闇の彼方へ
日が西の丘に沈みかけていた。
草の薄い台地を渡る風が、昼より一段冷たい。
ブルチャ野の外れ。
石を丸く積んだ古い井戸の口がひとつ、野の真ん中にぽつんとあった。
縁には板の蓋が載っている。
すぐ脇に低い小屋が一軒、煙突から細い煙を上げていた。
ノアは、台地の集落で借りた荷車の横を歩きながら、後ろを振り返った。
印持ちの一団は十四人。
先頭を鍛冶見習いの若い男が歩き、灰色に固まりかけた腕を吊った年配の男は、荷車に揺られている。
その膝には、ガレナの外套が掛かっていた。
植えられた若い女が、幼い子の手を引いている。
子はもう泣く元気もなく、女の袖を握ったまま足を引きずっていた。
小屋の戸が開いた。
手燭を持った女が一人、出てくる。
小柄で、痩せている。
ノアの胸ほどしか背がない。
髪をきつく後ろで束ね、袖をまくった腕は細いのに、手燭を持つ手は少しも揺れなかった。
鍛冶見習いの男が進み出た。
「伝承者さまを頼って来ました。下へ下ろしてもらえると聞いて」
女は返事をせずに、手燭を掲げた。
一行の顔を、端から一人ずつ見ていく。
ノアの顔で一度止まり、ブランの耳で止まり、最後に荷車の年配の男の、灰色の腕で止まった。
それから戸を大きく開け放ち、竈の方へ引っ込みかけて振り返る。
「声がでかいわ、こんな野っ原でも耳はあるんやで。……下の話は中でせんとな。まず湯や、湯。
腕の悪い氏と子どもから先に入れ、残りは井戸の蓋に触らんと、そこで待っとってくれ。
誰の口から聞いて来たんか、それは後で一人ずつ聞かせてもらうやろ」
ブランが、女に軽く顎を引いてみせた。
荷車の脇へ回り、年配の男の肩を支えて下ろしにかかる。
振り返らずに、組へ声を投げた。
「ほう、話の早い旦那……いや、女将だ。いいか、ノア、子どもと腕の悪い旦那を中へ。
イルウェン、周りを見とけ。ラウロ、残りを井戸から離して座らせろ。蓋には誰も触るなよ」
ノアは子の手を取って、若い女ごと小屋へ入れた。
土間に竈が一つと、囲炉裏が一つ。
鍋の湯気が、乾いた山羊の肉の匂いを運んでくる。
子が鼻をすすって、ノアの指を握った。
「あったかい?」
子は小さくうなずいた。
湯が回るあいだに、日は落ちきった。
井戸番の女は、印持ちを一人ずつ囲炉裏の端に呼んで、誰に聞いて来たのかを聞いていった。
村で伝承者の手の者に「涸れ井戸へ行け、下で診てもらえる」と言われた者。
自分で奇跡を選んで、首に赤い跡を負った者。
寝ているあいだに、干し魚の荷車を引く猫の行商に植えられた者。
女は聞くたびに一つうなずき、何も書かずに次を呼んだ。
最後の一人を聞き終えると、女は囲炉裏の火を少し落として、一同に向き直った。
棚から紐を束ねた縄梯子と、油壺を下ろす。
膝に梯子を広げ、結び目を一つずつ指で確かめながら言った。
「ええか、よう聞いてくれ。下へは俺の一存では下ろせん。下ろすかどうか決めるのは長や。
せやから今夜すぐは無理や、知らせを下へ送って返事を待たんとな。それまではここで寝てもらう。
腕の悪い氏は一番に診てもらえるよう頼んどく」
結び目を一つ締め直す。
「……縄は先に見とくわ、返事が来てから慌てるのは性に合わん」
それから顔を上げ、ノアとブランを順に見た。
「それと冒険者の君ら、灯改めは街道のどこまで追うて来とった?
