焼け跡
昼の鐘が鳴る少し前。
西の門へ向かう通りは、焼け出された人の列で埋まっていた。
煤けた布団を背負った年寄り。
鍋を抱えた女の人。
泣き疲れて、父親の肩で眠っている子ども。
北の空には、まだ細い煙が何本も立っている。
焦げた木の匂いが、ゆうべから鼻の奥に貼りついたままだ。
頭巾を目深にかぶって、列の中ほどを歩いた。
顔の煤は、落としていない。
門の下では、白い上衣の灯改めが四人、槍の兵を脇に置いて、出ていく人の頭巾を一人ずつ払わせていた。
灯改めの一人が、声を張る。
「白い翼の娘と、赤毛の娘を探している。見た者は申し出よ。匿えば同罪だ」
列のあちこちで、ひそひそ声が交わされた。
「ゆうべ見たんだよ、白い翼の天の使いが、燃える屋根から子どもを抱えて降りてきたのを」
「馬鹿言え、司祭さまが悪魔の手先だと言ったろう。黒い翼の悪魔と並んでたんだ」
「うちの隣の坊主は、あの翼に助けられたんだぞ」
天の使い。
悪魔の手先。
どっちも、ボクのことだ。
頭巾の縁を、指で少しだけ下げた。
ブランが、列の歩みに合わせて首だけ寄せてきた。
前を見たまま、小声で一人ずつに言う。
「いいか。五人で固まって抜けるな、ばらけるぞ。ガレナ、髪は頭巾の奥へ全部押しこめ。
前の鍋の女の子どもの手を引いてやれ、子連れの姉に見せる。ノア、背の荷は丸めて肩に回せ。
俺の後ろの婆さんの布団を代わりに担いで、腰を屈めて歩け。孫だ。
ラウロ、イルウェン、二人は少し間をあけて夫婦者みてえに並べ。俺は最後に一人で行く。
頭巾を払えと言われたら素直に払え、目は伏せて、何も言うな。門の外、最初の辻の柳で落ち合う。
誰か止められても振り向くな。そんときは俺が戻る」
ブランの後ろのおばあさんは、布団を担ごうと手を伸ばすと、目をしばたたかせた。
それから黙って、布団を渡してくれた。
ガレナが前の女の人の、五つくらいの男の子の手を引いて先に行く。
灯改めは頭巾を払わせたけど、男の子が泣き出したので、ろくに顔も見ずに顎で通した。
ラウロとイルウェンも、少し間をあけて並んで抜けていく。
すぐ前で、腕に布を巻いた若い母親が、抱いた赤ちゃんにささやいていた。
「白い翼の人がね、隣のおうちの子を屋根から下ろしてくれたんだって。……悪魔だなんて、嘘だよね」
後ろの男の人が、母親を小突く。
「黙ってろ。灯改めの耳に入るぞ」
嘘だよ。
そう言いたかった。
でも、今ここで口を開いたら、ブランの段取りが全部だめになる。
「そこの。頭巾を取れ」
灯改めが、こっちを向いた。
布団を肩に担ぎ直して、片手で頭巾を払う。
煤で汚れた髪が出た。
腰を屈めたまま、目は上げない。
空いた手を、おばあさんの肘に添える。
ボクは、おばあちゃんの孫だ。
灯改めの目が、髪と、肘に添えた手を一度だけなぞった。
顎が動く。
振り向かずに門をくぐって、おばあさんの歩みに合わせて外へ出た。
最初の辻の柳の下で、五人がそろった。
ブランは最後に一人で、何も言われずに抜けてきた。
布団を返すと、おばあさんは何度も頭を下げて、西の村のほうへ歩いていった。
それから町の外の麦畑と雑木林のふちを、北から大きく回った。
日が傾くころに東の街道へ出ると、土に重い荷車の轍が新しく残っていた。
干し魚の匂いが、まだかすかに漂っている。
日が暮れても、星明かりを頼りに、ブルチャ野の台地への乾いた上り道を、轍を追って夜通し歩いた。
