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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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73/89

白と黒

フォンターレに着いて、十三日目の昼。

下町の外れから坂を少し外れると、高台の斜面を削った古い石切り場に出る。

砦の壁の石は、ここから切り出したのだという。

切り出した跡の石壁が三方に高く立って、崩れた石の塊があちこちに転がっていた。

人の声は届かない。

風が石壁に当たって、低く鳴るだけだ。

ここなら、誰も来ない。


イルウェンは手ごろな石に腰かけて、肩掛けの鞄から表紙の擦り切れた古い本を出した。

膝に開いて、頁をめくる。

頁を押さえる手が、ヴァレンツァで見たときより一回り大きい。

指の節も、しっかりしてきた。

少し遅れて、ブランも石切り場の入口の崩れた石に腰を下ろした。

イルウェンの手に目を留めて、口を開きかける。

何も言わずに閉じて、水筒を口へ運んだ。

ラウロとガレナは、朝から荷主の倉の仕事に出ている。


頁をめくる指が、途中で止まった。

半分しか開かない目が、そこを一度なぞる。

それから顔を上げて、本をボクのほうへ向けた。

「ノア。……あった。白い灯り。……留めるんじゃない、って。放ちきる、灯りー」


入口の石の上で、ブランが水筒の栓を閉めた。

「ほう。放ちきる、か。……続きも読んでやれ、イルウェン。ノアが聞きたそうな顔してるぞ」


イルウェンの隣にしゃがんで、頁をのぞきこんだ。

細かい古い字が、びっしり並んでいる。

指でなぞっても、一つも読めない。

自分の右の手のひらを見た。

半分にして、絞って、握りこんで。

灯りを出すたびに、ずっとそうしてきた。

「イルウェン、それ、どう書いてあるの? 全部読んで。

ボク、灯りはずっと隠してばっかりだったから、放ちきるってどうやるのか分かんない」


イルウェンは項を指でなぞりながら、一言ずつ読んだ。

「留めれば……溢れる。放てば、尽きる。……ノア、いつも留めてるから、溢れそうになる」


留めれば、溢れる。

ブルチャ野の井戸で、灯りも翼も出しかけて握りこんだ。

あのとき胸の中で暴れていたのは、溢れかけた灯りだったんだ。

立ち上がって、石切り場の真ん中の開けた地面へ出た。

右の手のひらを、胸の前で開く。

「ちょっとだけ、灯りを全部出してみる。なにができるのか、ためしたい。」


ブランが石の上から、低く言った。

「人のいねえほうに向けろよ。腕がおかしいと思ったら、すぐとめるんだ。……やってみろ」


足を肩幅に開いた。

深く吸うと、切り通しで岩に叩きつけられた背中と脇腹が、まだ引きつった。

息は浅くでいい。

怖いのは、ボクの灯りで何ができて、どこまでやってしまうのか、自分でも知らないことだ。

だから、知りたい。

指の付け根に、灯りを集めた。

今度は、絞らない。


手のひらから、光が溢れた。

真昼より眩しい。

指のあいだから幾筋にも分かれて、前にも横にも後ろにも、いっぺんに広がっていく。

三方の石壁が白く照らされて、崩れた石の塊の影が、煤で描いたように黒く地面に焼きついた。

目を細めても、まぶたの裏まで白い。


熱い。

手のひらから手首、肘まで、熱が一気に広がっていく。

出しても出しても、光るだけで、どこにも届かない。

腕が痺れて、指がどこにあるのか分からなくなっていく。

怖くなって、右手を握りつぶした。


光が、ぱっと消えた。

それだけだった。

近くの石に触ってみても、日向のようにぬるいだけだ。

