ずっといっしょ
涸れ井戸の夜から、七日が経った。
十月の二十四日。
板戸を閉めても、夜気は床板の隙間から足の先へ上がってくる。
組は依頼を休んでいる。
ブランの脇腹の縫い目と、ガレナの二の腕の傷が塞がるまで、ドラージョの定宿で待つことにした。
灯改めの頭は、門をくぐれると思うなと言い残した。
けれど門に立っていたのは同盟の兵で、誰も五人の顔を見なかった。
それでもブランは、一人で出歩くなと言い渡している。
二階の奥の、小さな相部屋。
寝台が二つ、壁ぎわに並んでいる。
ガレナは晩のうちに湯屋へ出ていって、まだ戻らない。
向かいの寝台の毛布は、畳まれたままだ。
ノアは仰向けに寝て、天井の梁を見ていた。
目を閉じると、順番に浮かんでくる。
井戸の縁に突き出された灯。
手のひらに滲みかけた白。
握った拳。
ブランの脇腹の赤と、ガレナの袖の赤。
梯子を三段ずつ駆け上がってきた、黒い外套の背中。
怪我をしていた肩は、もう痛まない。
それなのに、眠れなかった。
右の手のひらを、顔の上にかざした。
指を開いて、閉じて、また開く。
白は滲まない。
それを確かめてから拳を握り、胸の上に置いた。
あのとき灯していたら、二人は血を流さずに済んだかもしれない。
でも、翼を開いて、白い灯を掲げていたら。
あの野原で、ボクは何になっていたんだろう。
起き上がって、寝台の端に座った。
外套の下に手を回し、背の荷の留め紐の結び目を指でなぞる。
外れない荷。
母さんの翼。
板戸の隙間に寄ると、冷えた夜気が頬に当たった。
屋根の向こうに、聖堂の鐘楼の影が黒く立っている。
「出さなかったよ、母さん」
声にしても、返ってくるものは無い。
それで合っていたのかも、分からないままだった。
戸が、二度鳴った。
軽い音だった。
「ノア。……起きてるー?」
イルウェンの声だ。
ノアは鐘楼から目を離した。
イルウェンは、自分から人の部屋に来ない。
飯どきでさえ、呼ばれてから下りてくる。
こんな夜更けに、何かあったのかな。
裸足のまま戸へ行き、閂を外した。
廊下の暗がりに、大きすぎる外套の肩が立っている。
古着屋で一緒に選んだ外套で、袖が指の先まで来ていた。
その袖を、イルウェンは指でいじっていた。
「イルウェン? どうしたの、こんな夜に。入って、寒いでしょ」
イルウェンは返事をせずに、のそのそ入ってきた。
部屋を見回しもしない。
ノアの寝台の端に、勝手に腰を下ろした。
手のひらに、小さく灯りをともす。
白に寄った薄い緑。
若葉を光に透かしたような色が、膝の上で揺れた。
半分しか開かない目が、ノアの背の荷を眺めている。
「眠れない。……あなたも、でしょ。荷物、下ろしたらー?」
ノアは戸を閉めて、閂を掛け直した。
イルウェンの隣に並んで座る。
背の荷に手をやりかけて、やめた。
肩をすくめる。
「これ、下ろせないんだ。くっついてて外れないの。知ってるでしょ」
膝の上の緑を見た。
あの夜、ブランの脇腹へ突きこまれた剣の手もとを、横から弾いたのもこの色だった。
この緑が、少しでも遅れていたら。
ボクが拳を握ったせいで、ブランは。
その先を考えると、喉の奥が冷たくなる。
目を上げないまま、口を開いた。
「うん、眠れない。あのときさ、ボク、灯も翼も出しかけたんだ。
ブランとガレナの袖が赤くなってくのを見て、全部出せば止められるって思った」
膝の上で、手のひらを開く。
「でも握って、押しこんだ。出したら、ボクの秘密がみんなにばれるから。
それが怖かったのか、正しかったのか、まだ分かんない」
言い終えると、胸のつかえが少しだけ下りた。
七日のあいだ、誰かに言いたかったのだ。
「ブランに向かった剣、横から弾いたのはキミでしょ。