翌朝。
台地を上りきった先で、轍は本道を外れ、白い石灰岩の丘を削った細い切り通しへ折れていた。
両側に、大人の背丈の三倍ほどの白い岩肌が迫る。
荷車一台がやっと通れる幅。
底の轍には砕けた石灰が白く溜まって、霜が光っていた。
吐く息が、白い岩肌に溶ける。
切り通しの半ばに、幌を掛けた荷車が止まっていた。
後ろの輪が深い轍に噛んで、傾いている。
荷台の前のほうには、首や腕に布を巻いた人たちが十人ほど、毛布にくるまって肩を寄せ合っていた。
裏通りで見た顔もある。
まだ、乗ってたんだ。
荷台の後ろ半分には、煤けた灰色の幌が掛かっていて、中は見えない。
荷車の横で、腹の突き出た茶虎の猫の獣人が、輪に肩を当てて息を切らしていた。
足音が、岩肌に響いた。
猫が輪から肩を離して、振り返る。
湿った肉球で上着の腹を撫でつけて、細い目をさらに細めて笑った。
両手を広げてみせる。
「おやおや、坊っちゃん……いや、嬢ちゃんだったさね。
わざわざこんな細道まで追っかけてきてくれるとは、わしも人気者だよなあ。
だがねえ、ここは荷車一台ぶんの道でな、すれ違う隙間は無いのさ」
笑顔のまま、後ろ手で荷台の幌を二度叩く。
「……フォスコ、起きな。お客さんだ。道を空けてもらいな。ほら、薬はあとでたんとやるからよう」
幌の垂れが、内側から払いのけられた。
払ったのは、灰色の腕だった。
肩の根から指先まで、石とも殻ともつかない灰色に固まって、人の腕より一回り太い。
継ぎ目に、こぶし大の花の形の印が左右に一つずつ残っている。
日に焼けた大柄な男の人が、荷台から転げ落ちるように霜の轍へ降りた。
頬がこけて、目の下に濃い隈がある。
袖なしの擦り切れた革の胴着に、継ぎの当たった麻のズボン。
膝をついたまま、腕の根に巻いた汚れた布を、殻の爪でがりがりとかきむしる。
喉の奥から、引きつった笑いが漏れた。
あの腕。
ラーモの宿場で鎖に繋がれていた人と、同じだ。
男の人は立ち上がって、灰色の両腕をだらりと下げたまま、白い石灰を踏み散らしてこっちへ出てきた。
「薬だ……薬が要るんだよ! おい親父、あとでじゃねえ、今だ!
……ははっ、ひっ……おい、お前ら、道ぃ空けろ! 空けろってんだよ!聞こえねえのか、空けろって!」
荷台の前で、毛布の人たちが身を縮めた。
薬って、言わされてる。
この人も、選べなかった側かもしれない。
頭巾を後ろへ払った。
両手を空けたまま前に出して、五歩のところで止まる。
腰の短剣には、触れない。
灰色の腕と、かきむしられた布を見てから、男の人の顔をまっすぐ見た。
「どいて。ボクはキミと喧嘩しに来たんじゃない。後ろの人たちに用がある。……その腕、痛いでしょ。
薬がほしいのも分かる。でも、その薬をくれるのはあいつだよ。キミをそうしたのも、たぶんあいつ」
男の人の肩越しに、猫を見据える。
「グラッソ。キミの荷台の人たちに話を聞かせて。下へ行くかどうか、選ぶのは本人だ。キミじゃない。
ボクは、選べないまま連れてかれるのは許さない」
男の人が、ボクの言葉の途中から首を振りはじめた。
布を、もう一度かきむしる。
笑いを漏らしながら、一歩、二歩と詰めてくる。
「うるせえ、うるせえよ! 話だ? 選ぶだ? 知るかってもんよ!
……ひっ、ははっ……俺はなあ、熱いんだよ、今! お前がどきゃあ薬が来る、それだけだろうが! どけ!
