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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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火の手

城壁の上でベリアトと別れてから、一月と半分が過ぎた。

十二月の十日。

乾いた北風が石畳を這って、聖堂前の広場の霜をまだ溶かさずにいる。


鐘楼の影が、高札の前まで伸びていた。

その前に、人垣ができている。

白い上衣の触れ役が巻物を広げて、声を張り上げた。

「聖堂の名において告げる。体に印を負う者は、一人残らず改める。匿った者、庇った者も同じく帳に載せる。

印ある者を見た者は、聖堂か灯改めに届け出よ」

人垣が、ざわりと揺れた。


秋から、東の町々では暴動が続いている。

寝ているあいだに、あるいは「希望」という言葉に騙されて、

奇跡を植えられた人たちが起こしたものだという噂だった。

誰が撒いたのか、ボクは知っている。

干し魚を配って回る、猫の行商だ。


頭巾の縁を指で下げたまま、人垣の端に立つ。

隣にブランとイルウェン。

ラウロとガレナは、ボクたちの背に隠れるように立っていた。

二人とも、聖堂の帳に名が載っている。

顔を上げさせるわけには、いかなかった。


触れ役の後ろでは、聖堂の地下へ下りる石段の口を、槍を持った兵が二人で塞いでいる。

石段の奥から、咳が上がってきた。

一つ、二つ。

三つ目は、呻きに変わった。

「下はもう、立つ場所も無いってよ」

「開拓村の連中も、まだ下だ」

人垣のどこかで、誰かが囁いた。


開拓村の連中。

ブルチャ野で、村の人たちに指さされて兵に差し出された四人だ。

自分で奇跡を選んだ人も、寝ているあいだに植えられた人も、同じ牢で咳をしている。

あの猫が撒いたぶんを、この人たちが払わされているのだ。


鐘楼を見上げた。

城壁の上で、ベリアトの目が一度だけ流れていった先。

あの人も、四人を取り返す算段をしていた。

腰の黒鉄の短剣の柄に、指が一度だけ触れる。

すぐに離した。

見てるだけは、もう嫌だ。

でも今ボクがここで跳べば、ラウロとガレナまで帳に載る。

まず決めるのは、何を選ばないか。


ブランの袖を、軽く引いた。

声を落とす。

「ブラン。捕まってる人たち、見捨てるわけにはいかない。今すぐ跳び込むとかじゃないよ。

どうするか、一緒に考えて」


ブランは、こっちを見なかった。

高札を読むふりで顎を上げたまま、袖を引く手を軽く払う。

目だけが、触れ役と兵の位置と、石段の口の幅をなぞっていた。

それから、人垣の外へ一歩下がる。

「……ここで言う話じゃねえよ。顔、上げるな。いいか、宿に戻ってからだ。

……まず石段の人数と、交代の時間を覚えとけ。今はな」


石段の口に目を戻した。

二人。

鐘の音に合わせて、一人が槍を持ち替える。

奥から別の兵が上がってきて、入れ替わった。

鐘一つごとの交代。

奥にも、まだ一人いる。


触れ役が巻物を畳むと、人垣がほどけはじめた。

人の流れに紛れて、広場の端へ歩く。

少し行ってから振り返ると、ブランが一歩遅れて、最後を歩いていた。

聖堂の回廊の柱のほうへ、ほんの少しだけ顔が向いている。

柱の陰には、誰も見えない。

ブランはすぐに前を向いて、腰の酒の革袋の栓を指で弾いた。

小さく顎を引く。

誰に向けたのかは分からなかった。



定宿の二階の奥の部屋は、五人で借りている。

戸を閉めると、ラウロとガレナがようやく頭巾を下ろした。

二人とも、髪が汗で額に張りついている。

窓の板戸の隙間から、鐘楼の先が見えた。

階下の食堂から、客の声が上がってくる。

「印のある奴を出せば礼金が出るんだと」

「隣の通りの鍛冶屋の倅も、首に花があるって噂だ」


ブランが戸に背を預けて、床に腰を下ろした。

酒の革袋の栓を抜く。

けれど口はつけずに、膝の上に置いた。

窓の板戸のほうへ目をやったまま、間を置いて話しだす。

「いいか、聞け。広場の帰りに、ベリアトに声をかけられた。牢破りの日が決まったそうだ。

