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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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74/99

ピエトロ

一月の二十二日。

組が散ってから、ひと月が経っていた。


昼の鐘が鳴って少しすると、灰色の鷹の看板の詰所は、汁の湯気でけむりはじめる。

土間の長い卓では、荷役と冒険者が肩を並べて椀をすすっていた。

ピエトロは受付の脇の長椅子に座って、それを眺めていた。

荷は外套の下に背負ったままだ。

下ろす場所が無い。

宿代を払えば、今夜の汁が消える。


昨日までの三日、倉の鼠を呼び出しては、桶で受けて川へ流した。

その取り分は、日が落ちるまでに帳場で済みの印をもらわないと出ない。

札に刻まれた線は、ドラージョで組の頭を張っていたころから、一本も増えていない。

坂の下じゃ、おれが頭だった。

漁師の倅もパン屋の小僧も、おれが声を張れば集まってきた。

それが今は、鼠の頭数を数えて、銅貨を待っている。


帳場の脇の壁に、今朝、新しい紙が一枚貼られた。

ドラージョの聖堂から回ってきた手配の紙だ。

翼を広げた娘の絵と、大きな剣を担いだ娘の絵。

隅には、耳の垂れた獣人の男が小さく刷ってある。

字は読めない。

けれど朝のうちに、帳場の男が荷役たちへ読み上げていた。

白い翼の娘と赤毛の娘を見た者は、聖堂へ申し出よ。

申し出た者には、礼金を出す。


戸口の布がめくれて、冷たい風と一緒に、頭巾をかぶった五人が入ってきた。

先頭の獣人が帳場へ寄ると、帳場の男が依頼書を一枚出して、土間じゅうに聞こえる声で言った。

「ほら、粉屋の犬がまた逃げたとさ。銅貨八枚。あんたら、すっかり犬探しの組だな」


獣人のすぐ後ろの細い頭巾から、白に近い淡い金の髪がひと筋こぼれている。

いちばん後ろの頭巾の端からは、赤い髪がはみ出していた。


ノアとガレナじゃねえの。

ブランまでいやがる。

酒場でも市でも、この十日、あいつらの噂ばかり聞かされてきた。

翼が通りいっぱいだの、燃える聖堂から子どもを百人抱えて出てきただの。

その誰も、ピエトロ・カルーゾの名なんか口にしない。

その噂の連中が、銅貨八枚の犬探しだ。

ざまあみろ。

口の端上がるのを、止められなかった。



長椅子から立って、荷を背負ったまま帳場の前へ歩いた。

手配の紙の横に、わざと肩を預ける。

指で紙をとんとん叩いて、帳場の男に合わせて大きく笑った。

「犬探しだってよお、犬探し! 銅貨八枚! そりゃあ大したお仕事だぜ!」

それから細い頭巾の横に顔を寄せて、声を落とす。

「……よお、久しぶりじゃねえの。この紙、礼金出るってよ。

おれ、字は読めねえけど、絵はよく似てると思うぜ。な?」


おれが一声上げりゃ、終わりだ。

言わねえよ。

言わねえけど、それくらいは知っとくべきだろがよ。

今度は、おれが上だ。


頭巾は下りなかった。

ノアは紙のほうへ顔を向けず、ピエトロだけを見ていた。

右手で外套の前を押さえたまま、小さな声で返してくる。

「うん、久しぶり。似てないよ、ボクあんなにかっこよくないもん。……ねえピエトロ、キミ一人?

ほかの三人はどこ?」


いきなり、そこかよ。

喉に手が行って、咳払いが一つ出た。

「……あいつらはよお、今、でかい仕事に出させてんだよ。おれは頭としてどしっと構えてんのよ」

胸を張って、紙をもう一度指で叩く。

「話そらすんじゃねえよ、ばぁか。

似てねえって言い張んのはいいけどよ、ここの連中、礼金って聞いて目の色変えてたぜ?

