不安
涸れ井戸の事件から十日。
板戸の隙間から、朝の光が一筋差している。
階段を下りていくブランの足音が、遠くなった。
一人で出歩くな、か。
ブランの言うことは、いつも正しい。
でも十日も宿の天井ばかり見ていたら、頭の中があいつのことでいっぱいになる。
会って何を言うかなんて、決めていない。
ただ、会いたかった。
寝台に腰かけて、髪をほどく。
母の青い糸を口にくわえ、指で髪をまとめ直した。
後ろで一つに結ぶと、首筋が少し涼しい。
外套を羽織って頭巾をかぶり、腰の短剣を手のひらで確かめる。
ブラン、ごめん。
夕方までには戻る。
毛布の山から、半分だけ開いた目がこっちを見ていた。
口の前に、指を一本立ててみせる。
「イルウェン、ちょっと出てくる。夕方には戻るから、ブランには内緒ね」
毛布から、白い片手だけが出てきた。
外套の裾をつまもうとして届かず、ひらひらと宙で揺れる。
「……ずるいー。……夕方。……遅かったら、探しに行く」
戸口で振り返り、揺れている手を一度だけ握って、離した。
「うん、夕方。約束」
ずるいのは、ほんとうはボクのほうだ。
探しに行くなんて言ったら、きっと止められる。
だから、言わなかった。
廊下を抜けて、裏口から路地へ出る。
朝の冷えた空気に、焼いた麦の匂いが混じっていた。
東の市は、もう店を開けはじめている。
荷車が石畳を鳴らし、屋台の主たちが声を張り上げる。
頭巾を深くかぶり直し、右手は外套の内に入れた。
どこへ行けばいいかなんて、分からない。
それでも足は、東へ向いていく。
人混みの向こうに聖堂の白い上衣が見えて、向きを変えた。
干し果物の屋台を過ぎ、桶を積んだ荷車をよける。
黒い外套が目の端をかすめるたびに、顔を上げてしまう。
どれも違った。
当てもなく、市の奥へ歩いていった。
陽が上がって、通りは荷車と買い物の人でいっぱいになってきた。
干し肉の屋台の前を過ぎようとしたとき、横に誰かが並んだ。
歩く速さが、ぴたりとこちらに合っている。
「よう。顔を隠して歩くなら、もう少し背を丸めな。その歩き方じゃ、知ってる奴にはすぐ分かる。食うか?」
前を向いたままの男の手から、干し肉が一切れ差し出された。
肩が跳ねた。
半歩よけて、頭巾の縁を押さえたまま見上げる。
黒い外套。
布を巻いた左手。
煤けた浅黒い横顔が、こっちを見ずに笑っていた。
「わっ、ベリアト! なんでここに」
探していたのは、ボクのほうなのに。
先に見つけられた。
心臓がうるさい。
会いたかったなんて、顔に出しちゃだめだ。
差し出された干し肉を、慌てて受け取った。
「た、食べる。ありがとう」
ベリアトは笑って、ノアの肩に手を伸ばしかけた。
途中で、その手を下ろす。
屋台の陰の、荷車の切れ目に顎をしゃくった。
ノアがそっちへ寄ると、ベリアトは通りに背を向けて立った。
人波から、ノアを隠すように。
笑みが、消えていた。
声も低い。
「ああ、俺は買い出しだよ。で、あんたは。灯改めに顔を覚えられた身で、連れも付けずに一人で何してる。
坊主はどうした」
なにしてる、って。
会いたかったから、なんて言えるわけがない。
答えが出たらボクから行くと言ったのに、答えなんて、まだどこにも無い。
いつもなら先に言い切れるのに、口がうまく回らなかった。
干し肉を両手で持ったまま、目が泳ぐ。
「えっと、ボクは、その、散歩。じゃなくて、宿にずっといたから、ちょっと外の空気を吸いに。ラウロは宿。
ブランも。一人で出るなって言われたけど、うん、出てきた。
べつに、何か用があったわけじゃなくて、えっと」
頭巾の縁をつまんで引き下げる。
一口かじろうとして、やめた。
ベリアトが、小さく吹き出した。
笑みが戻っている。
布を巻いていない右手の指が、ノアの頭巾の縁を一度だけ下へ引いた。
深く、かぶせ直される。
「ああ、分かった分かった。息抜きだな。なら付き合え。俺も今朝は買い出しの途中だ。
一人でふらふらされるより、俺の横にいる方がまだましだろ。その代わり、聖堂の方には近づかねえ。いいな」