あれだけ光ったのに、石一つ動いていない。

痺れた右手を左手で包んで、さすった。

「……光っただけか」


イルウェンが、本の次の頁を押さえて顔を上げた。

「ノア。……それ、光は、おまけ、って。……向きがないと、ぜんぶ、光になって、散る。もったいない」

「おまけ?」

「ほんとは、押す力。……向きを決めて、放つと、ものを押す。熱も、出る。

……通った道の、空気も、熱くなる。線みたいに、ー」


ブランが水筒を腰に戻して、立ち上がった。

石壁の、焦げ跡のない面を顎で指す。

「なら、的は壁だ。撃ち返してこねえし、外しても怪我人が出ねえ。十五歩離れて立て。

指を閉じて、先を一つにしろ。広げたまま出すから散るんだ。……まずは一番弱いのからだ。

腕が熱くなったら、そこで一度下ろせ」


壁から十五歩のところに立った。

右の指をそろえて、すぼめる。

お椀じゃない。

先を一つにする。

針みたいに細くていい。

「撃つよ」


指先から、白い筋が一本だけ走った。

髪の毛ほどに細い。

壁に当たると、小さな黒い点が焦げて、石の粉がぱらりと落ちた。

筋の通ったあとの空気が、陽炎のように揺れている。

鼻の奥に、焦げた埃の匂いが立った。

頬が、少しだけ温かい。

手のひらの熱は、手首で止まっていた。


壁を押した。

空気を焼いて、通った。

光らせるより、ずっと小さいのに、ずっと手応えがある。

「ブラン、今の、手首までしか熱くならなかった。もう少し太くするね」

「いい。一段ずつ上げろ。急ぐな」


指の太さを、少しずつ増やしていった。

一本を二本ぶんにして、指一本ぶんにして、親指ぶんにして。

太くなるたびに、壁の黒い点が大きくなって、陽炎の筋も濃くなった。

親指ぶんの筋を撃ったところで、壁の表が手のひらほども焦げて、石の粉が白く煙のように舞った。

欠けはしない。

けれど、筋の通ったあとの空気が、頬に届くほど熱い。

右の肘が、じんと痺れてきた。

手を下ろして、息を吐く。

「ちょっと休むね。肘まで痺れてきちゃった」


ブランが石壁の焦げ跡を、遠くから目でなぞっていた。

「焦げるだけで、壁は返してこねえ。

実戦で使うなら、動く相手に向けて、止められて、外す所まで知っとかねえとな」

間を置いて、続けた。

「受けてやる。俺に撃て」


イルウェンが、頁を二枚めくって、ブランのほうへ本を傾けた。

「ブラン。……黒い灯り、あった。集める。溜める。……重くなるのは、集めた分、ー。

ほかの灯りも、取りこむ。濃い黒ほど、上手い、って」

ブランは鼻で笑って、両の手のひらを上へ向けた。

黒に近い灰色の灯りが、薄く滲む。

「俺のは薄い灰色だ。取りこむなんて、出来そうにないな。お前の灯りを溶かしきれやしねえ。

その代わり、抑え込むのは、いままで試してきた。受けるだけなら、俺の本分だ」


ボクは首を振った。

「でも、ブラン、危ないよ。ボクの灯り、さっき自分の腕を痺れさせたんだ」

「だから、弱いのから様子を見る。撃つ前に一つ言え。痺れたら、俺が言う」

ブランは石壁を背にしない開けた地面まで歩いていって、十歩先でこっちに向き直った。

袖をまくった両の手のひらを、胸の前で合わせる。

灰色の灯りが、手のひらのあいだに溜まっていく。

薄い灰色が、重なって、重なって、濃くなっていく。

やがて、厚い円盤みたいに固まって、ブランの足もとの地面が、みしりと沈んだ。

「撃ってこい。最初は、さっきの針からだ」


遠慮はいらない。

そう言われた気がして、足を肩幅に開いた。

右の指をそろえて、すぼめる。

先は、ブランの手のひらの円盤。

「撃つよ、ブラン」


針ほどの白い筋が、十歩を渡った。

円盤に当たって、小さく弾ける。

