鐘どろぼう
二月の一日。
朝の鐘が鳴り終わったところで、五人で看板の無い宿を出た。
灰色の鷹の詰所へ上がる石段は、霜で縁が白い。
頭巾は、いつものとおり目深にかぶっている。
宿の床を借りると言ったピエトロは、粉屋の犬を呼んだあの日から、一度も来ていない。
詰所にも顔を見せない。
十日。
床は、空けたままだ。
石段に、大きな影が落ちた。
家一軒ぶんの幅で、するすると滑っていく。
見上げた。
高台のてっぺん、鐘楼の少し上を、何かが輪を描いて舞っている。
脚が四本。
それとは別に、背中から大きな翼が二枚。
翼を打つたびに、低い風の音が下町まで降りてくる。
朝日を受けた鱗が、青銅みたいな色に光った。
石段の上のほうで、水桶を抱えた女の人が叫んだ。
「竜だ! 竜が出たよ!」
桶が転がって、水が石段を流れ落ちる。
戸口から人が飛び出してきて、子どもを抱えて家へ駆けこむ人と、指さして立ちつくす人で、石段が詰まった。
砦の壁の上では、緑の上着の衛兵が槍を振り回して何か怒鳴っている。
竜。
ほんとにいるんだ。
かっこいい。
……じゃない。
肩を、後ろからつかまれた。
ブランだった。
目は空の影に向けたまま、顎で石段の脇の軒下を示す。
「いいか。軒下に寄れ。……ノア」
軒下に寄りながら、頭巾の縁を押さえた。
影は鐘楼のまわりをもう一度大きく回ると、翼を一つ打って、東のほうへ流れていく。
台地の上の空で、小さくなった。
「……ブラン、あいつ東の台地のほうへ行った。荷車が行くとこだよ」
詰所の土間は、朝食の湯気より話し声のほうが多かった。
「ローザで竜なんか、じいさんのじいさんだって見たことねえぞ」
「竜を討った者は王さまに取り立てられるって、昔話にあったろ」
「砦街の衛兵が槍を研ぎだしたってよ。聖堂の灯改めまで、手柄だって駆け回ってる」
戸口の布がめくれて、緑の上着の衛兵が一人入ってきた。
帳場の男の人に紙を一枚渡して、すぐに出ていく。
帳場の男の人はそれを壁の板に貼って、土間じゅうに聞こえる声で読み上げた。
「竜を町の上から追い払った者に、砦街の商家衆と聖堂から銀貨十枚! 討った者には別に礼をするとさ。
……追い払う、だぞ。命の要らねえ奴だけ名を書け」
土間がどっと沸いて、すぐに静かになった。
帳場へ出ていく人は、一人もいない。
卓の端で汁をすすっていた年かさの荷役が、ブランの頭巾から覗く垂れた耳を見上げた。
「獣人の旦那、あんた南の、海の向こうの出だろ。あっちにゃ、ああいうのがいるのかい」
ブランは卓の端に肘をついて、壁の紙を横目で一度だけ見た。
すぐに目を逸らす。
「ほう、海の向こうにか。……いねえよ。いたら俺はこんな所で汁なんかすすってられねえ」
顎で紙をしゃくった。
「銀貨十枚で竜の相手か。安く見られたもんだぜ、竜も俺らもな」
ガレナが、頭巾の陰から紙を食い入るように見上げていた。
背のコッコの包みを、片手で握っている。
ブランの横へ寄って、声を落としきれずに言った。
「なあ、安いとか高いとかじゃねえだろ。あれ東の台地に行ったんだぞ。
……名前、あたしのだけなら書いても組は出ねえじゃねえか」
名前を書けば、帳場に残る。
手柄で駆け回ってる灯改めが、それを見る。
ガレナの外套の袖を、指でつまんで引いた。
「ガレナ、書いちゃだめ。灯改めが手柄のために駆け回ってるんだよ。名前、あいつらに見られる。
……でも台地は見に行きたい。竜じゃなくて、荷車の人たちのほう。ブラン、どうする」