おれが黙っててやる理由、何かあんのかよお、ノア」


赤い頭巾が二歩詰めてきて、ノアの横に並んだ。

はみ出た髪を指で中へ押しこみながら、ピエトロの肩越しに紙を見下ろす。

それから、背の荷を拳で軽く小突かれた。

「理由なんかあたしが知るかよ。お前が決めろ。

……で、名を上げたらどうこうって話、これがその名の上げ方か?

留守番の頭が荷ぃ背負ったまま、長椅子で昼飯も食わずに座ってんのかよ」


うるせえ。

こいつに言われるのが、一番腹が立つ。

一冬、後ろを追っかけて面倒を見てやったのは、おれだ。

それがあっさりあっちへ付いて、今じゃ噂の大女さまだ。

声を張りかけて、土間の目に気づいて呑みこんだ。

「……関係ねえだろ、三人のことは。おれが決めろってんなら決めてやらぁ。いいか、半分だぞ、半分!

その犬探しの取り分、半分おれに寄こせ。おれを組に入れろとは言わねえ。おまえらが、おれに頼みに来い。

な、ガレナ。おまえ言ったよな、名を上げたら組んでやるってよお」


帳場で、ブランが筆を受け取った。

依頼書に名を一つ書いて返し、懐へしまう。

「どうも。犬は得意でしてね」

帳場の男に笑ってみせてから、こっちへは振り向かずに横を通る。

通りざま、背の荷の紐を軽く引かれた。

「いいか、坊主。半分の話は外で聞く。汁一杯ぐらいは奢ってやるよ。来い」

ブランは戸口へ顎をしゃくって、先に布をくぐっていった。


坊主だあ?

