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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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翼

二月の二日は、窓の下の坂を上がっていく足音で、夜明け前に目が覚めた。

槍の柄が石段に当たる音に、男の人たちの話し声が混じる。

「竜を討ちに行くってよ」

「旦那衆が金を出すんだと」

声は、砦街の門のほうへ遠ざかっていった。

朝になっても、高台の上の鐘楼は鳴らない。


ブランは夜半を過ぎてから聖堂から戻り、何も言わずに毛布をかぶって寝てしまった。

ほかの四人は、もう起きている。

みんなで、毛布の背中を見ていた。


ブランが毛布を払って身を起こし、水筒の水を一口飲んだ。

窓の下の足音が消えるのを待ってから、こっちの顔は見ずに話しだす。

「司祭に、鐘を取り戻してこいと頼まれた。

戻るまでは、ドラージョから回ってきた手配書は胸にしまっとくってんだ。……頼みの形をした脅しだな」

水筒の栓を閉めて、ようやくこっちを向いた。

「外の連中が先に竜にかかる。……ノア、お前、あの竜とまた会えるか」


鐘が戻るまで。

戻らなかったら、司祭は手配書を表に出す。

白い翼の娘がこの町にいるって、灯改めにも町じゅうにも知れる。

ブランは一人でそれを聞いて、帰ってきたんだ。

それに、竜を討ちに行く人たちが先に着いたら、ヤスミは踏みつぶすか焼くかする。

どっちかが死ぬ。

それは、やだ。


毛布を肩から落として、ブランの顔をまっすぐ見た。

「会える。また来るって約束したもん。町の人が困ってるって、もう一回ヤスミにちゃんと話したい。

返すかどうかは、ヤスミに選ばせる。ブラン、討ちに行く人たちより先に行かせて」



東の門の内側の広場は、もう人で埋まっていた。

緑の上着の衛兵が、槍を担いでずらりと並んでいる。

その後ろに、灰鷹の詰所で見かける冒険者が十人ばかりと、

鍬や鉈や古い弩を担いだ下町の男の人たちが大勢続く。

荷車には、束ねた槍と矢が積んであった。

門の脇の樽の上で、毛皮の襟巻きをした太った男の人が怒鳴っている。

塩と硫黄の荷主が、砦街の商家衆の番頭だと言っていた人だ。

「竜が町の上を飛んでりゃ、隊商は寄りつかねえ、荷も出せねえ!

