↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
PR
71/99

あまねく

翌朝、ラウロとガレナは、灰色の鷹の詰所へ仕事を取りに先に出ていった。

少し遅れて、看板の無い宿の戸口を出る。

崖から下りてくる風が、頬に冷たい。

頭巾の縁を指で下げて、外套の前を握り直した。

背中の翼は、ずれたところがまだ外套の下で突っ張っている。


道を挟んだ向かいの壁に、ゆうべ窓から見た札が何枚も貼ってあった。

近くで見ると、どれも同じ札だ。

版木で刷った黒い印がある。

上を向けて開いた手のひらから、細い芽が何本も四方へ伸びている形。

その下に、字が二行並んでいる。


札の前で、空の背負子を担いだ女の人が足を止めていた。

三十くらいで、頬が寒さで赤い。

首をかしげて札を見上げていたその人が、振り向いて、宿から出てきたボクたち三人を見た。

「ねえ、そこの人たち。字、読めるかい。あたし、読めなくてさ。これ、何て書いてあるんだい。

隣の娘っ子が、この札を見て岩屋へ行ったきり、えらく元気になったって言うんだよ」

女の人は、いちばん近くにいたイルウェンの袖を、遠慮がちに指でつまんだ。


イルウェンは袖をつままれたまま、半分しか開かない目で札を見上げた。

「うん。……読める。『下へ行けば……救われる』。……下の行。『奇跡は、壁の内の者だけのものじゃない。

……あまねく、誰にでも』」

それから、印の下の隅を指でさした。

小さな字が、刷ってある。

「……すみっこ。『あまねく希望』」

読み終えて、イルウェンがちらっとこっちを見た。


あまねく希望。

ベリアトの口から聞いた名だ。

干し魚の猫が頭の、見境なく奇跡を撒く連中。

それが、この町では壁に貼られて、町の人の口から出てくる。


女の人は、イルウェンが指した隅の字と印を何度も見比べて、ほっとしたように笑った。

「あまねく希望。……ああ、やっぱりそれだ。隣の娘っ子も、そう言ってたよ。

岩屋に集まる人たちでね、壁の内の旦那衆が独り占めしてる奇跡を、下の者にも分けてくれるんだって。

誰にでも、ただでさ。なんで欲しいかも、何に使うかも聞かれないんだと。

種ってのを一つ植えてもらうと、重い荷が軽くなって、寒いのも平気になるって」

背負子の紐を握りしめて、札をもう一度見上げる。

「印が出たら町にいられないって、みんな言うけどさ。下へ行けば、その印ごと救ってもらえるんだって。

……あたしも、行ってみようかねえ。冬は荷が重くてさ」


なんで欲しいかも、聞かれない。

ゆうべの酒場の話が戻ってくる。

首の花が灰色に腫れあがって、パンを売っていた娘を殴り倒した荷役。

ラーモの宿場で見た、石みたいな腕。

ドラージョで、ボクを岩に叩きつけた殻の腕。

でも、この人が選ぶのを、ボクが取り上げるのも違う。

知らないまま行くのだけは、止めたい。


女の人と札のあいだに、一歩出た。

頭巾の下から目を合わせて、自分の首筋を指でとんとんと叩いてみせる。

「行かないで。少なくとも、今は。ボク、ゆうべ酒場で聞いたんだ。

岩屋で種をもらった荷役が、首の花が灰色に腫れて、人を殴り倒したって。年が明けてから三人目。

軽くなるのは本当かもしれない。でも、体に合わなかったらそうなるんだよ。誰も確かめてくれない。

その隣の娘さん、首とか腕に、花の跡ある?」


女の人は、ボクの叩いた首筋を見て、目を瞬いた。

「花の跡……手首にあるよ、あの子。赤いのが一つ。……でも、元気になったんだよ。咳も止まったって」

背負子の紐を握り直す。

眉を寄せて札を見上げ、それからボクの顔を見た。

「……灰色に腫れる、ねえ。分かったよ、今日はやめとく。……けど、冬の荷は重いんだ」

小さく頭を下げて、女の人は坂を下りていった。