偉そうに。

けれど、汁一杯は悪くない。

朝から何も食べていなかった。

外で聞くってことは、話を持ちかけられたのはおれのほうだ。

紙をもう一度指で弾いて、荷を背負い直す。

「へっ、奢りだってよお。……ま、聞いてやらぁ。ほら、おまえらも来いよ。

おれ抜きで話まとめんじゃねえぞ」



詰所の前の通りは、倉通りへ下りる石段の途中にある。

荷車がすれ違うたびに、人が軒下へ寄った。

戸口の脇で汁の屋台が湯気を上げていて、ブランが椀を一つ買い、屋台の脇の樽の上に置いた。

六人で、倉の壁の陰に寄って立つ。

通りの向かいの壁には、版木で刷った札が二枚貼ってあった。

上を向けて開いた手のひらから、芽が四方へ伸びている印。

昼過ぎの日が、凍った石段の縁を少しだけ緩めている。


ブランが、椀をこっちへ指で押しやった。

自分は倉の壁に背を預けて、向かいの札のほうを見ている。

「食え。冷めるぞ」

少し間を置いて、続けた。

「いいか。半分くれてやるかは、お前の話を聞いてからだ。……三人はどこだ。

人を使ってる奴が、荷を背負ったまま詰所で昼を抜いてるわけがねえだろ」

腰の革袋の栓を抜いて、一口だけ飲む。


腹が鳴った。

湯気と塩の匂いに、腹のほうが先に返事をしてしまったのだ。

聞こえたよな、今の。

このおっさん相手に、嘘を張り通すのは骨だ。

椀を両手でつかんで、立ったまま半分すすった。

袖で口を拭う。

「……散ったよ。取り分で揉めて、冬に。ノラが先に抜けて、あとの二人も出てった。それだけだ」

声が、勝手に低くなっていた。

慌てて張り上げかけて、また抑える。

「けどよお、それとこれとは別だかんな! 話は聞いたろ。今度はおまえらの番だ。

おれが黙ってる代わりに、何を出す?」


ノアが、半歩寄ってきた。

頭巾の陰から、灰青の目がまっすぐこっちを見る。

その目が一度、向かいの札の下を背負子を担いで通る荷役を追った。

首に布を巻いた男だった。

目が、こっちへ戻ってくる。

「ボクの分、ぜんぶあげる。半分じゃなくて、ぜんぶ。黙ってる代わりじゃないよ。

キミ、昼食べてないでしょ」

「でも先に言っとくね。キミが紙のこと聖堂に言いに行くなら、それはキミが選んで。ボクは止めない。

止めないけど、そしたらボクはこの町にいられなくなる。それだけは知っといて」

「……一人で冬越したの? ピエトロ」


なんだよ、それ。

黙ってる代わりじゃない、だと。

坂の下で灯らずと笑われていた娘に、おれが哀れまれている。

顔が熱くなって、汁の残りを一息に飲み干した。

椀を樽に音を立てて置き、手のひらをノアの前に突き出す。

「ばぁか、哀れんでんじゃねえよ! おれは施しはもらわねえ。……もらうのは口止め料だ。

そこ間違えんなよ、ぜんぶだかんな、ぜんぶ!」

手は出したまま、声だけが小さくなった。

「……冬なんか、一人で越せらぁ。鼠呼んで食ってたよ」

すぐに張り上げる。

「で、犬はどこの粉屋だ。おれが呼んでやる。犬の声なんざ一発だぜ」


ラウロが、背の荷の底を手の甲で軽く叩いた。

濃い栗色の髪の、右の耳の上だけがはねている。

坂の下で後ろをついて回っていたころと同じだ。

背は、とうにピエトロに並んでいた。

「口止め料でいいよ、それで。……で、荷、宿に置いてねえだろ。寝る所あんのか」

声を落として、向かいの札の前で立ち止まった荷役二人へ一度だけ目をやる。

「犬呼べるなら来いよ。俺らの宿、下町の端だ。床なら空いてる。

……それと、ノラが先に抜けたって、どこ行ったか分かるか」


通りの向かいで、札の前の荷役の一人が、もう一人の肩を叩いて大きな声を出した。

「七日に一度の集いだろ、今夜だよ。岩屋で手を挙げりゃ、ただで種を植えてもらえる。

名前も、なんで欲しいかも聞かれねえ。俺は行くぜ、冬の荷は重てえからな」

二人は笑いながら、崖のほうへ続く坂を下りていった。


ピエトロは、その背中をしばらく目で追った。

ただで。

何も聞かれずに。

種を植えたら力が付くって話は、前から聞いている。

そしたら、おれだって。

荷を背負い直して、ラウロの手を肩で払う。

「……床なら借りてやらぁ。宿代浮くからな、それだけだ。ノラ?