どかねえなら砕くぞ、どけって!」
灰色の右腕が、高く振りかぶられた。
ボクの頭の真上。
手加減の気配なんて、どこにも無い。
本気だ。
受けたら、頭が割れる。
跳ぶ。
でも、荷台の側に逃げたら、あの腕が毛布の人たちに向く。
だから、反対。
拳の下から横へ跳んで、霜の轍を蹴った。
背中で、石の砕ける音がした。
荷台と反対の岩肌の側へ回りこんで、振り返る。
さっきまでボクの頭のあった所に、殻の拳がめり込んでいた。
切り通しの底の石灰岩が、人の胴ほどの幅で砕けている。
白い礫が、ボクの足もとまで跳ねてきた。
当たってたら、頭なんてぐちゃぐちゃだ。
両手を広げて、男の人の目の前で指を鳴らした。
半歩ずつ下がって、荷台に背を向けさせる。
「こっち! ボクだよ、ボクがどかないんだ。砕きたいならボクを追って。
後ろの人たちには、指一本向けさせない」
男の人は地面から拳を引き抜いて、荒い息で笑いながら、ボクのほうへ首をねじった。
殻の継ぎ目から、白い粉がこぼれる。
ブランが、外套の前をはねて踏み出してきた。
ボクと男の人のあいだへ、斜めに。
右の手のひらに、黒に近い灰の灯りが溜まっていく。
「いいか、やるぞ。殺すな。ノア、そのまま引け、受けるな。
ラウロ、ガレナ、荷車の前へ回れ、猫を荷台から離して輪に触らせるな。
イルウェン、崖の上と幌の奥を見とけ、まだ何か乗ってる。……おい、あんた。ちっと重てえぞ、寝てろ」
灰の灯りが、男の人の両腕へ上から叩きつけられた。
両腕が、見えない荷を丸ごと載せられたみたいに、がくんと下がる。
肩が沈んで、膝が霜の轍へ折れかけた。
止まった。
そう思った。
男の人は、片膝をつきかけたところで、歯を剥いて笑った。
殻の両腕を地面に突っ張る。
荷を担ぐときみたいに腰を入れて、肩ごと重みを押し上げにかかる。
「ぐっ……ははっ、ひっ……重てえ? 重てえだと? ……俺ぁなあ、港で網ぶら下げて食ってきたんだよ!
この程度で寝てられるかってもんよ! 娘ぇ……逃げんな、追ってやらぁ!
てめえも後で砕いてやるからな、ひげ!」
膝が、じりじり伸びていく。
灰の灯りが、殻の腕の上で軋むように揺らいだ。
ブランの手のひらが、押し返されて震えている。
男の人は、立った。
ブランの重みでも、止まらない。
このままだと、次はブランに行く。
引けって言われた。
でも地面で引いてたら、あの目はブランに向く。
もう広場で見せた翼だ。
隠す理由は、無い。
外套の前を払った。
背中で、母さんの翼が一気に開く。
白い骨を板のように重ねた翼が、切り通しの岩肌いっぱいに広がって、霜を巻き上げた。
「ブラン、ごめん、退くのは上で!」
一度羽ばたいて、崖の半ばまで跳び上がる。
ほとんど同じとき、下でみんなが動いた。
岩肌に背を預けたイルウェンの筒から、緑の光が男の人の足もとの霜に弾ける。
男の人の足が、たたらを踏んだ。
続けて、背の古い弓から放たれた薄緑の光の矢が、男の人の右の膝の裏をかすめて、ズボンを裂いた。
「撃つー。……ノアに、触らないで」
ラウロが、荷車の前へ回りかけた足を切り返して、短い剣を抜きながら男の人の正面へ低く走りこむ。
「ガレナ、猫は任せた! ……おい、網の兄さん。相手はこっちだ。ノア、下がってろ、いいな」
ブランは両手に灯りを溜め直して、男の人の背後二歩まで踏みこんでいた。
今度は、腕じゃなく、膝と足首へ。
男の人の両足が、霜の轍ごと、くるぶしまで地に沈む。
「おい網の。砕くなら先にひげからにしな。脚が上がるもんならな」
男の人の真上で、もう一度羽ばたいた。
目が、上がる。
ボクだけを見た。
「こっちだよ! ボクを見て!」
翼を畳んで、落ちた。
狙うのは殻の腕じゃない。
右の肩の根。
両足で、殻と肌の境目へ蹴りこむ。
硬い手応えが、膝まで響いた。
男の人の上体が、ぐらりと傾ぐ。
そこへ、赤いものが跳びこんできた。
ガレナだ。
脚と腕に朱の灯りを全開でまとって、腿から指先まで燃えるように赤い。
猫を任されたのに、来ちゃったんだ。
白い大剣を両腕で振りかぶって、刃を寝かせた腹を、男の人の右の殻の腕の付け根へ、
全身の重さで叩きつける。
「おい、そこの殻野郎! ノアの頭、砕こうとしたな。てめえの相手はあたしだ、こっち向けよ!」
鐘を割ったような音が、切り通しに響いた。
付け根の殻に、白いひびが走る。
かけらが弾け飛んで、ひびの奥から赤黒い汁がにじみ出た。
コッコを握るガレナの腕が、痺れて震えている。
効いた。
五人で、やっと。
男の人が、喉の奥から獣みたいな声を上げた。
ひびの入った右腕ごと、上体をひねる。
懐に潜っていたラウロを、左の殻の腕が抱えこむように薙いだ。
ラウロは剣の腹で受けた。
受けた剣ごと体が浮いて、横ざまに岩肌へ叩きつけられる。
背中から白い石灰岩にぶつかって、息を吐いてずり落ちた。
「ラウロ!」
振りの勢いのまま、右の裏拳がこっちへ来た。
身を沈めた。
沈みきらなかった。
畳みかけた翼の端に、拳がかかる。
骨の板が軋む音がして、体が霜の上を二度、三度と転がった。
「ははっ、ははははっ! 割れた、割れたぞ! ……おい、気持ちいいじゃねえか!
