守るべきもの達
ピエトロの組と依頼を割った護衛から、三十五日が経った。
十月の十三日。
刈り終えた麦の株が、朝露で白く光っていた。
ドラージョの東門を出て、一刻ほど。
東の街道の見回りの依頼で、五人は麦の刈り跡と雑木林のあいだの道を東へ歩いていた。
ノアは外套の頭巾を背に落とし、繕った裾の重さを確かめながら、最後尾から二番目を歩く。
腰に短剣、荷には樫の棒。
背の翼は、外套の下で細長い荷のふりをしている。
道の先、林の切れ目のあたりで、人の叫び声がした。
続いて、何かが倒れる音。
先頭のブランが、片手を挙げた。
耳を林の切れ目へ向けたまま、道脇の生垣の陰へ身を低くする。
「止まれ。……いいか、逃げてんのが十と少し、子どもが混じってる。追ってんのは五、六。
靴が硬え、縄も持ってる」
四人を振り返らずに、指だけで割り振った。
「ノア、まだ見えるとこに出るな。ラウロ、ガレナ、俺の後ろで溝に伏せろ。
イルウェン、弓は張っとけ、撃つのは俺が言ってからだ。誰が追ってるか見てから決める。
数が合わなきゃ退くぞ」
ノアは生垣の根元に膝をついた。
枝のあいだから、街道が見える。
林の切れ目から、十数人がばらばらに転がり出てきた。
荷を背負った男。
子どもの手を引く女。
腕を押さえた年寄り。
首や手首に、赤い花の跡が見える者が多い。
年配の男が一人、右腕の肘から先が灰色に固まって、振れずにぶら下がっていた。
その後ろから、白い上衣の六人が追ってくる。
胸に、聖堂の灯の印が縫いつけてあった。
灯改めだ。
手のひらに、橙や黄の灯りがともっている。
先頭の一人が、灯りを投げるように放った。
灰色の腕の男の膝の裏に当たり、男が前へ倒れる。
二人がかりで、その腕に縄がかかった。
隣で転んだ娘の手首にも同じ縄が回され、二人が一本の縄で縛られていく。
「印持ちは偽りの灯りだ。一人も逃がすな、縄をかけろ。聖堂の下で改める」
頭らしい灯改めが、硬い声で怒鳴った。
娘が泣き叫ぶ。
縛られた男は、動かない腕を砂利の上で引きずられていた。
ノアの手が、腰の短剣の柄を握り直した。
右手を脇に挟む。
ブランの横顔を見た。
「ブラン、あの娘が連れてかれちゃう。ボクが行く。いい?」
ブランの手が、ノアの肩を押さえた。
目は灯改めの数と位置を追ったまま、低く区切って言う。
「やめとけ。……と言いてえが、見捨てろとも言わねえ。いいか、あれは灯改めだ。
お前が灯したら、次に縛られんのはお前だ。翼も灯りも、何があっても出すな。顔も隠せ」
外套の頭巾を、ノアの頭に深くかぶせた。
「ノア、お前は足だけで、年寄りと娘の縄を切って林へ逃がせ。
ラウロ、ガレナ、道の向こうで騒いで連中の目をそっちへ引け。斬り合うな。イルウェン、頭の足元を撃て。
当てるな、足を止めるだけだ。俺は後ろから回る。……顔を見られたら、捕まったやつを置いてでも退け。
答えはいらねえ、動け」
ラウロがガレナの肩を軽く叩き、顎で道の向こうを示した。
「行くぞ。派手にな」
溝から身を起こし、生垣の端を回って街道を横切る。
剣は背負ったまま、柄に手だけかけて、わざと砂利を蹴立てた。
灯改めの横手、麦の刈り跡に立つ。
「おい、聖堂の旦那方! 縄が一本足りてねえぞ。灯らずが一匹、こっちに余ってらあ。改めてみろよ!」
ガレナは溝に伏せたまま、背のコッコの柄を握っていた。
脚に朱の灯りが薄くにじむ。
「なあ、まだかよ。……あいつら、子どもまで縛る気だぞ。ノアが行くならあたしも行く、あたしが先だ」
ノアの袖の端を、細い指がつまんだ。