旦那衆が金を出す、今日のうちに台地の竜を片づける! 討った者は王さまに取り立てられるって話だ!」

男の人たちが、どっと声を上げた。


番頭の目が、坂の上のボクたちで止まった。

顎でこっちを指して、門番に怒鳴る。

「おい、あの犬探しの組は、ゆうべ聖堂に呼ばれた連中だ。聖堂の手先は要らねえ。

隊が出るまで、門の内に留めとけ」

門番の衛兵が二人、槍を横にしてボクたちの前に立った。


ブランは両手を外套の外に出して見せ、槍の前で足を止めた。

後ろのボクたちには、手のひらを下げてみせる。

動くな、だ。

番頭のほうは見ずに、門番の顔に向かって言った。

「ほう、えらく買いかぶられたもんだ。こっちは犬探しの銅貨で食ってる身でね。

隊が出るまで、ここで見物させてもらうよ」


討伐隊が番頭の掛け声で東の門を出ていき、最後の荷車がくぐってから、門番はようやく槍を上げた。

半刻遅れて門を出ると、台地へ上る道には、大勢の足跡と荷車の轍がずっと続いていた。



昼前に縦穴の手前の岩場に着いたとき、討伐隊はもう岩の窪みを半円に囲んでいた。

窪みの中で、ヤスミが前脚のあいだに鐘を抱えて腹ばいになっている。

ゆうべ別れたときと、同じ格好だ。

五人で、岩場の端の大岩の陰に身を寄せた。


番頭の「かかれ!」が上がった。

衛兵の槍が一斉に突き出され、弩の矢が飛ぶ。

冒険者たちは手のひらに灯した赤や黄の灯りを、ヤスミの顔めがけて投げつけた。

穂先も矢も鱗に弾かれて、乾いた音を立てる。

灯りは鱗の上で散って、消えた。

傷ひとつ、付いていない。


ヤスミが跳ね起き、鐘を前脚の下に抱えこんで、吠えた。

大岩が震えて、背中まで響いてくる。

先に鉤の付いた長い竿が、二人がかりで鐘のほうへ伸びてきた。

ヤスミは首を伸ばしてその竿に噛みつき、へし折って放り捨てる。

太い尾が横に振られて、前の列の衛兵が七、八人、槍ごと岩の上に転がった。


半円が崩れかけたところで、番頭が樽の上から叫んだ。

「下がるな! 銀貨は討った者にだ!」

後ろの列が、転がった人たちをまたいで前へ出てくる。

また矢が鱗を叩き、また灯りが鼻先で弾けた。

窪みの後ろの岩を回りこんだ何人かが、縁から縄を投げる。

縄が、翼の付け根に引っかかった。


ヤスミが体をよじって、翼を大きく開いた。

縄を握っていた人たちが振り飛ばされて、岩の向こうへ転げ落ちる。

首が前へ伸び、喉の奥が赤く光った。

口から、火が噴き出す。


火は横へ広がりながら、鉤の竿を構えた前の列へ押し寄せていく。

衛兵と、鍬を持った下町の男の人たちが十人くらい。

鍬の若い男の人が尻もちをついていて、その襟をつかんだ衛兵も固まっていた。

誰も、足が動いていない。

熱い風が、大岩の陰まで吹きつけてきた。


焼ける。

石切り場の稽古で撃った白い筋は、親指より太いくらいだった。

あれじゃ、火に穴を一つあけるだけだ。

十人の前は、覆えない。

絞らない。

広げて、全部出す。

外れて岩に散るぶんがあっても、いい。

それに、ここから撃っても横からしか当たらない。

火と、あの人たちのあいだに入るしかない。


外套の前をはだけると、背中で白い翼が大きく広がった。

大岩を蹴る。

ひと羽ばたきで前の列の頭の上へ出て、火のほうへ向き直った。

後ろで、ブランの「またかよ」が聞こえた。


目の前いっぱいに、赤い火がうねってくる。

頬の皮が、ひりひりと縮んだ。

両の手のひらを火へ向けて開き、腕に灯りを通す。

溜めずに、出せるだけ押し出した。


手のひらから、白い光がはじけた。

光は筋にならず、輪のように四方へ開きながら前へ走る。

うねる火に正面からぶつかって、じりじりと押し返していく。

押し返したぶん、体が後ろへ押された。

羽ばたいて、前の列の頭の上で踏みとどまる。

足の下で、誰かが悲鳴を上げた。


外れた光が岩場に散って、岩肌を白く焼く。

もったいない。

でも、緩めない。

最後まで、出しきる。


火は光に押されて上と左右へちぎれ、昼の空に赤い煙になって散っていった。


火の向こうに、金色の目が見えた。

「ヤスミ! 止めて! ボクだよ、ノア!」


ヤスミが、慌てて口を閉じた。

あとから出かかった火が、喉の奥で消える。

首が跳ね上がって、金色の目がまっすぐこっちを見た。

「ノア! おまえ、なんで火の前に出てくるのだ! 焼けるのであるぞ!

こいつら、あたしの鐘を取りに来て、縄なんか掛けて、目に矢を当てたのだぞ!」


止めてくれた。

光を止めると、腕から力が抜けた。

落ちるように大岩の上へ降りて、膝をつく。

肩から肘まで、焼けた石を当てたみたいに熱い。

両の手のひらは、指の先まで痺れていた。


前の列の人たちは、焦げ一つ負っていなかった。

尻もちの若い男の人も、襟をつかんでいた衛兵も、口を開けたまま空を見上げている。

岩場の奥の岩肌だけが白っぽく焼けて、煙を上げていた。

焦げた岩の匂いがする。


岩場が、しんとなった。

槍を構えたままの衛兵も、弩に矢をつがえかけた冒険者も、樽の陰の番頭も、みんな大岩の上を見上げている。

白い翼を広げた、頭巾のボクを。

誰かが、つぶやいた。

「……白い、翼」


見られた。

ここにいる、みんなに。

もう、隠しようがない。


ヤスミが鐘を前脚に抱えたまま羽ばたいて窪みを飛び出し、男の人たちの頭の上を越えて、

大岩のすぐそばの岩に降りた。

地面が揺れる。

伸びてきた首が、ボクの手のひらに鼻先を寄せた。

「おまえ、今の何だ! あたしの火を押し返したのだぞ! 手から光がばあっと広がったのだぞ!

