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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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67/99

不安

涸れ井戸の事件から十日。


板戸の隙間から、朝の光が一筋差している。

階段を下りていくブランの足音が、遠くなった。

一人で出歩くな、か。

ブランの言うことは、いつも正しい。

でも十日も宿の天井ばかり見ていたら、頭の中があいつのことでいっぱいになる。

会って何を言うかなんて、決めていない。

ただ、会いたかった。


寝台に腰かけて、髪をほどく。

母の青い糸を口にくわえ、指で髪をまとめ直した。

後ろで一つに結ぶと、首筋が少し涼しい。

外套を羽織って頭巾をかぶり、腰の短剣を手のひらで確かめる。

ブラン、ごめん。

夕方までには戻る。


毛布の山から、半分だけ開いた目がこっちを見ていた。

口の前に、指を一本立ててみせる。

「イルウェン、ちょっと出てくる。夕方には戻るから、ブランには内緒ね」


毛布から、白い片手だけが出てきた。

外套の裾をつまもうとして届かず、ひらひらと宙で揺れる。

「……ずるいー。……夕方。……遅かったら、探しに行く」


戸口で振り返り、揺れている手を一度だけ握って、離した。

「うん、夕方。約束」

ずるいのは、ほんとうはボクのほうだ。

探しに行くなんて言ったら、きっと止められる。

だから、言わなかった。


廊下を抜けて、裏口から路地へ出る。

朝の冷えた空気に、焼いた麦の匂いが混じっていた。

東の市は、もう店を開けはじめている。

荷車が石畳を鳴らし、屋台の主たちが声を張り上げる。

頭巾を深くかぶり直し、右手は外套の内に入れた。


どこへ行けばいいかなんて、分からない。

それでも足は、東へ向いていく。

人混みの向こうに聖堂の白い上衣が見えて、向きを変えた。

干し果物の屋台を過ぎ、桶を積んだ荷車をよける。

黒い外套が目の端をかすめるたびに、顔を上げてしまう。

どれも違った。

当てもなく、市の奥へ歩いていった。


陽が上がって、通りは荷車と買い物の人でいっぱいになってきた。

干し肉の屋台の前を過ぎようとしたとき、横に誰かが並んだ。

歩く速さが、ぴたりとこちらに合っている。

「よう。顔を隠して歩くなら、もう少し背を丸めな。その歩き方じゃ、知ってる奴にはすぐ分かる。食うか?」

前を向いたままの男の手から、干し肉が一切れ差し出された。


肩が跳ねた。

半歩よけて、頭巾の縁を押さえたまま見上げる。

黒い外套。

布を巻いた左手。

煤けた浅黒い横顔が、こっちを見ずに笑っていた。

「わっ、ベリアト! なんでここに」

探していたのは、ボクのほうなのに。

先に見つけられた。

心臓がうるさい。

会いたかったなんて、顔に出しちゃだめだ。

差し出された干し肉を、慌てて受け取った。

「た、食べる。ありがとう」


ベリアトは笑って、ノアの肩に手を伸ばしかけた。

途中で、その手を下ろす。

屋台の陰の、荷車の切れ目に顎をしゃくった。

ノアがそっちへ寄ると、ベリアトは通りに背を向けて立った。

人波から、ノアを隠すように。

笑みが、消えていた。

声も低い。

「ああ、俺は買い出しだよ。で、あんたは。灯改めに顔を覚えられた身で、連れも付けずに一人で何してる。

坊主はどうした」


なにしてる、って。

会いたかったから、なんて言えるわけがない。

答えが出たらボクから行くと言ったのに、答えなんて、まだどこにも無い。

いつもなら先に言い切れるのに、口がうまく回らなかった。

干し肉を両手で持ったまま、目が泳ぐ。

「えっと、ボクは、その、散歩。じゃなくて、宿にずっといたから、ちょっと外の空気を吸いに。ラウロは宿。

ブランも。一人で出るなって言われたけど、うん、出てきた。

べつに、何か用があったわけじゃなくて、えっと」

頭巾の縁をつまんで引き下げる。

一口かじろうとして、やめた。


ベリアトが、小さく吹き出した。

笑みが戻っている。

布を巻いていない右手の指が、ノアの頭巾の縁を一度だけ下へ引いた。

深く、かぶせ直される。