知るかよ、あいつは銭の匂いのする方へ行っただけだろがよ」

坂のほうへ、顎をしゃくった。

「……なあ、今の聞いたか。集いだってよ。ただで種植えてもらえるってよお。

おまえら、あれ知ってんのか?」


ノアが、ピエトロの横に並んだ。

荷役たちの消えた坂を見ている。

「知ってるよ。ボク、行って見てきた」

それから、こっちへ顔を戻した。

「先に全部言うね。種は、ただじゃないよ。

植えたあと花の跡の縁が灰色に固くなって、腫れて、それで人を殴った荷役がいる。

年明けから三人目って聞いた。腕が石みたいに固まって、鎖でつながれた人も見たよ」

「岩屋の人は、名前もわけも聞かない。だから、そういうことも誰も教えてくれないんだよ」

「行くかどうかはキミが決めて。でも、知らないで行くのはやめて。……ピエトロ、欲しいの?」


欲しいに決まってんじゃねえか。

こいつらは噂になって、おれは鼠呼びだ。

けれど、それを言い当てられるのは癪だった。

鼻で笑って腕を組み、崖のほうへ目をやる。

「へっ、腫れて殴ったってか。そりゃそいつらがへぼなんだよ、へぼ。

使い方も分からねえで植えるからだろがよ」

喉に手を当てて、ノアの声色で言った。

「ピエトロ、欲しいの?」

地声に戻す。

「……ばぁか、誰が欲しいっつったよ。聞いただけだろ。それより犬だ、犬。粉屋はどこだ」


崖を見ていた目の前に、赤い頭巾が回りこんできた。

ガレナが腕を組んで、こっちを見下ろしている。

十五の娘の目が、もうピエトロの目と同じ高さにあった。

「へぼでもなんでも、腕が石になったら網も引けねえし、声だって出なくなるかもしんねえだろ。

お前の取り柄、声だろうが」

「力足りねえなら、あたしが稽古つけてやる。朝、石切り場だ。

昔あたしに灯りの使い方教わったの、忘れてねえだろ」

背の布包みを片手で叩いて、粉屋の方角へ先に歩き出しかける。

振り返った。

「……いいから来い。犬、呼ぶんだろ」


声が出なくなる。

それは、ちょっと嫌だ。

けれど、朝の稽古なんか行くものか。

頭を下げるのは、おまえらのほうだ。

舌打ちして、ガレナの肩を押しのけるように横を抜けた。

「ばぁか、教わったのは昔の話だ! 誰がおまえに稽古なんかつけてもらうかよ」

先に立って、大股で歩く。

「犬は呼ぶ。見てろよ、おまえらが半日かけるとこ、おれなら一声だかんな。先頭はおれだ」

一度だけ、崖のほうを振り返った。

すぐに前を向いた。



粉屋は東の門の内側の、水車の音のする坂の下にあった。

前掛けを粉で白くした主は、頭巾の五人と骨太の若い男を見比べてから、太い声で言った。

「黒い耳の雑種でな、名はクルミだ。俺が『クルミ、飯だぞ』って怒鳴りゃ、どこにいても飛んで帰ってくる。

ゆうべ門が閉まる前に、外へ駆けてったきりだ」

それから喉をさすって、声が嗄れてもう怒鳴れねえ、と笑った。


太い声の親父の、飯だぞ。

一度聞けば十分だった。


東の門の外は、刈り跡の畑と雑木の土手が続いていた。

風が吹くたびに、遠くで犬の吠える声がかすかに混じる。

土手の手前で、ピエトロは皆より一歩前に出た。

喉に手を当てて、二度、咳払いをする。

吠え声のしたほうを向いて、腹から怒鳴った。

「クルミーっ! 飯だぞーっ! クルミ、飯だぞぉっ!」

粉屋の主の声だった。

嗄れる前の、太い声。

地声に戻して、小さく言う。

「……ほら、黙って見てろよ」


怒鳴り声が、土手に跳ね返った。

いくらもしないうちに、雑木の陰から黒い耳の犬が一匹、尾を振りながら転がるように駆けてきた。

ピエトロの足もとを一回りして、声の主を探して鼻を鳴らす。

きょとんと、顔を見上げてきた。


犬を連れて粉屋へ戻ると、主は犬を抱き上げて、目を丸くしたまま銅貨八枚を数えた。

ブランの札に、済みの印を押す。

「門の外まで、俺の声がしたって? 俺はここで粉を挽いてたんだぜ」