もっとだ、もっと来いってもんよ! 脚なんざ要らねえ、腕が届きゃあ十分だろうが!
寄ってきたやつから砕いてやらぁ!」
赤黒い汁を撒き散らしながら、男の人がけたけたと笑っている。
脚は、まだ地に縫われている。
でも腕は、届く限りを薙ぎ払っていた。
霜の上で、身を起こそうとした。
翼の根が、ずきりと痛む。
その向こうで、ガレナが男の人の右の背へ低く回りこむのが見えた。
霜を蹴って、跳ぶ。
宙で体ごとひねって、白い大剣の腹を、ひびの走る付け根へ、さっきと同じ所に叩き下ろした。
「笑ってんじゃねえ! ラウロとノアの分だ、もう一発、同じとこに食らえってんだよ!」
殻が、砕けた。
手のひらほどの灰色のかけらが、汁と一緒に弾け飛ぶ。
むき出しになった付け根の奥で、灰色の細い筋が、生き物みたいに脈打っていた。
コッコの刃の縁が、割れ口に噛んでいた。
引き抜いたとき、白い刃の縁が三か所、小指の先ほどずつ欠け落ちていた。
男の人が、叫んだ。
叫び声なのか、笑い声なのか、分からなかった。
「ぎっ……ははっ、あはははっ! 熱い、熱いぞ、熱いってもんよ!背中に回りゃ届かねえと思ったか、ちび!
捕まえてやらぁ、握り潰してやる、そしたら冷えるだろ!」
地に縫われた脚を軸にして、腰から上をねじり切るみたいに回す。
砕けた右腕が、脈打つ根ごと背中のガレナへ振り回された。
ガレナがとっさに、コッコを盾に立てる。
殻の腕が、刃の腹ごとガレナを打った。
欠けた縁がさらに砕けて、刃先から鍔まで、のこぎりみたいにぼろぼろになる。
ガレナの体が、コッコごと宙を飛んだ。
荷車の脇の岩肌に叩きつけられて、霜の上に落ちる。
伸びた左の殻の手は、ガレナのいた空をつかんでいた。
ブランが、男の人の背後で片膝をついた。
轍に手のひらを押し当てて、灰の灯りを地へ深く沈める。
それから身を低くして、腕の届く輪のぎりぎり外へ回った。
灯りの重みが、男の人の両肩の上に広がる。
震える腕を肘で抱えこんで、ブランが怒鳴った。
「寄るな! 全員、腕の届く外へ出ろ、二歩下がれ! ラウロ、ガレナを引きずって荷車の陰だ。
ノア、翼は畳め、もう跳ぶな。イルウェン、割れた付け根は撃つな、殺しちまう。左の拳だけ見とけ。
……こいつは俺が伏せさせる」
男の人の両肩が、沈みはじめた。
上体が、霜の轍へ折れかかる。
額が、地面につきかけた。
そこで、殻の両腕が轍に突き立った。
砕けた右の根から、汁が噴き出す。
吠え声と一緒に、両腕が地を押した。
肩が、跳ね上がる。
背に載った重みを、荷揚げの網ごと担ぎ上げるみたいに。
灰の灯りが、男の人の肩の上で弾けて散った。
ブランの両腕が跳ね返されて、ブランは後ろへよろめいて尻をついた。
「があぁっ……! 伏せるかよ、伏せてたまるかよ!荷の下で這いつくばるのは、もう二度とごめんだ!
