要塞の日々
岩屋の集いを壁際から見た夜から、五日が経った。
フォンターレに着いて、七日目の朝。
倉通りの上の、灰色の鷹の看板の詰所は、朝から汁の湯気でけむっていた。
この五日、五人は小さな依頼で食いつないできた。
ラウロとガレナは塩と硫黄の荷主の護衛で、東の台地の村まで樽を運んで戻った。
そのあと、同じ荷主の口利きで、砦街の壁の補修の石運びに二日出た。
日当は銅貨六枚。
昼の汁は出なかった。
荷主は首に布を巻いた荷役たちと顔なじみで、仕事はその繋がりから回ってくる。
ドラージョの広場から逃げのびた人たちが、黙って戸を開けてくれる町なのだ。
土間の長い卓で、頭巾をかぶったまま薄い汁をすする。
壁の板には依頼書が並んでいるけど、どれも報酬が低い。
護衛の依頼書は、砦街の商家の荷と、聖堂の荷とで、二つに分けて貼ってあった。
同じ壁の上で、隣どうしなのに目も合わせていないみたいだ。
帳場の前に、前掛けをした女の人が立っていた。
肘まで袖をまくっていて、手の甲が木くずでささくれている。
桶屋の女房だと、帳場の男に名乗っていた。
「三日前から帰らないんだよ。茶のぶちの猟犬でさ、東の門の外へ駆けてくのを見た人がいるんだ。
出せるのは銅貨十枚。それで頼めないかい」
帳場の男は帳面をめくりながら、首を横に振った。
「十枚じゃ、誰も受けないよ」
女の人の肩が落ちた。
前掛けの端を握ったまま、こっちの卓を振り返る。
ブランが椀を置いて、立ち上がった。
ラウロとガレナに、そのまま座ってろと手で合図する。
帳場の前で、女の人に軽く頭を下げた。
「奥さん、その犬、俺らで探しますよ。十枚で構わねえ。名前と、呼んだら来る合図を教えてください」
ブランと、ボクと、イルウェンで出る気だ。
町の外へ大手を振って出られる依頼なんて、この町じゃめったに回ってこない。
犬を探すついでに、門の外も見てくるつもりなのだ。
女の人は、ほっとしたように前掛けを握り直した。
「ぶちって呼んでるよ。指笛を短く二つ鳴らせば戻ってくる。首輪は赤い革。
三日前の夕方、東の門の外の水車小屋の辺りで、粉屋の小僧が見たのが最後だ」
ラウロが立って、帳場の帳面に自分の名を書いた。
帳場の男は、犬捜しの依頼書をブランに渡した。
女の人は五人に何度も頭を下げて、詰所を出ていった。
ガレナが、椀の残りを一息に飲み干した。
卓に置いて、ボクを見る。
「ノア、犬見つけたからって一人で先に駆けてくなよ。……あたしは残る。
こっちの仕事はラウロと片づけとく」
「うん。駆けない」
ドラージョで一人で先に跳んだのは、ボクだ。
ガレナも、それを覚えている。
昼のうちに、三人で東の門の外の水車小屋まで行った。
粉屋の小僧は、犬なら台地へ上る道のほうへ駆けていったと言った。
道の脇の泥に、犬の足跡が台地のほうへ続いていた。
半日では追いきれない。
明日の朝から町の外で夜を明かして探す、とブランが決めた。
夕方。
看板の無い宿の裏庭は、崖の岩肌に三方を囲まれた、狭い土の庭だった。
隅に、割った薪が積んである。
高台の上で、夕方の鐘が鳴り終わったところだった。
胸の骨の奥に、まだ尾が残っている。
ブランは坂の上の酒場へ、ガレナは湯屋へ出ていって、イルウェンは大部屋で毛布にくるまっている。
裏庭にいるのは、ボクとラウロの二人だけだった。
ラウロは脚の布をほどいて、庭の隅で短い剣の型を振っていた。
切っ先から三割を断たれたままの剣。
空を切る音が、岩肌に返ってくる。
外套の内から、ブランにもらった革の鞘の短い剣を右手に抜いた。
左手には、ベリアトの黒鉄の短剣。
両手に一本ずつ握ると、重さが左右で違う。
ドラージョで、ボクの刃は殻に筋を一本引いただけだった。