乗るか降りるか、理由と一緒に聞かせろとよ。今夜、鐘楼の下で待ってる」


あの柱の陰にいたんだ。

胸の奥が、とくんと鳴った。


「……ノアは見捨てねえと言った。俺は鍵開けと耳を貸せと言われてる。

だが乗りゃあ、灯改めの帳どころか、聖堂に弓引いたことになる。

ラウロ、ガレナ、お前らは顔も名も割れてる。……一人ずつ言え。乗るか、降りるか、なんでか。

降りるってのも恥じゃねえ」


もう決めてる。

迷う前に、決めてあった。

板戸の隙間の鐘楼から目を戻して、ブランの正面に座り直す。

膝は抱えない。

「ボクは乗る。石段の口は二人、鐘一つごとに交代、奥からもう一人出てくる。

だって、捕まってるは選べなかった人たちだよ。寝てるあいだに植えられた人も、村で差し出された四人も。

井戸で、そっちの側に立つって名乗った。見てるだけは、もう選ばない」

息を吸う。

「でも、条件つき。誰も殺さない。それをベリアトに呑ませる。呑まないなら降りる。

それから、ボクが乗るからって、ラウロとガレナが乗らなきゃいけないわけじゃないからね」


ラウロが、膝の上の頭巾を置いた。

右の耳の上の一房を手で押さえてから、ブランをまっすぐ見る。

背の短い剣の鞘を、一度引き寄せた。

「乗る。ノアが乗るからじゃねえぞ。井戸で爺さん背負って下ろしたのは俺だ。

下に送っといて、捕まった連中は知らねえってのは、筋が通らねえだろ。顔も名もとっくに割れてる。

降りたって帳から消えるわけじゃねえ。条件はノアのに一つ足す。退き際はブランが決めろ。

親父が退けと言ったら、俺は退く。いいな」


壁に背をつけていたガレナが、勢いよく体を起こした。

背のコッコの柄に手をかけて、一歩前に出る。

ボクとラウロを順に睨むように見てから、ブランに向き直った。

「乗る。決まってんだろ。寝てるあいだに勝手に植えられて、今度は押しこめられて咳してんだぞ。

そんなの黙って見てられるかよ。前はあたしが張る。ノアの隣もな。……文句あるか」


寝台の端で、イルウェンがボクの肩に頭を預けていた。

半分の目が、少しだけ開く。

肩掛けの鞄の留め具を、指でぱちんと鳴らした。

背の灯り弓に一度触れて、ガレナを見て、それからブランを見る。

「乗るー。……ノアの後ろ、いるって約束した。下でも上でも。それだけ。……前と隣は、ガレナにあげる。

後ろは、わたしの。……下、暗いでしょ。明かり、わたしがやる」


ガレナが何か言いかけて、口を閉じた。

耳が赤い。


ブランは膝の革袋に栓をし直した。

口はつけないまま、腰に戻す。

一人ずつ、顔を見ていった。

それから窓の鐘楼へ目を逸らして、長く黙る。

「……揃いも揃って。俺の言い草で止められると思ってたんだがな、と言いてえが」

もう一度、間があった。

「いいか、俺も乗る。理由は一つだ。鍵が開けられる奴が、ここに一人しかいねえ。……条件をまとめる。

誰も殺さねえ。退き際は俺が決める、退けと言ったら全員退く。それをベリアトが呑まなきゃ降りる。

今夜、鐘楼の下へは俺とノアで行く。ラウロとガレナは顔が割れすぎてる、宿にいろ。

イルウェン、二人を見とけ。……日と道筋は聞いてくる。決めるのはそのあとだ」


みんな、自分の口で言った。

ボクが乗ったからじゃない。

それぞれの理由で。

肩にもたれたイルウェンの頭が、少し重くなった。

膝の上で、手を握って、開いた。



日が落ちて、晩の鐘が鳴り終わったころ。

聖堂の鐘楼の裏手は、壁と家並みのあいだの細い路地になっている。

広場の篝火の明かりは、ここまで届かない。

冷えた石の匂いがした。

壁の向こうから、石段の口の兵が交代する声が、ときおり聞こえる。


頭巾をかぶったまま、ブランについて路地に入った。

壁の窪みに、黒い外套の長身の男が背を預けて立っていた。

ベリアトだ。

左手は、布で巻いてある。

路地の奥の暗がりにも、黒い外套の人影が二つ、黙って立っていた。


ブランは奥の二人へ一度だけ鼻を向けてから、ベリアトの正面から半歩ずれて壁際に立った。

ボクを、自分の横に置く。

相手を見ずに、間を置いて話す。

「……奥の二人も聞いてるんだろ。構わねえ。返事だ。乗る。五人ともだ。

理由は一人ずつ違う、聞きたきゃこいつに聞け。俺のは、鍵を開けられるのが俺しかいねえってだけだ。

