最後のまち
グラッソを逃した日から、十九日がたった。
年が明けて、一月の二日になった。
街道の水たまりには、昼になっても薄い氷が張ったままだ。
翼の根は、まだ息を深く吸うと軋む。
ラウロは布で縛った脚を引きずらなくなり、ガレナの腕の布はだいぶ薄くなった。
傷をかばいながら、轍だけを追って東へ歩いてきた。
街道の行き止まりで、坂の上を見上げた。
岩がちな高台の上に、古い砦が載っている。
灰色の石の壁が、高台のてっぺんを何重にも巻いていた。
壁の内から、四角い塔がいくつも突き出している。
どれも同じ高さで、上をすぱっと切りそろえてある。
その真ん中に、塔より一段高い鐘楼が一本、灰色の空へ立っている。
砦の外の斜面には、屋根と壁が下へ下へと重なっていた。
煙突から上がる煙が、高台を吹く風に横へ流される。
ローザ同盟の東の端。
フォンターレ。
砦の東の角だけ、塔も壁もほかより太い。
そのくせ、上のほうが欠けていた。
崩れた石のあいだに、枯れた草がしがみついている。
何かを待ち構えて造ったのに、もう何も待っていない壁だ。
坂の下に、木の柵と、小屋ほどの番所があった。
荷馬車と、荷を背負った人の列ができている。
番所の衛兵が二人、列の頭を一人ずつ数えて、通行料の銅貨を受け取っていた。
名前までは聞いていないみたいだ。
銅貨を手のひらで鳴らしながら、衛兵どうしが話している。
「ドラージョの聖堂、鐘楼の骨しか残ってねえってよ」
「白い翼の冒険者ってのが火ぃつけたんだろ。
翼の幅が通りいっぱいで、灯りひとつで槍の兵を二十人ひっくり返したとか」
「赤毛の大女が門を素手でぶち抜いた話もあるぜ」
「どっちにしろ、こっちに来られちゃたまんねえ」
翼の幅が、通りいっぱい。
そんなに広くない。
それに、火をつけたのはボクじゃない。
頭巾の縁を、指で少しだけ下げた。
列が進んで、五人の番が来た。
衛兵の一人が、頭巾を並べた五人を見上げる。
「何人だ。何の用で来た」
ブランが、ボクたちの前へ半歩出た。
四人を自分の背中で隠すみたいに立つ。
頭巾を少しだけ上げて、垂れた耳と無精ひげを衛兵に見せた。
腰の袋から五人分の銅貨を数えて、聞かれるより先に衛兵の手のひらへ落とす。
後ろ手で、指を一本、下へ向けた。
黙ってろ、の合図だ。
「五人だ。旦那、新年早々ご苦労さんで。冬の仕事探しですよ。
東の街道の荷運びが雪で止まっちまってね、こっちなら壁の普請か荷揚げがあるだろうと。……ドラージョ?
燃えてて寄れたもんじゃなかった。おかげで遠回りだ」
声が、いつもより眠たそうだった。
酒の残った朝の、ただのくたびれた獣人の声。
衛兵は銅貨を数え直して、「五人な」と顎で柵の内を示した。
頭巾の奥を、覗きこみもしない。
もう一人の衛兵は、後ろの荷馬車の御者に「白い翼ってのはな」と、同じ話を始めていた。
ブランの背中の陰に入って、柵をくぐった。
番所の柱に、木の暦板が掛かっている。
年の数が、新しく刻み直されたばかりで白い。
目が、そこで止まった。
年が、明けたんだ。
外套の上から、指で腿を叩いた。
一つ、二つ、三つ。
街を出た春に、母さんを長屋に残してきた。
三年たったら帰ると、自分で決めた。
その三年目の年に、もう入っている。
なのにボクは、まだ荷車の轍を追っていて、翼はずれたままで、荷台の人たちも取り返せていない。
帰るのは、片をつけてからだ。
背中の翼がはみ出さないように、外套の前を握り直した。
足は、止めなかった。
番所の外から、衛兵の声がまだ聞こえてきた。
「赤毛の大女ってのはな、背丈が門の梁に届くんだと」