跳んでも、灯しても、届かなかった。
体の速さだけじゃ足りないのだ。
型を持っているのは、ラウロのほう。
昔はボクが前を走っていたけど、剣のことなら、もうラウロが上だ。
頼むなら、まっすぐ頼む。
ラウロの手が止まるのを待って、前に立った。
「ラウロ、剣、教えて。ボク、これからは選んで抜くって決めた。
でもドラージョで、跳ぶのと灯りだけじゃ届かなかったでしょ。キミの型、ボクにもちょうだい。
……二本でやる。脚、痛かったら言ってね」
二振りを、胸の前で構えた。
ラウロは剣を下ろして、目を逸らした。
一つ、息をつく。
それから近づいてきて、ボクの右手の指を一本ずつ叩いた。
叩かれた指から、力が抜けていく。
小指と薬指だけが、柄に残った。
左手も同じように緩められて、黒鉄の切っ先を少し外へ寝かされる。
「……ったく、脚は平気だ。いいか、握るな、持て。爺さんの受け売りだ。お前の指、白くなってるだろ。
それじゃ当たった瞬間に手首が固まる」
指の腹で、ボクの右の柄を軽く叩く。
「右は持ってるだけでいい、斬る瞬間にだけ小指と薬指で締めろ。左は受けるな、ずらせ。
刃を寝かせて、相手の刃を外へ流す。右と左で別のことをしろ。混ぜるなよ」
三歩、下がった。
短い剣を抜き身のまま、力を抜いて低く構える。
「……来い。速さで来てもいいぞ、俺は型で返す」
握るな、持て。
手の中の柄が、さっきより軽い。
一度だけ指を開いて、握り直した。
小指と薬指のほかは、添えるだけ。
「うん。行くよ」
低く跳びこんだ。
三歩の間が、一息で消える。
左の黒鉄の腹で、ラウロの剣を外へ押した。
同時に、右を胸もとへ。
止めるつもりの突きだった。
ラウロは、押された剣に逆らわなかった。
刃を寝かせたまま、外へ流されるのに任せる。
左足が引かれて、体が半身になった。
突きが、外套の布をかすめて空を突く。
流されたはずの剣が、手首だけで返ってきた。
右の前腕に、こつん、と峰が当たる。
手首から、指二本ぶん上。
「そこだ。左で流しに来たぶん、右が伸びきってる。肩が前に出たら、もう引けねえだろ」
伸びきっていた。
肩が、ラウロの胸のほうへ泳いでいる。
拳を一度握って、力を抜いた。
三歩下がって、構え直す。
「うん、伸びてた。……もう一本」
今度は跳ばない。
一歩半で詰めた。
左の黒鉄で、剣を外へ払う。
払った手応えを確かめて、肩を後ろに残したまま、右を脇腹へ短く。
確かめた、その一拍だった。
払われたラウロの剣が、払われた勢いのまま小さく円を描いて、内へ戻ってくる。
右が出る前に、峰が上から鍔元に落ちた。
ボクの短い剣の切っ先が、土に刺さる。
「一拍待ったろ。手応えなんか確かめるな。左で払ったら、右はもう出てなきゃ遅え」
それから日が落ちきるまで、打ち合った。
ボクの踏みこみは、ラウロの目にはほとんど見えていないはずだ。
それでもラウロは、受けずにずらして、流れた剣を手首で返す。
同じ手順で、何度も腕や肩に峰が来た。
左で払ってから右が出るまでの間は、少しずつ縮んだ。
最後まで、一本も取れなかった。
崖の岩肌が暗くなって、宿の窓に灯りが入った。
二人とも息が上がって、薪の山の脇に腰を下ろす。
二振りを鞘に収めた。
ラウロの縛り直した脚の布に、土がついている。
手で払ってやった。
膝を抱えて、隣の顔を見る。
速さは、ボクのほうが上なのに。
ラウロはこれを、ボクが見ていないところで、ずっと振っていたのだ。
悔しい。
でも、なんだか嬉しい。
「ありがとう。一本も取れなかった、悔しいよ。でもキミ、ずっと振ってたんだね。ボクが見てないとこで。
……かっこよかった。脚、ほんとに平気? 明日もやって。ボク、左と右の間、もっと縮める」