……ただし条件が二つある。誰も殺さねえ。兵も灯改めもだ。それと、退き際は俺が決める。

俺が退けと言ったら、俺の組は退く。あんたの段取りの途中でもな。呑まねえなら降りる。

……日と道筋を聞くのは、それを呑むと聞いてからだ」


ベリアトが壁から背を離した。

笑って、右手でブランの肩を一つ叩く。

それから、笑みが消えた。

声が低くなる。

琥珀の目が、一度だけボクに来た。

「ああ、呑む。殺しは元からやらねえ、兵も灯改めもだ。退き際も、あんたの組はあんたが決めろ。

俺の部下は俺が引く。それでいい。……坂の娘、あんたの理由はあとで聞く。自分の口で言え」

すぐにブランへ目を戻す。

「日は三日後、夜明け前の交代だ。道筋は聖堂の下、古い水路からだ。細けえとこは今から話す」


三日後。

今夜じゃ、ないんだ。


ベリアトは壁に指で線を引くようにして、段取りを話した。

聖堂の北の壁の下に、埋められかけた古い水路の口がある。

その奥の鉄格子の錠を開ければ、牢の床下の排水の溝へ抜けられる。

黒衣の者たちが牢の中へ上がり、捕まっている人たちを水路へ下ろす。

水路の出口は、町の北の堀。

そこから先は、黒衣が下へ連れていく。

格子の錠と、牢の中の見張りの数と、鍵の在りかを確かめるのがブランの受け持ち。

組の受け持ちは、水路の出口で、出てきた人たちを堀の向こうまで導くこと。

ボクも、数えてきた交代の刻を言い添えた。

ベリアトは黙ってうなずいた。


話し終えると、ベリアトは壁から指を離した。

腰を少し落として、ボクと目の高さを合わせる。

笑わずに、待っていた。

「段取りは以上だ。……で、坂の娘。あんたの理由だ。なんで牢破りに乗る。

俺のためでも兄さんのためでもねえなら、言え」


自分の口で言え、と言われた。

だから、言う。

頭巾を指で少し上げて、琥珀の目から逸らさずに立った。

腰の黒鉄の短剣には、触れない。

「キミのためじゃない。捕まってるのは、選べなかった人たちだからだよ。

寝てるあいだに植えられた人も、村で差し出された四人も、自分で選んで受けた人も、今は同じ牢で咳してる。

選べなかった人の側に立つって、井戸で名乗った。だから乗る」

一つ、息をつぐ。

「それと、言っとく。乗るからって、キミが奇跡を配るのを許したわけじゃないからね。

この件が済んだら、配り先を決めてるやつのこと、聞きに行く」


ベリアトは、しばらく黙ってボクを見ていた。

それから、歳より若く見える笑い方を、一度だけした。

立ち上がる。

右手が、ボクの頭巾を軽く押さえて、目深に戻した。

奥の二人に顎で合図して、路地の奥へ歩き出す。

振り返らずに言った。

「ああ。いい理由だ。許さなくていい。……聞きに来るなら、自分の足で来い。その時は案内する。

――三日後、夜明け前。遅れるなよ、兄さん」


黒い外套が、闇に溶けた。

頭巾の上に、押さえられた手の重さがまだ残っている。

許さなくていい、だって。

ずるい。

いつも、そうやって先に言う。

ブランが鼻を一つ鳴らして、路地の出口へ歩き出した。

その背中を追った。



三日のあいだ、ブランは毎朝、酒樽を運ぶ人足に紛れて聖堂の裏手へ通った。

晩になると、牢の見張りの数と交代の刻、鍵束を下げた牢番の詰め所のことを、

鐘楼の裏の路地で黒衣の使いに渡してきた。

ボクたちは宿で、頭巾を目深にかぶって待った。


三日後の夜明け前。

空は、まだ黒い。

霜が、草を白くしている。

町の北の堀の土手で、ラウロとガレナとイルウェンと、草に伏せて待っていた。

ブランは今ごろ、ベリアトと黒衣の人たちと一緒に、水路の奥だ。

腰まで冷たい水に浸かって、錆びた格子の前にいるはずだった。

伏せた胸の下で、霜が溶けて冷たい。


水路の出口の暗がりが、動いた。

濡れた子どもが二人、黒衣に手を引かれて這い出てくる。

続いて、腕の灰色に固まった男。

背を丸めた年寄り。

黒衣が指で堀の向こうの闇を示して、一人ずつ送り出していく。

出てきた。

ブランが、格子を開けたんだ。

ラウロが、小さく拳を握った。


そのとき、聖堂のほうで鐘が乱れ打ちに鳴りはじめた。

夜明けの鐘じゃない。

屋根の向こうで、聖堂の北の壁の窓が内側から赤く染まる。