イルウェンが、肩掛けの鞄から筒を抜いて膝の上に置いている。
半分しか開かない目が、ノアの右手を見ていた。
「ノア、白、だめ。……あの人たち、灯改め。……ブラン、わたし、筒でいいー?」
ラウロの声に、灯改めのうち三人が振り向いた。
一人が灯りを掲げて、刈り跡へ踏み出す。
「灯らずだと? 札と写しを見せろ」
縄を持つ二人と頭は、縛った男と娘のそばに残った。
ブランは振り返らずに、片手だけを振った。
「おう、それでいい。ガレナ、ラウロの横にいろ。写しを見せる間だけ稼げ、灯すなよ。
イルウェン、頭の足元だ。ノア、俺が頭を引きつけたら行け」
ガレナが舌打ちした。
脚の朱が消える。
溝から立ち、コッコを背に担いだまま刈り跡を走って、ラウロの横に並んだ。
「……ちっ、わかったよ。おい、こいつに手え出すな。写しならあるっつってんだろ、急かすんじゃねえよ」
ノアは生垣の切れ目へ這い寄った。
短剣を抜き、刃を寝かせて低く構え、踵を浮かせる。
縄の二人と頭、それからブランの背中を、目で行き来した。
ブランが、屈んだまま一歩下がって立ち上がった。
たった今林から出てきた通りがかりのような顔で、外套の土を払う。
頭の背に、のんびりと声をかけた。
「おう、旦那がた、聖堂の方かい。ちょうどいい。
今そこの林の奥で、腕の灰色い連中が三、四人、沢の方へ降りてったぜ。荷車の跡を消しながらな」
林の奥、反対の側へ顎をしゃくる。
「……ほう、印持ちってのは、ああいうのか。追うなら今だと思うがね、俺の勘だがな」
頭が振り向き、林の奥を見た。
縄の二人も顔を上げる。
その足元の土が、音を立てて爆ぜた。
土くれが頭の膝まで跳ねる。
「どこからだ!」
頭が一歩飛び退き、縄の二人が身をすくめた。
縄を握る手が、ゆるんだ。
今。
ノアは生垣を一蹴りで越えた。
刈り跡を低く走る。
縄を握る灯改めの手首を、寝かせた刃の腹で打ち払った。
乾いた音がして、男がうずくまる。
ゆるんだ縄を娘の手首から引き剥がし、その肩を林の縁へ押した。
「あっちへ走って」
娘は転がるように走っていった。
林の縁で、女の一人がその体を抱きとめる。
頭が、こっちを見た。
手のひらの橙の灯りが、ひと回り大きくなる。
「邪魔立てか。貴様も印持ちか」
灰色の腕の男は、まだ縄で縛られたままだった。
もう一人の灯改めの足元に、膝をついている。
ノアは頭から目を外さずに、横へ跳んだ。
縄を持つ灯改めの脛を、低く蹴り払う。
男が尻をついた。
返す手で、男の腕の縄を一息に切った。
「ちがう、印なんか無いよ。おじさん、立てる?」
刈り跡では、灯改めの一人がラウロの襟へ手を伸ばしていた。
ラウロは剣を抜かず、その手首を左手の甲で外へ払った。
半歩引いて、体を開く。
懐から冒険者の札を出し、相手の目の前に突き出した。
「触んな。札ならこれだ、鉄の一、ラウロ・マリーニ。灯らずって帳にも書いてある。
……で、灯らずの何を改めんだよ、旦那。色が無えもんは、偽りようもねえだろ」
もう一人の灯改めは、ガレナの背の白い大剣を見て、足を止めていた。
ガレナが柄に手を置き、抜かないまま一歩踏み出す。
自分の札を突きつけた。
「なにじろじろ見てんだよ。これはあたしの剣だ、遺跡で抜いたんだ、文句あんのか。
札ならあたしのもある、ガレナだ。……次そっちの灯り向けたら、黙ってねえからな」
縄が切れた灰色の腕の男を、林から飛び出してきた若い男が肩に担いだ。
林の縁へ、引きずっていく。
頭は、五人を順に見た。
頭巾を深くかぶった細身の娘。
白い大剣を担いだ赤毛の娘。
札を突きつける若い男。