冬の荷は重い。

それは、ボクにはどうにもできない。

右手を、外套の内で握った。



札は、崖沿いの路地の奥へ続いていた。

戸口の布の脇にも、むき出しの岩肌にも貼ってある。

奥へ行くほど、紙が白くて新しい。

貧民街の路地は、人ひとりがやっと通れる幅で、足もとの土は凍って固かった。


一刻ほど、ブランが先に立って戸口に声をかけて回った。

ほとんどの戸口は、頭巾の三人を見るなり布を下ろして黙った。

ひとつだけ、布をめくって出てきた人がいた。

四十くらいの痩せた男の人で、手の甲に赤い花の跡がある。

日の当たる岩に腰を下ろして、腕をさすりながらこっちを見上げた。

「札を見て来たのかい。なら今夜だよ。

日が落ちて、砦の鐘が鳴ったら、この路地の突き当たりの岩屋で集いがある。俺は年の暮れに植えてもらった。

ほら、この寒さで、腕が冷えねえんだ。……あんたらも、欲しいなら手を挙げりゃいい。

名前も、なんで欲しいかも、聞かれねえよ」


ブランは男の人の手の甲にちらりと目をやり、腰の革袋から一口あおった。

それから、男の人の隣の岩にしゃがむ。

「ほう、冷えねえのか。そいつはいい。……植えるのは誰だい。

あんたの顔を見て植えた奴は、腹の太った猫じゃなかったか」


男の人は、しゃがんだブランを横目で見て、首を振った。

「猫? いや。植えてくれるのは、首に花のある女の人さ。

元は俺らと同じで、印が出て、勤め先を追い出された口だってよ。

自分が救われたから、今度は皆に分けてるんだと。……手伝いの若いのが何人か、箱を担いで来る。

その上に誰がいるかなんて、俺は知らねえ。知らなくても、腕は冷えねえ」

腕をさすりながら立ち上がり、男の人は布をめくって岩の戸口へ戻っていった。


猫じゃ、なかった。

ベリアトの言ったとおりだ。

もう表に出てこない。

代わりに、印を負った人が、印を負った人に植えている。



昼、倉通りの上の、灰色の鷹の詰所。

土間の長い卓で、冒険者と荷役が肩を並べて汁をすすっていた。

ラウロは頭巾をかぶったまま、壁の依頼書を眺めるふりをして、帳場の脇の声を聞いていた。

毛皮の襟巻きをした太った商人が、帳場の男に指を立てている。

「明日の朝、塩と硫黄を十樽、東の台地の村へ出す。護衛が二人要る。日当は銀一枚、昼飯つき。

誰かいねえか」

卓の端では、荷役が二人、声を落として話していた。

「……また今夜も上がるんだろ、岩屋の荷。夜になると、空き倉から箱を担いで貧民街へ上がってく」

「あの箱、どこの荷だよ。ゆうべ担がされた奴が、荷札を見たってさ。

砦街の、何とかって商家の札だったって」


二人、か。

ちょうど数が合う。

組の名は出すなと、ブランに言われている。

ラウロは帳場へ歩いていき、商人の前に立った。

親指で、後ろのガレナを指す。

「その護衛、俺とこいつで受ける。二人だ。流れ者だけど、腕は確かだぞ」


商人は頭巾の二人を上から下まで眺め、ガレナの背の、布でくるんだ長い得物で目を止めた。

「流れ者か。まあいい、冬の働き手は貴重だ。名は帳場に書いとけ、手形はいらん。

明日の夜明け、倉通りの三番倉の前だ。遅れたら次を雇う」

銅貨を一枚、帳場の男に滑らせて、商人は詰所を出ていった。

帳場の男が、帳面と筆をラウロのほうへ押し出す。


ガレナは帳面に背を向けて、さっさと卓の端へ行っていた。

荷役の二人の隣に、どかっと腰を下ろす。

頭巾は下ろさない。

「なあ。その岩屋の荷担ぎ、銅貨出んのか。今夜も手が足りねえなら、どこで声かかるんだよ」


若いほうの荷役が、隣の頭巾をじろじろ見た。

背の布包みと、肩の厚みで目が止まる。

「出るよ、箱一つ担いで銅貨三枚。日が落ちたら、倉通りのいちばん端の空き倉の裏だ。

手伝いの若いのが立ってて、手が足りなきゃその場で声をかける。……お前、女か?