隣で、ガレナが背中のコッコの布包みを担ぎ直した。
頭巾を引き下ろして、こぼれていた赤い髪を中へ押しこむ。
振り向かない。
代わりに、ラウロの脇腹を肘で小突いた。
「……梁に届くかよ。笑ったら殴る」
ラウロは口の端を噛んで、黙って前を向いた。
笑ってたと思う。
下町は、高台の斜面にしがみつくように建っていた。
すり減った石段が、家と家のあいだを折れ曲がりながら上へ続いている。
段の真ん中だけが、人の足で丸く凹んでいた。
軒から軒へ渡した縄に、凍った洗濯物がぶら下がって、風が吹くたびに、固いまま揺れる。
石段の途中の小さな広場に、石の水場があった。
獅子の顔を彫った注ぎ口から、細い水が落ちている。
受けの石桶には氷が張っていて、桶を抱えた女の人たちが、柄杓の背で氷を割っては順に汲んでいた。
列は、広場の端まで続いている。
割れた氷の縁が、昼の光で白く光った。
水場から見上げると、石段のてっぺんに、砦の壁があった。
アーチの門が一つ開いていて、槍を持った男が二人立っている。
番所の衛兵と違って、上着がそろいの濃い緑で、胸に何かの紋が縫ってあった。
桶を提げた男の人が門の前を通りかかって、目も上げずに石段を下りていく。
門の向こうに、切りそろえた塔の頭が並んで見えた。
壁の上を、緑の上着がもう一人、のんびり歩いている。
あの壁の内側は、ボクたちが通る道じゃないんだ。
安い宿を、三軒当たった。
一軒目は、戸口で「満室だ」と言われた。
二軒目は、頭巾の五人を見るなり、戸を半分閉められた。
三軒目の主は、帳場から出てきもしなかった。
「頭巾を取れねえ客はお断りだ。ドラージョの手配が回ってきてる」
手配。
ボクのせいだ。
宿を探して倉の並ぶ通りへ下りると、角のところで、足が止まった。
石畳の一か所に、砂がまいてある。
砂の縁から、赤黒いものがにじんでいた。
そばに、脚の折れた屋台がひっくり返っている。
潰れた丸いパンが二つ、溝に落ちたまま凍りかけていた。
ついさっきまで、誰かがここでパンを売っていたんだ。
倉の扉の前で荷を下ろしていた男の人たちは、砂のほうを見ないようにして、黙って縄をほどいている。
下から吹き上げてくる風が、塩の匂いを運んできた。
日が傾きかけた石段の途中で、五人とも足を止めた。
下から、空の背負子を担いだ男の人が上がってきた。
三十くらい。
荷役の厚い肩をしていて、手の甲がひび割れている。
外套の襟を立てて、首を深く埋めていた。
男の人は五人の横で足をゆるめて、頭巾の下のボクの顔を、一度だけ確かめるみたいに見た。
それから背負子を石段に下ろして、紐を結び直しはじめる。
結び直すふりだ。
指が、ちっとも動いていない。
低い声が、ボクにだけ届いた。
「……ドラージョの広場。白い灯りの下にいた。あんたが槍の前に立ってくれたから、俺は東の路地へ走れた」
立てた襟を、指で少しだけずらす。
首筋に、焼けたような花の形の印があった。
すぐに、襟の中へ隠れる。
「下町の東の端、貧民街との境目に、看板の無い宿がある。
広場から来たと言えば、頭巾のままでも泊めてくれる。
それと、灰色の鷹の看板の詰所に、割りのいい護衛の仕事を回してくれる荷主がいる。
塩と硫黄の荷を出してる人だ。俺の名は要らない」
広場の人だ。
石段の下で槍に囲まれて、倒れた人を担いで東の路地へ逃げていった、あの中の一人。
生きてた。
逃がせた人が、ちゃんとここまで来てた。
隣にしゃがんで、ボクも靴紐を直すふりをした。
顔を、少しだけ寄せる。
「生きててよかった。ありがとう。……幌の荷車、見なかった?