生垣の陰から出てきた獣人。
土を爆ぜさせた得物は、どこにも見えない。
逃げた一団は、林の奥へ消えかけていた。
頭は、灯りを握りつぶすように消した。
「引け」
灯改めたちが、倒れた二人を起こして下がっていく。
頭が、最後に振り返った。
「顔は覚えた。印持ちを庇い立てする者も、改めの帳に載せる。ドラージョの聖堂には帳がある。
次は、お前たちが縛られる番だ」
白い上衣の六人は、西のドラージョのほうへ、街道を戻っていった。
ブランはその背中が小さくなるまで目で追ってから、手を挙げて四人を生垣の陰へ集めた。
林の縁から戻ってきたイルウェンを待ち、ノアの頭巾をもう一度、黙って深く引き下ろす。
「いいか。よくやった、と言いてえが、帳に載ると言われた。安い買い物じゃなかったかもしれねえ。
……ノア、手え見せろ」
ノアは右手を開いて見せた。
何もともっていない。
「ならいい。あいつらを追うな。林の連中も、今は追うな。
印持ちに付いてって、伝承者さまに何か貰う羽目になるのは御免だ」
ラウロとガレナを、順に指で差す。
「札を出したのはお前ら二人だ、名も言った。しばらく町じゃ俺の後ろにいろ。今日は街道を戻らねえ。
畦伝いに北から回って、日が落ちてから門をくぐる。……それと、今日のことは酒場で話すな。
ピエトロの組にもだ」
五人が畦へ降りかけたとき、林の縁から若い男が一人で出てきた。
灰色の腕の男を担いでいった男だ。
煤の染みた革の前掛けをつけていて、首筋に赤い花の跡がある。
若い男は五人の前で膝をつき、額を地面につけた。
「助かった、礼を言わせてくれ。……それと、頼みがある。聞くだけでいい」
手招きされて林へ入ると、倒木の陰に一団が身を寄せ合っていた。
十四人。
赤ん坊を抱いた女、杖の年寄り、子どもが三人。
灰色の腕の男は木の根に背を預け、肩で息をしている。
助けた娘はその横で、もう泣き止んでいた。
若い男は、ここにいるのは三つの寄り集まりだと言った。
伝承者さまの奇跡で、病を治してもらった者。
ブルチャ野の開拓村から、去年の秋の騒ぎのあとで逃げてきた者。
それから、春から夏にかけて街道の宿場で、名も知らない行商に頼みもしないのに植えられた者。
植えられた者の何人かは、体のどこかが灰色に固まりはじめている。
その行商は「下へ行けば救われる」と囁いていった、という。
「伝承者さまの使いが、ブルチャ野の涸れ井戸まで来れば、下へ降ろしてやれると教えてくれた。
そこまで四日だ。けど、俺たちには戦える者がいない。灯改めはまた来る」
若い男は、布にくるんだ鉄の小刀を三本、差し出した。
手のひらほどの大きさで、自分で打ったものだという。
「……涸れ井戸まで、一緒に来てくれないか。払えるものは、これしかない」
ノアは灰色の腕の男の前にしゃがんだ。
肘の境目を見る。
皮膚が、灰色の石に変わるところで、ぷつりと色が途切れていた。
ラーモの物置小屋で見た腕と、同じだった。
立ち上がって、小刀は受け取らずに、若い男の手ごと布を押し返す。
ラウロのほうを振り向いた。
「これは要らない。決めるのはボクたちだから。ラウロ、ボクは涸れ井戸まで行きたい。
そこへ行けば、ベリアトに会える」
ラウロは、わざとらしく息を吐いた。
「……ったく、言うと思ったよ」
若い男に向き直る。
「条件がある。井戸までは送る。けど、下へ降りるかどうかは、着いてから、降ろす奴の話を聞いて決めろ。
俺はベリアトって下の奴から直に聞いた。根づいた体は、下で次の奇跡を作る材料にされる。
救われるかどうかは知らねえ。それ聞いても行くってんなら、それはあんたらが決めることだ。