キミが間に合わなかったら、ボクが動かなかったせいで、ブランが危なかった。ありがとう、イルウェン」
それから、イルウェンの顔を覗きこむ。
「キミは? 平気?」
イルウェンは、緑の灯りをノアの手のそばへ寄せた。
少し黙ってから、ノアの肩に頭をことんと預ける。
髪から、薬草と古い紙の匂いがした。
「うん。……弾いたの、近かったから。握ったの、だめじゃない。……みんな、生きてるー」
いつもなら、「うん」で終わるところだった。
みんな生きてる。
その言葉が、胸の底にことりと落ちた。
肩の重みを動かさないようにして、ノアは長く息を吐いた。
「でも。……黒い人、ノアのこと、ずっと見てた。出しかけたの、見えてたかもー」
イルウェンの調子は、少しも変わらない。
胸の奥で、何かが一度跳ねた。
寄せられた緑のそばで、指を開く。
白は、ともさない。
天井を見上げた。
見られていた。
あいつは、ボクの中の何かに気づいている。
それに、ボクのほうも。
「ベリアトのことでしょ」
少し黙ってから、続けた。
「知ってる。ボクも見てたから」
井戸の縁で並んだ、ほんのいくつか息をするあいだのことが、まだ足の裏に残っている。
「変だったんだ。何も言ってないのに、あいつがどっちに動くか分かって、ボクの足も勝手に合ってた。
ラウロとだって、あんなふうにはならないのに」
言ってから、耳の先が熱くなった。
灯りが小さくて、よかった。
「それに、震えてた人たちが、あいつのひと言で歩きだした。悪いやつなら、あんなふうにはならないと思う。
でも、奇跡を配ってる側なのも本当」
星の下で、閉じかけた口を思い出す。
俺の上は——。
「あいつの上に、配る先を決めてるやつがいるんだって。
誰って聞いたら、知りたいなら自分の足で下まで来いって」
梁の黒い節を、じっと見た。
「ボク、下まで行きたい。選べない人に奇跡を植えさせてるのが誰か、ボクの目で見たい。
それに、あいつがボクの何を見てたのかも」
肩の上の頭に、そっと聞いた。
「イルウェン。ボクが下へ行くって言ったら、キミはどうする?」
イルウェンは、灯りを指先でつついて小さくした。
しばらく、答えなかった。
「ついてく。……歩くの、やだけど。ノア、しんぱいだからー」
ノアは小さく笑った。
見抜かれている。
「あの人、泣いてた子の前で、しゃがんでた。……悪い人には、できないー」
悪い人には、できない。
自分でも分かっていたことを、先に言われた。
ノアは、イルウェンの頭に頬を寄せた。
「うん。ありがとう。キミがいると、ボク、安心だよ」
笑いは、すぐに消えた。
膝の上で両手を組む。
指に、力が入った。
浮かんでくるのは、あの背中ではなかった。
寝ているあいだに植えられて、灰色に固まりかけた腕。
匿っただけで焼かれた家の、黒く残った柱。
井戸の縁で、泣いていた子。
あいつが悪くないのなら。
誰かが悪くなきゃ、おかしい。
「でもさ、イルウェン。あいつが悪くないなら、誰が悪いの?」
声が、少し硬くなった。
「寝てるあいだに植えられて、腕が石みたいになった人、いたでしょ。匿っただけで焼かれた家も。
あの猫はただで奇跡を撒いてて、ベリアトは下で治してて、灯改めは縛って、町の人は火をつける。
みんな、自分は正しいって顔してる」
組んだ指をほどいて、また組んだ。
「ボク、悪いやつを一人見つけて止めれば、それで終わるって思ってたんだ。
でも、そういうのじゃないのかもしれない。それが、ずっと引っかかってる」
天井へ向けて、息といっしょに吐き出した。
「ベリアトの上にいるやつが悪いやつなら、楽なのにな」
イルウェンが頭を起こした。
半分の目で、ノアの組んだ手を見る。