紙の前に誰も出てこないので、帳場の男の人が舌打ちをした。
帳場から首を伸ばして、ボクたちの頭巾を見つけ、手招きする。
「おい、犬探しの。あんたら、東の台地は犬で何べんも歩いてるだろ。
竜の居場所を見てくるだけでも、日当に銀貨一枚出すってよ。台地の道に詳しい組が、ほかにいねえんだ」
ブランがガレナの肩を軽く叩いて下がらせ、帳場の前へ出た。
張り紙のほうの帳面には、手を触れない。
「見てくるだけだな。それなら受けますよ。追い払う方は受けねえ」
自分の名だけを短く告げて、振り返る。
「いいか。行くのは見るだけだ。竜には近寄らねえ」
ガレナは口を尖らせて、それでも包みから手を離した。
支度をして、昼の少し前に東の門の内側の坂まで下りてきた。
水車の音のする粉屋の前で、ブランが干し肉を買い足している。
風が、急に冷たくなった。
見上げると、影が東の空から戻ってくる。
今度は輪を描かない。
まっすぐ、高台のてっぺんへ下りていく。
翼を広げたまま、四本の脚で鐘楼の上にとりついた。
石の欠ける音。
金物が擦れる音。
鐘が一度、乱れて鳴った。
ごぉん、と長く尾を引くはずの音が、途中で千切れる。
竜は前脚に鐘を抱えこんで、鐘楼から身を離した。
翼を二度打つと、鐘を抱えたままボクたちの頭の上を低く越えていく。
粉屋の軒の布が、千切れそうにはためいた。
抱えられた鐘が、日を受けて鈍く光る。
竜は東の台地のほうへ飛び去って、すぐに見えなくなった。
高台のてっぺんの鐘楼には、もう何も下がっていなかった。
坂じゅうの人が、黙ってそれを見上げている。
粉屋のおじさんが、粉だらけの手で口を押さえた。
鐘を、持っていった。
宿のおばあさんが、自慢してた鐘だ。
あれが鳴って天使さまが降りてきて、悪魔を東の穴へ押し戻したって。
なんで、鐘なんだろう。
干し肉を受け取るブランの横へ寄った。
「鐘、持ってった。東だよ。……竜って、古い物を巣に集めるんだよね。あいつの巣、台地のどこかにある」
その日は、昼の鐘が鳴らなかった。
東の門をくぐろうとしたところへ、詰所の帳場の男の人が、息を切らして坂を駆け下りてきた。
「待て、犬探しの! 聖堂が礼を上げた。鐘を取り返した者に銀貨三十枚だとよ。
見てくるだけでもいい、ついでに取り返せるもんなら取り返してくれ。
町じゅう、鐘楼ばっかり見上げてて仕事にならねえ」
言うだけ言って、坂を戻っていく。
振り返ると、坂の上の人たちが、空っぽの鐘楼を見上げていた。
犬探しで歩いた道を、半日かけて台地の上まで上った。
日が西に傾くころ、台地の縁の岩場に出る。
風が強くて、乾いた土の匂いがした。
大きな平たい岩の上に、竜が寝そべっていた。
五十歩くらい先。
青銅色の鱗が、夕日で赤っぽく光っている。
前脚のあいだに鐘を抱えこんで、鼻先で転がしていた。
転がるたびに、鐘の縁が岩に当たって、こん、こん、と鳴る。
体は、荷馬車を三台つないだより大きい。
竜がこっちに気づいた。
鐘を胸の下へ抱えこむ。
首を低く伸ばしてボクたちのほうへ向け、翼を半分広げた。
体が、ひと回り大きく見える。
喉の奥で鳴る低い音が、足の裏の岩まで震わせた。
それから、吠えた。
岩場じゅうに声が跳ね返って、耳の奥がじんと痛む。
足もとの小石が、からからと転がった。
ガレナがボクの前へ半歩出て、コッコの包みの柄を握った。
布はほどかない。
腰を落として、竜から目を離さずに声だけ投げる。