まあ、その肩なら担げるか」

年かさのほうが、椀の底をさらいながら口を挟んだ。

「荷札はな、焼き印の木の札だ。天秤の印が押してあったって。天秤の印は砦街の商家だよ。

どこの家かまでは、俺らには分からねえ。

……妙だろ、壁の内の旦那衆の荷が、下の岩屋にただで配られるなんてよ」


ガレナのやつ、勝手に担ぐ気か。

ラウロは帳面に「ラウロ」とだけ書いて、組の名の欄は空けたまま筆を返した。

「名だけでいいな。明日の夜明け、三番倉だろ」

卓の端へ行って、ガレナの肩を軽く叩く。

荷役の二人に、顎で礼をした。

「いい話聞いた、ありがとよ。……行くぞ。担ぐかどうかは帰ってからだ。いいな」

ガレナは舌打ちして、それでも立ち上がった。



夕方、宿の裏の大部屋に五人がそろった。

板戸の隙間から、崖の岩肌が赤く見える。

朝の札と今夜の集いのことを話すと、ラウロとガレナは詰所で拾った荷の話を返した。

二人は明日の夜明けに、塩と硫黄の荷主の護衛に出る。


ブランは板戸の隙間の赤を一度見てから、四人を見回した。

「いいか。集いには俺とイルウェンとノアで行く。頭巾は脱ぐな、手は挙げるな、後ろの壁際から見るだけだ。

イルウェンは字と箱の札、ノアは植える女の手もとを見とけ。何があっても、俺が退くと言うまで前に出るな。

……ラウロ、ガレナ、お前らは倉通りの空き倉だ。

箱を担ぐ声がかかっても乗るな、離れて誰が出入りするかだけ見て、夜半前に戻って寝ろ。

明日は夜明けの仕事だ」


前に出るな。

ドラージョで、先に跳んだのはボクだ。

うなずいた。



日が落ちて、高台の鐘が一つ鳴った。

胸の骨の奥まで、しんと響く音。

その尾がまだ残っているうちに、ラウロとガレナは倉通りへ下りていき、

ボクたちは札の路地を突き当たりまで上がった。


崖の岩を、広く掘り抜いた岩屋だった。

天井は高く、壁の窪みに獣脂の灯りがいくつも置いてある。

煤の匂いと、人いきれ。

六十人くらいが、岩の床に座りこんだり、壁にもたれたりしていた。

首や手首に布を巻いた人。

花の跡を、そのまま出している人。

仕事の無さそうな若い男の人。

子どもを抱いた女の人。

入口の脇の壁際に、三人で立った。


奥に、岩を削った低い台がある。

台の脇には木箱が三つ積んであって、手伝いらしい若い男の人が四人、その横に立っていた。


台に、女の人が一人上がった。

四十くらいで、痩せていて、髪を後ろで固く結んでいる。

首筋に、赤い花の跡がはっきり見えた。

女の人は灯りの下で、その首を隠さずに皆へ向けた。

「わたしも、ここにいる皆と同じだった。首に印が出て、機織りの店を追い出された。

聖堂は偽りの灯りだと言った。

壁の内の人たちは、奇跡を自分たちだけのものにして、わたしたちには印だけを残した。……でも、救われた。

種をもらって、わたしは今、こうして立ってる。奇跡は、壁の内の者だけのものじゃない。

あまねく、誰にでも。欲しい人は手を挙げて。名前も、わけも、聞かない」


何人かが、手を挙げた。

女の人は台を下りて、手を挙げた人の前に一人ずつしゃがむ。

手伝いが箱から小さな包みを渡す。

女の人は包みから灰色の種を一つつまんで、相手の手首に当て、手のひらで包むように押さえた。

手を離すと、手首に赤い花の跡が浮いている。

植えてもらった男の人が、腕を回して笑った。

まわりから、低い声が上がる。


あの人、何も聞かない。

ベリアトは、奇跡を渡す前に、なぜ欲しいかを聞いた。

ここでは、誰も聞かない。


三人目に、赤ちゃんを抱いた若い母親が、震える手を挙げた。

「この子の熱が、三日下がらないんです。わたしに……わたしに植えてください。

そしたら、この子を抱いて、夜通し働けるから」

女の人が母親の前にしゃがみ、手伝いから包みを受け取った。


熱の子のために、自分を削ろうとしている。

熱なら、医者で下がるかもしれない。