ラウロは目を逸らして、薪の山に背を預けた。
膝の上で、短い剣を鞘に収める。
少し間を置いて、自分の脚を軽く叩いてみせた。
「うるせえ。……まあ、四年振ってりゃな。脚は少し重い。けど明日も振れる。明日もやる」
目は、崖のほうを向いたままだった。
「左と右の間、あと半分だ。半分縮めたら、一本取られてやるよ。取らせねえけどな」
ボクたちは、二度負けている。
ブルチャ野で、ベリアトの黒い左手に。
ドラージョで、灰色の殻の腕に。
そのことは、どっちも口にしなかった。
翌朝、三人で東の門を出た。
ラウロとガレナは、荷主の倉へ下りていった。
犬の足跡は、台地へ上る道の脇を半日たどったところで、岩場に消えた。
台地の縁の、風の当たらない岩陰で夜を明かすことにした。
乾いた灌木を集めて、焚き火の支度をする。
日が傾くころ、台地へ上る道を、頭巾の二人が上がってきた。
ラウロと、背に布でくるんだ大剣を担いだガレナ。
焚き火の煙を目当てに、まっすぐこっちへ来る。
ブランは焚き火の脇に座ったまま、二人の後ろの道に目をやった。
尾けてくる者がいないか、確かめているのだ。
それから、火のそばの石を顎で示した。
「ほう。町の仕事はどうした」
ラウロが頭巾を下ろして、石に腰を下ろした。
痛めた脚を、前に投げ出す。
「荷主が樽出しを見合わせた。台地の村から使いが来たんだと。日当だけ貰って帰された、だから来た」
ガレナは何も言わずに、ボクの隣にどかっと腰を下ろした。
来てくれたんだ。
台地の風が、急に冷たくなくなった気がした。
日が落ちた。
灌木の枝が、焚き火ではぜる。
台地の縁から見下ろすと、フォンターレの高台が黒く沈んでいた。
砦の壁の上を、見回りの灯が一つ動いている。
ブランが指笛を短く二度、何度か鳴らした。
遠くで一度だけ、犬の吠える声が返ってきた。
それきりだった。
夕飯の干し肉を噛み終えると、ラウロが立ち上がった。
脚の布を締め直して、焚き火の向こうの平らな地面へ歩いていく。
背の短い剣を抜いて、こっちを振り返った。
「ノア。約束だろ。左と右の間、あと半分だ。来い」
ガレナも立った。
「ちょっと振ってくる。寝るまでには戻る」
焚き火から離れた地面へ行って、背の布包みをほどく。
白い刃が、火の明かりに出た。
腕にだけ、朱の灯りが薄く灯る。
全開にはしない。
同じ型の振り下ろしを、一本ずつ確かめるように繰り返す。
ラウロのほうへ行くには、ガレナの横を通る。
振り下ろすたびに、コッコの刃が火の明かりを受けた。
すぐそばで、白い刃の縁が見える。
あれ。
ドラージョで最後に見たときは、刃先から鍔まで、のこぎりみたいに欠けていた。
小指の先ほどの欠けが、いくつも。
今は、どの欠けも浅いくぼみくらいしかない。
くぼみの縁は、削って研いだ跡に見えなかった。
刃の白が、そのままくぼみの奥まで続いている。
ラウロに片手を上げて、すぐ行く、と合図した。
ガレナの横で足を止めて、振り下ろしの合間に刃を覗きこむ。
「ガレナ、待って。コッコの欠け、小さくなってない? 前はもっとガタガタだったよ。直しに出したの?」
ガレナが振り下ろしを止めた。
刃を焚き火のほうへ傾けて、欠けを見る。
親指の腹で、刃の縁をなぞった。
「いいや、どこにも出してねえ。……勝手に治ってきてやがる。
ドラージョのあとは、ずっと布にくるんだままだったのに」
勝手に。
鉄の刃が、勝手に元に戻るなんて、聞いたことがない。
刃から目を上げて、ガレナの顔と、布を巻いた腕を見た。
その剣を、毎日握っているのはガレナなのだ。
「なんだか怖いよ、それ。ガレナ、大丈夫? 握ってて、手とか腕とか、変なとこない?