円盤の表面が、わずかに波打っただけだった。

「軽いな。もう一段」


指一本ぶん。

筋は円盤に当たって、眩しく散った。

円盤の縁が、少し白く揺れる。

ブランの靴の下の地面が、また沈む。

「いい、受けた。次は親指の太さで撃て」


親指ぶんの筋を、十歩の先へ送った。

筋はまっすぐ円盤に刺さって、ブランの両手が、手のひらごと半歩ぶん後ろへ滑った。

灰色の円盤の表で、白い光が火花のように爆ぜる。

ブランの袖口が、じりっと焦げた。

通ったあとの空気が、熱で揺れて、ボクの頬まで熱い。

やがて、筋が細くなって、尽きた。


ブランは両の手のひらを開いて、息を吐いた。

手から湯気が上がっている。

円盤はほどけて、灰色の灯りが散っていった。

「ほう。……押されたな。止めきったが、手が温い」

ボクは駆け寄った。

「ブラン、手、平気? ボク、強く撃ちすぎてない?」

「平気だ。今のは真っすぐ当たった。散らなかった。……今のは良かったぞ。使いこなせるといいな」


自分の右手を見た。

痺れは肘の手前で止まっている。

手のひらは、空っぽだった。

開いて、閉じて、また開く。

こんなに軽いの、初めてだ。

ずっと握っていたから、重かったんだ。

ブランとイルウェンを順に見て、笑った。

「うん、覚えた。ありがとう、ブラン。イルウェンも。……軽いね、向きを決めると」


石の上のイルウェンが、本を膝に伏せた。

何も言わずに、目をもう少しだけ細くした。



それから毎朝、朝の鐘が鳴ると、三人で石切り場へ来た。

最初に壁へ数発、それからブランの受けに撃つ。

二日目には、筋が親指より太くなった。

ブランは十歩を十五歩に、十五歩を二十歩に下がって、歩幅で受け方を変えた。

三日目には、ブランの靴が半歩ずつ後ろへ滑るのが、一歩になった。

ブランの腕が痺れて受けきれなくなった朝は、石壁へ向けて撃つ。

壁には焦げ跡が増えて、筋の通ったあとの空気は、朝ごとに熱を増していった。

三日目に荷主が樽出しをまた見合わせて、倉の仕事が途切れた。

その朝から、ラウロとガレナも石切り場に来るようになった。


四日目の朝は、霜がまだ溶けきっていなかった。

ブランは前の朝の痺れが抜けきらないと言って、入口の石に腰を下ろしている。

正面には、焦げ跡だらけの石壁。

何度当てても、表が黒く焦げるだけで、欠けたことは一度もない。

切り通しで、灯りを流した黒鉄の短剣は、灰色の殻に細い筋を一本引いて滑った。

あのときの手応えを、手がまだ覚えている。

撃ちっぱなしの灯りは、押しはするけど、一点に集めきれていない。

あの殻には、届かない。


外套の内から、黒鉄の短剣を抜いた。

手のひらで、重さを確かめる。

ガレナは、あの殻を割った。

朱の灯りをコッコに乗せたまま、手から離さずに叩きつけていた。

石の上で腕を回しているガレナのほうへ、向き直った。

「ガレナ、教えて。キミ、ドラージョでコッコに朱の灯りを乗せて、あの殻を割ったでしょ。

ボクの灯り、撃つと焦げるだけで、刃に乗せても筋一本だった。乗せたまま打つの、どうやるの?」


ガレナの口の端が、一瞬だけ上がった。

すぐに噛み殺す。

背のコッコをほどいて、布を足もとに落とした。

焦げ跡の並ぶ石壁の前に立って、脚を開く。

「お前、灯りを刃に「乗せよう」としてんだろ。それじゃ焦げるだけだ。

乗せんじゃねえ、腕ん中で燃やして、刃は腕の先だと思え。……いいから見てろ、一回だけやる」


ガレナが、息を吐いた。

肩から腕へ、朱の灯りが薄く灯る。

手首を越えて、柄を握る指まで赤い。

脚には灯さない。

十歩を、普通に踏みこんだ。

腕の朱の灯りが、そのまま刃の根元へ流れこむ。

