の宿に戻った。
下町では、犬探しの組が「ノアさまの組」になった。
頭巾を下ろして石段を歩いても、もう誰も手配書の話をしない。
代わりに、水場の列の女の人が手を振ってくる。
子どもが後ろからついてきて、ボクの外套の裾を引っぱっては逃げていく。
下町の荷主や商会から、詰所へ名指しの依頼が回ってくるようになった。
組はエンジェルウィングの名で依頼を受けられるようになって、ラウロは帳場の前で、
また組の顔役をやっている。
このところ、ずっと明るい顔だ。
ブランは、旅のあいだ絞っていた酒が、少し増えた。
夜、腰の革袋の栓を抜く回数を、ボクは数えないことにしている。
ボクは、あいかわらず外套の前を合わせて歩いている。
それでも、見られる。
石段ですれ違う人の目が、ボクの顔から背中のふくらみへ下りて、また顔へ戻ってくる。
外套の中で、翼の付け根がむずむずした。
隣を、ガレナが歩いてくれる。
小柄なのに、じろじろ見てくる人がいると、肩をいからせて一歩前へ出る。
それだけで、たいていの人は目をそらした。
後ろには、イルウェンの眠そうな足音がある。
振り返らなくても、そこにいるのが分かる。
縦穴へ入っていった荷車のことは、まだ見に行けていない。
依頼で台地を通るたびに、轍が増えていないかを見ている。
その朝、詰所の帳場の前で、炭の粉で手を黒くした男の人が、帽子を握って待っていた。
谷の村の炭焼きだという。
「東の台地を越えた先の、谷沿いの森でさ。ここ何日か、二十人ばかりが居ついてるんだ。
炭焼き小屋の屋根を踏み抜いて、薪も食い物も持っていっちまう。
ノアさまの組に頼めって、村の皆が言うもんで」
「その人たち、首や腕に布巻いてた?」
「巻いてた。……なんで分かるんだい」
ブランが、ボクの横で耳だけを動かした。
ラウロが依頼書を受け取って、帳場の帳面に組の名を書いた。
台地を越えて谷へ下りると、樫と櫟の木立のあいだを沢が流れていた。
水の音に混じって、どこかで斧が木の幹を叩く音がする。
屋根を踏み抜かれた炭焼き小屋の脇から、大勢の足跡が沢沿いに奥へ続いていた。
ブランが先に立って、足跡の上にしゃがむ。
鼻を上げて、短く吸った。
黙って、顎で奥を指す。
しばらく進むと、沢の曲がり目にくぼ地があった。
斜面の木立に伏せて、見下ろす。
首や腕に布を巻いた男の人と女の人が、二十人ほど。
鉄梃や鉈を握って、炭の俵を割っては中身をあさっている。
一人が、意味もなく木の幹を鉈で叩いていた。
布の下から、灰色の縁がのぞいている。
あの人たちだ。
集いで種をもらって、固まりかけてる人たち。
荷車に乗ってた人も、いるかもしれない。
頭の上の梢が、大きく揺れた。
羽ばたきの風が、伏せたボクたちの上に落ち葉を巻き上げる。
板を擦り合わせるような音。
聞き覚えのある音だった。
白い翼をたたみながら、天使が木立の切れ目へ降りてきた。
ボクの正面に立つ。
黒い髪と、オレンジ色の目。
白い上衣に、銀の帯。
肩で息をしそうになるのを堪えて、翼を半ば開いたまま胸を張った。