「でけえ……! ブラン、あいつ鐘を守ってる。こっちが取りに来たと思ってんぞ。
……来たら、あたしが前だからな」
ブランがその外套の背を、後ろからつかんで引き戻した。
両手を体の横に下ろして、何も灯していない手のひらを竜に見せる。
「いいか。誰も前に出るな。灯すな、得物も抜くな。
……鐘はあいつのもんじゃねえが、今はあいつの腹の下だ。退くぞ。背中は見せるな、ゆっくりだ」
一歩ずつ、下がりはじめた。
後ろの坂から、大勢の足音と怒鳴り声が上がってきた。
緑の上着の衛兵が五人、槍を担いで駆けてくる。
そのあとに、鍬や鉈を持った下町の男の人が三人。
みんな息を切らして、目が血走っていた。
先頭の衛兵が、ボクの肩を突き飛ばすようにして追い越していく。
「どけ、どけ! 竜は俺たちが討つ! 王さまに取り立ててもらうのは俺たちだ!」
衛兵たちは岩場に散らばって、竜へ槍を構えた。
一人が、助走をつけて槍を投げる。
槍は竜の肩に当たって、かん、と弾かれた。
竜が、鐘を片方の前脚で抱えたまま立ち上がった。
太い尾が、横に大きく振られる。
槍の穂先がまとめて薙ぎ払われて、衛兵が三人、枯れ草の束みたいに転がった。
翼が強く打たれる。
砂と小石が巻き上がって、顔に叩きつけた。
竜がまた吠える。
さっきより大きい。
でも、牙は見せていない。
転がった衛兵の一人が、槍を放り出して岩の上を這っている。
鍬を持っていた若い男の人は、尾の風に足をすくわれて、岩場の縁まで転がった。
崖の縁の岩に、片腕でしがみつく。
その下は、見えないくらい深い。
竜の尾が、もう一度持ち上がった。
倒れた衛兵たちの真上だ。
ブランが頭巾を押さえて、身を低くして崖の縁へ走った。
走りながら、短く言う。
「竜には手を出すな。ラウロ、ガレナ、転がってる衛兵を後ろへ引きずれ。尾の下からどかすだけだ。
イルウェン、ノア、後ろで這ってる奴を拾え。跳ぶなよ」
崖の縁で膝をついて、若い男の人の手首を両手でつかむ。
「手え離すな、こっちの腕をつかめ」
ラウロが剣を抜かずに走った。
尾の真下でいちばん手前に倒れている衛兵の襟をつかんで、岩の上を後ろへ引きずる。
「槍なんか捨てろ、足動かせ! 下がるぞ!」
ガレナはその奥へ駆けこんで、二人の襟を両手で一人ずつつかんだ。
竜に背を向けずに、横向きのまま力まかせに引きずる。
「暴れんな、引きずるだけだ!」
尾は倒れた人たちの上。
跳ばない。
走ればいい。
二十歩なんて、すぐだ。
這ってくる衛兵のところへ走って、脇の下に腕を入れて担ぎ起こした。
反対側の襟を、イルウェンが片手でつかむ。
走ってはいない。
二、三歩だけ前に出て、のんびり後ろへ下がりながら引きずっていく。
「……ほら、こっち。……立てるなら、立ってー」
「立って。こっち、下がるよ。竜を見ないで、足だけ動かして」
持ち上がっていた尾が、動いた。
落ちてこない。
横へずれて、ラウロとガレナに当たらないところへ、ゆっくり下りてくる。
岩が、ずん、と鳴った。
竜は鐘を抱えたまま、首だけを岩場の端へ伸ばした。
まだ槍を構えている衛兵が二人。
そっちへ喉を低く鳴らして、睨んでいる。
ボクたちのほうは、片目でちらりと見ただけだった。
二人の衛兵が顔を見合わせて、槍を下ろした。
引きずり出された仲間を肩に担いで、崖から引き上げられた男の人を押しやって、
坂を転がるように逃げていく。
お礼は、一つも言わなかった。
岩場には、ボクたち五人と、竜だけが残った。
日はもう、台地の西の端にかかっている。