追手が近いなら、下ろす順も変えんとならんやろ」
ノアは囲炉裏の向こうから身を乗り出し、指を三本立てた。
「腕の人と子どもを先にして、おばさん。ドラージョの東門を出てから三日は、後ろに馬が見えてた。
昨日からは見てないけど、撒いたかは分かんない」
女は返事の代わりに、また結び目を一つ締めた。
戸を二度、軽く叩く音がした。
戸口にもたれていたイルウェンが、半分しか開かない目で西を見ている。
「来た。西。灯、二十くらい。……先頭、あの東の街道の人ー」
ノアは戸口へ跳んだ。
西の暗がりに、灯を掲げた騎馬の列が浮かんでいた。
十、二十。
もっといる。
先頭の男の白い上衣に、聖堂の灯の印。
東の街道で、顔は覚えたと言い残していった、灯改めの頭だった。
蹄の音が、地面越しに足の裏へ響いてくる。
ブランが椀を置いて立った。
イルウェンの肩越しに西を一瞥し、女の手の縄梯子に目をやる。
「女将、長の返事を待ってる暇はなくなったぜ。下ろすかどうか、今決めてくれ。……いいか。
ノア、印持ちと子どもを女将の言う順に並べとけ。ラウロ、荷車を井戸の前に寄せて目隠しにしろ。
イルウェン、奴らの足取りを読め。俺は外で旦那方の相手をする。時間は稼いでやる、動け」
女は縄梯子を肩に担いで立ち上がった。
手燭を吹き消す。
小屋の裏戸を開けて井戸へ走り、板の蓋を両手でずらした。
梯子の鉤を、縁の石に掛ける。
暗い穴の底から、湿った土の匂いが上がってきた。
女が振り返って、声を落とす。
「返事は待てん、俺が下ろす。腕の悪い氏と子どもからや、梯子は一人ずつ、声出すな。
下りたら横穴を灯なしで右の壁に手ぇ付けて進め」
ノアたちの方へ顎をしゃくった。
「冒険者の君ら、表で俺の客のふりして時間稼いでくれ。
ただの隊商の宿や、井戸番の女が湯を出しとるだけ、そう言うたらええ。さ、早よせんと」
ノアは子の手を引いて井戸へ走った。
年配の男が、灰色の腕を胸に抱えたまま梯子に片足を掛ける。
若い女が子を抱き上げて、縁へ寄った。
その時、灯が井戸を囲んだ。
騎馬の列が左右に散り、輪になって灯を突き出す。
開いた井戸の口と、縁に掛かった梯子が、真昼みたいに照らし出された。
「全員止まれ! それ以上進むことは許さん、全員つかまえる!」
頭の声だった。
馬上から、ノアと、荷車を押していたラウロと、白い大剣を背負ったガレナの顔を順に見て、口の端を上げる。
「やはりお前らか。庇う者も帳に載せると言ったはずだ」
灯改めたちが、縄を手に馬を降りはじめた。
ノアは右手を脇に挟んだ。
灯改めと刃を交えれば、相手は聖堂だ。
聖堂の後ろには、同盟の国じゅうがある。
冒険者の札だって、取り上げられるかもしれない。
梯子の上で、年配の男が縁にしがみついている。
ノアは短剣を抜かずに跳び出した。
梯子と馬のあいだに立ち、両腕を広げる。
背中の荷の紐に片手を掛けたまま、頭の馬の鼻先から見上げた。
「止まるのはキミたちだよ。この人たち、何もしてない。寝てる間に植えられただけだ。
帳に載せたいならボクを載せて。灯らずのノアじゃなくて、白いノアって書けばいい。だから縄はしまって」
頭は一瞬、ノアを見下ろして眉を寄せた。
すぐに鼻で笑う。
「白だろうが灰だろうが、帳に何と書くかは聖堂が決める。冒険者風情が口を挟むな」
顎をしゃくった。
「梯子の者から縛れ。邪魔をする者は構わん、押し退けろ」
四人、五人。
縄と棒を手にした灯改めが、馬の脇を抜けてくる。
先頭の一人が、棒の先でノアの胸を突いた。
ノアは棒の先を両手でつかんだ。
引き込んで、相手の足を払う。
男が背中から地面に落ちた。
奪った棒を横に構え、井戸の縁の前で後ろ足を踏ん張る。
「やだ。だって、下りてる子がいる。通りたいならボクを倒してからにして」
転がされた男の怒鳴り声に、残りの三人が一度にかかってきた。