「ようやく見つけたぞ、規格外。……久しぶりだな。僕は、やはりおまえを都へ連れて帰らなければならない。
抵抗するな。これは命令だ」
ラファルだ。
背が、ずいぶん伸びた。
グリージョの河原で腹を縛ったときは、ボクより小さかったのに。
生きてた。
よかった。
……でも、また命令なんだ。
期待はするなって、納屋で言ってたもんね。
伏せていた木立から身を起こして、ラファルの正面に立った。
腰の剣には、手をかけない。
くぼ地のほうへちらりと目をやってから、声を落とす。
「ラファル。久しぶり。元気そうでよかった。背、伸びたね。……やっぱり、だめなんだね。
でも、ボクはもう逃げない。都にも行かない」
ラファルが顎を上げて、ボクを見上げた。
目の高さは、もうほとんど変わらない。
半ば開いた翼の縁に、手のひらのピンクの灯りが、うっすら走った。
「しばらく見ないうちに、ずいぶん強気になったな、規格外。だが僕も、手をこまねいていたわけじゃない。
対策はしてきた。昔のようにいくと思うな!」
声が、大きい。
くぼ地で、鉈を振っていた何人かの手が止まった。
伏せたままのブランが、顔だけ上げた。
ボクとラファルのあいだに、低く手を差し入れる。
「こんなときに何やってやがる、坊主! 声を落とせ。下の連中に気づかれるだろ」
ガレナが、木立から半身を起こした。
ブランの手を振り切りかけて、ラファルを指さす。
小声に抑えきれていない。
「お前、ヴァレンツァのちっちぇえ天使じゃねえか! ……でかくなってんじゃねえか」
背のコッコの布に手をかけて、ボクの横に並ぶ。
顔を寄せてきた。
「……なあノア、やっちまおうぜ。あたしが前に出る」
ラウロは、伏せたまま剣の柄から手を離した。
くぼ地へ目を戻して、顔だけこっちへ向ける。
「……ったく、しょうがねえな。俺は下を見張っとく。ノア、ガレナ、そっちの天使は頼めるか。
……なるべく穏便にな。ガレナ、お前に言ってんだぞ」
ブランが、短くうなずいた。
ボクとガレナに、目だけで任せると言う。
身を低くしてラウロの肩を叩いた。
「ああ。ラウロ、来い」
二人の背中が、木立を伝ってくぼ地のほうへ離れていく。
イルウェンは、ボクたちの後ろの木立に腰を下ろしたままだった。
背の灯り弓の握りに手をかけて、半分の目でラファルの翼の付け根を見ている。
「……久しぶりー」
ブランとラウロの背中が、木立の奥に見えなくなった。
ガレナが、コッコの布を引きほどいて地面に落とした。
白い刃が出る。
脚に朱の灯りがともって、落ち葉を蹴った。
十歩を、一息で詰める。
肩から指まで朱を通して、半ば開いた翼の付け根めがけて、上から振り下ろす。
「三年前の続きだ、ちび天使! ノアは渡さねえ!」
ラファルが、翼を斜めに傾けた。
白い大剣が翼の板の上を滑って、金物を擦る音を立て、地面へそれる。
「力だけはあるな。だが、剣など僕の翼には効かない! ……どけ!」
体ごと回った返す翼に、ピンクの灯りが乗っていた。
横からの一振りで、ガレナの体が浮く。
後ろの木立まで飛ばされて、樫の幹に背中から当たった。
ガレナ!