竜は鐘を前脚の下へ抱えこんで、腹ばいになった。
首だけを持ち上げて、こっちをじっと見ている。
喉が一度、短く鳴った。
それきり吠えない。
尾の先だけが、落ち着かなく岩を叩いている。
あいつ、ラウロとガレナを避けて尾を下ろした。
わざとだ。
怒ってるんじゃない。
鐘を取られたくないだけなんだ。
ブランの横へ寄って、小声で言った。
「ブラン、あいつ、ラウロとガレナに尾を当てなかった。避けたんだよ。鐘、取られたくないだけだと思う。
……今夜はここで見てたい。巣がどこか、なんで鐘なのか分かるまで」
ブランは答えずに、竜を見ていた。
竜が、腹ばいのまま鼻先で鐘を少し転がした。
ごぉん、と鐘が鳴る。
町で聞いていたのと同じ、長く尾を引く音が、暮れかけた岩場に広がっていく。
竜は耳を立てて、音が消えるまで聞いていた。
それから横目で、ボクたちのほうをうかがう。
音が消えたころ、台地の下の坂で角笛が鳴った。
振り返ると、坂の下のほうに松明の火が十も二十も並んで、こっちへ上がってくる。
犬の吠える声も混じっていた。
さっきの衛兵たちが、人を集めて戻ってきたんだ。
竜が跳ね起きた。
鐘を両の前脚で胸に抱えこんで、坂の松明へ向かって一度、大きく吠える。
翼が広がって、強く打たれた。
砂が渦を巻いて、頭巾を打つ。
岩の縁まで後ずさって、竜は飛び立つ前に一度だけ、ボクたちのほうを振り返った。
次の打ち羽で、大きな体が岩から浮いた。
鐘を抱えたまま、夕焼けの残る空へ。
台地の奥の、東のほうへ遠ざかっていく。
松明の列は、まだ坂の中ほどだ。
台地の上のこの岩場は、坂の下からも町からも見えない。
あいつ、鐘の音を聞いてた。
最後に、ボクらを見た。
行っちゃう。
今なら、誰にも見られない。
翼はちゃんと畳めるし、ちゃんと開く。
追えるのは、ボクだけだ。
でも、先に跳ばないって決めた。
言って、それから行く。
外套の前の紐をゆるめて、ブランの顔を見た。
「ブラン、行かせて。見るだけ。巣を見たら、すぐ戻る。坂の松明が上がってくる前に跳ぶから、今決めて」
ブランは坂の松明を一度振り返って、数を目で数えた。
それから、ボクに向き直る。
東の空と、犬探しで夜を明かした台地の縁の方角を、順に指さした。
「いいか。高くは上がるな、空に白いのが見えたら下の連中に名乗るのと同じだ。月が出るまでにはもどれ。
俺らは松明をよけて、犬で夜明かしした台地の縁で待つ。……月が出て戻らなきゃ、俺が探しに行く。行け」
「うん。月が出るまでに戻る」
外套の前を開けた。
背中で、白い翼が広がる。
岩の縁を蹴った。
台地の岩肌すれすれを、低く飛ぶ。
冷たい風が、顔を打った。
速い。
いくら羽ばたいても、竜の背は近づかない。
あっちの翼は、一打ちごとに長く滑る。
間が、少しずつ開いていく。
高く上がれば、風に乗れるかもしれない。
でも、白いのが空に見えたら、名乗るのと同じだ。
追いつけないなら、見失わないほうを取る。
いちばん高い岩の突き出しへ降りて、翼を半分畳んで身を低くした。
遠ざかる影が、どの岩の切れ目の上へ向かうのか、沈みかけた日の位置と並べて覚える。
影が、下がりはじめた。
そこを目指して、また岩肌すれすれを飛ぶ。
竜が降りた先の向こうに、地面にぽっかり空いた大きな黒い穴があった。
底は見えない。
その穴へ向かって、細い道を荷車が三台、灯りも持たずに這っていく。
側板に貼られた紙が、一瞬見えた。