……ははっ、ひっ……ひげ、お前の腕、震えてんじゃねえか! 次はお前だ、お前を砕いてやらぁ!」
腰をねじって、くるぶしまで沈んだ左足を、霜ごと引き抜く。
凍った土の塊が、足首からぼろぼろ剥がれた。
目が、尻をついたブランへ向く。
ブランが、砕かれる。
翼は畳めって言われた。
跳ばない。
でも、見てるだけは選ばない。
霜を蹴って立った。
軋む翼を背に畳んだまま、ブランの前へ駆けこんで、低く踏ん張る。
右の手のひらを大きく開いて、白い灯りを集めた。
思いきり、膨らませる。
これをぶつけたら、きっと吹き飛ばせるはずだ。
割れた付け根には当てない。
殺したら、この人も選べないまま終わる。
「ブランに触るな! キミの相手は、ボクだ!」
突き出した白い灯が、男の人の胸にぶつかった。
白い光が、切り通しの白い岩肌を、さらに白く照らす。
男の人の体が、二歩、後ろへ押しやられた。
革の胴着の胸が焦げて、煙を上げる。
それだけだった。
男の人は押された分だけ踏みとどまって、まぶしそうに目を細めたまま、口の端を吊り上げた。
白が引いたあと、殻の腕には、すすの跡一つ残っていなかった。
効かない。
全然、効かない。
「ははっ……あったけえじゃねえか、娘! 効かねえよ、そんな灯り! お前の相手だと?
いいぜ、ひげごとまとめて相手してやらぁ! 二人まとめて、地べたにめりこませてやるってもんよ!」
焦げた胸を殻の指で払って、男の人が大股に詰めてくる。
殻の両腕が、頭の上で組み合わさった。
槌みたいに、振りかぶられる。
ボクと、後ろのブランの真上。
外からじゃ、効かない。
遺跡の狼のとき、刃の先から出した白は、通った。
下がったら、ブランが潰れる。
前に出る。
腕が落ちてくる前に、懐へ。
振り上がった腕の下へ、身を沈めて跳びこんだ。
後ろでブランの手が、ボクの腰帯の端をかすめる。
外套の内から、黒鉄の短剣を抜く。
右手の白を、刃へ流しこんだ。
刃先が、白く光る。
狙うのは、割れた根じゃない。
組み合わされた左の殻の、肘の継ぎ目。
「ブラン、転がって! ……止まって!」
男の人の脇をすり抜けながら、下から突き上げた。
刃先が、継ぎ目に当たった。
白い火花が散る。
刃は、殻の表に細い白い筋を一本引いて、滑った。
黒鉄の刃が、手の中で痺れるように震えた。
「退け、馬鹿!」
後ろで、ブランの声がした。
ブランが尻をついたまま横へ転がって、転がりざまに、残りの灰の灯りを振り上がった腕へ叩きつける。
重みに引かれて、殻の腕が狙いより早く、斜めに落ちた。
ブランのいた霜の上が、腕の形に深く抉れる。
ブランは、その縁から一尺のところに転がっていた。
ボクは、男の人の左の脇に立っていた。
肘から、手を伸ばせば届くところに。
背中を、つかまれた。
畳んだ翼の根もとを、骨の板ごと。
「つかまえたぞ、娘ぇ! ははっ、ひっ……こんなもん生やしてっから、捕まるってもんよ!
刃なんざ通らねえんだよ、ほら、寝てろ、石とくっついてろ!」
足が、地面から離れた。
空と岩肌が、ぐるりと回る。
白い岩肌が、目の前に来た。
鈍い音がした。
背中から、何かが抜けていった。
息が、できない。
霜が、頬に冷たい。
手から、短剣が離れて、轍に転がっていった。
翼の骨の板が何枚か、ずれたまま外套の下からはみ出している。
目は、開いてる。
でも、指が一本も動かない。
ざり、ざり、と足音が寄ってくる。
男の人が肩で息をしながら、砕けた右の根から汁を垂らして、ボクを見下ろしていた。
転がった黒鉄の短剣を、足で踏みつける。
けたけた笑う声が、遠い。
「はぁ……はぁ……ははっ、見ろよ、静かになった。……熱が引いてくってもんよ。
だがよぉ、お前、目ぇ開けてんじゃねえか。また立たれちゃ困るんだよ。……もう一発だ。
な、これで終わりにしてやらぁ」
左の殻の拳が、ゆっくりと、ボクの頭の上へ振り上がった。
動け。
動いて。
切り通しの上の空で、重い羽音がした。
黒い膜の翼が、上から叩きつけるように降りてきた。
長身の背中が、ボクと男の人のあいだに降り立つ。
翼が、その背に畳まれた。
黒い外套。
むき出しの、黒い左手。
指の先が、針みたいに尖っている。
振り下ろされた殻の拳を、その左手が、掌で真正面から受け止めた。
乾いた音がした。
拳が、止まった。
ベリアトだ。
ベリアトは踏みこんだ足で霜を割って、拳ごと男の人を押し返していく。
一歩。
二歩。
三歩。
男の人の踵が、霜の轍を削って後ろへ下がった。
右手は空けたまま、背中でボクを隠している。
「よう。……その娘は、俺の客だ。触るな」
男の人は踵で霜を踏みしめて、引きつった笑いを漏らした。
受け止められた左の拳を、力ずくで引き剥がす。
「ひっ……ははっ、止めた? 俺の腕を、止めたってのか!