幹に、背中から。
立てるかな。
見てる暇はない。
翼の面は硬い。
剣は滑る。
なら、付け根。
継ぎ目の金物のところだ。
低く地を蹴った。
振り抜いた翼の内側へ、潜りこむ。
左腕で、ラファルの胴に組みついた。
外套の内から黒鉄の短剣を抜いて、白い灯りを刃の先まで流す。
右の翼の付け根の、金物の継ぎ目へ突き立てた。
「ガレナに何するの!」
切っ先が、継ぎ目に当たって白く弾けた。
継ぎ目の縁に、細い焦げ跡が一本。
深くは、入らない。
浅い。
焦げただけだ。
ラファルの両の翼が、強く羽ばたいた。
足が、地面を離れる。
組みついたボクごと、梢の高さまで浮き上がった。
空中で体をひねって、大きく回る。
腕が、振りほどかれた。
「継ぎ目を狙うか。多少は頭が回るようになったようだな。……だが、その程度か!」
体が、梢の上の空に放り出された。
下で、木立の枝が揺れている。
落ちる。
でも、今のボクは落ちない。
外套の下の翼を、一気に開いた。
羽ばたかない。
ヤスミに教わったとおり、白い灯りを、背中から翼の先まで流す。
体が、前へ引き上げられた。
梢をかすめて、向きを変える。
少し上で浮いているラファルへ、まっすぐ追いすがった。
「まだ、終わってない!」
三年前、キミの前で初めて飛んだときは、降り方も分からなかった。
もう違う。
ラファルの目が、ボクの翼の先で止まった。
少し上の高さを保ったまま、両の翼の面にピンクの灯りを溜めていく。
光の芯が、白に近くなる。
「飛ぶのも、ずいぶんうまくなったじゃないか。……だが空は、僕のほうが上だ!」
大きな羽ばたきが、風の塊になって飛んできた。
片方の翼の先に灯りを強めて、横へずれる。
耳の横を、熱い風が抜けていった。
外れた一つが梢を叩いて、樫の枝が折れて落ちる。
次が来る。
またずれる。
かわしきれない一つを、翼を体の前へ回して受けた。
骨の板が、腕まで響くほど鳴る。
押し下げられて、梢が足の下に迫った。
灯りを流し直して、また上がる。
重い。
でも、まっすぐ来るだけだ。
ラファルは、撃つたびに少しずつ高く逃げていく。
肩が、上下している。
息が続かないんだ。
昔からそう。
上へ行くほど、苦しくなるだけだよ。
ボクは、まだ平気。
何度も繰り返して、下から間を詰めた。
衝撃の切れ目に、右手を伸ばす。
指が、ラファルの足首をつかんだ。
細い。
体ごとぶら下がるように、下へ引く。
「つかまえた!」
ラファルの体が傾いた。
片方の翼だけが空を打って、二人ともつれたまま、梢を突き抜ける。
枝の折れる音が、耳もとで続いた。
木立の切れ目の、落ち葉の上へ落ちる。
ラファルが下になった。
広げた翼が地面に叩きつけられて、片方が開ききったまま伏せる。
樫の幹の下から、ガレナが跳ね起きるのが見えた。
落ちていたコッコをつかみ直して、脚に朱をともす。
十歩を、三歩で詰めてくる。
「ノア、どいてろ! 今度は逃がさねえ!」
転がるように、ラファルの上からどいた。
白い大剣が、伏せた翼の半ばへ、真上から落ちる。
金物の割れる、高い音。
骨の板が、何枚も散った。
翼は半ばで断ち切られて、先の半分が落ち葉の上に転がった。
ラファルが、地面に背をつけたまま体を丸めた。
声にならない息が、喉の奥から漏れる。
起き上がれない。
翼、半分になっちゃった。
……ガレナ、やりすぎだよ。
沢のほうの斜面を、ブランとラウロが駆け上がってきた。
その後ろの藪が割れる。
鉄梃や鉈を握った男の人たちが、十何人も続いて出てきた。
首や腕の布の下から、灰色に固まりかけた花の跡の縁がのぞいている。
つけられたんだ。
ブランが。
先頭の男の人が、落ち葉の上の白い翼を指さして怒鳴った。