その上に、自分の手をぺたりと載せた。
小さくて、少し冷たい手だった。
「猫の人も、にこにこしてた。……悪い顔しない人のほうが、こわいー」
緑の灯りが、重なった手を下から照らしている。
「悪い人、探さなくていい。……ノアがやだって思ったこと、ひとつずつ、止めればいいー」
猫の行商の、にこにこした丸い顔が浮かんだ。
干し魚の荷車。
眠っている女の首に残った、植えられた跡。
二つが重なって、離れない。
あの猫は、ベリアトのことを知らないふりをしていた。
一つずつ。
やだと思ったことを、一つずつ。
それなら、迷っているあいだに誰かが泣くことはない。
組んでいた手をほどいた。
上に載っていた冷たい手を、両手で包む。
しばらくそうしていてから、顔を上げた。
「うん。それなら迷わない。ボク、決めた」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「やだって思ったことは、その場で止める。誰がやってても。それで、下へ行く。でもその前に、あの猫。
あいつ、ベリアトのこと知らないふりしてた。
寝てる人に植えて回ってるの、あいつの考えなのか、上のやつの言いつけなのか、確かめたい。
だから先にあの猫を探して、それから下」
少し考えて、付け足す。
「ラウロとブランには、朝になったらボクから言う。ブランの傷が塞がってから。それでいい? イルウェン」
包んだ手が、ノアの手の熱で温まっていく。
イルウェンは手を引かなかった。
小さく、あくびをひとつ。
「うん、いい。……わたしは、ノアの後ろ。ずっと。下でも、上でも。……ここで、寝ていいー?」
ずっと。
下でも、上でも。
上、と聞いて、背中の荷がわずかに重くなった気がした。
ノア自身もまだ知らない、背中のことまで。
この人は、いっしょに背負うつもりでいる。
目を細めて笑った。
包んでいた手を離して、寝台の奥へ詰める。
背の荷が当たらないように横向きに寝そべり、空いたほうの肩を軽く叩いてみせた。
「うん、いいよ。いつもみたいに、肩、使って。ガレナが帰ってきたら、あっちの寝台で寝てもらお。
ありがとう、イルウェン。ずっと、ね。約束だよ」
イルウェンが隣に横になった。
ノアの肩に頭を乗せて、手の中の灯りを握って消す。
部屋が暗くなった。
板戸の隙間から、夜の明かりが一筋だけ差している。
外套の端を、イルウェンの指がつまんだ。
「約束ー」
そのまま寝息に変わるのかと思った。
「ノア。……黒い人の話のとき、声、違ったー」
息が止まった。
「ずるいー。……下で会っても。わたしのほうも、見ててー」
顔が、一気に熱くなった。
暗くて見えないはずなのに、耳の先まで熱い。
空いた手で、顔の半分を覆う。
ばれてた。
井戸の縁で、黒い外套の背中を見ていたこと。
自分の剣先が下がっているのに気づくまで、見ていたこと。
もっと前。
十五のとき、坂の上で初めてあの背中を見上げた日のこと。
ごまかそうと思えば、できた。
でも、イルウェンにだけは嘘をつきたくなかった。
顔から手をどけて、天井を見たまま言った。
「……ち、違わないよ」
すぐに言い直す。
「違わない、と思う。やだ、ずるいのはキミのほう」
外套をつまんでいるイルウェンの指に、自分の指を重ねた。
「ちょっとだけ、だよ。かっこいいって思っただけ。
十五のとき、坂の上で初めて見たときから、ちょっとだけ。
でも、ボクの後ろにいるのはキミだもん。ちゃんと見てる。ほら、もう寝よ」
重ねた指を、イルウェンがゆるく握り返した。
目は、閉じたままだった。
「ちょっとだけ、じゃ、ない。……わたしは、ノアのこと、すき。ずっと。……おやすみー」
それきり、肩の上の息が長くなっていった。