煙が、鐘楼を這い上がっていく。


「……火?」

ガレナが、草から顔を上げた。


町のあちこちで、戸が開く音がした。

叫ぶ声。

松明を掲げた人の群れが、通りに流れ出してくる。

首や腕に布を巻いた人が多い。

「牢が開いたぞ」

「下へ行けば救われる」

「聖堂を焼け」

誰が言い出したのか、同じ言葉が通りから通りへ移っていく。


下へ行けば救われる。

あの猫の言葉だ。


ほどなく、白い上衣の灯改めと槍の兵が隊をなして北の通りを塞ぎ、松明の群れとぶつかった。

投げられた松明が、通り沿いの板葺きの家の軒に落ちる。

火が、燃え移った。

堀の土手から見下ろす北の通りの一角。

三軒並んだ家の二階の窓から、火の粉と一緒に、子どもの泣き声が落ちてくる。


泣いている子を見ているだけ、は選ばない。

城壁の上で、それだけは決めた。

考えるより先に、体が草から跳ね起きていた。

頭巾を目深に押さえて、土手を駆け下りかける。

振り返って、短く言った。

「ラウロ、出口お願い。あの窓の子、ボクが行く。

火をつけたのは『下へ行けば救われる』の連中、ベリアトのじゃない。

イルウェン、通りの灯改め、止められる? ガレナは来ないで、ここで出てくる人たち守って」


「ちっ……わかったよ! ここはあたしが張る!」

ガレナが舌打ちして、伏せ直した体からコッコを抜いた。

「ノア、奥に年寄りもいるぞ、一人で抱えきれなかったら叫べ! すぐ跳んでく!」


「無茶すんなよ!」

ラウロの声が、背中に一度だけ飛んできた。


イルウェンが弓で射る。

土手の下で、緑の光が石畳に弾けた。

灯改めの隊列の端が乱れて、二、三人がたたらを踏む。

その隙間を、駆け抜けた。



燃えはじめた三軒のうち、真ん中の家は、戸口の庇がもう火に包まれていた。

梁が、ぎしぎしと鳴る。

二階の窓には、小さな子どもが二人、窓枠にしがみついて泣いている。

その奥から、年寄りのしわがれた咳と、「誰か」という声。

戸口は火で塞がれていた。

窓までは、大人の背丈の倍ほど。


頭巾を口もとまで引き上げる。

隣の家の、まだ燃えていない軒の柱を一蹴りして、壁を駆け上がった。

窓枠に手をかけて、体を引き上げる。

熱い。

煙が目にしみる。

窓枠にしがみつく小さな手を、外側からつかんだ。

自分の体を窓に入れて、煙をさえぎる。

「大丈夫、ボクがいる。下ろすから、ぎゅってして。……下の人! 誰か、受けて! 子ども二人下ろす!」


下を見た。

通りは松明と槍の押し合いで、窓の下に足を止める人はいない。

受けてくれる人なんて、いなかった。

家の中の階段は、もう火に呑まれている。

庇の火が、窓の下まで這い上がってきた。

上を見る。

軒の上の屋根の板は、まだ燃えていない。


下がだめなら、上だ。

子ども二人を左右の腕に抱え直して、顔を外套に埋めさせた。

窓枠に足をかけて、軒へ跳び上がる。

燃えていない屋根の板に乗った。

そのまま、火から遠い側へ駆ける。

三軒目の端の屋根の棟の陰に、二人を座らせた。

「ここでじっとしてて。動いちゃだめ、すぐ戻るから」

窓の奥へ振り返って、叫ぶ。

「そこの人! 声出して、窓のほうへ這って! 今行く!」


燃える屋根の向こうで、黒い膜の翼が半分だけ開いていた。

向かいの屋根に、ベリアトが膝をついている。

窓の上の軒には、いつのまにかブランがたどりついていた。

焦げた外套の裾が、煤で黒い。

水路から、こっちへ来たんだ。

土手のほうから、ラウロとガレナが通りへ駆け下りてくるのも見えた。


窓の奥の煙の中から、白髪の痩せたおばあさんが這い出してきた。

窓枠に、指がかかる。

咳きこんで、もう声が出ていない。

その背の向こうで、階段から上がった火が床板を舐めていた。

足もとの屋根の板の継ぎ目から、煙が噴きはじめる。


燃えはじめた屋根を踏んで、窓の上の軒へ戻った。

おばあさんの両手首をつかんで、外套ごと一息で軒へ引き上げる。

軽い。

市場へ運ぶ粉袋のほうが、まだ重い。

その体を、軒にいるブランに預けた。

向かいの屋根のベリアトへ、顔を上げて叫ぶ。

「ブラン、おばあさんお願い! 端の屋根に子ども二人いる! ……ベリアト! 二軒先、赤ちゃん抱えた人!