……ふざけんなよ、熱が戻ってきちまったじゃねえか! 客だか何だか知るか!
どけ、どかねえならお前から砕くぞ!」
砕けた右の殻が、汁を撒きながらベリアトの横面へ振り回される。
間を置かずに、左の拳が腹へ突き上がる。
ベリアトは首を沈めて、右の殻を頭の上へ流した。
踏みこんで、腹へ来た左の拳を、右の前腕で外へ払う。
懐に入った勢いで、針の左手の甲を男の人の胸へ叩きつけた。
男の人の息が、詰まる。
そのまま右手で胸ぐらをつかんで、大柄な体を霜から引き抜くように持ち上げた。
「もういい。熱なら、持ち主に冷ましてもらえ。……グラッソ。てめえの荷だろ。受け取れ」
男の人の体が宙を飛んで、荷車の前、グラッソの足もとへ落ちた。
霜と石灰が跳ねる。
荷台の毛布の人たちが、悲鳴を上げた。
男の人は背を丸めて咳きこんで、砕けた根を押さえたまま、起き上がれない。
五人で、かかった。
灯りも、翼も、刃も、全部出した。
それを、ベリアトは左手一本で止めた。
ベリアトが、ボクを背に隠したまま荷車の方へ二歩出た。
笑みが、消えている。
「よう、グラッソ。……干し魚の匂いがここまで来てるぜ。いいか、短く言う。了承も取らずに植えた。
器殻も見ずに盛った。壊れた奴を拳にして、坂の娘にけしかけた。ドラージョの火も、てめえの荷車からだろ。
奇跡は、受け取る奴が自分で決めるもんだ。てめえのは押し付けだ。売り物にもしてやがる。……忠告しとく。
これ以上やれば、覆面が黙ってねえ。俺の口からじゃねえ。あの男は価値を測っている。
てめえの撒いた跡は、全部上へ報告されてる。荷をまとめて港へ帰れ」
覆面。
誰のことか、ボクは知らない。
グラッソの髭が、一度だけ動いた気がした。
グラッソは、細い目を糸みたいにしたまま笑っていた。
ベリアトの言葉を、最後まで黙って聞く。
湿った肉球で、上着の腹をぽんと叩いた。
「へへ……はて、どちらの旦那でしたかなあ、知りませんなぁ。
……いやいや、ご忠告痛み入りますよ、わざわざご苦労さね。
だがねえ、わしの荷はわしの帳面でな、口出しされる筋は無いのさ。
価値を見たけりゃ見りゃあいい、わしはちゃあんと数を稼いどる」
笑ったまま、目だけでベリアトをにらみ返している。
ベリアトも、動かない。
霜の上で、二人がにらみ合った。
誰も、息をしていないみたいだった。
「……おまえさんこそ、拾った客の面倒でも見とりゃいいさね」
グラッソが先に動いた。
足もとで丸まる男の人の襟首をつかんで、懐から出した小瓶を口に押しこむ。
「ほれフォスコ、乗れ、薬だ」
背中を押して、荷台の幌の中へ転がしこんだ。
幌の垂れが下りる。
「おまえさん方、つかまっとれよう」
荷台の人たちに手を振って、噛んだ輪に肩を当てた。
喉を鳴らして、力任せに押し上げる。
輪が、轍を抜けた。
「……ほい、彫った彫ったぁ。ごきげんよう、旦那ぁ」
轅を握って、荷車ごと切り通しの先へ駆け出していく。
荷台の人たちは、誰も降りなかった。
揺れる荷車の縁をつかんだまま、遠ざかっていく。
軋む音と干し魚の匂いが、切り通しの東の出口の向こう、フォンターレへ続く道へ消えた。
底には、霜と石灰と、赤黒い汁の跡が残った。
ラウロは岩肌の下で、剣を杖に膝をついている。
ガレナは荷車のいた岩肌の下で、ぼろぼろになったコッコを抱えて身を起こしかけていた。
ブランは抉れた地面の縁で、肩で息をしている。
イルウェンが、離れた岩肌の陰から弓を下ろして駆けてきた。
ベリアトは、荷車の消えた方を一度だけ見て、背を向けた。
ボクの脇に片膝をついて、首と背中に右手を当てる。
息と、骨を確かめている。
それから外套を脱いで霜との間に敷いて、ボクを仰向けに直した。
腰の袋から布と水筒を出して、駆けてきたイルウェンに放る。