一人が横から、ノアの棒を叩き落とす。
一人が背から、体ごとぶつかってきた。
足を払われた。
井戸の縁の石に、肩を打ちつける。
目の前が白くなった。
気づくと地面に頬がついていて、背中を靴が踏みつけていた。
息が、うまく吸えない。
「手を出したな。抗った者は罪人だ、まとめて縛れ!」
頭の声が遠い。
梯子の下から、子の泣き声が上がった。
朱い光が、ノアの目の端を横切った。
背中の重さが消える。
ノアを踏んでいた灯改めが宙を飛び、二間先の草に落ちて動かなくなった。
ガレナが、ノアの前に立っていた。
脚と腕に朱の灯りをまとわせ、背のコッコは抜かないまま、残りの二人を睨みつける。
「その汚ねえ足どけろよ! ……ノア、立てるか。次にこいつに触った奴は、あたしがぶっ飛ばす」
頭の顔色が変わった。
「灯を人に向けたな……! 抜け、全員だ! 一人も逃がすな!」
馬を降りた灯改めたちが、一斉に剣と棒を抜いた。
灯を掲げて、井戸の周りへ輪を詰めてくる。
二十人余り。
ブランが短剣を抜かずに、井戸の前へ出た。
片膝をつき、両手を地面に当てる。
「いいか、殺すな。ガレナ、ノアを起こして梯子の脇を固めろ。ラウロ、旦那を下ろせ、抱えてでもだ。
イルウェン、馬を散らせ。ノア、立てたら下の連中を急かせ。俺が前を押さえる……重てえぞ、旦那方」
ブランの手のひらから、黒に近い灰色の灯りが地を這った。
光らない。
ただ、重い。
輪の前列にいた五、六人が、膝から崩れた。
剣ごと、地面に押しつけられる。
ラウロは剣に手を掛けずに井戸の縁へ走った。
縁にしがみつく年配の男の脇の下に腕を回し、背負うように抱え込む。
片手で梯子の鉤を確かめた。
「旦那、手ぇ離せ。俺の首につかまってろ、いいな。……ガレナ、上は頼んだぞ!」
二人分の重みで、梯子が軋みながら穴の中へ沈んでいく。
戸口では、イルウェンが片膝をついて、鞄から抜いた筒を構えていた。
繋がれずに並んだ馬の足もとの草へ、緑の光が二度、三度と撃ちこまれる。
人には向けない。
土が爆ぜ、馬が嘶いて、野の闇へばらばらに走り出した。
「馬、どいて。……ブラン、笛ない。筒でいいー?」
ノアは肩を押さえて跳ね起きた。
ガレナの背を一度叩く。
「ありがとう、ガレナ」
井戸の縁へ走って、中を覗きこんだ。
梯子の下で、井戸番の女が若い女の背を横穴へ押している。
抱かれた子が、まだ泣いていた。
「おばさん、上はボクたちが止める。泣いてても行って、右の壁に手を付けて。止まっちゃだめだよ」
下から、女の声が返ってくる。
「泣いとってええ、足だけ止めんな、右の壁や。……上の!
一人ずつ言うたけど、もう二段開けて続けて下りてこい、順なんかええ、手ぇ離すなよ!」
女は梯子を掴んで、まっすぐノアを見上げた。
「最後に下りるのは俺や、蓋は俺が引く。白い髪の君、それまで頼むで!」
縁に並んでいた印持ちたちが、間を詰めて梯子を下りはじめた。
だが、輪は前だけではなかった。
左右から回りこんだ灯改めが、ブランの脇へ棒を振り下ろす。
黒い灯りの重さが、一瞬ゆるんだ。
押さえられていた者たちが起き上がる。
灯改めの何人かが、手のひらに灯りをともした。
橙や黄の光が、剣の刃にまとわりつく。
「灯の罪人どもだ、手加減するな!」
剣を持った一人が、ブランの脇腹へ突きこんだ。
緑の光が、その手もとを弾く。
イルウェンの声が、少し遅れて届いた。
「ブラン、右ー」
突きは脇腹をかすめて、ブランの外套を裂いた。
裂け目から、血がにじむ。
橙の刃を持った二人が、梯子の脇のガレナへ左右から斬りかかった。
ガレナが、背のコッコを抜きざまに腕へ朱を流しこむ。
「コッコ、出番だ! ……どけよ、梯子にゃ指一本触らせねえ!」
左から来た剣を、白い刃の腹で受け止めた。
硬い音。