ボクは屋根裏の子に行く!」


通りの向かいの並びにも、火が移っていた。

二軒先の家の二階で、窓から身を乗り出した男の人が、赤ちゃんを抱えて叫んでいる。

その隣の屋根裏の小窓から、子どもの泣き声がした。


ブランは何も言わずに、おばあさんを外套でくるんで背に負った。

帯で、胴に縛りつける。

ベリアトは答えるより先に、翼を大きく開いて屋根を蹴った。

重い羽音が、煙を押しのける。


屋根裏の小窓は、通りの向かいだった。

間には、大人の背丈の五つ分ほどの通り。

下では、槍と松明が押し合っている。

足もとの屋根が、燃えはじめていた。


跳ぶしかない。

帳のことも、組のみんなが追われることも、このときは考えなかった。

燃える屋根の板を三歩で駆けて、棟の端を踏み切る。

跳びながら、外套の前を開け放った。

背中で、母さんの翼が開く。

白い骨を板のように重ねた翼が、風を受けて張った。

ソラーナでヴァリエルが細かく継ぎ直してくれた継ぎ目は、もう軋まない。

煙の上を滑って、向かいの屋根裏の小窓の縁に、手と足をかけた。

「いるよ! こっち、手! 窓まで来て!」


煤だらけの、七つほどの女の子が這い出してきた。

小さな手が、ボクの手にしがみつく。

抱え上げると、翼が二人ぶんの重さを受けて、向かいの屋根まで滑った。

持ちこたえる。


下で、ブランの声がした。

「ラウロ、ガレナ! 下だ、端の軒の真下へ来い! 子どもから落とす、受けろ!」

「軒の下、空けた! ばあさんでも子どもでも下ろせ、俺が受ける!」

「どけっ! 下がれ、上から人が降りてくんだよ!」

ラウロとガレナが、背中合わせになって人波を押し返していた。

ラウロは剣を鞘ごと横に構えて、松明の群れを。

ガレナはコッコの刃の腹を前にして、槍の兵を。

軒下に、人ひとりぶんの隙間ができる。

そこへブランが落とした子ども二人を、二人が一人ずつ胸で受け止めた。

二軒先では、ベリアトが赤ちゃんを右腕に抱えて、首にしがみついた男の人ごと、翼で通りへ降りていく。


それからしばらく、燃える北の通りを一軒ずつ回った。

白い翼で、屋根から屋根へ。

子どもと年寄りを抱えては、火の届かない屋根の上へ運ぶ。

下で、ブランとラウロとガレナが受けた。

土手の裏から、イルウェンの緑の光が、灯改めの足もとで何度も弾けた。

通りの人たちが、火の粉の中を渡る翼を見上げて、口々に何か叫んでいる。

「白い翼だ」

「天の使いだ」

槍の兵の何人かも、手を止めて空を仰いでいた。


見られてる。

分かってる。

でも、腕の中の子は軽くて、熱くて、泣いていた。



東の空が、白みはじめるころ。

北の通りの裏手、火の届いていない家並みの屋根に、最後の男の子を下ろした。

「ここにいて」

小さくうなずくのを確かめて、屋根の縁から下を覗く。


暗い裏通りを、荷車が一台、ゆっくり進んでいた。

荷台には、首や腕に布を巻いた人たちが、肩を寄せ合って乗っている。

荷車の脇を、腹の突き出た猫の獣人が歩いていた。

茶虎の毛並み。

上等だけど、袖口の擦り切れた上着。

干し魚の匂いが、ここまで上がってくる。

猫は裏通りの戸口から覗く人に一人ずつ身をかがめて、猫なで声で何か囁いていた。

風に乗って、言葉の切れ端が届く。

「……下へ行けば、救われるさね……」


グラッソ。


頭巾を払った。

屋根の縁を蹴って、白い翼を畳みながら、荷車の真ん前の石畳へ降り立つ。

荷車を引く手と、グラッソのあいだ。

両腕を広げた。

腰の短剣は、抜かない。

肩を叩かれない距離を、一歩とる。

「止まって。グラッソ、キミだよね、町じゅうで『下へ行けば救われる』って言わせたの。

荷台の人たち、自分で選んで乗ったの?」

荷台へ、声を張った。

「……みんな、聞いて。下へ行くかどうかは、ちゃんと治してくれる人に話を聞いてから決めて。

この猫に連れてかれたら、売られるよ」

グラッソへ、目を戻す。

「グラッソ、ボクに触らないで。干し魚もいらない。この荷車は、ここで止める」


荷台が、ざわめいた。


グラッソは荷車の引き手から、肉球の手を離した。

両手を広げて見せる。

一歩も詰めずに、笑った。

細い目が、ボクの背中の翼を、値踏みするようにじっと見ている。

「おやおや、嬢ちゃん。こいつは街道以来だよなあ。

触りゃしないさね、わしは見ての通り、腹の重たいただの行商だ」

燃える聖堂のほうへ、顎をしゃくる。

荷台へ振り返って、腹を揺らした。

「……みんな、怖がるこたぁない。あれを見な、聖堂が燃えとる。

夜が明けりゃ、灯改めの連中が焼け跡で印持ちを探しに来るさね。ここに残って、誰が治してくれる?