「坊主の脚、縛ってやれ」
ラウロの肩を支えて立たせて、ガレナの裂けた腕に布を巻いて、ブランの脇に手を入れて岩肌にもたれさせる。
「兄さん、生きてるか。赤毛、その腕見せろ。坊主、立てるならそいつを支えてやれ」
最後に、ボクの前へ戻ってきて、しゃがんだ。
目の高さが、合う。
「よう。……息はしてるな。動くな、まだいい」
声が、落ちた。
「なあ、ノア。広場の続きのつもりか。あの猫の荷を、五人で追いかけて、ここまで出たのか。
先を走りすぎだ。聞きに来いとは言った。だが、ここで潰れたら下まで来られねえだろ。
……次に動くときは、引き際を覚えてからにしな。約束はしない、毎度は降りてこれねえからな」
背中も、翼の根も、息をするたびに軋んだ。
首だけ動かして、琥珀の目を見上げる。
外套の端を、指でつかんだ。
「ありがとう。……助かった。でも、許せない。あの猫も、キミも」
息を詰めて、轍の短剣へ目をやった。
それから、またベリアトへ戻す。
「荷台の人たち、誰も降りなかった。選ばせてもらえないまま行っちゃった。
……退き際は、ブランに聞くって決めてたけど…。それと、あの短剣、取って。まだ聞きに行ってないから」
ベリアトは轍まで歩いて、黒鉄の短剣を拾った。
石灰と霜を、袖で拭う。
ボクの前にしゃがみ直して、柄をこっちに向けて、外套をつかむ指の横に握らせた。
冷たい柄が、手のひらに収まる。
「ああ。……ほら。落とすなよ。荷台の連中のことは、俺も言い返せねえ。猫の行き先は俺が追う。
あんたは追うな、今はな」
立ち上がって、ブランのほうへ顎をしゃくった。
「兄さん、こいつに、しっかり教えておいてくれ。」
その日は、切り通しから先へは進まなかった。
ベリアトの肩を借りて、互いに支え合って、昼すぎに街道から外れた樫の林へ入った。
ボクは歩けたけど、翼の根が痛んで、外套の下で翼を畳みきれない。
ガレナの腕には布が巻かれて、コッコは鞘に収まらずに、布でくるんで背にある。
ラウロは脚を縛られて、ブランは岩肌にぶつけた背中をかばって歩いた。
日が落ちて、焚き火を一つおこした。
誰も、しばらく口を開かない。
火のはぜる音だけがする。
焚き火の端には、ベリアトが座っていた。
翼を背に畳んで、針の左手を膝に置いて、火を見ている。
膝を抱えて、火を見た。
外套の上から、黒鉄の短剣の柄を握る。
灯しても、効かなかった。
刃も、滑った。
翼でも、届かなかった。
右の手のひらを開いて見下ろして、ゆっくり握りこむ。
「……全部出したんだ。灯りも、翼も、刃も。それでも一人、止められなかった。
荷台の人たちも、行っちゃった。
……選べない人の側に立つって言ったのに、立ってるだけじゃ、何も守れない」
ラウロが、杖にしていた短い剣を膝に横たえた。
欠けのない刃を、火にかざして見る。
それから剣を置いて、火から目を上げずに言った。
「……お前だけじゃねえよ。俺は一回いなすだけ、あとは岩の下で剣にすがってた。
……荷台の連中、裏通りで見た顔が三つあった。毛布かぶって、あのフォスコの横に並んで座ってた。
あいつら、あの薬の小瓶もらう側に回るのか。……なあ、ベリアト。猫の行き先、追うって言ったな。
あいつら、どこで降ろされる」
ガレナが、背からコッコを下ろして膝に載せた。
布を少しめくって、のこぎりみたいに欠けた刃の縁を、指でなぞる。
歯を食いしばって、布を巻いた自分の腕を握りつぶすみたいにつかんだ。
「……立ってるだけだったのはお前じゃねえ、ノア。あたしだ。二発入れた。割った。
そんで、そっから先は岩の下で寝てた。……コッコもこのざまだ。全開でぶつけりゃ勝てると思ったんだ。
勝てなかった」
顔は、火から上げない。
「……くそっ。次は割るだけじゃ済まさねえ。あいつも、あの猫も」