印の人を乗せて、ドラージョから来たはずなんだ」
男の人が立ち上がりかけた。
背負子の紐の端がほどけかけていたから、指で押さえて、結び目を締めてやる。
男の人は締まった紐を一度だけ見下ろした。
背負子を担ぎ直しながら、声を落とす。
「荷車は見てない。……けど、年の暮れから、貧民街の壁に版木で刷った札が貼られるようになった。
夜には、岩屋で集いがある。気をつけろよ」
それだけ言って、石段を下りていった。
振り返らない。
襟は、立てたままだった。
札。
集い。
ドラージョの裏通りで聞いた、下へ行けば救われる、の声が、耳の奥に戻ってくる。
あの夜、ベリアトは、猫はもう表に出てこないと言った。
出てこなくても、何かは、もうこの町で動いている。
立ち上がって、四人のところへ戻った。
「あの人、ドラージョの広場から逃げてきた人。首に花の印があった。宿も仕事も教えてくれた。
それと、年の暮れから、貧民街に刷った札が貼られてて、夜に集いがあるって。荷車は、見てないって」
ブランは、すぐには答えなかった。
東の端のほうを一度見下ろして、鼻を鳴らす。
「ほう。……宿はそこにする。ラウロ、明日は灰色の鷹の詰所で護衛の仕事を一つ取ってこい。
組の名は出すな」
言い終えると、先に立って石段を下りはじめた。
ラウロが「おう」と短く返して、続く。
ボクも、頭巾を押さえて後を追った。
下町の東の端まで下りると、石段が途切れて、土の坂になった。
坂の先は崖で、その崖の岩肌に、戸口がいくつも口を開けている。
岩を掘って、そのまま家にしているんだ。
戸口には布が一枚垂れているだけで、中から煮炊きの煙と、赤ん坊の泣き声が漏れてくる。
岩肌の家は崖に沿って、下へ、横へと続いていた。
あれが、貧民街。
境目の宿は、ほんとうに看板が無かった。
石積みの家の片側が崖の岩に食いこんでいて、どこまでが家で、どこからが岩か分からない。
戸を叩いて「広場から来た」と言うと、腰の曲がったおばあさんが、黙って裏の大部屋を開けてくれた。
宿代は安くて、名前は聞かれなかった。
この町にも、印を隠して暮らす人たちがいる。
その人たちが、知らない五人に戸を開けてくれた。
荷を下ろしたところで、鐘が鳴った。
ごぉん、と、一つ。
音が、すぐには消えない。
細く長く尾を引いて、壁と崖のあいだを行ったり来たりしているみたいだった。
ドラージョの鐘とも、街の聖堂の鐘とも違う。
低いのに、胸の骨の奥まで、しんと鳴る。
二つ目が鳴る前に、一つ目がまだ残っている。
窓の下の坂で、水桶を運んでいた男の人が足を止めて、鐘楼のほうを見上げた。
向かいの岩の戸口から、子どもが顔を出す。
鳴り終わるまで、誰も口をきかなかった。
窓の木枠に手を置いたまま、ボクも鐘楼を見上げていた。
高台のてっぺんで、夕日を受けた鐘楼が、そこだけ赤い。
戸口で、おばあさんが曲がった腰を少しだけ伸ばした。
「……いい音だろ。夕方の鐘さ。朝と昼と夕方、日に三度鳴る」
しわの寄った口の端が、少し上がる。
自慢しているんだ。
「よその町の鐘は、ああは鳴らないよ。昔の、悪魔の戦のときに鋳た鐘でね。
この鐘が鳴ったら、天使さまが降りてきて、悪魔を東の穴へ押し戻したんだと。聖堂の人がそう言ってる。
あたしも、ばあさんから聞いた」
天使さまが、降りてきて。
外套の下で、翼の根が軋んだ。
天使の色の灯りを持ってる娘は、この町では頭巾をかぶって、看板の無い宿に泊まっている。
「……そうなんだ。すごい音だね。ボク、こんな鐘、初めて聞いた」
おばあさんはうなずいて、それ以上は何も言わずに戸口から下がっていった。
窓の外を、もう一度見た。
すぐ下を通る道は、東の台地へ向かって、崖の縁を這うように延びている。
石の上に、荷車の轍が何本も白く残っていた。
道を挟んだ向かいの壁に、紙が何枚も貼ってある。
同じ紙だ。
黒い刷りの印と、字が並んでいた。
ここからだと、何が書いてあるかまでは見えない。
隣で、イルウェンが窓枠にあごを乗せて、半分閉じた目で、その紙のほうを見ていた。
夜。
宿から坂を少し上がった先の、荷役の酒場に入った。
仕事あがりの男の人たちで、店はいっぱいだった。
獣脂の灯りが煤けて、汗と安い酒の匂いがこもっている。
ブランは「ちょっと話を聞いてくる」と言って、帳場の脇の立ち飲みの卓へ行った。
荷役たちの輪に、するりともぐりこむ。