……道中は俺らの言う通りに動け。灯改めが来たら、走れと言ったら走れ。いいな」
それから、ブランを見た。
「親父。四日だ。町で帳に載るのを待ってるより、外にいた方がましだろ。……どうだ」
ブランは倒木に腰を下ろした。
ノアの顔ではなく、張り出した枝を見たまま、間を置いて話す。
「ほう。下へ行けば救われる、だとよ。……頼んでもねえのに植えて、下で救う。
ただでくれるもんには、どっかで勘定がついてる。前に言ったな、ノア」
一つ、息を吐いた。
「……と言いてえが、お前は止めても行くだろ。なら組で行く。いいか、井戸までだ。下へは降りねえ。
井戸の縁で、そのベリアトってのが何を言おうが、俺が退けと言ったら退く。それが条件だ」
若い男の小刀の包みから、一本だけ抜き取った。
残りを押し返す。
「あんた、小刀は一本でいい。残りは道中で、子どもの靴でも買え」
ラウロが頷いた。
ブランの手から小刀を受け取り、腰に差す。
「……決めた、受ける。涸れ井戸まで送る。出るのは明日の朝だ。
歩けねえ奴が何人いるか、今のうちに数えて俺に言え」
ガレナが、ノアの隣に並んで腕を組んだ。
子どもたちと、赤ん坊を抱いた女を見回してから、ブランを睨む。
「あたしも行く。灯改めがまた来たら、あたしが前に立つ。
……おっさん、帳に載るってんならもう載ってんだ、今さらだろ。
こいつら置いてったら、次に捕まんのはあのガキどもだぞ」
ブランは、もう返事をしなかった。
枝を見上げて、鼻の頭を掻いた。
翌朝、一団と五人は林を出て、刈り跡の畦伝いに東へ歩いた。
街道は避けた。
ブランが先を、ラウロが後ろを受け持つ。
昼過ぎには麦畑が尽きて、白い石灰岩と棘の低木ばかりの上り道になった。
灰色の腕の男は、娘と前掛けの若い男に代わる代わる肩を借りて歩いた。
灯改めの姿は、見えなかった。
日が落ちて、岩陰に火を焚いた。
ブランとラウロは見張りに、少し離れた岩の上へ上がっていく。
火のそばでは子どもたちが眠っていた。
前掛けの若い男が、年配の男の灰色の腕に、湿らせた布を巻き直している。
男は港の荷運びだったという。
巻かれるあいだ、男は固まった自分の指を見ていた。
ノアは膝を抱えて、男の横へ寄った。
布を巻き終わるのを待ってから、固まった指の先を、自分の指でそっとつつく。
石を触ったような冷たさだった。
「おじさん、痛い? 港で重い荷を運んでたんだね。かっこいい腕だよ」
男は、つつかれた指を見て、少し笑った。
「痛くはねえ。何も感じねえのさ、もう。……かっこいいか。四十年、樽と麦袋を担いできた腕だ」
男は火を見ながら話した。
夏の初め、ドラージョの手前の宿場で、干し魚を山ほど積んだ荷車の行商と同じ宿になった。
腹の出た、愛想のいい猫の獣人で、誰の肩でも叩いて、身の上話をよく聞いてくれた。
腰の痛みをこぼすと、行商は「そりゃ大変だったねえ」と干し魚をくれた。
朝起きたら、胸に花の跡があった。
三日は麦袋が軽かった。
十日目から、指が動かなくなった。
「宿を発つとき、あいつは言ったよ。固まってきたら、下へ行けば救われるよ、ってな。……頼んじゃいねえ。
選んでもいねえ。寝てたんだ、俺は」
布を巻いていた若い男は、黙って自分の首筋の花に指を当てていた。
やがて、口を開いた。
自分はドラージョの鍛冶屋の見習いで、灯りが細く、炉の火を保てずに親方から何度も追い出されかけた。
伝承者さまの使いに「なぜ欲しい」と聞かれて、「鉄を打ちたいから」と答えた。