「ああ、分かった分かった。息抜きだな。なら付き合え。俺も今朝は買い出しの途中だ。

一人でふらふらされるより、俺の横にいる方がまだましだろ。その代わり、聖堂の方には近づかねえ。いいな」

聖堂とは逆の、市の奥へ顎を向けて、先に歩き出す。

長い脚の歩幅が、ノアに合わせて落ちていた。


市の奥は、聖堂の側より人がまばらだった。

白い上衣は、どこにも見えない。

焼き栗の屋台から、甘い煙が流れてくる。

ついて来い、だって。

横を歩いていいんだ。

足が、ふわふわする。

変なの。

小走りで追いついて、隣に並んだ。

焼き栗の屋台で足を止め、銅貨を二枚出して一袋買う。

熱い栗を一つ割ってから、袋ごとベリアトのほうへ差し出した。

「うん、聖堂には近づかない。ねえ、これ、干し肉のお返し。熱いから気をつけて。

あのさ、年明けにね、ブランがこの短剣くれたんだ。古いけど、ボクのだって。

ベリアトはあれから、ずっと下にいたの?」


ベリアトは袋から栗を一つ取った。

指先で転がしてから、口へ放りこむ。

「あち。ああ、ありがとよ。兄さんがな。そりゃ大事にしな、似合ってる」

腰の短剣に、ちらりと目が落ちた。

すぐに前へ戻る。

「俺か。半分は下で、半分は上だ。井戸から下ろした連中がいたろ。

あいつらの体を一人ずつ診て、住む場所と仕事を割り振ってた。

猫の行商に植えられた奴らは、まだ熱が引かねえのもいる。あとは、上で用を片づけに。何の用かは聞くなよ。

で、あんたらは。あの井戸の後、どこを回ってた」


熱が引かない人が、まだいるんだ。

この人は、それを一人ずつ診ている。

上の用は聞くな、と言われた。

気になる。

でも、今日は聞かない。

自分も栗を一つ取って、割りながら歩いた。

「どこも回ってないよ。ずっと宿。ブランの脇腹とガレナの腕が塞がるまで、依頼はお休み。

ラウロとガレナは灯改めに名乗っちゃったから、とくに出られなくて。ボクは天井ばっかり見てた。

でもね、ブランの傷、もうほとんど塞がったんだ。ガレナはじっとしてられなくて、毎朝裏庭で素振りしてる。

熱が引かない人たち、良くなるといいね」

話しながら、目が勝手に横へ行く。

栗を噛むたびに動く顎。

殻をつまむ、長い指。

って、何見てるんだ、ボク。

慌てて、手もとの栗に目を落とした。


ベリアトが、栗の殻を指で弾いて道端に捨てた。

口の端が笑っている。

「ああ、そりゃ何よりだ。兄さんの脇腹が塞がったなら、あんたらもじきに動ける。

赤毛のは、素振りくらいさせとけ。止めたら壁でも蹴りそうな顔してたしな。

熱の連中は、約束はしねえが、診られる限りは診る。あんたが案じてたって、伝えとくよ」


それから二人で、市の奥の屋台を一つずつ冷やかして回った。

古道具の屋台。

香草を束ねて吊るした屋台。

川魚を焼く煙が、目にしみる。

陽が高くなって、聖堂のほうから昼の鐘が鳴った。


鐘のほうへ、一度だけ顔を向けた。

夕方には戻る、とイルウェンに約束した。

夕方までは、まだある。

だから、まだ戻らなくていい。

ほんとうは、もう少しこのままでいたいだけだった。

伝えとくよ、だって。

そういうところが、ずるい。

人を診て、住む場所を割り振って、それでも奇跡を配る人。

分からない。

分からないのに、横を歩くと足が合う。

「うん、伝えて。鐘、鳴ったね。夕方までは、まだいいんだ」

宿へ、とは言わなかった。

煙の向こうで、黒い外套の肩に栗の殻のかけらが乗っているのが見えた。

手を伸ばしかけて、止める。

結局、指でつまんで払った。

「肩、殻ついてた」


しばらくそうして二人で歩いていると、川魚の屋台の裏手で、子どもの泣き声がした。

荷を積み下ろす、狭い通り。

白い上衣の若い男が一人、十ばかりの痩せた男の子から布の包みを取り上げていた。

灯改めの下っ端だ。

「印持ちの家の子だろ。中を改める」

包みを高く掲げられて、男の子が手を伸ばして跳ねる。

届かない。


嫌だ。

嫌なことはその場で止めるって、イルウェンと決めたのに。

半歩、爪先が出た。

でも今ボクが出たら、帳に名の載った者が灯改めに手を出したことになる。

ラウロも、ガレナも、ブランも、イルウェンも、町を追われる。

東の門で荷運びが引かれていったときも、ボクは見ているだけだった。

また、見てるだけ?