上を向けて開いた手のひらから、芽が伸びる印。
刷り札だ。
荷台には、人が乗っている。
夜ごと台地へ行く荷車は、ここへ来てたんだ。
この穴。
おばあさんの話の、悪魔を押し戻した東の穴だろうか。
荷台に、青い布の戸の、あの母親も乗ってたかもしれない。
下りて、止めたい。
でも、巣を見たら戻るって約束した。
見たことを全部覚えて、持って帰る。
竜は穴の手前、道から離れた岩の窪みに降りていた。
鐘を奥に置いて前脚で囲い、首だけを縁から出して、荷車を見下ろしている。
窪みから離れた側の岩陰へ、音を立てずに降りた。
翼を畳んで外套の下に戻し、伏せる。
荷車の数。
縦穴への道筋。
竜の窪み。
一つずつ、目で確かめた。
竜の首が、ぐいとこっちへ伸びてきた。
鼻が鳴る。
匂いを嗅いでいる。
吠えない。
金色の目がまんまるになって、ボクの背中を見つめていた。
少しためらってから、竜の口から人の言葉が出てきた。
低い、女の子みたいな声だった。
「おまえ……飛べるのか。人間のくせに、翼があるのであるか。あたしについてきたのだな?
鐘は、やらないのだぞ」
しゃべった。
竜って話すのもいるって聞いたけど、ほんとだったんだ。
気づかれたなら、隠れても仕方ない。
嘘はつかない。
身を起こして、岩陰で膝をついた。
両手を体の横に下ろして、何も持っていない手のひらを見せる。
「うん、ついてきた。飛べるよ。人間かは、ボクもよく分かんない。鐘は取らない。今日は見に来ただけ。
……キミ、なんで鐘を持ってきたの?」
竜の前脚が、少しゆるんだ。
首が下りてきて、大きな顔がすぐそばまで来る。
焼けた石みたいな匂いがした。
鼻先で鐘を軽くつついて、鳴らす。
長く尾を引く音が、暮れた台地に残った。
尾の先が、岩の上で左右に揺れている。
「だってな、だってな、この鐘、ほかのと音がちがうのだぞ! ほら、まだ鳴ってる。長いだろう?
町の塔にいくつもぶら下がってたけど、これだけ、ずうっと残るのであるもん。
あたし、光る古い物を集めてるのだ。錆びない金具とか、遺跡のかけらとか。
ねぐらにいっぱいある……あった。あの岩のとこ、もう人間が来るから戻れないけど。
巣にいたらな、年寄りのやつらがこういうの、ぜんぶ自分たちで抱えこむのだ。
あたしは鏡を割っちゃって、ええと、ええと、それで……出てきた。だから、これはあたしのなのだ。
……おまえ、名前はなんていうのだ? その翼、どこで生えたのだ?」
止まらない。
さっきまで吠えるだけだったのに。
巣から、一人で出てきたんだ。
鏡を割って、居られなくなって。
ボクも、町から出てきた。
きれいな音だから欲しいのは、分かる。
でも、坂の人たちはみんな黙って、空っぽの鐘楼を見上げてた。
鐘の音が消えるまで、黙って聞いた。
それから、頭巾の縁を少しだけ上げて、目を見せる。
「ノア。翼は、生えたんじゃない。母さんのを背中に繋いだら、外れなくなったの。……うん、いい音だね。
町でも毎日聞いてた。だから町の人、困ってるよ。朝と昼と晩にそれが鳴るの、ずっと自慢にしてたんだって。
キミは? 名前」
竜が、鐘をまた前脚の内側へ引き寄せた。
首を少し引っこめて、目をそらす。
尾の先で岩を叩いてから、小さな声で言った。
「ヤスミ。……あたしの名前、ヤスミなのだ。ええと、ええと、町のやつらのことは知らなかったのだぞ。
だって、塔のてっぺんにほったらかしで、だれも抱えてなかったもん。……返せって言いに来たのであるか?