嬢ちゃん、おまえさんは止めると言うがね、止めたあと、この人らをどこへ連れてくんだい」

またボクへ向き直って、目尻を下げる。

「……それにしても、立派な白い翼だよなあ。

そいつを背負った嬢ちゃんこそ、灯改めに見つかったら、ただじゃ済まんのじゃないかね」


「灯改め」の一言で、荷台の人たちが身を縮めた。

首に布を巻いた若い男の人が、荷車の縁をつかんだまま、ボクを見下ろす。

「あんたが治してくれるのか」

掠れた声だった。

荷台の端の女の人が、子どもを抱き寄せる。

その目が、グラッソのほうへ流れた。

表の通りの方角から、悲鳴と、梁の崩れる音が届く。


治せない。

ボクには、治せない。

嘘は言いたくなかった。

広げた腕は下ろさずに、若い男の人をまっすぐ見上げる。

「ボクは治せない。嘘は言わない。でも、北の堀に、下で診てくれる人たちが待ってる。

その人たちは信用できる。この猫に植えられた石の腕の人も、そこで診てもらって、ちゃんと生きてた。

ボクが堀まで連れてく。行くかどうかは、そこで話を聞いてからキミたちが決めて」

グラッソには、顔だけ向けた。

「……グラッソ。翼なら、もう町じゅうに見られた。灯改めに追われる覚悟はできてる。

キミの心配はいらない。荷車は置いてって」


荷台の人たちが、顔を見合わせた。

子どもを抱いた女の人が、荷台の縁に手をかける。

降りようか迷うみたいに、ボクとグラッソを見比べていた。


グラッソの喉が、一つ鳴りかけた。

咳払いで、ごまかす。

懐から干し魚の包みを出して、女の人の膝へ、荷台越しにそっと置いた。

「ほうれ、坊やにだ。腹が減っちゃ、迷うもんも迷えんさね」

引き手を握り直して、荷車をわずかに軋ませてみせる。

「……聞いたかい、みんな。この嬢ちゃんは治せんと、自分の口で言ったよなあ。

堀で待っとる連中だって、どのみち下から来た者さね。

下へ行くのは同じこと、違うのは、知らん連中に一から頼むか、ここまで面倒見てきたわしに任せるかだけだ。

火はすぐそこまで来とる。堀まで歩いて、話を聞いて、それから決めてる間に夜が明けちまうよなあ」

目尻を下げたまま、ボクを見る。

「……嬢ちゃん、町じゅうに見られた翼で、この人らを連れ歩くってのかい。

灯改めが真っ先に追うのは、おまえさんの後ろに付いてった者だよ」


女の人は、膝の干し魚の包みを握りしめた。

荷台の縁から、手を離す。

首に布を巻いた若い男の人が、荷台から降りてきた。

ほかに二人の男の人が続く。

三人とも、目を伏せたまま、ボクとグラッソのあいだに黙って立った。

肩を並べて。

荷台に残った人たちは、誰も降りなかった。


そのとき、表の通りの向こう、聖堂前の広場の方角から、ひときわ大きな悲鳴が上がった。

槍の打ち合う音。

灯改めの号令。

「印持ちを逃がすな」

「斬れ」

子どもの泣き叫ぶ声。

誰かが「血が止まらねえ」と喚いている。

広場の空で、火の粉が渦を巻いていた。


荷車を追うか。

広場の血を止めるか。

目の前の三人は、自分で選んで、ここに立った。

引きずり下ろしたら、ボクがグラッソと同じことをする。

広場では、今、誰かが斬られている。


広げていた腕を、ゆっくり下ろした。

三人の顔を、一人ずつ見る。

拳を一度握って、開いた。

グラッソから目を離さずに、一歩下がる。

荷台の人たちへ、北の方角をもう一度指した。

「……分かった。キミたちが選んだなら、ボクは引きずり下ろさない。でも、気が変わったら北の堀だよ。

夜明けまで待ってる人がいる」

グラッソへ。

「……グラッソ。キミの顔も、この荷車も覚えた。次は、逃さないから!」


背中の翼を開いて、広場のほうへ跳び上がった。


屋根の上から一度だけ振り返ると、グラッソが三人の肩を、湿った手で順に気安く叩いていた。

引き手を握って、広場と反対の、東の路地へ荷車を向けていく。

軋む音が、煙の向こうに遠ざかった。



聖堂前の広場は、昼みたいに赤かった。

聖堂は正面の扉から鐘楼の先まで、炎に包まれている。

熱で石畳の霜が溶けて、湯気が立っていた。

高札は倒れて、燃えている。


燃える扉から逃げ出してきた印の人たちが、二十人ほど、石段の下に追いつめられていた。

白い上衣の灯改めと槍の兵が、半円に囲んでいる。

灯改めの頭らしい男が「印持ちは一人も逃がすな」と怒鳴った。

槍が突き出されるたびに、悲鳴が上がる。

石畳には、斬られた人が何人も倒れていた。

腕の灰色に固まった男の人が、倒れた子どもに覆いかぶさって、背を斬られている。

それでも、動かなかった。

囲みの外では、松明を持った群れが、兵の背に石を投げている。


東の屋根の縁に、黒い膜の翼を半ばに畳んだ長身の影が跳び上がってきた。

ベリアトも、来た。


翼を畳んで、石段の下へまっすぐ降りた。

槍の半円と、印の人たちのあいだ。

降り立つと同時に、両の翼を左右いっぱいに開く。

人々の前の、壁にする。

右の手のひらをお椀にして、天へ掲げた。

白い灯りを、灯す。

大きく。

広場じゅうが、昼になるくらい。

槍の穂先を前にして、一歩も退かずに声を張った。

「槍、下ろして! ボクはノア。帳に載せたいなら、ボクを載せればいい。

この人たちは、もう一人も斬らせない!」

東の屋根へ、目だけ向ける。

「……ベリアト! 殺さないって約束したよね。倒れてる人、助けて!」


ほとんど同じとき、黒い翼が一度だけ大きく開いて、屋根から石段の下へ落ちるように降りてきた。

子どもに覆いかぶさった男の人へ突き出された槍の柄を、針の左手が横から突き折る。

乾いた音がした。

右手が穂先をつかんで、兵ごと押し返す。

ベリアトは翼を半ばに開いたまま、背で印の人たちを覆った。

「下がれ。……下がれっつってんだ。こいつらは、俺が連れてく」


白い灯りの中で、槍の兵たちが目を覆った。

二歩、三歩と退いて、半円が崩れる。

灯改めの頭は腕で目をかばいながら「退くな、囲め」と怒鳴った。

けれど兵の何人かは、もう槍を下げている。

白い翼と黒い翼を、口を開けて見比べていた。

「天の使いだ」

「悪魔もいるぞ」

囲みの外の群れから、声が上がる。


ベリアトが、ボクに一度だけ短くうなずいた。

振り返って、灰色の腕の男の人を右腕で起こす。

その下の子どもごと、抱え上げた。

動ける人たちへ、顎で東の路地を示す。

「ああ、わかった。灯りは続けろ。目眩ましになる。俺が運ぶ。――立てる奴は東の路地へ走れ!