ノアは動けなかった。
ちょっとだけ、じゃない。
それから、ためらいもなく渡された、すき。
イルウェンは、こんなふうにまっすぐ言える。
言わずにいて後悔してきた人を、この人はきっと何人も見てきたのだ。
あいつの前で、ボクは何も言えていない。
奇跡を配るのを、許していないことも。
背中を、ずっと見ていたことも。
下へ行けば、答えを出す時が来る。
あいつの前で、どっちに立つのか。
そのとき、言わないままだったら。
言えないまま、あいつの前で剣を構えることになったら。
握り返された指を、そのまま握った。
寝息に変わっていくイルウェンの髪に、そっと頬を寄せる。
暗い天井を見上げて、小さく息を吸った。
下で会ったら、言いたいことを先に全部言う。
許してないことも。
かっこいいと思ったことも。
「ボクも、すきだよ。イルウェン。ずっと」
ささやいた声は、もう届いていないかもしれなかった。
「おやすみ」
目を閉じる。
肩の重みが、温かかった。
廊下の板が、軋んだ。
浅い眠りの底で、戸の押し開けられる音がした。
夜風の匂いが入ってくる。
足音が、戸口で止まった。
しばらく、何も動かない。
「……ちっ」
戸が、音を立てないように閉まった。
金物が壁に当たる、小さな音。
何かが、ふわりと足に掛かった。
「風邪ひくぞ、ばか」
それから、向かいの寝台が軋んだ。
目を開けた。
足もとに、毛布が掛かっている。
さっきまで無かったものだ。
向かいの寝台の脇に、白い大剣が立てかけてあった。
その寝台で、赤い髪の背中が丸まっている。
こっちに背を向けていた。
肩の線が、少し硬い。
湯屋帰りの髪の先が、まだ湿って見える。
外套は無い。
井戸の下へ、灰色の腕の人の膝に掛けたまま行ってしまった。
二の腕には、巻き直したばかりの白い布。
ガレナも、井戸で血を流したのに。
ボクは、自分のことばっかりだった。
イルウェンを起こさないように、首だけを向けた。
毛布の端を握る。
「ガレナ。毛布、ありがとう」
背中が、びくりと跳ねた。
「腕、もう痛くない? 井戸のとき、助けてくれて、ありがとう。ちゃんと言ってなかった」
ガレナは毛布を頭まで引き上げた。
少し間があった。
壁を向いたまま、声だけが返ってくる。
「起きてたのかよ。別に、礼言われるようなことしてねえぞ。腕なんか、かすり傷だ。
お前こそ、さっさと寝ろ」
毛布の山になったガレナを、ノアは見ていた。
向かいの寝台は、一人で寝るには冷えそうに見えた。
こっちの寝台は狭い。
けれど、詰めれば片側が空く。
冷えた寝台に、ガレナを一人で置いておきたくなかった。
イルウェンごと、壁のほうへ詰めた。
イルウェンは寝言のような息を一つ漏らして、壁に額をつけた。
空いた側の毛布を、めくる。
「やだ。キミが寝るまで寝ない。ガレナ、こっち来なよ。狭いけど、三人のほうがあったかいよ」
毛布の山が、固まった。
しばらく、動かなかった。
それから舌打ちが一つ聞こえて、ガレナが起き上がった。
自分の毛布を抱えて、床を三歩。
ノアの空けた側に、背を向けて潜りこんでくる。
湯屋の石鹸の匂いと夜風の冷たさが、いっしょに入ってきた。
「ちっ、わかったよ。別に寒いからじゃねえぞ。お前が寝ねえからだ」
口を尖らせているのが、声で分かった。
「うん」
壁ぎわにイルウェン。
真ん中にノア。
外側にガレナ。
狭い寝台に、二枚の毛布が重なった。
ガレナの背中は、しばらく板のように硬かった。
それが、少しずつほどけていく。
ノアは暗い天井を見た。
胸の上で、右の手のひらを開いて、閉じた。
白は滲まない。
板戸の隙間の明かりが、薄れていく。
宿の二階に、寝息が三つ並んだ。