ええと、ええと、もう一回やって見せろ!」


男の人たちのあいだに、ざわめきが戻ってきた。

樽の陰から顔を出した番頭が、裏返った声で怒鳴る。

「なんだあれは……竜の仲間か! 白い翼……ドラージョの手配のやつじゃねえのか! 弩、構えろ!

竜ごとだ!」

何人かの冒険者が、ためらいながら弩をこっちへ向けた。

衛兵たちは槍を握ったまま、互いの顔を見ている。


大岩の陰からブランが出てきて、ボクと弩のあいだの岩の上に立った。

両の手のひらを下に向けて腰の高さに構えると、黒に近い灰色の灯りが、そこに溜まっていく。

後ろ手で、ラウロとガレナに指を二本立ててみせた。

前に出るな、だ。

「あんたら、目は付いてるだろ。今その娘に火を止めてもらったのは、あんたらの前の列だ。

それでも助けた方を撃つってんなら、弩の方を地面に寝かせるぜ」


弩を構えた手が、止まった。

前の列で尻もちをついていた若い男の人が、立ち上がって叫ぶ。

「撃つな! 俺、焼かれるとこだったんだぞ!」

衛兵の何人かが、それに続いて槍の穂先を下ろした。

番頭はまだ何か怒鳴っているけれど、弩を引く人は出ない。

それでも、岩場じゅうの目は、ボクとヤスミから離れなかった。


ブランが前に立ってくれてる。

今は、ヤスミだ。

また撃たれたら、ヤスミはまた火を吐く。

そしたら今度は、受けきれない。

腕も背中も、もう灯りが出てこない。

鐘のことは、ボクから言わなきゃ。


痺れた手を膝について、大岩の上でしゃがみ直し、ヤスミの目の高さに顔を合わせた。

「今は無理。全部出しちゃったもん。あとで見せる、約束する。

……ねえヤスミ、その鐘が鳴らないと、町の人たちは怖がって、こうやって何度でも来るよ。

返すかどうかは、キミが決めて。でも、ボクは返してほしい」


ヤスミは鐘を前脚でぎゅっと胸に抱えこみ、鼻先で一度だけ転がした。

ちらっと後ろの男の人たちを見て、また目がボクに戻ってくる。

尾の先が、せわしなく岩を叩いていた。

「だって、いちばんいい音がするのだぞ、これ。……返したら、あいつら、あたしを囲んで怒鳴るのであろう。

鏡のときも、言いに行ったら、ずうっと叱られて、笑われたもん。

ノア、おまえが一緒なら……ええと、ちょっとだけ考えてやってもいい」


叱られて、笑われたから、黙るようになったんだ。

ボクも坂でじろじろ見られて、見てないふりで通してた。

言いに行くのって、怖いよね。

一緒に行くのは、約束できる。

怒鳴られないとは、言えない。


しゃがんだまま、右の手のひらをヤスミの鼻先にそっと当てた。

固い鱗が、日を吸って温かい。

「一緒に行くよ。怒鳴る人は、いるかもしれない。でも、キミの隣にはボクが立つ。

笑うやつがいたら、ボクが言い返すからね」


ヤスミが鼻先を、ボクの手のひらに一度押しつけた。

喉が小さく鳴る。

鐘を抱え直して翼を広げ、ボクの白い翼をちらっと見た。

「ふん、なら返してやる。……でも、おまえも飛んでついてくるのだぞ。

町まで、どっちが速いか競争であるもん。あたしが勝つけど!」


返してくれる。

でも、町の上を白い翼で飛んだら、もう誰にでも見られる。

岩場では、ブランに何も言わずに飛びこんだ。

今度は、言ってから。


膝に手をついて立ち上がり、岩の上のブランの背中へ振り向いた。

「競争、受けて立つよ、ヤスミ。……ブラン、ボク、ヤスミと鐘楼まで飛ぶ。

町の人にも見られるけど、行かせて」


ブランは手のひらの灯りを消して、振り向かずに長く息を吐いた。

片手を上げて、町外れの石切り場の方角を指す。

「……さっきは聞きもしねえで火の前に飛んでったくせに、今さら俺に聞くのかよ。石切り場で落ち合う。

行け」



ヤスミが鐘を抱えて岩を蹴ると、翼のひと振りで大きな体が浮き上がった。

ボクも大岩を蹴る。

下で、討伐隊の人たちが口を開けたまま見上げていた。


台地の上の空は、風が冷たい。

西の遠くに、町の高台が小さく見える。

ヤスミは翼をひと振りすると、あとは長く滑っていく。

ボクは、いくら羽ばたいても少しずつ遅れた。

羽ばたくたびに体が上下に揺れて、口で大きく息をする。

岩場で灯りを出しきった肩と背中が、だんだん重くなってきた。


ヤスミが速さをゆるめて、ボクの横まで下がってきた。

「おまえ、羽ばたきすぎであるぞ! ばたばたしなくていいのだ。体の中の力を、翼に流すのだ。

そしたら前へ引っぱられるの。……ええと、どこにって、翼にだぞ!