「天使だ! 聖堂の側の奴だ!」
男の人たちが、木立の切れ目を囲むように広がっていく。
ラファルが、歯を食いしばって片肘をついた。
半分になった翼を引きずって、身を起こす。
囲んでくる男の人たちの、鉄梃と鉈と、布の下の灰色を見回した。
「なんだ、こいつらは……。聖堂? 地上の者が、天使に得物を向けるのか」
それから、オレンジ色の目がボクに戻ってきた。
「規格外、おまえの手引きか! 僕が落ちるのを待って、仲間を呼んだんだな!」
「違う! ボクたちだって、あの人たちを追ってここまで来たんだよ!」
「信じられるか!」
起こそうと伸ばしたボクの手を、ラファルは肘で払いのけた。
よろけながら、一人で前へ出る。
残った片翼に、ピンクの灯りが乗った。
鉄梃を振り上げて寄ってきた先頭の三人めがけて、横に羽ばたく。
三人が、落ち葉ごと転がった。
「寄るな、下郎ども!」
でも、片方しかない翼で振ったぶん、体が大きく傾いた。
足が、もつれる。
その背中へ、横から鉄梃が振り下ろされた。
考えるより先に、足が出ていた。
右手にブランの短い剣を、鞘ごと持つ。
ラファルの背中の後ろへ割りこんで、鉄梃を鞘で受けた。
腕まで、しびれる。
「ラファル、後ろ!」
背中に、ラファルの背中がぶつかってきた。
熱い。
肩で、息をしている。
「……余計なことを。おまえに助けられる覚えはない」
「じゃあ、勝手に背中を守ってるだけ」
「……ふん。背中を貸せ。勘違いするな、これは命令だ」
命令とか言いながら、背中が震えてる。
左手の黒鉄は、刃を寝かせる。
後ろの列は、止まらなかった。
鉄梃を振り上げて寄ってきた男の人の手首を、鞘で打つ。
鉄梃が、落ち葉に落ちた。
足を払って、転がす。
次に来た鉈を、黒鉄の刃の腹で外へ流した。
重い。
種の力だ。
ふつうの大人の腕じゃない。
「みんな、やめて! ボクたち、聖堂の人じゃない! 誰も灯改めに突き出したりしないよ!」
誰も、聞いていなかった。
花の縁が灰色になってる。
種を植えられて、固まりかけてる人たちだ。
斬りたくない。
ボクが守るって決めた側の人たちなのに。
木立の切れ目のあちこちで、みんなが動いていた。
目の端で、ラウロが背の短い剣を抜いた。
振り下ろされた鉄梃を真正面で受けずに、刃を寝かせて斜めに流す。
鉄梃が地面に食いこんだところで、剣の腹が男の人の手の甲を打った。
「……よせ。腕、駄目にするぞ」
樫の木の下では、ガレナがコッコを構え直していた。
鉈を振りかぶった一人目へ踏みこんで、鉈を刃ごと横から叩き切る。
振り抜いた勢いで体を回して、斧の男の人を、斧の柄ごとコッコの腹で押し飛ばした。
「どけ! 怪我したくなきゃ引っこんでろ!」
木の根に座ったイルウェンが、灯り弓を引いていた。
薄い緑の矢が、踏みこんでくる女の人の鉈の腕をかすめる。
続けて、若い男の人の太ももの外。
回りこもうとする人たちの脛を、一人ずつ。
「……こないでー」
ブランは、囲もうと広がった四、五人の真ん中へ、半歩出ていた。
両の手のひらに、黒に近い灰色の灯りが溜まっていく。
それを足もとへ押し下ろすと、男の人たちが膝から地面に押さえつけられた。
動けなくなった手から鉄梃と鉈を蹴り飛ばして、短剣の柄頭で首の後ろを打つ。
一人ずつ、静かになっていく。
「じっとしてろ。ちょっと眠ってもらうだけだ」
鉄梃や鉈が、落ち葉の上に落ちる音が続いた。
膝を押さえてうずくまる人。
伏せたまま起き上がれない人。
それでも残った七、八人が、背中合わせのボクたちのほうへ輪を詰めてくる。
背中の向こうで、ラファルの片翼に、ピンクの灯りが溜まっていく気配がした。