聖堂とは逆の、市の奥へ顎を向けて、先に歩き出す。
長い脚の歩幅が、ノアに合わせて落ちていた。
市の奥は、聖堂の側より人がまばらだった。
白い上衣は、どこにも見えない。
焼き栗の屋台から、甘い煙が流れてくる。
ついて来い、だって。
横を歩いていいんだ。
足が、ふわふわする。
変なの。
小走りで追いついて、隣に並んだ。
焼き栗の屋台で足を止め、銅貨を二枚出して一袋買う。
熱い栗を一つ割ってから、袋ごとベリアトのほうへ差し出した。
「うん、聖堂には近づかない。ねえ、これ、干し肉のお返し。熱いから気をつけて。
あのさ、年明けにね、ブランがこの短剣くれたんだ。古いけど、ボクのだって。
ベリアトはあれから、ずっと下にいたの?」
ベリアトは袋から栗を一つ取った。
指先で転がしてから、口へ放りこむ。
「あち。ああ、ありがとよ。兄さんがな。そりゃ大事にしな、似合ってる」
腰の短剣に、ちらりと目が落ちた。
すぐに前へ戻る。
「俺か。半分は下で、半分は上だ。井戸から下ろした連中がいたろ。
あいつらの体を一人ずつ診て、住む場所と仕事を割り振ってた。
猫の行商に植えられた奴らは、まだ熱が引かねえのもいる。あとは、上で用を片づけに。何の用かは聞くなよ。
で、あんたらは。あの井戸の後、どこを回ってた」
熱が引かない人が、まだいるんだ。
この人は、それを一人ずつ診ている。
上の用は聞くな、と言われた。
気になる。
でも、今日は聞かない。
自分も栗を一つ取って、割りながら歩いた。
「どこも回ってないよ。ずっと宿。ブランの脇腹とガレナの腕が塞がるまで、依頼はお休み。
ラウロとガレナは灯改めに名乗っちゃったから、とくに出られなくて。ボクは天井ばっかり見てた。
でもね、ブランの傷、もうほとんど塞がったんだ。ガレナはじっとしてられなくて、毎朝裏庭で素振りしてる。
熱が引かない人たち、良くなるといいね」
話しながら、目が勝手に横へ行く。
栗を噛むたびに動く顎。
殻をつまむ、長い指。
って、何見てるんだ、ボク。
慌てて、手もとの栗に目を落とした。
ベリアトが、栗の殻を指で弾いて道端に捨てた。
口の端が笑っている。
「ああ、そりゃ何よりだ。兄さんの脇腹が塞がったなら、あんたらもじきに動ける。
赤毛のは、素振りくらいさせとけ。止めたら壁でも蹴りそうな顔してたしな。
熱の連中は、約束はしねえが、診られる限りは診る。あんたが案じてたって、伝えとくよ」
それから二人で、市の奥の屋台を一つずつ冷やかして回った。
古道具の屋台。
香草を束ねて吊るした屋台。
川魚を焼く煙が、目にしみる。
陽が高くなって、聖堂のほうから昼の鐘が鳴った。
鐘のほうへ、一度だけ顔を向けた。
夕方には戻る、とイルウェンに約束した。
夕方までは、まだある。
だから、まだ戻らなくていい。
ほんとうは、もう少しこのままでいたいだけだった。
伝えとくよ、だって。
そういうところが、ずるい。
人を診て、住む場所を割り振って、それでも奇跡を配る人。
分からない。
分からないのに、横を歩くと足が合う。
「うん、伝えて。鐘、鳴ったね。夕方までは、まだいいんだ」
宿へ、とは言わなかった。
煙の向こうで、黒い外套の肩に栗の殻のかけらが乗っているのが見えた。
手を伸ばしかけて、止める。
結局、指でつまんで払った。
「肩、殻ついてた」
しばらくそうして二人で歩いていると、川魚の屋台の裏手で、子どもの泣き声がした。
荷を積み下ろす、狭い通り。
白い上衣の若い男が一人、十ばかりの痩せた男の子から布の包みを取り上げていた。
灯改めの下っ端だ。
「印持ちの家の子だろ。中を改める」
包みを高く掲げられて、男の子が手を伸ばして跳ねる。
届かない。
嫌だ。
嫌なことはその場で止めるって、イルウェンと決めたのに。
半歩、爪先が出た。
でも今ボクが出たら、帳に名の載った者が灯改めに手を出したことになる。
ラウロも、ガレナも、ブランも、イルウェンも、町を追われる。
東の門で荷運びが引かれていったときも、ボクは見ているだけだった。
また、見てるだけ?