あったら隠さないで言って」
ガレナは、握った手を開いたり閉じたりして見せた。
布を巻いた腕を、軽く回す。
それから、コッコを握り直した。
「なんともねえよ。手も腕も、いつもと同じだ。……変なとこ出たら、隠さず言う。だからそんな顔すんな」
焚き火のそばで、イルウェンが肩掛けの鞄の留め具を外した。
筒を半分ほど引き出して、胴を指でなぞる。
半分の目が、コッコのほうへ向いた。
「わたしの筒と……同じかも。曲げられたのに、……いつの間にか、戻ってたー」
曲げられた筒が、いつの間にか。
コッコと同じに、誰も手を入れていないのに。
ラウロが、短い剣を下げたまま歩いてきた。
焚き火の明かりで、コッコの刃を覗きこむ。
それから、自分の背の剣の、断たれた切っ先に一度目をやった。
「……ったく、気味悪いな。俺のは二年経っても短いままだぞ。普通の鉄は治らねえ。
遺跡の拾い物と、出所の知れねえ筒だ。同じ類なんだろ」
ガレナのほうへ、顎をしゃくる。
「ガレナ、強がるなよ。腕、ブランにも見せとけ」
ブランは火の向こうの岩に背を預けたまま、何も言わなかった。
耳だけが、こっちを向いていた。
ガレナに、小さくうなずいた。
「うん、約束。ガレナ、言ったからね」
それから、平らな地面のラウロの前へ行って、二振りを抜く。
「……ラウロ、来たよ。あと半分、今日縮める」
腕が上がらなくなるまで、打ち合った。
左で払ってから右が出るまでの間は、昨日より短くなった。
それでも一本は、最後までラウロのものだった。
すぐそばで、ガレナの朱が、振り下ろすたびに薄く揺れていた。
夜が更けた。
二振りを鞘に収めて、焚き火のそばに戻る。
膝を抱えて座った。
炎の向こうで、ブランが台地の闇を見張っている。
膝の陰で、指を一本、折った。
二本目。
街を出たのは、春だった。
三年たったら母さんのところへ帰ると、自分で決めた。
その三年目の年に、もう入っている。
春まで、あと二つと少し。
片手の指が、余ってしまう。
母さん、待ってるかな。
荷台の人たちも、種のことも、まだ何も片づいていない。
三本目を折りかけたところで、手を握りこんだ。
片づけてから帰るって決めた。
だから、まだ誰にも言わない。
隣で、イルウェンがずり寄ってきた。
握りこんだ手の上に、ひんやりした手が軽く重なる。
何を数えていたのかは、聞かれなかった。
「……ノア。肩、借りるー」
いつものように、肩に頭が乗った。
すぐに、寝息が聞こえはじめる。
重なった手は、そのままだった。
明け方、ブランの指笛に、近くで犬が吠え返した。
台地の縁の窪みで、茶のぶちの猟犬が、灌木の根に赤い革の首輪を引っかけて動けずにいた。
野兎の穴を掘っていたらしく、鼻先が土だらけだった。
首輪を外してやると、犬は五人の足もとを一回りしてから、ブランの脛に体を擦りつけた。
「……なんで俺だ」
ブランがぼやいた。
耳の先が、少しだけ寝ていた。
昼前、町へ戻って、下町の桶屋で犬を返した。
桶屋の女房は泣きながら銅貨十枚を数えて、ブランの灰鷹の札に済みの印を押した。
ブランは銅貨を袋にしまった。
それからガレナの布を巻いた腕を手に取って、一度ざっと見て、放した。
通りの先の市を、顎で示す。
「俺はラウロと詰所に寄ってくる。お前らは市で昼の食いもんを買っとけ。昼の鐘で宿だ」
行きかけて、振り返らずに付け足す。
「……ガレナ、腕は夜にもう一度見せろ」
石段の途中の広場の市は、昼の買い物の人で混んでいた。
干し魚、蕪、塩漬けの肉、焼いた丸いパンの屋台が並ぶ。
パンの焼ける匂いが、空いた腹に来た。
水場の列で、桶を抱えた女の人たちが話していた。
「ドラージョの白い翼の冒険者、ほんとは聖堂の火の中から子どもを百人も抱えて出てきたんだって」