主は、何度も首をひねっていた。


日が、西の高台に傾きはじめていた。

粉屋の前の坂で、ブランが宿への道を言った。

下町の東の端、貧民街との境目の、看板の無い宿だという。


ピエトロは胸を張って、五人を振り返った。

「どうだ、一声だったろがよ! 半日どころか、汁が冷める間もねえ」

ノアの前に、手のひらを出す。

「ほら、約束の分。ぜんぶだかんな」

倉の鼠の済みの印は、日が落ちる前にもらわないと取り分が飛ぶ。

詰所は坂の上で、宿とは逆の方角だ。

坂の上からなら、崖のほうもよく見える。

見るだけだ。

坂の上へ、顎をしゃくった。

「おれは詰所で鼠の判もらってくる。日が落ちたら取り分が飛んじまうんだよ。宿は下町の東の端だな。

あとで行くからな、床空けとけよ」


ノアがブランの手から自分の取り分を受け取って、そのままピエトロの手のひらに乗せた。

手を引かずに、こっちの目を見る。

「はい、ボクの分。約束どおり、ぜんぶ」

「すごかったよ、クルミ。ほんとに一声だった」

「ねえピエトロ。日が落ちたら、詰所のあと、まっすぐ宿に来る? 今夜、岩屋の集いの日だよ」


手のひらに乗ったのは、銅貨二枚だった。

ぜんぶで、これかよ。

褒められて、悪い気はしない。

けれど、まっすぐ来るか、だと。

見透かしたみたいに聞きやがって。

銅貨を握りこんで、懐へしまった。

「二枚かよ! ぜんぶでこれかよ、ばぁか。……ま、許してやらぁ」

背を向けて、坂を上りはじめる。

数歩行ったところで、振り返らずに片手を上げた。

「行くよ、行く。判もらったらまっすぐな。集いなんざ知ったことかよ。床、ちゃんと空けとけよお」



日が西の高台に沈みかけるころ、詰所の土間は昼より人が少なかった。

卓では、荷役が三人で薄い酒を回している。

帳場の男が、倉の鼠の依頼書に済みの印を押して、取り分の銅貨を台に並べた。

帳場の脇の壁には、昼と同じ紙が一枚。

翼を広げた娘と、大きな剣を担いだ娘。

帳場の男は銅貨を並べながら、紙を顎で指して、独り言みたいに言った。

「その紙の娘ども、まだ誰も申し出てこねえ。

聖堂の使いが、見た奴がいたらすぐ知らせろって、今日も念を押していったよ」


銅貨を一枚ずつ指で寄せて、懐にしまった。

しまい終えても、帳場を離れなかった。

台に肘をついて、何でもない風に紙を見る。

二枚だぞ、二枚。

あいつらは噂になって、おれは二枚握らされて床借りだ。

値を知っとくぐらい、罰は当たらねえだろ。

「へえ、まだ誰も来ねえのか。で、その礼金ってのは、いくらぐらい出んだよ。いや、聞いただけだぜ。

こんな目立つ絵の娘、見かけりゃ誰だって覚えてらぁな」


帳場の男が筆を置いて、紙の下の字を指でなぞった。

「一人につき銀貨十枚。二人そろって居所が知れりゃ、二十五枚だとよ。

倉の鼠なら、三年は追っかけなきゃ届かねえ額だ」

それから顔を上げて、ピエトロの顔をじっと見る。

「……なんだ、あんた。見たのか? 見たんなら、俺が聖堂の使いに取り次いでやるぜ。今夜にでも」

卓の荷役の一人が、杯を止めてこっちを振り向いた。


銀貨で、二十五枚。

鼠三年分。

一声言えば、それが台に並ぶ。

言ったら、あいつらは鎖だ。

ガレナも、ノアも。

紙の絵を、しばらく見ていた。

翼を広げた娘は、絵のほうがずっと大きい。


急に、大きな笑い声が出た。

台から肘を離す。

「ははっ、見てたらとっくに銀貨握って酒場で寝てらぁ! 見たら真っ先に、おれが自分で行くっての」

荷を背負い直して、戸口の布のほうへ歩いた。

今じゃねえ。

こいつは手札だ。

おれが握ってりゃいい。

布をくぐる手前で、振り返らずに手だけ振った。

「あばよ、また鼠の仕事回しとけよお」



詰所を出たところで、さっき杯を止めた荷役が後ろから追いついてきた。

酒の匂いをさせて横に並び、声を落とす。