見に来ただけって言ったのだぞ、ノア」
東の空に、月の縁が上がりはじめていた。
戻るって、約束した。
月が出たら、ブランが探しに来る。
見に来ただけって言ったのは、ほんとだ。
だから今日は、返してとは言わない。
町の人が困ってるのも、ほんとだ。
それは、もう言った。
立ち上がって、頭巾を深くかぶり直した。
「うん、言ってない。今日は見に来ただけ。約束は守る。
……ヤスミ、月が出たらボク、仲間のとこに戻るって決めてるの。また来ていい?
それと、さっきの松明の人たち、まだキミを探してる。槍を持ってる。気をつけて」
ヤスミは首を持ち上げて、外套の下の翼のあたりをじっと見た。
尾の先が、一度だけ大きく揺れる。
鐘を抱え直して、目をそらし気味にしながら、早口で言った。
「く、来てもいいのだぞ。べつに、来なくてもいいけど……来るなら、来ればいいのであるもん。
槍なんか痛くないのだ、さっきも、かんって弾いたのだぞ。
……ノア、こんど来たら、その翼で飛ぶとこ見せるのだぞ。あたしのほうが速いけどな。ぜったい速いけどな」
速いのは知ってる。
さっき、ぜんぜん追いつけなかった。
悔しいけど、ほんとのことだ。
笑ったら、目が細くなった。
「知ってる。さっき追いつけなかったもん。こんどは、もうちょっと粘るから。またね、ヤスミ」
翼を開いて、岩を蹴った。
高くは上がらない。
岩肌すれすれを、西へ。
一度だけ振り返ると、窪みの縁から、青銅色の首がまだこっちを見ていた。
台地の縁の手前で降りて、翼を外套の下に畳んだ。
頭巾を押さえて歩いていくと、岩の陰で四人が待っていた。
「ただいま。巣、見つけた。竜と話してきたよ!それと、荷車の行き先も見た」
松明の列をよけて台地の縁を回り、月明かりの下を町へ下りながら、見たことを全部話した。
縦穴と、刷り札の荷車と、ヤスミのこと。
坂の途中で振り返ると、台地の上の松明は、竜のいない岩場をうろうろしていた。
東の門をくぐれたのは、門が閉まる間際だった。
詰所に寄ると、帳場の男の人が待ちかねたように身を乗り出した。
「戻ったか! 聖堂の使いが来てな、竜を見てきた者がいたら、今夜のうちに聖堂へ寄こせとさ。
門は使いの札で通れる。司祭さまが、じかに話を聞きたいんだと」
帳場の脇で、白い上衣の若い男の人が頭を下げた。
胸に、聖堂の灯の印がある。
ブランは帳場の男の人と使いを順に見て、頭巾を目深に直した。
ボクたちを振り返って、宿の方角へ顎をしゃくる。
「いいか。お前らは宿へ帰って寝てろ。聖堂へは俺だけ行く」
それから一人で、使いの前へ出た。
「見てきたのは俺ですよ。岩場で鐘抱えて寝てるのを見て、尻尾振られて逃げてきただけの話だがね。
それでよけりゃ、案内してくれ」
聖堂。
灯改めのいる所だ。
ドラージョの紙が回ってる町で、ブラン一人で。
ラウロがブランの横へ一歩寄って、使いに聞こえない声で言った。
「朝の鐘までに戻らなかったら、迎えに行くからな」
それからガレナの外套の背を軽く押して、宿のほうへ向かせる。
「帰るぞ」
ブランは白い上衣の使いについて、石段を上っていった。
砦の壁の上で、見回りの灯が一つ動いている。