爪先を、戻した。
外套の内で、短剣の柄を握りしめる。
唇を結んだまま、気づくと隣の袖の端をつかんでいた。
その手に、大きな右手が一度だけ重なって、離れた。
ここにいろ、と目が言っている。
ベリアトはゆっくり歩いていって、白い上衣の男の真横に立った。
笑みが消えている。
見下ろす高さから、男の目だけを見ていた。
「市のど真ん中で、子どもの包みを改めるのが今日のお勤めか。
聖堂の上役は、そいつを手柄に数えてくれるのかね。印の改めなら、帳を持った上役を連れて出直しな」
低い声だった。
男が怯んだところで、ベリアトの指が、掲げられた包みをつまんで取った。
腰を落として、男の子の目の高さになる。
包みを小さな手に乗せて、にっと笑った。
「ほら、あんたのだろ。しっかり抱えてな。もう泣くな、男前が台無しだ」
白い上衣の男は、何か言い返そうと口を開けた。
見下ろす目に言葉を呑んで、舌打ちだけを残し、表の通りへ去っていく。
男の子は包みを抱きしめて、ぺこりと頭を下げた。
裏通りの奥へ、駆けていった。
迷わなかった。
あの背中は、一度も止まらなかった。
胸の奥が、張りつめたまま熱い。
かっこいい。
悔しい。
両方がいっぺんに来て、息が詰まる。
戻ってきたベリアトを見上げた。
「迷わないの?」
ベリアトは、男の子の駆けていったほうを見た。
「迷うさ。ただ、迷ってる間に誰かが泣くのが、嫌なんだ」
重ねられた手の甲が、まだ温かい。
そこを、もう片方の手でそっと押さえた。
迷っているあいだに、誰かが泣く。
ボクは迷って、袖をつかんでいただけだった。
唇を結んで、小さくうなずく。
「ボクも、それ、嫌だ。次は、ボクも」
ベリアトが、一瞬だけ目を細めて笑った。
頭巾の上から、頭に右手がぽんと置かれる。
すぐに離れた。
「ああ。そん時は頼む。ただ、動いた後に、自分がどこに立ってるかは、考えるんだな。
あんたは、ひとりじゃあない」
表の通りのほうへ顎をしゃくって、ベリアトが歩き出した。
それからは、少し静かに歩いた。
楽しく話す気分では、もうなかった。
それでも、離れたくない。
ベリアトも何も言わずに、歩幅を合わせて隣を歩いてくれた。
市を抜けて、坂を上る。
陽が傾きはじめて、そろそろみんなが心配しだす頃だった。
東の城壁の上に出ると、風が冷たかった。
見張りの影は遠い。
眼下には、刈り入れの済んだ東の野が、夕方前の光の中に広がっている。
ベリアトが胸壁に右の肘をついて、野を眺めた。
しばらく黙っていてから、口を開く。
「俺の育った街にはな、空が無かった。坑道の天井に灯りを吊るして、それが朝で、消えたら夜だ。
こういう野っ原を初めて見た時は、どこまで歩いても壁に当たらねえのが、正直おっかなかった」
話の途中で、ベリアトの目が西へ流れた。
重なった屋根の上に突き出た、聖堂の鐘楼。
そこで一拍止まって、また野へ戻ってくる。
布を巻いた左手は、外套の内に入れたままだった。
「下でもな、生まれで決まる。どの家に生まれたか、どの体で生まれたか。
同じ坑道で遊んでた奴らが、年ごとに違う場所に立つようになる。俺はそれを、ずっと見てた。
だから、上に出てきた。理由は、それだけだ」
空の無い街。
生まれで決まるのを、ずっと見てきた人。
ボクも、見てきた。
塩屋の前で黙って逸らされた目。
井戸端で、急に途切れる話し声。
だから分かる、と言いたかった。
でも、その前に言わなきゃいけないことがある。
先に全部言うって、決めたんだから。