あたしは子どものころからできたけどな! ほら、やってみろ!」


羽ばたくのをやめて、翼を広げたまま風に乗った。

息を吐いて、背中の痣から翼へ、残っている灯りを少しずつ流していく。


痣にいちばん近い翼の付け根が、うっすらと白く光った。

体が、前へ引かれる。

でも、引かれる力は弱い。

背中の真ん中を押されているみたいで、風が横から当たるたびに体がぐらりと傾いた。

まっすぐに戻すには、体ごとひねらなきゃいけない。


付け根は、体の真ん中に近すぎる。

灯りには、ここから出すって決まった口があるわけじゃない。

どこからでも出せるなら、真ん中から遠いほうがいい。

港の舟の舵だって、柄の端を握ったほうが軽く回る。

翼の先なら、少し強めるだけで向きが変わるかもしれない。


付け根に溜めた灯りを、骨の板に沿って翼の先まで送った。

両の翼の先が、白く光る。

体が、ぐっと前へ引かれた。

上下の揺れが止まって、風が顔の横をまっすぐ流れていく。

右の先を少し強めると、体がすっと左へ向いた。

付け根で流したときより少ない灯りで、ずっと強く引かれる。

ヤスミの横に並んだまま、もう離れない。


ヤスミが目を丸くして、ボクの翼の先を見つめた。

それから負けじと、少しだけ前へ出る。

「そう、それなのだ! 先っぽまで流すのだ! ……もうできたのか!