「なあ兄さん、銀貨の話してたろ。力が要るってんなら、岩屋の集いのほかに、もう一つ噂があるぜ。

この十日ばかり、宿の境目の裏通りに、黒い手の伝承者ってのがうろついてるらしい。

そっちもただでくれるが、先に『なんで欲しい』って聞くそうだ。答えが気に入らなきゃ、何もくれねえ。

俺は聞かれるのが面倒で、行ってねえけどな」

荷役は笑って、坂の上の酒場のほうへ別れていった。


日が落ちた。

下町の東の端へ下りる石段は、宿の境目の手前で、崖に沿った細い裏通りに分かれていた。

両側は岩の戸口と石積みの壁で、あの刷り札がまばらに貼ってある。

明かりは、戸口の布の隙間から漏れる獣脂の灯だけだ。

吐く息が白い。


裏通りの半ば、古い石の水桶の脇に、男が一人、壁にもたれて立っていた。

背が高い。

肩と胸が厚く、黒い外套の背に、黒い膜のようなものを畳んで沿わせている。

左手だけが、袖から黒くむき出しだった。

指の先が、針みたいに尖っている。

男は、通りの奥の札の貼られた壁を見ていた。


あれか、黒い手の伝承者ってのは。

でけえな。

手、気味悪ぃ。

けれど、聞かれるだけだろ。

答えりゃいい。

宿はこの先だ、通り道だかんな。

びびって回り道なんざ、おれのやることじゃねえ。


荷を背負い直して、わざと足音を立てて裏通りに入った。

水桶の三歩手前で止まる。

黒い左手をちらりと見てから、顔を見上げて大声を出した。

「よお、おっさん! あんたかよ、裏通りで種配ってるってのは。なんで欲しいか聞くんだってな。

いいぜ、聞いてみろよ。答えてやらぁ」


男は水桶の脇から一歩出て、笑った。

右手で、肩を軽く叩かれる。

笑うと、思ったより若い顔になった。

男が顎で通りの奥を示す。

札の前を、崖のほうへ下りていく人の流れがあった。

「よう。おっさんはひでえな、まだ二十八だ。……ああ、俺だよ。声がでけえ。

あっちの集いの連中に聞かせてやる話じゃねえだろ」

笑みが、消えた。

赤みの強い琥珀色の目が、まっすぐこっちを見る。

「じゃあ聞く。なんで力が欲しい。理由を言え。あっちへ行けば、聞かれずに植えてもらえるんだぜ。

それでもこっちに来た理由も、一緒にな」


見栄を張った答えは、この目には通らない気がした。

肩に置かれた手は、払わなかった。

鼻を鳴らして、胸を張る。

「へっ、二十八なら立派なおっさんだろがよ」

大声で続けかけて、目に押されて声が低くなった。

「……昔なじみが、おれを置いて先に行きやがった。

今じゃ町じゅうの噂で、おれは鼠と犬の呼び出しで銅貨二枚だ。あいつらの上に立って、頭下げさせてえ。

それが理由だ」

低いまま、もう一つ出てしまった。

「あっちは何も聞かねえで植えるんだろ。何も聞かねえでくれるもんは、おっかねえんだよ。

前に一度、それで仕事なくした」

慌てて、顎を上げる。

「どうだ、気に入ったかよ」


男は肩から手を下ろして、低く笑った。

腰を少し落として、ピエトロの胸と肩と、背の荷のあたりを一度だけ見る。

通りの奥の札に目をやってから、向き直った。

「ああ、気に入るかどうかは関係ねえ。けど、ちゃんと自分の口で言ったな。それでいい。

……おっかねえと思えるなら、あんたはあっちの連中より賢い」

「ただ、今夜はやらねえ。あんたの体も見てねえし、ここは目が多すぎる。

明日、日が高いうちにこの水桶の所へ来い。体を見て、合うかどうか確かめる。合わなきゃ渡さねえ。

約束はしない」

「それと、網を裂いたって話。明日、それも聞かせろ。名前は」


なんだよ、今夜じゃねえのか。

肩透かしを食って、舌打ちが出た。

けれど、体を見て合うか確かめるというのは、闇市の器具の売り手とはまるで違っていた。

親指で、自分の胸を叩く。

「ちぇっ、焦らすじゃねえの。……ま、いいぜ。明日、日が高いうちだな、来てやらぁ。ピエトロだ。

ピエトロ・カルーゾ。覚えとけよ、おっさん。で、あんたは何てんだよ」