倒れてる奴を一人ずつ担げ、置いてくな! 堀の向こうで味方が待ってる!」


動ける人たちが、倒れた人を担ぎ合って、東の路地へ流れていく。

兵たちは白い灯りに目を細めたまま、追うに追えずにいた。

灯改めの頭が「伝令、聖堂守りを呼べ」と叫んで、一人が西の通りへ駆け出す。


燃える聖堂の前に、灯りを掲げたボクと、男の人と子どもを抱えたベリアトが、背中合わせに近い形で残った。

聖堂の屋根の梁が一本、轟音を立てて内へ崩れる。

火の粉が、二人の上に降った。


右の翼で、降る火の粉を払った。

ベリアトの頭の上を、覆う。

退いた兵たちと灯改めの頭のほうへ半歩出て、ベリアトの背と東の路地のあいだに立った。

振り返らない。

振り返ったら、たぶん言えない。

「行って、ベリアト。その人と子ども、早く下へ。ここはボクが灯りで引きつける、追わせない」

それから。

先に全部言うって、決めてた。

城壁の上では、言えなかったほう。

「……それと、言っとく。キミの背中、ずっとかっこいいと思ってた。十五のときから。

でも、許してはいないからね。ここはボクがなんとかする。でも、絶対追いかけるから。」


背中で、ベリアトの足が一瞬だけ止まった。

男の人と子どもを、右腕で抱え直す音がする。

振り返らないまま、口の端で笑ったのが、声で分かった。

「ああ。許さなくていい。……聞きに来い、ノア。下で待ってる。周りが火が近づく前に退け」

重い羽音。

黒い膜の翼が、東の路地の屋根の向こうへ低く飛んで、消えた。


言えた。

両方とも。

胸の奥が、火よりも熱い。

掲げた手のひらの白が、少しだけ揺れた。


入れ替わるように、西の通りから鎧の擦れる音が広場へ入ってきた。

規則正しい足音。

白い外衣に聖堂の印を縫い取った聖堂守りが二十人ほど、盾と長柄を並べている。

その真ん中に、煤に汚れた法衣の年配の司祭がいた。

灯改めの頭が駆け寄って、早口に何か告げる。

黒い翼の男が、印持ちを連れて東へ逃げたこと。

白い翼の娘が、それを庇ったこと。


司祭は燃え落ちる聖堂と、白い灯りを掲げたボクとを見比べた。

震える指で、ボクを指す。

「見よ。聖堂を焼いた悪魔と並び立ち、その逃げ道を守った翼だ。天の使いの姿を騙る者、悪魔の手先だ。

灯りを消させ、翼をもいで引き立てよ」


聖堂守りが盾を並べて、半円に広がった。

長柄の穂先が、こっちを向く。

じりじりと、詰めてくる。

広場の端の群れから、声が割れた。

「天の使いじゃねえのか」

「いや、悪魔の仲間だ」


悪魔の手先。

そう書きたいなら、書けばいい。

でも、黙って書かれるのは嫌だ。

白い灯りを掲げたまま、前へは一歩も出ずに、司祭をまっすぐ見た。

「火をつけたのは、ボクでもあいつでもない。ボクがしたのは、斬られてる人の前に立っただけ。

悪魔の手先って書きたいなら書けばいい。でも、斬ったのはキミたちだよ」


言い終えて、灯りを手の中で握って消した。

広場が、街をもやす火に照らされて赤暗くそまる。

翼を開いて、燃える聖堂の煙の陰へ跳び上がった。

屋根づたいに、北の堀のほうへ低く退く。

下で、誰かが「追え」と叫んでいた。



夜が明けた。

北の堀の土手の裏、枯れ草の窪みに、五人がそろった。

みんな、煤だらけだった。

ブランは脇腹の裂けた外套を、さらに焦がしている。

ラウロとガレナは、腕も顔も煤と火傷の赤で斑になっていた。

イルウェンは弓を背に戻して、土手の上から町を見ている。

翼を畳んで、外套の前をかき合わせ、座りこんだ。


堀の向こうの闇に、牢から出された人たちと黒衣の姿は、もう無かった。

町の北半分から、煙が立ちのぼっている。

聖堂は、鐘楼の骨組みだけを残して燃え続けていた。

土手の下の道を、灯改めの一隊が触れながら通り過ぎていく。

「白い翼を見た者は申し出よ。悪魔と並んだ翼の娘だ」


外套の前を握ったまま、煤だらけの四人の顔を一人ずつ見た。

ブランの焦げた脇腹に、目が止まる。

みんな、生きてる。

膝を正して、ブランへ向き直った。

声を落とす。