ブランは樫の根にもたれたまま、右の手のひらを膝の上で開いて、閉じた。
腰の革袋の栓を抜きかけて、やめて、戻す。
誰の顔も見ずに、火を見ていた。
「……やめとけ、三人とも。立ってるだけだったのは俺だ。
手ぇ出すと決めたのも、退き際を握るって言ったのも俺で、そいつが地べたで尻ついてた。
……あそこで退けと言えなかった。それが今日のしくじりの全部だ。お前らのじゃねえ」
間が、空いた。
「……いいか。あの猫は一匹じゃねえ。
薬で人を操るやり方が通るなら、この先の町ごとにああいうのが待ってる。灯改めは俺らの名を覚えた。
ドラージョにはもう戻れねえ。宿の荷も捨てた。……楽な道は、この先一本もねえと思え」
もう一度、間が空く。
「……世の中は、と言いてえが。続きは今夜はやめとく。寝ろ。見張りは俺が最初に立つ」
ベリアトが、火から目を上げた。
ラウロ、ガレナ、ブラン、ボクの順に顔を見る。
笑っていなかった。
「ああ。答える。……荷台の連中は、まだ降ろされねえ。猫はフォンターレへ入る。
あそこでしばらく荷を組み直して、薬を足して、また人を集める。
困ってる奴の肩を叩いて、干し魚を配って、下へ行けば救われると囁く。それで集まった頭数ごと、下へ流す」
針の左手が、膝の上で動かない。
「……それと、あいつはもう表に出てこねえ。今日、俺に顔を見られた。
しばらくは会所の奥に引っこんで、手下の行商だけを歩かせるはずだ。
探しても、あの腹は見つからねえと思え」
ベリアトの声が、少し低くなった。
「……もう一つ。俺は、表だってあいつを止めることはできない。
あいつの上には、俺が殴っても動かねえ席がある。すまん。だが、上にかけあう。
連れて行かれた連中は、俺が探して、なんとか引き戻す。約束はできないが、信じてくれ。
あんたたちは、まだ地上に残ってる連中を拾ってやってくれ。猫が肩を叩く前に」
すまん、って言った。
膝の上の短剣の柄を、外套ごと握った。
「……兄さん、見張り頼んだ。ノア、またな。」
ベリアトは立ち上がって、焚き火から数歩離れた。
樫の枝の切れ目の下で、黒い膜の翼を開く。
重い羽音が、一度、二度。
黒い影が梢を越えて、東の夜空へ消えていった。
一人、また一人と、毛布にくるまって横になった。
最初の見張りはブランが立って、夜更けに、ボクが代わった。
ブランは樫の根にもたれて、すぐに寝息を立てた。
熾火が、赤い。
ときどき、小さくはぜる。
翼の根が、まだ鈍く痛んだ。
黒鉄の短剣を、鞘ごと膝の上に置いた。
両手で、握る。
ドラージョの城壁の上で、自分の道を選べたら使え、と渡された。
これまで、縄を断つか、身を守るためにしか抜いてこなかった。
今朝、切り通しで抜いた刃は、殻に筋を一本引いただけだった。
泣いてる子を見てるだけは、選ばない。
そこまでは、決めた。
でも今朝のボクは、選んでなかった。
ただ、跳んだだけだ。
鞘を払った。
熾火の明かりに、刃の根元の印が浮かぶ。
背中合わせに、二つ。
片方は、日に向かって伸びる若木。
もう片方は、月に添えられた、摘まれた花。
親指で、若木をなぞる。
それから、花をなぞる。
こっちが何を言ってるのかは、まだ分からない。
「……覚悟って、選ぶことなんだ」
東の夜空を、一度見上げた。
黒い影は、もう見えない。
許してはいない。
でも、あの背中は、ずっと見てきた。
刃を、握り直す。
「キミみたいになりたい。……許してはないけど。助けなきゃ。みんな」
眠っている四人の背中を、順に見た。
ラウロ。
ガレナ。
イルウェン。
ブラン。
「……あの猫のとこへ行く。今度は、覚悟を決める。」
刃を、鞘に戻した。
胸の前で抱えて、熾火に薪を一本足す。
夜が明けたら、ブランに言って、轍を追う。
小さな火が、樫の根もとで、また赤く起きた。