残った四人は、頭巾のまま奥の隅の卓で、薄い汁をすすった。
塩気ばかりで、具はほとんど無い。
隣の卓の荷役たちが、声を落として話していた。
「今日の昼、倉通りの角でまた出たってよ。年が明けて三人目だ」
「荷車引きの頭を鉄梃で割って、そばでパンを売ってた娘っ子まで殴り倒した。
娘は息はあるが、目が開かねえ」
「首の花が灰色に腫れあがってたってな。衛兵が五人がかりで、番所の地下へ引きずってった」
「あいつ、年の暮れから岩屋の集いに通ってたろ。種をもらってから、腕が軽くなったって自慢してた」
「固まってきたら、下へ行けば治るって言われてたらしいぜ」
男の人たちは杯を干して、それきり黙りこんだ。
匙を、卓に置いた。
倉通りの角。
砂の下の、赤黒いもの。
溝に落ちていた、丸いパン。
あれは、昼間のことだったんだ。
三人目。
パンを売ってた子まで。
目が開かない。
汁の湯気の向こうに、ドラージョの北の通りが燃えていた匂いが戻ってくる。
屋根の上から下ろした子どもの、煤で真っ黒な顔。
鐘楼の骨組みだけが残った聖堂。
種。
この町では、奇跡を、そう呼ぶんだ。
ベリアトは、奇跡を渡す前に、なぜ欲しいかを聞いた。
岩屋の集いでは、何を聞いて、何を渡しているんだろう。
選べなかった人が、選べなかった人を殴っている。
外套の内で、腰の黒鉄の短剣の柄を握った。
親指で、根元の印をなぞる。
ドラージョを出た夜、焚き火のそばでこれを抜いたのは、こういうのを止めるためだった。
止める。
今度は、一人で先に飛び出さない。
引き際は、ブランに聞く。
でも、止める。
「……止める。この町のは、ボクたちで止める」
向かいの三人にだけ聞こえる声で言った。
ガレナは匙を握ったまま、汁の椀を見下ろしていた。
卓の下で、拳が固くなっている。
残りの汁を一息に空けて、頭巾ごしにまっすぐボクの顔を見た。
「止めるときは、前にはあたしが立つ。今度は割るだけじゃ済まさねえ」
声は低いのに、卓が少し震えた。
しばらくして、ブランが杯を一つ持って戻ってきた。
隅の卓の空いた椅子に、腰を下ろす。
杯の酒は、半分も減っていなかった。
「隣の話は聞こえてたな。集いってのは、貧民街の崖の岩屋だそうだ。
夜になると、壁の札を見た連中が集まる。行けば誰でも、何も聞かれずに種をもらえる。
……ただでくれるもんには裏がある、と言いてえが。裏を数えるより先に、腹が減ってる連中ばかりだ」
一口だけ、飲む。
「ついでに、拇印を押させる帳面を持った男を見たって奴もいた。そっちは誰も詳しくは知らねえ。
話はそれきりだ」
ラウロが、汁の椀を脇へ押しやった。
布で縛った脚を卓の下で伸ばす。
「詰所で聞けることもある。護衛を頼む荷主は倉通りに出入りしてる連中だ。
夜に岩屋へ上がる荷があるなら、誰かが運んでる。どの倉から出る荷か、それとなく聞いとく。
灯らずで鉄の一の冒険者なんか、誰も気にしねえだろ」
イルウェンは、半分閉じた目のまま匙を椀に落とした。
ボクの肩に、頭をもたせかけてくる。
そのまま、顔だけブランへ向けた。
「札。……宿の向かいに、いっぱい貼ってあった。字の札なら、わたし、読める。
……荷役の人は、たいてい読めないでしょ。読めないまま、集いに行くんだ」
肩の重みが、旅に出たころよりずっと増えている。
読めない人が、読めない字に呼ばれて、岩屋へ行く。
それを一番いやがっているのは、たぶんこの眠そうな顔だ。
「うん。明日、札をたどって、集いを見に行きたい。誰が集めて、誰が種を渡してるのか、ボクも見る」
ブランのほうへ向き直って言った。
ブランは、三人の顔を順に見た。
杯の残りを一息で空けて、卓に伏せる。
「いいか。ノア、イルウェン、お前らは明日、俺と札をたどる。ガレナはラウロについてけ。
詰所の外で待ってろ。……寝るぞ」
ガレナが鼻を鳴らして、それでも「おう」と返した。
ブランが立ち上がる。
外套の脇腹の裂け目を、手で押さえた。
酒場を出て、坂を下りた。
境目の宿の戸は、叩く前に内から開いた。
敷居をまたぐ前に、一度だけ見上げる。
高台のいちばん上で、鐘楼が、夜の空に黒く立っていた。
砦の壁の上を、見回りの灯が一つ、ゆっくり動いていく。
向かいの壁の札が、風で端だけめくれて、また貼りついた。
荷台の人たちも、この町のどこかにいる。
外套の内で、短剣の柄をもう一度握った。
それから、イルウェンの手を引いて、戸をくぐった。