隣で胸壁に両手をつき、同じ野を見た。
鐘楼のほうへ流れた目は、追わなかった。
一度、息を吸う。
「ボクね、井戸で、選べない人の側に立つって言った。エンジェルウィングのノアって、名乗って。
なのに今日、足が止まった。帳に載ってるボクが出たら、みんなが町を追われるって、そればっかり考えて。
あの子が泣いてるのに、キミの袖をつかんでただけ。かっこ悪いよね。でも、言っておきたかった」
言い終えてから、横を向いて見上げた。
ベリアトの顔から、笑みが消えていた。
胸壁から肘を離し、体ごとこちらへ向き直る。
少し腰を落として、目の高さが揃った。
赤みの強い琥珀の目が、まっすぐこっちを見ている。
「選ぶ前に、何を選ばないかを決めろ」
それだけ言って、黙った。
何を、選ばないか。
選ぶほうばかり考えていた。
誰を助けるか。
どこに立つか。
泣いている子を見ているだけ、は選ばない。
それは分かる。
じゃあ、組を危なくするのは?
そこは、まだ分からない。
でも、問いの形が変わった。
前よりずっと、掴めそうな気がする。
目の前の目を、逸らさずに見返した。
胸壁から離した右手を、外套の上から胸に当てる。
「何を、選ばないか。うん。すぐには言えない。でも、持って帰る」
城壁の階段を、駆け上がってくる足音がした。
一段とばしの、荒い足音。
白い大剣を背に担いだ赤い髪が、息を切らして城壁の上に飛び出してくる。
外套の無い肩が、大きく上下していた。
ガレナはこっちを見るなり、つり上がった目をさらにつり上げた。
「ノア! なんでそんなやつといっしょにいるんだ!」
「ガレナ、どうして来たの?」
「なんだよ、来ちゃ悪いのかよ」
「そんなんじゃないけど」
声が、少ししぼんだ。
もう少しだけ、二人でいたかった。
そう思ってしまった自分が、顔に出たのが分かる。
ガレナが舌打ちした。
ノアの横を素通りして、ベリアトの前に立つ。
背の高さが頭ひとつ以上違うのに、下から睨み上げた。
「ちっ。おい! ベリアトってやつ。変なことしてないだろうな!」
井戸で「赤毛、下がっていいぞ」と言われたのを、まだ根に持っているのだ。
「してねえよ。安心しな」
ベリアトは、睨まれても笑っていた。
それから、こっちを見る。
「ほら、ノア。そろそろ帰る時間だろ」
ノア、って。
坂の娘でも、あんたでもなく。
「あ、名前で呼んでくれた」
口から勝手に出ていた。
顔がぱっと熱くなって、それでも頬がゆるむのを止められない。
「おい! 帰るぞ」
ガレナの声が、一段大きくなった。
「うん。もうちょっと、ガレナも一緒に歩かない?」
ベリアトが吹き出した。
胸壁に手をついて、腹を抱えて笑う。
ひとしきり笑ってから、目の端を指で拭った。
「いや、大人しく帰るんだな。いい仲間じゃないか。また会えるさ。ただ、次に会うときは、敵かもな」
ガレナの手が、ノアの手首をつかんだ。
ぐいと、自分の後ろへ引き寄せられる。
空いた手の親指で、ガレナは背のコッコの柄を指した。
「かもな、じゃねえ。次は赤毛って呼ばせねえからな」
手首を引かれるまま、半歩下がった。
ガレナの肩越しに、まだ笑っているベリアトが見える。
敵かもな、だって。
笑いながら言うの、ずるい。
ボクが何を選ばないかを決めたら、そうなるのかもしれない。
分かってる。
分かってるけど、いやだ。
せっかく、名前で呼んでくれたのに。
口を開きかけて、閉じた。
手首をつかむガレナの指が、熱い。
走ってきたんだ。
町じゅう、探してくれたんだ。