ずるいぞ、あたしは何日もかかったのに! ええと、でも、まだあたしのほうが速いもん。

ほら、町が見えてきた。あそこの高いとこだな?」


翼の先が、手のひらで灯したときと同じに、ほんのり温かい。

肩の重さは、消えていた。

速いのは、やっぱりヤスミだ。

でも、競争なら負けたくない。

翼の先へ送る灯りを少しだけ強めて、ヤスミの頭の横まで並び返した。

「うん、あの塔のてっぺん。翼に流すって教えてもらわなかったら、ずっとばたばたしてたよ。

でも、競争は負けないからね」



台地の縁を越えると、フォンターレの高台が目の前に迫ってきた。

下町の石段で誰かが空を指さして叫び、その声が坂を駆け上がっていく。

水場の列でも砦街の壁の上でも、人が次々に足を止めて見上げた。

「鐘だ!」

「竜が戻ってきた!」

「横の白いのは何だ!」


鐘楼の屋根の縁に、ヤスミが四本の脚でとりついた。

石が、みしりと鳴る。

ボクは、そのすぐ横の屋根に降りた。

下の広場にも、屋敷の塔の窓にも、人の顔がびっしり並んでいる。


ヤスミは下の人たちに向けて一度だけ喉を低く鳴らしてから、ちらっとボクを見た。

前脚で鐘を持ち上げて、梁に押しつける。

「ノア、これ、どうやって掛けるのだ。ええと、むしるのは簡単だったけど、戻すのは知らないのだぞ」


梁の金具の輪は、片方が千切れて曲がっていた。

でも、鐘の頭の吊り手は無事だ。

鐘楼の床に、太い鉄の閂が転がっている。

閂を通せば、残った金具に掛け直せそうだ。


屋根から鐘楼の中へ跳び降りて、閂を拾い上げた。

水を張った桶より、まだ重い。

梁の下に立って、残った金具と吊り手を見比べる。

「ボクがやる。ヤスミ、そのまま鐘を持ち上げてて。もうちょっと右。穴が金具に重なったら止めて」


鐘が、少しずつ右へずれていく。

吊り手の穴が、梁の金具に重なった。

「ここか? 止めたぞ。早く通せ、ノア」


閂を、吊り手の穴から梁の金具へ押しこんだ。

鉄が鉄をこすって、奥まで通る。

ヤスミが、そっと前脚を離した。


鐘が梁から下がって大きく揺れ、中の舌が縁を打った。

ごぉん、と、長く尾を引く音が、高台じゅうに広がっていく。

胸の骨の奥まで、しんと響いた。


下の広場が一瞬静まり返って、それから、どっと声が上がった。

「鳴った!」

「鐘が戻ったぞ!」

水場の女の人たちが手を叩いて、子どもが跳ねている。

広場の端で、腰の曲がったおじいさんが空を指さし、震える声を上げた。

「鐘が鳴って……天使さまが降りてきなすった……言い伝えのとおりだ」

まわりの何人かが、それを繰り返す。

「天使さまだ」

「白い翼の……」

怒鳴っていた声は、いつのまにか消えていた。


ヤスミが屋根の縁から首を伸ばして、下の広場をのぞきこんだ。

尾の先が、ぱたぱた揺れている。

それから、鐘楼の中のボクへ顔を寄せてきた。

「ノア、ノア! 怒鳴られなかったぞ! 返したのに、叱られないのだ!

ええと、それに、あいつら天使さまって言ってる。天使って何だ? おまえのことか?」


天使さま、か。

そう呼ばれても、困る。

言えないし、言わない。

鐘楼の下の石段を、誰かが上がってくる足音がした。

聖堂の人かもしれない。


鐘楼の縁の、ヤスミの顔の横へ跳び上がって、翼を広げた。

「うん、叱られなかったね。キミが自分で返したからだよ。天使は、この町の昔話。ボクはノア、それだけ。

……誰か来る、行こう。石切り場で仲間が待ってるんだ。今度はボクが勝つからね」


ヤスミが、鐘をひと目だけ振り返った。

鐘楼の縁を蹴って、ボクの横へ浮き上がる。

「昔話? ふうん。……今度もあたしが勝つのであるもん! 石切り場ってどっちだ、先に言え、ノア!」



下町の屋根の上を低く越えて、町外れの斜面を削った古い石切り場へ下りた。

三方を高い石壁に囲まれていて、人の声は届かない。

焦げ跡だらけの石壁の前に、ヤスミが先に四本の脚をついた。

翼一つぶん遅れて、ボクが降りる。


負けた。

空で教えてもらったんだから、文句は言えない。


それから一刻近く経っても、台地から歩いて戻る仲間は来なかった。

日が西へ傾いて、石壁の影が地面に長く伸びていく。

腕の痺れは、ようやく指の先から抜けてきた。

ヤスミは日向の地面に腹をつけ、尾を丸めて、鼻先をボクのほうへ向けていた。

「あたしの勝ちだったぞ、翼一つぶん。……なあノア、おまえの仲間、遅いのだな。あたし、腹が減ってきた。

ええと、それでな、窪みに戻っても鐘はもう無いし、

こんどは海の向こうに光るもの探しに行こうかと思ってて、錆びない金具とか、鳴るやつとか、あ、

おまえの外套の内の黒い短剣、さっきちらっと見えたぞ、あれどこで拾ったのだ?」


止まらない。

ゆうべと同じだ。

短剣のことは、あいつにもらった、とは言いにくい。

でも、渡すのは、やだ。

それに、あとで見せるって約束もした。


ヤスミの鼻先の前に腰を下ろして、外套の内から黒鉄の短剣を鞘ごと出し、膝に置いた。

抜いて、焦げ跡の無い石壁の端へ切っ先を向ける。

「翼一つぶんね。次は取り返す。……この短剣は、大事な人にもらったんだ。だからあげられない。

でも、さっきの約束。岩場のは広げて出したやつ。絞ると、こうなるの。見てて」


切っ先から、親指より太いくらいの白い筋が走って、石壁の端に当たった。

乾いた音がして、壁に拳ほどの穴があき、まわりに細いひびが走る。


ヤスミが跳ね起きた。

石壁の穴に鼻先を突っこんで匂いを嗅いでから、目を丸くして振り返る。

「すごい、穴があいたぞ! 岩場のはばあっと広かったのに、こんどは細いのだな!

……今の光、空で翼の先っぽから出してたのと同じ色であるな。おまえの中から出てるのだろ?