刃が、焦げ跡を横から打った。

鈍い音がして、石壁の表が手のひらほどの大きさで割れ落ちた。

割れ口の縁が、朱の熱で白く粉を吹いている。


かっこいい。

撃ったんじゃない。

腕の中で燃やしたまま、刃まで繋げていた。

ボクはいつも、手のひらから外へ出していたんだ。

右手にブランの短い剣、左手に黒鉄の短剣を持った。

割れ落ちた石の隣の焦げ跡の前に立つ。

「かっこいい、ガレナ。……腕の中で燃やす、ね。やってみる」


息を吐いて、肩から右腕へ灯りを薄く流した。

手のひらから外へは出さない。

柄を握る指まで、留める。

刃の根元に、光の膜が這い上がっていく。

けれど息を吐くたびに膜は揺れて、切っ先へ届く前にほどけかけた。

踏みこんで、打ちこむ。

乾いた音がして、焦げ跡の上に、指一本ぶんの白い溝が一筋刻まれた。

割れはしない。

右腕の痺れが、肩まで広がってくる。


石切り場の端では、ラウロが脚の布の結び目を締め直していた。

ほかの四人から少し離れた平らな地面で、断たれて短いままの剣を抜く。

力を抜いて、静かに立った。

眠るように緩慢に振りかぶって、落とす瞬間だけ小指と薬指を締める。

風を切る音が、一つ。

構えに戻って、同じ型を黙って繰り返す。

刀子のおじいさんに習った型だ。

ときどき、ボクの刃が石を打つ音に目だけ向けて、また素振りに戻っていった。


イルウェンは石に腰かけたまま、膝の本の頁を指で押さえていた。

白い灯りの項の続き。

「ノア。……それ、留めてる。……白い灯りは、器を選ばない、って。

手のひらじゃなくても……身と、身に触れてるものの、端から放て」

それから、ボクの右の刃の切っ先を、指でちょんと指した。

「……刃の先、手のひらだと思って。そこから、放つー」


また、留めていたんだ。

腕の中に溜めて、刃まで行く前にほどけていた。

刃の先が、手のひら。

そこから放つ。

右は、肩まで痺れている。

左の黒鉄は、まだ一度も振っていない。

痺れた右の剣を下げて、左手の黒鉄を前に出した。

「うん。刃の先が手のひら、だね。左でやる」


左腕に灯りを通した。

溜めずに、切っ先まで流しきる。

握るな、持て。

ラウロの声が、頭の中でする。

踏みこんで、打ちこむ瞬間だけ指を締めた。

刃が石に触れたところで、切っ先から放つ。


切っ先で、白い光が弾けた。

散らずに、刃の当たった一点へまっすぐ押しこまれていく。

乾いた音。

焦げ跡の石壁に、拳ほどの深さの穴が穿たれていた。

周りに、細いひびが三筋走っている。

欠けた石のかけらが、足もとに落ちた。

左腕の痺れは、肘で止まっている。


届いた。

筋一本じゃない。

黒鉄の柄を握ったまま、穴を見つめた。

入口の石の上で、ブランが鼻を一つ鳴らすのが聞こえた。


それから日が高くなるまで、石切り場には、刃が石を打つ音と、ラウロの素振りが風を切る音が続いた。



その日の夕方、看板の無い宿に戻ると、腰の曲がった宿のおばあさんが戸口で言った。

「このごろ夜な夜な、東の台地のほうへ荷車が行く音がするよ。窓の下の道さ。

夜中にあんなに荷車が通るのは、この冬になってからだね」

晩飯のあと、ブランは坂の上の酒場へ出ていった。


夜更け。

ラウロもガレナもイルウェンも、大部屋で寝息を立てている。

宿は崖の岩に食いこんで建っていて、裏の窓から張り出した平たい屋根に、岩伝いに上がれる。

眠れなくて、屋根に上がった。

少しして、戻ってきたブランも上がってきた。

空は晴れていて、星が多い。

屋根のすぐ下を、東の台地へ向かう道が通っている。

高台の上では、砦の壁の見回りの灯が一つ、ゆっくり動いていた。

ブランの横には、酒場から持ち帰った木の杯が置いてある。