「あたしが聞いたのは、黒い翼の悪魔と夫婦で、二人で聖堂を焼いたって話だよ」
蕪の屋台の主が、客に言い返している。
「どっちも違う。翼の幅は通りいっぱいで、目が光って、槍の兵を灯り一つで二十人ひっくり返したんだ。
うちの甥っ子が見たんだから間違いねえ」
主は、蕪を一束振り回した。
「それに、連れてる赤毛の大女がまたすげえんだ。
背丈は門の梁ほどあって、大剣の一振りで聖堂の扉をぶち抜いたってよ」
客が笑う。
「そいつら、今どこにいるんだ」
「東へ逃げたってよ。この町に来てたら、見物料取れるのになあ」
百人も抱えてない。
聖堂も焼いてない。
夫婦って、なにそれ。
頬が熱い。
言い返したい。
でも、ここで口を開いたら、自分で名乗るのと同じだ。
頭巾を深く引き下げて、外套の前を合わせ直した。
背中で、翼のはみ出したところを押さえる。
ガレナの袖を軽く引いて、蕪の屋台から離れた。
焼いたパンの屋台の列に並ぶ。
「ガレナ、振り向かないで。門の梁、だって。……パン、買お」
ガレナは振り向かなかった。
頭巾の端を引き下げて、こぼれかけた赤い髪を中へ押しこむ。
背のコッコの布を肩で直して、少し背を丸めて、ボクの後ろに並んだ。
「……梁はねえだろ、梁は。扉もぶち抜いてねえし」
小声で、口を尖らせる。
「……パン、四つでいいか。ラウロの分も入れて」
「五つ。ブランの分」
イルウェンが、半分の目のまま、ボクの後ろから指を一本足した。
「……六つ」
「お前、二つ食う気かよ」
イルウェンは答えなかった。
焼き上がったばかりのパンの山を、じっと見ていた。
結局、丸いパンを五つ買った。
ボクたちのことを話す人たちのあいだを、ボクたちは頭巾のまま通り抜けた。
誰も、振り返らなかった。
噂だけが、ボクたちより先に、市じゅうを歩いている。
昼の鐘が鳴り終わるころ、看板の無い宿の裏の大部屋へ戻った。
少し遅れて、ラウロが戻ってきた。
そのあとから、ブランが入ってきた。
外套から酒の匂いがする。
足取りは、乱れていなかった。
ブランは戸を閉めて、パンを一つ取った。
壁にもたれて座る。
四人のほうは見ずに、手の中のパンを割りながら、区切って話しだした。
「いいか、坂の上の立ち飲みで拾ってきた。崖の岩の戸口の家が、ゆうべ三軒空になった。
鍋も布団も置いたまま、朝には誰もいねえ」
割ったパンの片方を、膝に置く。
「三軒とも、暮れから集いに通って種を植えてもらった者のいる家だ。
一軒は出がけに隣へ、下へ行けば救われる、と言い残してる。誰に連れられてどこへ出たかは、誰も見てねえ。
荷役どもは、印が出て町にいられなくなったんだろうと言って、そこで口を閉じた。……以上だ」
下へ行けば救われる。
ドラージョの裏通りで、猫の行商が猫なで声で言っていた言葉だ。
荷台に乗ったまま、誰も降りなかった人たち。
それと同じことが、この町でも夜のうちに起きている。
崖の岩の戸口。
集いのあとに話した、熱の子のお母さん。
路地の三つ目の角を右、青い布の戸。
あの家は、三軒のうちに入っているんだろうか。
今すぐ見に行きたい。
でも、一人で駆けないって決めた。
膝の上で、ぎゅっと拳を握った。
開く。
パンを膝に置いたまま、ブランの顔をまっすぐ見た。
「下へ行けば救われる、ってグラッソの言い方だよ。ドラージョの荷台と同じ。……先に言うね。
集いのあと話した、熱の子の母さん。路地の三つ目の角を右、青い布の戸。
あの人がまだいるか、確かめに行きたい。今日のうちに」
息を吸う。
「ブラン、退き際を決めて。それは守る」
ブランの手の中で、割りかけのパンが止まった。
板戸の隙間から、崖の岩肌に昼の日が当たっているのが見えた。