押し返して、そのまま刃の腹で胴を叩き伏せる。
体を回し、右の剣を横薙ぎに打ち払った。
橙の刃が、ガレナの二の腕を浅く裂く。
袖が、赤く染まった。
井戸の口から、ラウロが顔を出した。
目の前で、ガレナが二の腕から血を流しながら梯子の口に立ち、灯改め三人がまとめてそこへ詰めてくる。
ラウロは縁を蹴って跳び上がった。
背の短い剣を抜く。
ガレナの右に並び、一番近い灯改めの剣を根元で受けた。
刃を寝かせて、手首を打ち払う。
「一人で三人抱えんな。右は俺がやる、お前は左だ。……殺すなよ、いいな!」
黄の光をまとった盾が、緑の光を受け流した。
盾の後ろから、剣を構えた二人がブランと戸口へ向かってくる。
イルウェンは筒を鞄に押しこんだ。
背の古い弓を外して、戸口に立つ。
「はぁ。筒、足りない。……弓にするー」
手のひらの若葉色の灯りが、弦に流れた。
誰にも引けなかった弦が、するりと引ける。
放った矢が、盾の脇を抜けて、二人の足もとの地面に一本ずつ突き立った。
焦げた土の匂いがした。
ノアは梯子の口の脇で、輪を見た。
ブランの脇腹が赤い。
ガレナの袖も赤い。
倒しても倒しても、灯改めは起き上がる。
輪の後ろから、新しい灯がともって詰めてくる。
全部出せば、終わる。
ノアの指が、外套の下で荷の紐に掛かった。
翼を開いて、白い灯りを掲げれば。
右の手のひらが、内側から熱くなる。
白い光が、指のあいだに滲みかけた。
出したら、この人たち全員が、ボクのせいで追われる。
ラウロも、ガレナも、ブランも、イルウェンも。
ノアは拳を握った。
光が、手のひらの中で消える。
紐から指を離した。
「まだ」
腰の短剣を抜く。
ガレナの左へ回りこんでくる灯改めの剣を、根元で受けて流した。
刃は返さない。
柄頭で、剣を持つ手を打つ。
「ガレナ、左はボクがもらう!」
井戸の中から、梯子の軋む音が上がってきた。
一段ずつではない。
三段ずつ、駆け上がってくる音。
縁に、黒い外套が現れた。
長身の男が、縁を蹴って梯子の口へ跳びこむ。
肩も胸も厚い。
背に垂らした黒い外套は、跳んでも裾が揺れなかった。
ガレナに詰めてきた灯改めの剣を、男は左手で掴んで止めた。
手袋の上から、手首の先まで布を巻いた左手だった。
柄ごと捻る。
灯改めの体が浮き、後ろの新手のところへ投げ返された。
続いて井戸から上がってきた黒衣の男が二人、輪の右手へ走っていく。
男が、ノアの方を見ずに言った。
「よう、坂の娘。遅くなった」
煤けた浅黒い顔。
赤みの強い琥珀の目。
ベリアトだった。
男はガレナに顎をしゃくる。
「赤毛、下がっていいぞ」
それから、井戸の周りじゅうに聞こえる声で言った。
「灯改めども、死にたくねえなら灯を消して下がれ。二度は言わねえ」
ガレナは退かなかった。
血のにじむ二の腕を一度振って、朱を流し直す。
コッコを構えたまま、男の横から一歩も動かずに横目で睨んだ。
「なんだよ、お前誰だ。下がらねえよ、ここはあたしの持ち場だ。……手伝うってんなら並べ、邪魔すんなよ」
ノアは短剣を構えたまま、ガレナを挟んでベリアトと反対の側に並んだ。
ガレナに、目でうなずく。
ベリアトの方には顔を向けない。
前の灯改めから、目を離さなかった。
「ガレナ、そいつはベリアト。味方じゃないけど、今は敵でもない。ベリアト、殺さないで。
殺したら、次はボクがキミを止める」
ベリアトが短く笑った。
笑いは、すぐに消えた。
「ああ、約束はしねえ。……が、こいつら程度、殺す手間も惜しい」
ガレナの方へ、少しだけ顔を向ける。
「いい持ち場だ、赤毛。そこ動くなよ」
一歩、前へ出た。
先頭の剣を、外套の裾で絡め取る。
肘で胸を打たれた灯改めが、膝を落とした。
次の二人の灯を素手で叩き落とし、足を払う。
倒れた者は踏まずに、跨いだ。
そのまま輪の奥へ、まっすぐ歩いていく。