酒が、半分残っていた。


ブランは杯を手に取ったけど、口はつけずに置き直した。

屋根の下の、東へ続く道を顎で指す。

痺れの残る手のひらを、一度握って、ほどいた。

「酒場で聞いてきた。……夜の荷車は、あまねく希望のだ。

刷り札を貼った荷車を手伝いの若いのが押して、荷台には集いで種をもらった連中が乗ってる。

台地の先のどこへ行くかは、誰も知らねえ」

間が空いた。

「……それと、荷役の一人が「どうせ世の中は変わらねえ」とこぼしてた。周りはみんなうなずいてたぜ」


どうせ、世の中は変わらねえ。

ブランが酒を飲むたびに、ずっとこぼしてきた言葉だ。

ブルチャ野の焚き火でも、続きを言いかけて、とうとう言えなくなった。

膝を抱えて、ブランの横顔を見た。

いつもなら、ここで杯をあおって、ああそうだな、と笑う。

でも、杯は置かれたままだった。

ブランは東の道を見たまま、低く続けた。

「……俺は、うなずけなかった。変わるかは知らねえ。だが、手前の分は変えられる」


息を止めた。

ブランが、あの言葉を言わなかった。

変わらねえ、じゃない。

手前の分は変えられる、って。

耳の先が、熱くなった。

「……ブラン、今、言い方、変わった」

ブランは片眉を上げて、杯のふちを指で弾いた。

「あ? 酒が足りねえだけだ」

「ううん。ボク、うれしいよ。ブランの口癖だったのに。……ボク、今の言い方のほうが好き」

ブランは何も返さなかった。

鼻を一つ鳴らして、杯のふちをもう一度弾く。


夜半近く。

下町のほうから、輪の軋む音が坂を下りてきた。

荷車が三台、列になって、屋根のすぐ下を通っていく。

どの側板にも、上を向けて開いた手のひらから芽が伸びる、あの刷り札が貼ってあった。

押しているのは、首や手首に布を巻いた手伝いの若い男たちで、誰も口をきかない。

灯りも持たず、星明かりだけで道を踏んでいく。

荷台では、毛布にくるまった人たちが肩を寄せ合っていた。

一台に、七、八人ずつ。

手首の赤い花を、隠さずに出している人もいる。

泣く人も、降りようとする人もいない。

列の最後を、手伝いの男が二人、何度も後ろを振り返りながら歩いていた。


屋根に伏せて、二台目の荷台を見下ろした。

外套にくるんだ赤ちゃんを抱いた、若い母親。

星明かりで、顔が少しだけ見える。

岩屋の集いで種を植えられて、路地の三つ目の角を右、青い布の戸だと教えてくれた、あの人だ。

母親は赤ちゃんの額に頬を寄せていて、顔を上げない。


屋根から道までは、ひと跳び。

腰には、二振りの短剣。

跳べば、荷台に届く。

でも、泣いてない。

降りようともしてない。

自分で選んだのかもしれない。

それも知らないまま引きずり下ろしたら、グラッソとおんなじだ。

屋根の縁にかけていた手を、拳に握って引っこめた。

短剣は、抜かない。

「ブラン。二台目、青い布の戸のお母さん。赤ちゃんも乗ってる。……ここで、見てる。

昼になったら、あの荷車がどこへ行くのか、ボクも確かめに行くからね」

「ああ」

ブランは東の道に目を向けたまま、短く返した。

「顔を覚えとけ」


荷車の列は、崖の縁を這う道を東へ上っていった。

最後尾の二人が、道が台地へ折れる角で足を止める。

来た道を、長いあいだ見下ろしていた。

やがて二人も列を追って、角の向こうへ消えた。

輪の音が、小さくなっていく。

東の台地のほうは、星明かりの下で、ただ黒い。


しばらくして、輪の音も聞こえなくなった。

ブランの横の杯には、酒が半分残ったままだった。

星を一つ映して、夜気に冷えていく。

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