体に合わなかったら、灰色に腫れて、あの子を抱くこともできなくなる。

前には出ない。

ブランと、そう決めた。

でも、黙って見てるだけは、もう選ばない。

声なら、壁際からでも届く。


壁際に立ったまま、頭巾も上げずに、岩屋の奥まで通る声を出した。

「ねえ、なんで聞かないの? その人、熱の子を抱いて夜通し働くためって言ったよ。

体に合わなかったらどうなるか、キミは教えないの?」


岩屋が、しんとなった。

座りこんでいた人たちが、入口の脇を振り向く。

女の人は母親の前にしゃがんだまま、顔だけを上げた。

灯りの届かない壁際の頭巾を、まっすぐ見る。

声は、荒げなかった。

「聞く要は無い。誰にでも、あまねく。

……わけを聞いて、よしあしを決めるのは、壁の内の人たちのやり方だよ。わたしは決めない。

欲しい人に渡す。それだけ」

女の人は種を一つつまんで、母親の手首に当て、手のひらで押さえた。

母親は赤ちゃんを抱いたまま、目をつむっている。


まわりの目が、壁際に向いていた。

誰も、何も言わない。

子どもを抱いた女の人が、ボクから子を隠すように背を向けた。

若い男の人が、床に唾を吐く。

灯りに照らされた何十もの目が、冷えていた。


押さえた。

もう植わっちゃう。

止めなきゃ。

足が、一歩出た。

壁から背が離れたところで、止まる。

ドラージョで先に跳んで、みんなを岩に叩きつけさせたのは、ボクだ。

退き際はブランに聞くって、決めた。

それに、この目の中でボクが前に出たら、あの母親の前で、選んだものを取り上げることになる。

悔しい。

拳を握りこんで、横のブランを見た。


外套の上から、腕を軽くつかまれた。

壁際へ、引き戻される。

ブランは岩屋のほうを見ないまま、低く耳打ちした。

「やめとけ。ここで騒げば、この連中の敵になるだけだ。……見とけ、それが今夜の仕事だ」

それから周りの目に向けて片手を上げ、詫びるように頭を下げる。

「すまねえ、連れが酒の勢いでな」


酒の勢いと聞いて、何人かが鼻を鳴らし、顔を戻した。

子を隠した女の人と、唾を吐いた若い男の人だけは、まだこっちを見ている。

台の前では、女の人が母親の手首から手を離していた。

赤い花の跡が、浮いている。

女の人は、次に手を挙げた年寄りの前へ移っていった。


もう、植わった。

今ここで叫んでも、あの人の手首の花は消えない。

ブランの言うとおりだ。

騒げば、ボクがこの人たちの敵になる。

でも、あの母親を、このまま帰すのはやだ。

前じゃなくて、外で。


腕をつかんでいるブランの手に、自分の手を重ねて、軽く握った。

母親から目を離さずに、ブランにだけ聞こえる声で言う。

「うん、今は見てる。ブラン、終わったら、あの母親に外で話させて。止めるんじゃない。

腫れたらどうなるか、子どもの熱をどこで診てもらえるか、それだけ。ボクに任せて」

ブランの手が、腕から離れた。

前を向いたまま、小さくうなずく。

「外でだ。俺が後ろに立つ」



女の人は、それから十人ほどに種を植えた。

誰にも、何も聞かなかった。

最後に台へ戻って「また七日後に」とだけ言い、奥の布の陰へ下がっていった。


岩屋の人たちが、ばらばらに路地へ出ていく。

植えてもらった人は、腕を回したり、手のひらを眺めたりしながら歩いていた。

赤ちゃんを外套にくるんだ母親も、入口の脇を通りかかる。

手首の赤い花を、もう片方の手で隠すように押さえていた。

肩の赤ちゃんは、熱で赤い顔をして、浅い息をしている。


路地へ出て、母親の少し前に回った。

頭巾を少しだけ上げて、顔を見せる。

手は出さない。

赤ちゃんの顔をのぞいてから、母親の目を見た。

「さっきは、ごめん。止めに来たんじゃないよ。一つだけ覚えといて。

その花、縁が灰色に固くなってきたら、無理して働かないで。腫れる前の合図だから。

それと、この子の熱は種じゃ下がらない。ボク、この町の医者は知らないけど、薬をくれる所、知ってる?