「おい、そこの喚いてる奴。用があるのはあんただけだ」
灯改めたちは剣を向けたまま、それでも道を空けた。
頭が馬上から剣を振り下ろす。
ベリアトは布巻きの左手でそれを払い、手綱ごと頭を鞍から引きずり下ろした。
地面に押さえつける。
頭の掲げていた灯が草に落ちて、消えた。
輪の右手では、黒衣の男二人が、新手の灯を次々に叩き落としている。
ノアは、自分の剣先が下がっているのに気づいた。
並んで戦っていた。
ほんの、いくつか息をするあいだだけ。
地に押さえられた頭が、呻いた。
「……伝承者か。覚えたぞ。冒険者ども、お前らの名もだ。ドラージョの門をくぐれると思うな」
ベリアトが手を離す。
頭は起き上がり、退けの合図を出した。
灯改めたちは倒れた仲間を担ぎ、散った馬を追って、西の闇へ引いていく。
蹄の音が遠くなった。
血を流した者は、どちらにもいた。
死んだ者は、いなかった。
野に残ったのは、井戸の周りに落ちた灯の数本と、梯子の口の荒い息だけだった。
縁にはまだ、印持ちが四、五人残っていた。
寄り集まって、震えている。
伝承者の名を口にしながらここまで来た者も、猫の行商に植えられて腕を固めかけた者も、同じ顔をしていた。
ベリアトが縁へ戻ってきた。
印持ちたちの前に腰を落とし、目の高さを合わせる。
黒衣の二人に、手で示した。
「固まりかけてる奴が先だ。背負って下ろせ。下でアニェタに数を言え」
印持ちたちには、ゆっくり言う。
「ああ、もう追っては来ねえ。下は暗いが、手を離さなきゃ落ちねえ。……猫に植えられた奴、あんたもだ。
うちのじゃねえが、腕は診てやる。約束はしねえがな」
ひと言だった。
それで、震えていた者の足が動いた。
慕って来た者も、騙されて腕を固めかけた者も、同じ順に並び、
黒衣の男たちの背に負われて梯子を下りていく。
泣いていた者が、黙った。
ベリアト自身は梯子の口の脇に立って、西の闇を見張っている。
ノアは、自分の手の中の短剣を見た。
ボクが剣を振っているあいだに。
最後の一人を送り出すころ、井戸の中から一人の男が梯子を上ってきた。
縁に左手を掛けて、立つ。
三十ほどの男。
右の腕は、肩から指先まで石のような灰色で、動かないまま胸の前に吊られていた。
胸元に、花の跡。
ラーモの宿場の物置で、鎖につながれていた男だった。
男はノアを見つけて、左手を軽く上げた。
「よう。……下で診てもらった。腕は戻らねえが、生きてる」
下りていく者たちに手を貸しながら、男はぼそりと続けた。
「あいつらのやり方……あまねくなんとかには、俺は今でも腹が立ってる。
けど、そこから逃げてくる奴を見ちまうとな」
ノアは短剣を鞘に戻した。
男の前へ行って、その左手を両手で一度握る。
硬くて、温かい手だった。
「生きてたんだ。よかった、ほんとによかった。腕は痛い?」
男は握られた手を見下ろして、照れたように鼻を鳴らした。
「冷えると疼く。それだけだ」
ノアはベリアトの背を、少しだけ見た。
すぐに目を逸らす。
ベリアトは下を覗いたまま、振り返らずに言った。
「……坂の娘。誰も殺してねえぞ」
少し間を置いて、声を落とす。
「そいつの腕は、うちのじゃねえ。けど、同じ下から来たもんだ。それは認める」
言い終えると、梯子に足を掛けた。
ノアは梯子の口まで歩いて、下りかけたベリアトの頭の上から覗きこんだ。
「うん、見てた。ありがとう、ベリアト。でも、あまねくのやつらはボクが止める。
キミのところのも、まだ許してないから」
梯子の途中で、ベリアトが一度だけ見上げた。
短く笑って、すぐに笑みを消す。
「ああ、それでいい。許すな。……止めに来るなら、あんたの足で来い」
黒い外套が、穴の闇に沈んでいった。
しばらくして、井戸番の女が梯子を上ってきた。
縁に出て、ノアたちの顔を見回す。