爪先を、戻した。

外套の内で、短剣の柄を握りしめる。

唇を結んだまま、気づくと隣の袖の端をつかんでいた。


その手に、大きな右手が一度だけ重なって、離れた。

ここにいろ、と目が言っている。

ベリアトはゆっくり歩いていって、白い上衣の男の真横に立った。

笑みが消えている。

見下ろす高さから、男の目だけを見ていた。

「市のど真ん中で、子どもの包みを改めるのが今日のお勤めか。

聖堂の上役は、そいつを手柄に数えてくれるのかね。印の改めなら、帳を持った上役を連れて出直しな」

低い声だった。

男が怯んだところで、ベリアトの指が、掲げられた包みをつまんで取った。

腰を落として、男の子の目の高さになる。

包みを小さな手に乗せて、にっと笑った。

「ほら、あんたのだろ。しっかり抱えてな。もう泣くな、男前が台無しだ」


白い上衣の男は、何か言い返そうと口を開けた。

見下ろす目に言葉を呑んで、舌打ちだけを残し、表の通りへ去っていく。

男の子は包みを抱きしめて、ぺこりと頭を下げた。

裏通りの奥へ、駆けていった。


迷わなかった。

あの背中は、一度も止まらなかった。

胸の奥が、張りつめたまま熱い。

かっこいい。

悔しい。

両方がいっぺんに来て、息が詰まる。

戻ってきたベリアトを見上げた。

「迷わないの?」

ベリアトは、男の子の駆けていったほうを見た。

「迷うさ。ただ、迷ってる間に誰かが泣くのが、嫌なんだ」


重ねられた手の甲が、まだ温かい。

そこを、もう片方の手でそっと押さえた。

迷っているあいだに、誰かが泣く。

ボクは迷って、袖をつかんでいただけだった。

唇を結んで、小さくうなずく。

「ボクも、それ、嫌だ。次は、ボクも」


ベリアトが、一瞬だけ目を細めて笑った。

頭巾の上から、頭に右手がぽんと置かれる。

すぐに離れた。

「ああ。そん時は頼む。ただ、動いた後に、自分がどこに立ってるかは、考えるんだな。

あんたは、ひとりじゃあない」

表の通りのほうへ顎をしゃくって、ベリアトが歩き出した。


それからは、少し静かに歩いた。

楽しく話す気分では、もうなかった。

それでも、離れたくない。

ベリアトも何も言わずに、歩幅を合わせて隣を歩いてくれた。

市を抜けて、坂を上る。

陽が傾きはじめて、そろそろみんなが心配しだす頃だった。


東の城壁の上に出ると、風が冷たかった。

見張りの影は遠い。

眼下には、刈り入れの済んだ東の野が、夕方前の光の中に広がっている。

ベリアトが胸壁に右の肘をついて、野を眺めた。

しばらく黙っていてから、口を開く。

「俺の育った街にはな、空が無かった。坑道の天井に灯りを吊るして、それが朝で、消えたら夜だ。

こういう野っ原を初めて見た時は、どこまで歩いても壁に当たらねえのが、正直おっかなかった」

話の途中で、ベリアトの目が西へ流れた。

重なった屋根の上に突き出た、聖堂の鐘楼。

そこで一拍止まって、また野へ戻ってくる。

布を巻いた左手は、外套の内に入れたままだった。

「下でもな、生まれで決まる。どの家に生まれたか、どの体で生まれたか。

同じ坑道で遊んでた奴らが、年ごとに違う場所に立つようになる。俺はそれを、ずっと見てた。

だから、上に出てきた。理由は、それだけだ」


空の無い街。

生まれで決まるのを、ずっと見てきた人。

ボクも、見てきた。

塩屋の前で黙って逸らされた目。

井戸端で、急に途切れる話し声。

だから分かる、と言いたかった。

でも、その前に言わなきゃいけないことがある。

先に全部言うって、決めたんだから。

隣で胸壁に両手をつき、同じ野を見た。

鐘楼のほうへ流れた目は、追わなかった。

一度、息を吸う。

「ボクね、井戸で、選べない人の側に立つって言った。エンジェルウィングのノアって、名乗って。

なのに今日、足が止まった。帳に載ってるボクが出たら、みんなが町を追われるって、そればっかり考えて。

あの子が泣いてるのに、キミの袖をつかんでただけ。かっこ悪いよね。でも、言っておきたかった」

言い終えてから、横を向いて見上げた。


ベリアトの顔から、笑みが消えていた。

胸壁から肘を離し、体ごとこちらへ向き直る。

少し腰を落として、目の高さが揃った。

赤みの強い琥珀の目が、まっすぐこっちを見ている。

「選ぶ前に、何を選ばないかを決めろ」

それだけ言って、黙った。


何を、選ばないか。

選ぶほうばかり考えていた。

誰を助けるか。

どこに立つか。

泣いている子を見ているだけ、は選ばない。

それは分かる。

じゃあ、組を危なくするのは?