無かったら、ボクたち下町の端の看板の無い宿にいる。困ったら来て」


母親は足を止めて、ボクの顔を見た。

手首を押さえた指に、力が入る。

「……灰色に、固く」

自分の手首の花を見下ろして、それから肩の赤ちゃんの顔を見た。

「薬屋は、銭が無いと戸も開けてくれないよ。

……境目に、印のある者を黙って診てくれる施術師がいるって、聞いたことはあるけど。

どこの戸かは知らない」


路地を下りていく人の何人かが、足をゆるめてこっちを見ていた。

岩屋で唾を吐いた若い男の人が、立ち止まって腕を組む。

「余計なこと吹きこむなよ。その女は自分で手を挙げたんだ。

壁の外の俺らが、やっと貰えるもんを貰っただけだろうが」


こいつの言うことも、半分は分かる。

貰えなかった人が、やっと貰った。

だから、取り上げたりしない。

でも、合わなかったときのことを誰も言わないのは、やだ。

言い返すのは、そこだけ。


若い男の人へ向き直って、両手を広げてみせた。

何も取らない、と見えるように。

「うん、自分で手を挙げた。だから取り上げたりしない。ボクが言ったのは、合わなかったときのことだけ。

それ、あの台の上の人は言わなかったでしょ。知ってて選ぶのと、知らずに選ぶのは違うよ」

母親へ、顔を戻す。

「……その施術師、ボクたちも探してみる。見つけたら知らせるから、キミの家、教えてくれる?」


若い男の人は、広げた手とボクの顔を見比べて、舌打ちをした。

何も言わずに、坂を下りていく。

足をゆるめていた人たちは、顔を見合わせて、自分の手首や首の布に目を落としてから、黙って散っていった。


母親が、赤ちゃんを抱え直した。

「……この路地の三つ目の曲がり角を右、岩の戸口に青い布が掛かってる。うちはそこだよ」

小さく頭を下げて、路地の奥へ帰っていった。


三つ目の角を右、青い布。

胸の中で、二度繰り返した。


岩屋の入口から、手伝いの若い男の人たちが出てきた。

四人で、縄で括った木箱を二つずつ背に担いでいる。

担ぎ方が軽い。

中は、もう空なのだ。

灯りに照らされた箱の横に、焼き印の押された木札が括りつけてあった。

手伝いたちは、下町へ下りる道ではなく、崖沿いの石段を上へ向かっていく。


隣で、イルウェンが壁にもたれたまま、半分の目をほんの少しだけ開けていた。

通り過ぎる箱を目で追ってから、ブランの袖を指でつまむ。

「ブラン。……札、天秤。下に、ちっちゃい字。……一瞬で、読めなかった。……上、行くね。石段」


ブランは袖をつまんだイルウェンに小さくうなずいた。

ボクたちに背を向けたまま、低く言い残す。

「いいか。俺が一人で尾ける。お前らは宿へ戻れ。イルウェン、ノアから離れるな。

夜半を過ぎても俺が戻らなきゃ、ラウロたちと朝の仕事に出ろ」

灯りの届かない岩肌に沿って、間をあけて石段を上がりはじめた。


ついて行きたい。

上に誰がいるのか、ボクも見たい。

でも、退き際はブランに聞くって決めた。

ブランが一人と言うなら、一人のほうが目立たない。

ボクは今夜、青い布の戸を持って帰る。

それで十分だ。

ブランの背中に、小さくうなずいた。

「うん。ブラン、戻ってきてね」

イルウェンの手を取って、下町へ下りる道へ向き直る。

「……イルウェン、帰ろ。三つ目の角を右、青い布。忘れないうちに、宿で書いとく」



崖沿いの石段は、下町の家並みの裏を折れ曲がりながら、高台の上へ続いていた。

空の箱を担いだ四人は、一度も振り返らずに上がっていく。

ブランは十段ほどあけて、その後を上った。

酒で鈍った膝でも、足音を消すくらいはわけもない。


石段のてっぺんに、砦の壁のアーチの門があった。

門の脇で篝火が焚かれ、揃いの濃い緑の上着を着た衛兵が二人立っている。