白い灯りなんて、年寄りの話にも出てこなかったぞ。……ええと、短剣はいらない。

大事な人のなら、取らない」


見抜かれた。

ボクの中から出てる。

そのとおりだ。

どうして白い灯りなのか、ボクだって知らない。

母さんは、あとで話すって言ったきりだ。

取らないって、言ってくれた。

うれしい。


短剣を鞘に納めて、外套の内へ戻した。

右の手のひらを上に向けて、豆粒ほどの白い灯りを一つ灯し、ヤスミの目の前に出してみせる。

「うん、ボクの中から出てる。なんで白い灯りなのかは、ボクもまだ知らない。

……取らないでくれて、ありがとう」


石切り場の入口の崩れた石の向こうから、足音が四つ近づいてきた。

ブラン、ラウロ、ガレナ、イルウェン。

四人とも、外套が砂まみれだ。

歩いて戻ってきたんだ。

待たせちゃった。


ガレナが先頭で石を跳び越えて、そこで足を止め、ヤスミを見上げた。

背のコッコの包みに一度手をかけて、離す。

大股で入ってきて、ヤスミの頭から三歩くらいのところまで寄った。

「でけえ! ……なあノア、鐘はどうしたんだよ。で、なんでこいつがここで寝てんだよ」


手のひらの灯りを握って消して、立ち上がった。

鐘を掛け直したことも、町じゅうに天使さまと呼ばれたことも、帰り道の競争のことも、短く話す。

それから、ヤスミのほうへ手を向けた。

「ヤスミ、ボクの仲間。ガレナ、ラウロ、イルウェン、ブラン」


ヤスミが首を持ち上げて、四人をじろりと見下ろした。

喉の奥で、低い音が鳴る。

ガレナにだけ鼻先を少し寄せて匂いを嗅いでから、ボクに顔を戻した。

「ノア、こいつらきのうの岩場のやつらであろう。……あたしの寝床に槍を投げたやつらとは、違うのだな?」


警戒してる。

当たり前だ。

でも、みんなは一度も手を出してない。

それは、ちゃんと言える。


ヤスミと四人のあいだに立って、ヤスミの顔を見上げた。

「違うよ。きのうも今日も、みんなキミには何も投げてない。転がった人を引っぱり出してただけ。

ボクがいちばん信じてる人たちだよ」


ラウロが崩れた石を越えて、ガレナの半歩後ろで止まった。

背の剣の柄には手をかけず、両手を外套の外に出したまま、ヤスミを見上げる。

一度ボクの顔を見て、目を逸らした。

「……ったく、遅れて来たら全部済んでんじゃねえか。俺はラウロだ。槍は投げてねえし、投げる気もねえよ。

鐘、返してくれて助かった」


石切り場の入口の向こうから、人の騒ぐ声が風に乗って届いた。

「天使さまはどっちへ飛んだ」

「町外れのほうだ」

声が、近づいてくる。


ブランはヤスミの顔を一度見上げて、軽く顎を引いた。

それから入口のほうへ耳を向けて、坂の声を聞く。

「ブランだ。鐘の礼は言っとく。……町の連中が上がってくる。竜の嬢ちゃんは、今のうちに空へ戻ってくれ」


ヤスミは、ラウロにもブランにも返事をしなかった。

鼻から短く息を吐いてそっぽを向き、立ち上がって翼を広げると、ボクに鼻先を一度だけ寄せる。

「ノア、あたし行く。こんどはおまえがあたしの岩棚に来い。競争、取り返したいのであろう。

待っててやるもん!」


地面を蹴って、ヤスミが浮き上がった。

石壁の上で翼をひと振りして、東の台地のほうへ長く滑っていく。

青銅色の背中は、すぐに小さくなった。



石切り場の裏の崖を伝って下りて、灌木の斜面に出た。

坂の騒ぎ声は、石切り場の入口のほうへ上がっていく。

ブランは灌木の陰にしゃがんで、下町の屋根と坂の人の流れを、しばらく眺めていた。

「いいか、宿にはもう戻らねえ。暗くなったら、ラウロ、お前一人で荷を取ってこい」

残りの四人は、犬を探した晩の台地の縁で待つことになった。


宿を、出るんだ。

岩場で、番頭が手配のやつだって叫んだ。

犬探しの組が下町の端に寝てることくらい、すぐ知れる。

おばあさんの顔が浮かんで、外套の内で手を握った。



日が落ちて、高台の上で晩の鐘が鳴った。

長く尾を引く音が、下町じゅうに降りてくる。


ラウロは一人で、下町へ下りた。

坂でも路地でも、人が戸口に出て鐘楼を見上げ、話している。

「天の使いさまが鐘を返してくださった」

「白い翼のな」