つかまれた手をほどかずに、その指を握り返す。
もう片方の手で、外套の上から胸を押さえた。
ベリアトが、ガレナの後ろで黙りこんだノアを見た。
しょうがなさそうに、笑う。
「ノア、これをやるよ」
腰から、黒鉄の短剣を外した。
鞘ごと、差し出してくる。
受け取ると、手のひらにずしりと冷たい。
古い短剣だった。
柄を少し引くと、刃の根元に二つの印が見えた。
背中合わせに、刻まれている。
「いわくつきだ。理由は、そのうち分かる。返さなくていい。自分の道を選べたら、その時に使え」
自分の道。
選べたら。
短剣を、両手で胸の前に握った。
会ったら先に全部言う、と決めていたことが二つある。
奇跡を配るのを、許していないこと。
かっこいいと、思ったこと。
一つ目は、すぐに口から出た。
「許してないからね」
「知ってる」
ベリアトが笑った。
すれ違いざま、ベリアトの右手がガレナの肩を軽く叩いた。
「よう、赤毛。そいつの手、離すなよ」
ガレナが振り払いかけて、舌打ちをこらえる。
ベリアトは二人の脇を抜けて、階段の口へ歩いていった。
降りかけたところで、振り返らずに右手を肩の上で軽く振る。
黒い外套の裾は、揺れなかった。
その目が、西の鐘楼のほうへ向いていた。
もう一つ。
坂の上で見たときから、ずっと。
今言えばいい。
誰も止めていないのに、喉のところで止まる。
先に全部言うって決めたのに。
唇が一度だけ開いて、音にならずに閉じた。
黒い背中が、階段の下へ沈んでいく。
次は、敵かもしれない背中。
見えなくなっても、しばらく階段の口から目を離せなかった。
手首を握る指が、握り直された。
ガレナは、階段の口をまだ睨んでいた。
「言われなくても離さねえよ。帰るぞ、ノア」
その手を、握り返す。
「ガレナ。帰ろうか」
「あたしが迎えに来たんだぞ!」
手をつないだまま、城壁を下りた。
日の暮れかけた町に、夕餉の煙が上がりはじめていた。
宿の一階の食堂は、もう灯りが入っていた。
隅の卓で、ブランが一人、革袋の酒を飲んでいる。
革袋を口から離しかけて、手が止まった。
目が、ノアの腰に一瞬だけ留まる。
古い短剣の隣に並んだ、黒鉄の柄。
ブランは何も言わずに目を卓へ戻し、革袋をもう一口あおった。
向かいの椅子を、足で少し押し出す。
怒られるより、こっちのほうが胸にくる。
押し出された椅子の前で、足を止めた。
腰の二本の短剣に、一度だけ手を触れる。
椅子に座って、頭を下げた。
「ブラン、ごめん。一人で出た。ベリアトに会ってた。話は、ちゃんとする」
少し間があった。
ブランは相手を見ずに革袋の栓を締めて、卓の上をこっちへ滑らせた。
「聞いてやる。飲みながらでいい」
今日のことを、全部話した。
ブランは最後まで黙って聞いて、短剣のことは一度も聞かなかった。
夜更けの相部屋は、板戸の隙間から冷えた風が入ってきた。
寝台に横になると、壁ぎわの毛布の山から、半分の目がこっちを見た。
「言えたー?」
「半分だけ」
「ふーん」
イルウェンはそれだけ言って、いつものようにノアの肩に頭を乗せた。
半分だけ。
許してないは、言えた。
かっこいいは、まだ。
次は敵かもしれない人に、言える日は来るのかな。
何を、選ばないか。
泣いている子を見ているだけ、は選ばない。
それだけは、もう決めた。
残りは、明日考える。
枕もとに置いた黒鉄の鞘に、指先を一度だけ触れて、引っこめた。
肩の髪が、くすぐったい。
毛布を引き上げて、二人ぶん掛け直す。
目を閉じた。