白に近くなる。
踏みこんでくる三人の真ん中めがけて、羽ばたきの衝撃が飛んだ。
間に合わずに振り下ろされた鉄梃は、同じ片翼を体の前へ回して、面で受ける。
「……下がれと言っている! 僕を誰だと思ってる!」
撃って、同じ翼で受けてる。
そっか。
ボクは、翼の先に灯りを流して飛んでた。
あれで体を引くんじゃなくて、羽ばたきごと前へ押し出せば、そのまま撃てる。
刃もいらない。
押すだけなら、斬らずに済む。
外套の下で、翼を半ば開いた。
白い灯りを、翼の先まで流す。
絞って、四方へ散らさないように。
この人たちを焼かないくらいに。
寄ってくる七、八人の足もとへ、大きく一度羽ばたいた。
「ラファル、その撃ち方、ボクも使うね!」
押し出した灯りは、細い筋にならなかった。
足もとの落ち葉を巻き上げて、三、四人をよろけさせただけで、すぐに散る。
背中で、ラファルのピンクの衝撃が真ん中の男の人を転がした。
「勝手に真似るな!」
でも、鉄梃を受けた重さで、ラファルの片膝が落ち葉についた。
散っちゃった。
まだ、だめだ。
でも、押した。
押し合いは、日が谷の向こうへ傾くまで続いた。
取り上げた鉄梃や鉈が、落ち葉の上に積み重なっていく。
立っている人が数えるほどになったころ、誰かが叫んだ。
「天使とつるんでやがる! 仲間割れじゃねえ!」
その声で、残った人たちが一斉に背を向けた。
気を失った仲間を引きずって、斜面を沢の上手へ、木立の奥へと逃げていく。
ガレナが、コッコを地面に突き立てた。
斜面の途中を、見上げている。
逃げる人たちの最後尾で、一人だけ立ち止まって、こっちを向いている男の人がいた。
骨太で、日に焼けた体。
伸びかけの薄い髭。
外套の襟が開いていて、首の付け根に赤い花の跡があった。
花の縁が、灰色になりかけている。
ピエトロだ。
ガレナが、斜面を二歩駆け上がりかけて止まった。
「ピエトロ! お前、何やってんだよ! その首……種もらったのかよ! 降りてこい!」
ピエトロは、襟を掻き合わせもしなかった。
斜面の上で足を踏ん張って、喉に手を当てる。
息を吸う音が、ここまで聞こえた。
「ばぁか、降りるかよお! ……よく聞けよ、これがおれの声だ!」
斜面の上から、声とも音ともつかないものが降ってきた。
ノウルゼミが一斉に鳴きだしたみたいな、細かく震える音。
木立の葉が、一枚残らず震える。
耳の奥が、内側から揺すられた。
頭の芯まで痛い。
耳を塞いで、うずくまるしかなかった。
音の真ん中に、かすれた人の声が混じっている。
ピエトロの喉から出てるんだ。
音が、途切れた。
耳鳴りが、まだ頭の中で鳴っている。
ガレナが、耳を塞いでいた手を下ろした。
顔をしかめたまま斜面を見上げて、一歩前へ出る。
「ピエトロ! 待てよ! ……お前の声、もうがらがらじゃねえか! そんなの、お前の声じゃねえだろ!」
ピエトロが、喉を押さえて咳きこんだ。
ガレナから目をそらして、背を向ける。
去り際に、低い声がこぼれた。
ひびの入った声だった。
「……ったく、なんでおまえらなんだよ。……おれを、そんな目で見るんじゃねえ」
斜面を駆け上がって、木立の奥へ消えた。
ピエトロ、種もらってたんだ。
知らないで行くのはやめてって、詰所の前で言ったのに。
あのあと、宿にも来なかった。
床、ずっと空けてたのに。
声、あんなにがらがらになって。
ガレナは、斜面を見上げたまま動かなかった。
コッコの柄を握る手が、白くなっていた。
逃げた人たちの足跡は、沢の上手で木立を抜けて、森の外れの細い道へ続いていた。
夕暮れの光が、木の幹を赤く染めている。
ラファルは、切り落とされた翼の半分を腕に抱えて、少し遅れて歩いてついてきた。