そのいちばん上に、鐘の無い鐘楼が、黒く立っていた。
砦街の聖堂の奥の小部屋は、蝋の匂いがした。
机の上に、灯りが一つ。
待っていたのは、背の高い痩せた男だった。
五十の終わりくらい。
白髪まじりの短い髪を撫でつけ、白い長衣の胸に灯の印の刺繍がある。
この聖堂の司祭らしい。
男は椅子から立って、手のひらを上へ向けて開き、向かいの椅子を勧めた。
ブランの裂けた外套の脇腹と、焦げた裾に、ゆっくり目をやる。
それから、頭巾の下の垂れた耳を見た。
「よく来てくださいました。夜分にお呼び立てして、すみません。
……鐘楼が空のままでは、明日の朝、皆さんに何と言えばいいか分からないのです。
詰所では、竜が鐘を抱えて寝ていたとおっしゃったそうですね。
その岩場の話を、私にもう一度、初めから聞かせていただけませんか」
物腰は柔らかい。
だが、目はちゃんと値踏みしている。
外套の裂け目も、耳も、見られた。
ブランは勧められた椅子に浅く腰を下ろし、頭巾は取らずに膝の上で両手を組んだ。
司祭の目は見ない。
机の灯りのあたりを見たまま、話した。
「こちらこそ、夜分に。……初めからと言っても、大した話じゃありませんよ。
台地の縁の平たい岩の上で、あいつは鐘を前脚のあいだに挟んで、鼻で転がしてました。
こっちに気づくと鐘を腹の下へしまいこんで、一声吠えた。それで俺らは下がった。
そのあと衛兵さん方が槍を担いで上がってきて、一本投げた。
尻尾で薙がれて、三人ほど転がりましたが、牙は使ってません。
日が落ちるころ、松明が上がってくるのを見て、鐘を抱えたまま東へ飛んでった。
……見たのは、それで全部です」
竜が尾をよけたことは、言わなかった。
誰が跳んだかも、巣がどこかも。
司祭はしばらく黙って、ブランの組んだ手を見ていた。
それから身をかがめて、机越しに顔を寄せる。
自分の懐の上、紙でも入っていそうなあたりに、軽く手を置いた。
声が、落ちた。
「東へ、ですか。……よく分かりました。あなたがたは、竜の前から一人も欠けずに戻ってきた。
衛兵殿たちにはできなかったことです。あの鐘を取り戻してきてください。聖堂から、相応のお礼はします。
それから、ドラージョから回ってきた紙のことは、私の胸にしまっておきます。鐘が鐘楼に戻るまでは」
……そう来たか。
坊主の顔をして、紙は懐にしまったまま、首輪をかけてきやがった。
鐘が戻るまでは、ということは、戻らなければ出すということだ。
ただでくれるもんには、どっかで勘定がつく。
前にノアにそう言ったのは、自分だった。
それを、ここで払わされるとは。
ブランは組んだ手をほどかずに、司祭の懐の手を一度だけ見た。
目を、机の灯りへ戻す。
少し間を置いてから、立ち上がった。
「ほう。……紙のことは何の話か分かりませんがね。鐘の方は、やれるだけやってみますよ。
竜相手に約束はできねえが。お礼の方は、鐘が鐘楼に下がってから聞かせてもらいます」
頭巾の縁を下げて、軽く頭を下げる。
「夜分に、どうも」
戸口を出ると、廊下の窓から鐘楼が見えた。
月の光が、空っぽの梁を白く照らしている。
ブランは腰の革袋に手をやって、栓は抜かずに、そのまま石段を下りていった。