そこは、まだ分からない。

でも、問いの形が変わった。

前よりずっと、掴めそうな気がする。

目の前の目を、逸らさずに見返した。

胸壁から離した右手を、外套の上から胸に当てる。

「何を、選ばないか。うん。すぐには言えない。でも、持って帰る」


城壁の階段を、駆け上がってくる足音がした。

一段とばしの、荒い足音。

白い大剣を背に担いだ赤い髪が、息を切らして城壁の上に飛び出してくる。

外套の無い肩が、大きく上下していた。

ガレナはこっちを見るなり、つり上がった目をさらにつり上げた。

「ノア! なんでそんなやつといっしょにいるんだ!」


「ガレナ、どうして来たの?」

「なんだよ、来ちゃ悪いのかよ」

「そんなんじゃないけど」

声が、少ししぼんだ。

もう少しだけ、二人でいたかった。

そう思ってしまった自分が、顔に出たのが分かる。


ガレナが舌打ちした。

ノアの横を素通りして、ベリアトの前に立つ。

背の高さが頭ひとつ以上違うのに、下から睨み上げた。

「ちっ。おい! ベリアトってやつ。変なことしてないだろうな!」

井戸で「赤毛、下がっていいぞ」と言われたのを、まだ根に持っているのだ。


「してねえよ。安心しな」

ベリアトは、睨まれても笑っていた。

それから、こっちを見る。

「ほら、ノア。そろそろ帰る時間だろ」


ノア、って。

坂の娘でも、あんたでもなく。

「あ、名前で呼んでくれた」

口から勝手に出ていた。

顔がぱっと熱くなって、それでも頬がゆるむのを止められない。


「おい! 帰るぞ」

ガレナの声が、一段大きくなった。

「うん。もうちょっと、ガレナも一緒に歩かない?」


ベリアトが吹き出した。

胸壁に手をついて、腹を抱えて笑う。

ひとしきり笑ってから、目の端を指で拭った。

「いや、大人しく帰るんだな。いい仲間じゃないか。また会えるさ。ただ、次に会うときは、敵かもな」


ガレナの手が、ノアの手首をつかんだ。

ぐいと、自分の後ろへ引き寄せられる。

空いた手の親指で、ガレナは背のコッコの柄を指した。

「かもな、じゃねえ。次は赤毛って呼ばせねえからな」


手首を引かれるまま、半歩下がった。

ガレナの肩越しに、まだ笑っているベリアトが見える。

敵かもな、だって。

笑いながら言うの、ずるい。

ボクが何を選ばないかを決めたら、そうなるのかもしれない。

分かってる。

分かってるけど、いやだ。

せっかく、名前で呼んでくれたのに。

口を開きかけて、閉じた。

手首をつかむガレナの指が、熱い。

走ってきたんだ。

町じゅう、探してくれたんだ。

つかまれた手をほどかずに、その指を握り返す。

もう片方の手で、外套の上から胸を押さえた。


ベリアトが、ガレナの後ろで黙りこんだノアを見た。

しょうがなさそうに、笑う。

「ノア、これをやるよ」

腰から、黒鉄の短剣を外した。

鞘ごと、差し出してくる。

受け取ると、手のひらにずしりと冷たい。

古い短剣だった。

柄を少し引くと、刃の根元に二つの印が見えた。

背中合わせに、刻まれている。

「いわくつきだ。理由は、そのうち分かる。返さなくていい。自分の道を選べたら、その時に使え」