先頭の手伝いが、懐から木札を出して見せた。

焼き印の押された、手のひらほどの札だ。

衛兵は札を篝火にかざして一度見ただけで、顎で門の内を示した。

四人は箱を担いだまま、壁の内へ消えていった。

空の箱が石畳に当たる音が、遠ざかる。


札一枚で、顎で通す。

顔なじみの荷だ。

ブランが篝火の明かりの中へ出ると、衛兵の一人が槍を横にした。

「止まれ。下町の者は入れない。夜はなおさらだ。札の無い者は、朝に番所で用を言え」


ブランは両手を見せて一歩下がり、腰の革袋を軽く振ってみせた。

酔った荷役の、間延びした声を作る。

「おっと、入りゃしねえよ。……いやな、下の空き倉で箱一つ銅貨三枚って聞いてよ、

担ぎ手が足りねえなら俺も混ぜてもらおうと思って追っかけてきたんだ。今の連中の札、どこの旦那のだい。

朝に番所でその名を言やいいのか」


衛兵は槍を横にしたまま、革袋を振る獣人を上から下まで眺めて、鼻で笑った。

「担ぎ手の口なら、下の空き倉で聞け。札の主の名なんぞ、下の者が口にするもんじゃねえ。……酒くせえな。

とっとと下りろ」

もう一人の衛兵は、門の内の暗がりを振り返りもしなかった。



夜更け。

最後に戻ってきたブランの外套から、夜の冷えと酒の匂いがした。


空き倉の箱は、昼のうちに、上の門から坂を下りてきた荷車で運びこまれたのだと、

ラウロとガレナは倉番の年寄りから聞いてきた。

ブランは、空の箱が札一枚で門をくぐったこと、自分は止められて札の主の名を聞けなかったことを、

短く話した。


種の箱は、砦街から荷車で下りてくる。

空になった箱は、壁の内へ帰っていく。

岩屋の人たちは、壁の内が奇跡を独り占めしていると信じて、手を挙げている。


頭は、壁の内にいる。


腹が立った。

門は通れない。

でも、ボクなら壁を上がれる。

翼を使わなくても、塀くらいなら蹴って登れる。

床から立ち上がった。

外套の下で突っ張る翼のずれを手で押さえ直して、ブランの前に立つ。

「ボク、今夜のうちに壁を越える。門がだめなら、壁を登ればいい。ボクなら翼を使わなくても上がれる。

箱の札の家を見て、誰が種を出してるか確かめたい。

岩屋の人たち、壁の内が奇跡を独り占めしてるって信じて手を挙げてるんだよ。

その壁の内が配ってるなら、話が違う。……ブラン、行かせて。退き際は先に決めて。それは守る」


ブランはボクの目を見返した。

口へ運びかけた革袋を、下ろす。

首を、横に振った。

「やめとけ。

……壁の内で見つかってみろ、ドラージョの白い翼がここにいますって、自分で名乗るのと同じだ。

背中もまだ畳めてねえだろ。札の主は、俺が昼の顔で探る。

明日の塩と硫黄の荷主、行き先は砦街かもしれねえ。お前は今夜は寝ろ」


背中に、手が行った。

外套の下で、ずれた骨の板が、まだはみ出している。

見られたら、おしまいだ。

ドラージョで手配された白い翼が、この町にいると知れる。

宿のおばあさんも、広場から逃げてきた人も、ボクたちに戸を開けてくれた人みんなが、匿った側になる。

唇を噛んだ。

少し黙ってから、うなずいて、床に腰を下ろした。

「……うん、分かった。今夜は寝る。でも、札の主が分かったら、ボクにも見せて。それと、青い布の戸。

明日、ボクが行っていい? あの母親に、施術師のこと、もう一回聞いてみる」


灯りを落とした。

板戸の隙間から、高台の上の砦の壁が黒く見える。

壁の上を、見回りの灯が一つ、ゆっくり動いていく。

空の箱が消えていった壁の内のどこかに、天秤の焼き印の札の主がいる。

外套の内で、黒鉄の短剣の柄を一度だけ握って、目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。