男は右手で、ピエトロの胸を軽く小突いて笑った。

「ベリアトだ。おっさんはやめろ、ピエトロ」

それから、声を落とす。

「……それと、俺のことはあっちで言いふらすな。言いふらしたら、明日は来ても会わねえ。じゃあな」

背を向けて、崖とは反対の通りの暗がりへ歩いていく。

すぐに、見えなくなった。



崖のほうから、岩屋へ下りていく足音がまだ続いていた。


入れ替わりに、岩の戸口の陰から、細身の男が一人出てきた。

裾の長い黒っぽい上着は布が良くて、この裏通りには似合わない。

後ろに、木箱を一つ背負った無口な担ぎ手を連れている。

男は、さっきまでベリアトの立っていた水桶の脇まで来て、通りの奥へちらりと目をやった。

それから、にこやかに声をかけてくる。

「力をお探しで? さっきのやりとり、少しばかり耳に入りましてね。

わたくしは、下の、さる古いお家の使いでございます」

上着の内から革表紙の帳面を一冊出して開き、筆と一緒に差し出してきた。

頁には、拇印がいくつも並んでいる。

「種なら、器も確かめた上等な品を、今夜のうちにお分けできます。代価は後で結構。

払えなければ、別の形で頂きます。ここへ拇印を一つ」


担ぎ手が下ろした木箱の横に、木の荷札が括ってあった。

押してある焼き印は、錨に鍵を一本掛けた形。

見覚えがある。

ヴァレンツァの波止場裏の、古道具屋の軒の看板と同じ印だ。


今夜のうちに。

明日まで待たなくていい。

けれど、拇印なんか押したら最後だと、腹のどこかが言っていた。

帳面は受け取らずに、手を後ろに組んで、拇印の列をのぞきこむ。

それから、荷札を顎で指した。

「へえ、上等な品ねえ。その焼き印、錨に鍵。ヴァレンツァの波止場裏の店のだろがよ。

おれ、あそこの坂の下の生まれだぜ。なんでそんなもんがこんな所にあんだ。

……それと、別の形ってのは何だよ。先に言え。言わねえうちは指一本出さねえかんな」


男は笑みを崩さずに、担ぎ手へ目だけ向けた。

担ぎ手が黙って木箱を背負い直し、荷札が外套の陰に隠れる。

「箱なぞ、港から港へ回るものでございますよ。古い箱を使い回しているだけで」

男は、帳面をもう一度差し出してきた。

「別の形と申しますのは、払えなかった方には、下でしばらくお働きいただく、それだけのこと。

お体さえ丈夫なら、むずかしいことはございません。あなたなら骨も太い。今夜のうちに、拇印を一つ」


箱、隠しやがった。

使い回しなら、隠すことはない。

下でしばらく働け、骨が太いから。

網元が新入りを船に縛りつけるときの言い方だった。

一歩下がって、帳面から体を離す。

片手を喉に当てて、男の丁寧な声色で言い返した。

「お体さえ丈夫なら、むずかしいことはございません……ってか」

地声に戻す。

「ばぁか、その言い方、坂の下じゃ人を船に縛るときに使うんだよ。箱隠すような奴に指は貸さねえ。

あばよ、使いのおっさん」


背を向けて、裏通りを抜けた。

後ろで、舌打ちが聞こえた。

丁寧な声が崩れて、担ぎ手に吐き捨てる。

「……まただ。このところ、客をみな集いに取られる。ただで撒かれちゃ、帳面なんぞ誰も開かねえ」

足音が、反対の暗がりへ遠ざかっていった。

錨に鍵の印が、しばらく目の裏に残っていた。



宿の境目へ抜ける道は、崖沿いの路地の突き当たりをかすめて通っていた。

突き当たりの岩屋の口から、獣脂の明かりと人いきれが漏れている。

入口の脇の岩肌には、新しい刷り札が何枚も重ねて貼ってあった。

中から、女の声が切れ切れに届く。

「……奇跡は、壁の内の者だけのものじゃない。あまねく、誰にでも。欲しい人は手を挙げて。

名前も、わけも、聞かない」

首に布を巻いた荷役が一人、仲間に肩を押されて中へ入っていった。


名前も、わけも、聞かない。

何も聞かねえでくれるもんが一番おっかねえって、さっき自分で言ったばかりだ。

けど、見るだけだ。