自分の道。

選べたら。

短剣を、両手で胸の前に握った。

会ったら先に全部言う、と決めていたことが二つある。

奇跡を配るのを、許していないこと。

かっこいいと、思ったこと。

一つ目は、すぐに口から出た。

「許してないからね」

「知ってる」

ベリアトが笑った。


すれ違いざま、ベリアトの右手がガレナの肩を軽く叩いた。

「よう、赤毛。そいつの手、離すなよ」

ガレナが振り払いかけて、舌打ちをこらえる。

ベリアトは二人の脇を抜けて、階段の口へ歩いていった。

降りかけたところで、振り返らずに右手を肩の上で軽く振る。

黒い外套の裾は、揺れなかった。

その目が、西の鐘楼のほうへ向いていた。


もう一つ。

坂の上で見たときから、ずっと。

今言えばいい。

誰も止めていないのに、喉のところで止まる。

先に全部言うって決めたのに。

唇が一度だけ開いて、音にならずに閉じた。

黒い背中が、階段の下へ沈んでいく。

次は、敵かもしれない背中。

見えなくなっても、しばらく階段の口から目を離せなかった。


手首を握る指が、握り直された。

ガレナは、階段の口をまだ睨んでいた。

「言われなくても離さねえよ。帰るぞ、ノア」

その手を、握り返す。

「ガレナ。帰ろうか」

「あたしが迎えに来たんだぞ!」

手をつないだまま、城壁を下りた。

日の暮れかけた町に、夕餉の煙が上がりはじめていた。



宿の一階の食堂は、もう灯りが入っていた。

隅の卓で、ブランが一人、革袋の酒を飲んでいる。

革袋を口から離しかけて、手が止まった。

目が、ノアの腰に一瞬だけ留まる。

古い短剣の隣に並んだ、黒鉄の柄。

ブランは何も言わずに目を卓へ戻し、革袋をもう一口あおった。

向かいの椅子を、足で少し押し出す。


怒られるより、こっちのほうが胸にくる。

押し出された椅子の前で、足を止めた。

腰の二本の短剣に、一度だけ手を触れる。

椅子に座って、頭を下げた。

「ブラン、ごめん。一人で出た。ベリアトに会ってた。話は、ちゃんとする」

少し間があった。

ブランは相手を見ずに革袋の栓を締めて、卓の上をこっちへ滑らせた。

「聞いてやる。飲みながらでいい」


今日のことを、全部話した。

ブランは最後まで黙って聞いて、短剣のことは一度も聞かなかった。



夜更けの相部屋は、板戸の隙間から冷えた風が入ってきた。

寝台に横になると、壁ぎわの毛布の山から、半分の目がこっちを見た。

「言えたー?」

「半分だけ」

「ふーん」

イルウェンはそれだけ言って、いつものようにノアの肩に頭を乗せた。


半分だけ。

許してないは、言えた。

かっこいいは、まだ。

次は敵かもしれない人に、言える日は来るのかな。

何を、選ばないか。

泣いている子を見ているだけ、は選ばない。

それだけは、もう決めた。

残りは、明日考える。

枕もとに置いた黒鉄の鞘に、指先を一度だけ触れて、引っこめた。

肩の髪が、くすぐったい。

毛布を引き上げて、二人ぶん掛け直す。

目を閉じた。

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