酒場の前では、台地から戻った衛兵が、白い翼が竜の火の前に飛びこんで光で押し返したと大声で話して、

酒をおごられていた。

頭巾の男を気にする者は、一人もいない。


看板の無い宿の戸口をくぐると、腰の曲がったおばあさんが帳場の脇で待っていた。

そばに、胸に聖堂の灯の印を付けた白い上衣の若い男が立っている。

ゆうべ詰所に、ブランを迎えに来た使いだ。

使いが頭を下げた。

「犬探しの組のお仲間ですね。司祭さまからの言伝です。

明日の朝の鐘のあと、五人そろって聖堂へお越しください。

鐘を戻してくださったお礼を、町の皆さんの前で申し上げたい、と。門は、この札で通れます」

差し出されたのは、焼き印のある木の札だった。


町の前で、礼だと。

ゆうべは手配書をちらつかせて脅したくせに。

五人並べて、ノアの顔を確かめる気だろう。

けど、ここで札を突っ返したら、組がもう町を出ると言っているようなものだ。

決めるのは、俺じゃない。


ラウロは札を片手で受け取り、裏表を一度見てから外套の内にしまった。

「札は預かる。行くかどうかは頭が決める」

それからおばあさんに向き直って、腰の袋から銅貨を数枚出し、帳場の上に置いた。

「ばあさん、荷、見ててくれてありがとな。これ、床代と礼だ。たぶん今夜で出る」



台地の縁の、犬を探した晩に焚き火をした岩陰で、火は焚かずに待った。

見下ろすと、下町の坂にいつもより多くの灯りが揺れていて、ときどき笑い声や歌が風に乗って上がってくる。


五人ぶんの荷を背負って、ラウロが坂を上がってきた。

ブランに木の札を渡して、聖堂の使いの言伝と、町じゅうが天の使いさまと騒いでいることを話す。


ブランは札を指で裏返して焼き印を見てから、ボクのほうへ放った。

両手で受け取る。

ブランは岩に背を預けて、腰の革袋の栓を抜き、一口だけ飲んだ。

「あの司祭は、白い翼を聖堂の飾りにして、町の連中と商家に見せびらかしてえのさ。

行けば天使さま、断れば手配書だ。……ノア、お前の名の話だ。先にお前が選べ」


手の中の札を見た。

焼き印は、聖堂の灯の印。

天使さまって呼ばれて、聖堂の前に立たされる。

聖堂は、印持ちを牢に入れる側だ。

ドラージョの広場で斬られていた人たちが浮かんだ。

あそこの飾りになったら、逃がした人たちに顔向けできない。

それに、天使さまですって顔をするのは、嘘だ。

断れば、手配。

それでも、そっちを選ぶ。


札を、ブランの前の岩の上に置いた。

「ボクは行かない。聖堂の天使さまになったら、印のある人たちの側に立てなくなるもん。

でも、この町はまだ出たくない。縦穴に入ってった荷車、まだ確かめてないから。

……みんなを巻きこむ話だね、ごめん」


ガレナが、背のコッコの包みを膝の前に下ろして、柄の布を握った。

すぐに答える。

「行かねえ。あたしも残る。手配書が回って誰か来たら、前に立つのはあたしだ。

……あと、ごめんとか言うな。あたしが選んでんだよ」


ラウロは背の荷を岩陰に下ろして、岩の上の札を一度だけ見た。

「俺も残る。宿は今夜で出ちまったからな、明日からの寝床は俺が探してくる」


イルウェンは、ボクの隣の岩にもたれていた。

片目だけ開けて札を見ると、ボクの肩に頭を預けてくる。

「うん。……縦穴、暗いでしょ。……明かりは、わたしー」


ブランが岩の上の札を拾って懐にしまい、革袋の栓を閉めた。

四人を順に、一度だけ見る。

「俺も行かねえ。鐘はやれるだけやったからな、約束は済んだ。……明日の朝の鐘が鳴ったら、手配書が回る。

その前に縦穴を見に行く。寝とけ」

最初の見張りは、ブランが取った。


膝を抱えた。

肩の上で、イルウェンの寝息が聞こえはじめる。

下町の灯りは、夜が更けても消えなかった。



夜明け前には、見張りを順に回し終えて、荷もまとめてあった。

東の空が白みはじめたころ、台地へ上る道の下のほうから、灯りがいくつも揺れながら上がってきた。


先頭で道を照らしているのは、灰鷹の詰所の帳場の男の人だった。

すぐ後ろに、白い長衣の、背の高い痩せた男の人。

胸に灯の印の刺繍がある。

司祭だ。

その横で、分厚い帳面を胸に抱えた撫で肩の小太りの男の人が、息を切らしてついてくる。

指が、インクで黒い。