どんな顔して植えてんのか見とかなきゃ、明日の話もできねえ。

手は挙げねえ。

挙げねえぞ。


入口の脇の岩肌に肩を寄せて、首だけ伸ばした。

両手は、外套の内に突っこんだまま出さない。


岩屋は天井が高く、壁の窪みに獣脂の灯りがいくつも置いてあった。

六十人ほどが、岩の床に座りこんでいる。

奥の低い台の前に、痩せた女が一人しゃがんでいた。

髪を後ろで固く結んでいて、首筋の赤い花の跡を隠していない。

手を挙げた荷役の手首に、灰色の種を一つ当てて、手のひらで包むように押さえる。

手を離すと、手首に赤い花の跡が浮いていた。

荷役が腕を回して笑う。

まわりから、低い声が上がった。

誰も、何も聞かれていない。


しばらく見てから、入口を離れた。

宿の戸口は、この坂を少し下った先にある。


三歩下りたところで、背中に女の声が届いた。

「……今夜の箱は、これで最後。次の集いは七日後。欲しい人は、今のうちに手を挙げて」


足が、止まった。

最後。

次は、七日後。

さっきの荷役は笑っていた。

腕を回して、何ともない顔で。

腫れただの石だの、ノアが大げさに言っただけかもしれない。

明日のおっさんは、合わなきゃ渡さねえと言った。

合わなかったら、おれはまた鼠呼びだ。

七日も待って、あいつらの背中を見てろってのかよ。

分かんねえなら、使いながら覚えりゃいい。

今まで、ずっとそうしてきた。


拳を握って、一度だけ宿のほうを見た。

それから坂を駆け上がって、岩屋の入口をくぐった。

座りこんだ人のあいだを、荷を背負ったまま踏み分けて前へ出る。

外套の内から右手を抜いて、高く挙げた。

「待てよ! 最後なら、おれだ。おれが手ぇ挙げてんだろがよ!」


岩屋じゅうの目が集まった。

痩せた女は台の前で立ち上がり、何も言わずに歩いてきて、立ったまま向き合った。

名前も、わけも、聞かれなかった。

手伝いの若い男が、木箱の底から最後の包みを一つ取り出して、女に渡す。

女は包みから灰色の種をつまんで、ピエトロの外套の襟を指で少し開いた。

首の付け根、鎖骨の上のくぼみに、冷たい種が当たる。

手のひらで、包むように押さえられた。


熱い。

熱が、首の皮の下へ沈んでいく。

細い根を何本も伸ばすみたいに、肩と喉のほうへ散っていった。

女が手を離す。

首元に、赤い花の跡が浮いていた。

女はもう、次の人のほうを見ている。

「これで、今夜はおしまい。次は七日後」



岩屋を出て、坂を下りた。

首元の熱は、まだ引かない。

肩が、少し軽い気がする。

喉に手を当てて、声が出るか小さく試した。

出る。

いつもどおりに。


看板の無い戸口が見えるところで、足が止まった。

戸口の布の隙間から、明かりが漏れている。

あの中に、ノアたちがいる。

床を空けとけと言ったのは、おれだ。


襟に手をやって、合わせ直した。

大部屋で寝返りを打てば、襟が開く。

首に布を巻けば、隠してますと看板を下げて歩くようなものだ。

この町で首に布を巻いている連中が何を隠しているか、ノアたちはとうに知っている。

夜中に熱でうなされてみろ。

ノアのやつ、真っ先に気づいて、ほら言ったでしょって顔をしやがる。

ガレナは胸ぐらをつかんでくる。

冗談じゃねえ。

見せるのは、使いこなしてからだ。


背を向けて、坂を上った。

崖沿いの裏通りの、石の水桶の脇まで戻る。

壁と水桶のあいだに荷を下ろして、背を預けた。

石の壁が、少しは風よけになる。

外套の前をきつく合わせて、襟を立てた。

首元は、まだ熱い。


明日の朝、寝坊したって顔で宿に行きゃいい。

わびしいのは、今夜までだ。

明日っからは、こいつで、いい依頼を取ってやらぁ。

きっと、な。


水桶に張った薄い氷に、獣脂の明かりが一つ、小さく映っていた。

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