「みんな、生きてる。よかった。……先に全部言うね。広場で、印の人たちが槍で囲まれて斬られてたんだ。

だからボク、翼と灯りを出した。広場が昼になるくらい。翼も開いて、ボクはノアだって名乗った。

ベリアトと並んで、斬られた人と子どもを下へ逃がした。

そのあと司祭に悪魔の手先って言われて、言い返して退いてきた」

息を継ぐ。

「それと、その前に裏通りでグラッソを見た。荷車に印の人を乗せて、下へ行けば救われるって。

止めたけど、乗ってた人たちが自分で残るって選んだから、引きずり下ろせなかった。行かせた。

……ごめん、ブラン。退くのがおそかった。ボクが勝手に決めた。

もうこの町、ボクのせいでいられないと思う」


ブランは、ボクの顔を見なかった。

焦げた外套の脇腹を手で押さえたまま、酒の革袋の栓を抜く。

一口だけ飲んで、栓をし直した。

土手の上の煙を見上げて、長く黙る。

「……全部言ったな。なら、俺からは一つだけだ。灯すなってのは、お前のために俺が決めてただけだ。

それを破ってまで助けたかったんなら、しょうがねぇよ。……と言いてえが、もっと慎重にやれ。

生きて戻ってきたから、今回は勘定に入れねえ」


怒られると思っていた。

怒られたほうが、まだ楽だったかもしれない。

小さくうなずいた。


土手の上で町を見ていたイルウェンが、首だけこっちへ回した。

半分の目が、東のほうを指すように細くなる。

「……荷車。……干し魚の匂いの。さっき、東の門、出てった。……門番、火のほう見てて、止めなかった。

……荷台、布巻いた人で、いっぱい」


東の門。

あの荷台の人たちが、乗ったまま。

膝の上で、手を握った。

「ブラン、東の門の先って、どこ?」


ブランが、土手の上の東の空へ目をやった。

「東の門を出りゃ、街道は一本だ。ローザ同盟の東の端、フォンターレまで続いてる。

兵と聖堂と商会が城壁の内で張り合ってる、要塞の町だよ。……カプレオに帰るなら、あの猫は西へ出る。

東へ出たってこたぁ、まだ商いの途中ってことだ」


まだ、途中。

荷台の人たちは、まだ売られていない。

次は、ボクから行く。

裏通りで、そう言った。

外套の前を握ったまま、ブランをまっすぐ見た。

「追いたい。荷台の人たち、まだ間に合う。でも、退き際はブランに聞く。……ブラン、追っていい?」


ブランは、すぐには答えなかった。

酒の革袋を腰に戻して、一人ずつ顔を見ていく。

ラウロが、黙ってうなずいた。

ガレナは、もうコッコの柄に手をかけている。

イルウェンは、ボクの顔だけを見ていた。

ブランが、長く息を吐いた。

「……揃いも揃って、またその顔か。いいか。この町は今日で終いだ。宿には戻らねえ、荷は捨てる。

ラウロ、ガレナ、顔の煤は落とすな、焼け出された連中に紛れる。

イルウェン、筒は鞄の底だ、弓も外套の下に隠せ。ノア、翼は畳んだまま、頭巾を下ろすな」

指で、西を示す。

「東の門は、灯改めが真っ先に固める。昼の鐘が鳴る前に、焼け出された人の流れに混じって西の門を抜ける。

町の外を大回りして、東の街道に出る。荷車の足なら、明日のうちに追いつける。

……追いついても、手を出すかどうかは俺が決める。いいな」


「うん。それでいい」

頭巾を目深に下ろした。

外套の下で翼を畳み直して、前をきつく合わせる。

腰の短剣二本を、外套の内に隠した。

「ありがとう、ブラン。……みんなも」


ブランが、鼻を一つ鳴らした。

ガレナがコッコを背に担ぎ直し、ラウロが剣帯を締める。

イルウェンが、草の上に座ったままこっちへ手を伸ばした。

その手を取って、立たせる。


土手を下りる前に、一度だけ振り返った。

鐘楼の骨組みが、白みはじめた空に黒く立っている。

あの上を、ベリアトの目が流れていった。

その向こう、東の門から延びる街道は、まだ朝靄の中に沈んでいる。

ボクが止められなかった荷車は、今ごろあの靄のどこかを軋んでいる。

イルウェンの手を握ったまま、燃える町に背を向けた。

ブランの背中について、歩き出した。

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