後ろには、きのう岩場で火から逃れた若い男の人と、緑の上着の衛兵が三人。

パンの籠や水の壺を抱えた下町の人たちが、ぞろぞろと続いていた。


帳場の男の人が、岩陰のボクたちを見つけて手を振った。

「いた! 司祭さま、こっちです。犬探しの組なら、台地で夜を明かしてるって言ったでしょう」


司祭は五人の前で足を止め、両手のひらを上へ向けて開いて、ゆっくり頭を下げた。

それから振り向いて、町の人たちへ、よく通る声で語りかける。

「皆さん、ご覧なさい。昔、鐘が鳴って天使さまが降り、悪魔を穴へ押し戻したと伝わっています。

きのう、その鐘がまた鳴りました」

ブランのほうへ向き直った。

「ブラン殿、約束どおり鐘を戻してくださった。聖堂は恩を忘れません。

どうか、皆さんの持ってきたパンを受け取って、聖堂へお越しください」

話し終えると、司祭は横の小太りの男の人の腕に、片手を軽く置いた。

小太りの男の人は口を開きかけて、閉じた。


町の人たちのあいだから、パンの籠を抱えた小さな女の子が、ちょこちょこと前へ出てきた。

火から逃れた若い男の人が、その背中を押している。

女の子はボクの前で止まって、籠を差し出した。

「てんしさま、鐘、ありがとう」

町の人たちが、息をのんでボクを見ていた。


この子は、何も知らないで、ありがとうを言いに来ただけだ。

突き返すのは、やだ。

でも、天使さまって顔もしない。

鐘を返したのはヤスミだ。

それは、ちゃんと言っとく。


頭巾をかぶったまましゃがんで、女の子と目の高さを合わせ、籠を両手で受け取った。

焼きたてのパンの匂いがする。

「ありがとう。……でもね、ボク、天使さまじゃないよ。ノアっていうんだ。

鐘を返したのは、ヤスミっていう竜。自分で返すって決めたんだよ。今度空で見かけたら、手、振ってあげて」


町の人たちが、ささやき合う。

ノア。

ノアさま。


司祭は笑って何度か頷くと、両手のひらを上へ開いて、町の人たちへ向き直った。

「皆さん、お聞きになりましたか。天の使いは、自分を誇らないものです。聖典にもそうあります。

竜さえも、鐘の響きに従ったのでしょう」

それからブランのそばへ一歩寄って、声を落として何か話しかけた。

ボクには聞こえない。

ブランの耳だけが、ぴくりと動いた。


その横で、小太りの男の人が帳面を膝の上に広げ、インクで黒い指で筆を走らせた。

「一つ、居合わせた娘、名はノア、本人いわく天使にあらず」

早口で読み上げて書き終えると、こっちへ身を乗り出してくる。

目が、輝いていた。

「……ノア殿、でございましょう。その竜、ヤスミ殿は、ねえ、どこから来て、どこへ行かはりましたんや?」

町の人の誰かが、「灯改めさまだ」とささやいた。


灯改め。

印持ちを改めて、聖都へ送る人だ。

ヤスミの行き先を書かれたら、今度は槍と縄が、ヤスミのねぐらまで行く。


ボクが口を開く前に、ブランが動いた。

司祭に低く短く何か返してから、ボクと小太りの男の人のあいだに半歩入って、膝の帳面を見下ろす。

「竜の行き先なら、空に聞いてくんな。こっちは犬探しの組でね、竜の宿までは知らねえよ」


司祭は、笑ったまま何も言わなかった。

小太りの男の人の膝の帳面に、そっと手を置いて閉じさせる。

「調べはあとで結構です」

それから町の人たちへ向き直って、両手のひらを上へ開いた。

「皆さん、お持ちのパンは、この方々の旅の糧にお渡しなさい。

聖堂の戸は、ノア殿にもブラン殿にも、いつでも開いています」


町の人たちが一人ずつ前に出てきて、パンや干した果物や水の壺を、ボクたちの足もとの岩に置いていく。

「ありがとうよ」

「ノアさま」

火から逃れた若い男の人は、何も言わずに頭を下げた。

司祭が先に立って坂を下りはじめ、町の人たちがそれに続く。

帳面を抱えた灯改めは、最後まで何度も振り返りながら下りていった。


高台の上で、朝の鐘が鳴った。

長く尾を引く音が、台地の縁まで上がってくる。

抱えた籠が、まだ温かい。

東を見ると、縦穴のある台地の奥が、朝の光の中に黒く沈んでいた。

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