「待て、規格外……話は、まだ済んでいない」
息が上がっていて、声が続かない。
誰も、来るなとは言わなかった。
森の外れの道に、荷車が一台止まっていた。
手伝いの若い男の人が轅を握っている。
荷台の上に、腹の突き出た茶虎の猫が座っていた。
森から逃げてきた人たちが、腕や首を押さえて息を切らしながら、荷車のまわりへ寄っていく。
猫は荷台から身をかがめて、その肩を、肉球の手で一人ずつ叩いて回った。
耳もとで囁く声が、風に乗って届く。
「よしよし、痛かったなあ。なあに、下へ行けば救われるさね。
……ほい、おまえさんもだよ、下へ行けば楽になる」
肩を叩かれた人から、荷車のまわりに座りこんでいく。
猫が、顔を上げた。
ボクと、目が合う。
細い目をさらに細めて、にこにこと手を振った。
「……おや、これはこれは、いつぞやの嬢ちゃんだよなあ」
グラッソだ。
会所の奥に引っこんで、表には出てこないはずの猫。
ドラージョでも、ああやって荷台の人たちをなだめすかして、荷車に乗せていった。
下って、たぶん台地の縦穴だ。
今、目の前にいる。
腕も翼も重い。
でも、三十歩。
ここで行かなかったら、また荷台の人たちを見送るだけになる。
やだ。
黒鉄の短剣を、左手に握り直した。
畳みかけの重い翼のまま、落ち葉を蹴って駆け出す。
「ブラン、あの猫、止めてくる! ……グラッソ! その人たちを、縦穴へ連れてく気でしょ!」
荷車のまわりに座りこんでいた四、五人が、立ち上がった。
灰色に固まりかけた腕を、胸に抱えたまま。
黙って、荷車の前に並ぶ。
得物は、持っていない。
その体の向こうで、手伝いの男の人が轅を引いた。
荷車が、軋んで動き出す。
足が、止まった。
斬れるわけない。
この人たちの腕を。
翼を開こうとしても、背中が言うことを聞かなかった。
昼から灯りを撃って、空で戦って、もう残っていない。
腕が、上がらない。
荷車は、台地へ上る道から外れて、森の奥へ入っていった。
荷台の上で、猫が一度だけ振り返る。
にこにこしたまま、木立の暗がりに消えた。
荷車の前に並んでいた人たちが、その場にへたりこんだ。
道ばたには、ほかにも逃げ遅れた人たちが、固まりかけた腕や首を抱えてうめいている。
また、見送った。
倒れた男の人の腕から、灰色の殻のかけらが一つ剥がれて、ラファルの足もとへ転がった。
ラファルが、それを見下ろした。
しばらく、動かない。
うめく人たちを一人ずつ見て、また足もとのかけらに目を戻す。
身をかがめて、かけらを一つ拾った。
懐へしまう。
ボクのほうは、見なかった。
残った片翼を背に畳んで、断たれた翼の半分を両腕に抱え直す。
台地とは逆の、谷の下手へ続く道を、一人で歩きだした。
地面を踏むたびに、肩が上下している。
捕まえに来た相手なのに。
翼、半分になって、あんなに息が上がって。
地面の上じゃ、すぐ苦しくなるのに。
都へ帰れるのかな、あれで。
放っとけない。
河原のときと同じだ。
うめく人たちのほうへ半歩向きかけて、止まった。
ラファルの背中へ向き直って、数歩追う。
「ラファル! 翼、ごめん。……一人で大丈夫なの? 息、上がってるよ。
歩けなくなったら、ボクたちのとこに来ていいから」
白い上衣の背中は、振り返らなかった。
断たれた翼を抱えたまま、谷の下手の木立の暗がりへ、少しずつ小さくなっていく。
殻のかけら、拾ってた。
キミも、何か気づいたのかな。
日の落ちた森の外れに、うめき声が続いていた。
足もとの道に、灰色の殻のかけらがまだいくつも落ちている。
左手の黒鉄の短剣を、鞘に戻した。
柄が、まだ温かかった。