「みな通し終えた、ひとりも落としとらん」
蓋を引き戻し、縁から梯子を外した。
それから五人を、手招きで小屋へ追い立てる。
「……ほれ、突っ立っとらんと中入り。湯がまだある。獣の氏、脇腹見せ、外套はそこ掛けとき。
赤い髪の君は布で腕押さえて待っとれ、次や。白い髪の君、肩は上がるか? 上がらんなら言わんとな」
竈の湯を桶に移し、干した布と軟膏の壺を下ろす。
ブランの脇腹の裂け目を覗きこみながら、女は小さく言った。
「……ほんまに、よう持たせてくれた」
夜が更けた。
小屋の中では、手当てを終えた者たちが囲炉裏の周りで横になっている。
ブランのいびきと、ガレナの寝言が交互に聞こえた。
井戸番の女は、湯を沸かし直していた。
ノアは外套を肩に掛け直して、一人で外へ出た。
井戸の縁に腰を下ろす。
打った肩が、まだ鈍く痛い。
野は真っ暗で、星だけが多かった。
足の下で、板の蓋がごとりと鳴った。
蓋が下から押し上げられる。
黒い外套の大男が、梯子を上ってきた。
ベリアトは少し離れた縁に腰を下ろした。
外套を払って、脚を投げ出す。
ノアの方は見ずに、星を見上げた。
「よう。寝ねえのか、坂の娘。……下の連中は、みんな息してる。猫に植えられた奴もだ。
聞きたいことがあるなら、あんたの口から言え」
ノアは膝を抱えた。
右手を外套の中に入れて、隠す。
同じ星を見た。
「さっき、全力を出しかけた。出せば一瞬で終わったかもしれない。
でも出したら、下の人たちはもっと追われてたと思う。キミならどうした?」
ベリアトはしばらく黙って、星を見ていた。
ノアの外套の中の右手には、目を向けなかった。
「ああ、追われてた。あんたも、下の連中も、この井戸もな。灯改めは教義に合わない奴の名を忘れねえ」
声を落とす。
「……出さなかったのは、あんたが選んだことだ。短剣一本で持たせた。それで足りた。今夜はそれでいい。
手を貸したのは借りじゃねえ、忘れろ」
ノアは外套の中から、右手をゆっくり出した。
膝の上に置く。
星から目を下ろして、ベリアトの横顔を見た。
「やだ、忘れない。ボクは選べたから出さなかった。でも、寝てる間に植えられた人は選べなかった。
キミの奇跡でも、選べない人に配ったら、ボクは止めるよ」
ベリアトが、短く笑った。
笑いはすぐに消えて、膝に肘を乗せ、前屈みになる。
地面を見たまま言った。
「ああ、それでいい。俺も、選ばせずに渡したことは無え。必ず理由を言わせる。……だがな、坂の娘。
奇跡を配る先を決めてるのは、俺じゃねえ時もある。俺の上は——」
口が閉じた。
首を、一度だけ振る。
「……いや。とにかく、止めに来るなら止めろ。
俺は止まらねえかもしれねえが、あんたが来たら逃げはしねえ。
それと、灯改めにも伝承者にも、半分ずつ足を突っこむのはやめとけ。どっちからも追われる。
立つ場所は一つ、あんたの口で決めろ」
ノアは立ち上がった。
外套を払い、ベリアトの正面に回って、見下ろす。
「もう決めてる。ボクはエンジェルウィングのノア。灯改めでも伝承者でもない、選べない人の側に立つ。
それで、キミの上ってだれ?」
ベリアトはノアを見上げて、しばらく黙っていた。
それから立ち上がる。
見下ろす形になる前に、半歩引いた。
外套の裾を払い、梯子の口へ歩いていく。
足を掛けたところで、一度振り返った。
「いい名乗りだ、エンジェルウィングのノア。覚えた。……上が誰かは言えねえ。
嘘はつかねえから、言えねえとだけ言っとく。知りたきゃ、あんたの足で下まで来い。
その時は、俺が案内してやる。約束はしねえがな」
梯子を一段下りる。
「……寝ろ。夜明けは冷える」
蓋が、下から引き戻された。
ノアは閉じた板の上に、しばらく立っていた。
それから右手を開いて、また握った。
小屋の戸の隙間から、囲炉裏の明かりが細く漏れている。