熱が出ることも、跡が一生残ることも、灯改めに引かれることも、聞いたうえで受けた。
それから、炉の火を一晩保てるようになった。
けれど跡を見られて、親方の店にはいられなくなった。
「後悔はしてねえ。俺は選んだ。……けど、この人は選んでねえ。
同じ奇跡なのに、灯改めには同じ偽りに見えるんだ」
ノアの顔から、笑みが消えていた。
膝を抱えた手に、力が入る。
若い男の首筋の花と、年配の男の灰色の指を、見比べた。
干し魚の猫の行商。
ブルチャ野の夜明けに、ベリアトが言い残した言葉が耳に残っている。
グラッソ。
ばらまく連中の頭。
肩を叩かせるな、何も受け取るな。
寝ている人にまで、撒いていたのだ。
ノアは若い男を、まっすぐ見た。
「同じじゃないよ。キミは選んだけど、おじさんは選んでない。ボクには違って見える。
その猫の行商のことは知ってる。肩を叩かせるな、何も受け取るなって言われたことがある。
あいつ、今どこにいるの?」
年配の男は首を振った。
行き先は聞いていない。
ただ、宿の主に「東の町々を回る」と話していたのを聞いた、という。
若い男が、林で一緒になった者のうち、あと三人が同じ猫の行商に植えられたと付け足した。
その三人は火の向こうで、背を向けて寝ている。
ガレナが、膝を拳で叩いた。
「寝てるやつに勝手にって、なんだよそれ。ふざけんな。……東の町だな、見つけたらあたしがぶっ飛ばす」
年配の男の灰色の指を見て顔をしかめ、自分の外套を引き剥がすように外した。
男の膝に、ばさりとかける。
「……別にじいさんが寒そうだからじゃねえぞ、余ってただけだ。ノア、その猫、知ってんなら顔教えろ」
「ボクも顔は知らない。グラッソって名前の猫の獣人で、干し魚を持ってる。それだけだよ」
火のそばで、外套にくるまって横になっていたイルウェンが、半分の目を背を向けた三人へ動かした。
「寝てる間に、選ばせない。……ずるいー」
目を閉じかけて、もう一言だけ足す。
「ガレナ、ぶっ飛ばすの、起きてる時。……あと三人、明日、見るー」
二日目の朝、イルウェンは背を向けて寝ていた三人の指と首を、一人ずつ見て回った。
三人とも、花の跡の縁から皮膚が灰色に硬くなりはじめていた。
その中の一人、若い女は、見られているあいだずっと笑っていた。
昼、台地の途中の小さな集落の井戸で、水を汲んだ。
井戸の脇に、聖堂の立て札が立っていた。
『印持ちは偽りの灯り。見つけた者は灯改めに届けよ。匿う者も改めの帳に載せる』
集落の外れに、焼けて梁だけになった家が一軒あった。
炭の匂いが、まだ残っている。
水を汲みに来た女が、目を合わせずに言った。
夏に、首に花のある息子をかくまった家だ。
灯改めが来て、息子を縛って連れていき、家は「偽りの巣」として焼かれた。
息子は一度も人を傷つけたことがなかった。
奇跡をもらったのは、咳が止まらなかったからだ、と。
ノアは、桶の縄を握ったまま、梁だけの家を見ていた。
ラウロに肩を叩かれるまで、動かなかった。
夜。
一団は岩の窪みで眠り、見張りの番はノアとラウロに回ってきた。
少し下の岩で、ブランが外套をかぶって横になっている。
寝息は聞こえなかった。
岩の上は、風が冷たい。
ノアは膝を抱え、暗い下り道に目を向けていた。
しばらく黙っていてから、横のラウロを見ずに口を開いた。
「ラウロ、昼の焼けた家がずっと頭から離れない。咳を止めたかっただけなんだよ。
それで捕まって、家まで焼かれた」
膝を抱える手を、開いて、また握る。
「ボク、印の人たちは怖くない。怖いのは選ばせないやつだよ。撒く猫も灯改めも。ラウロはどう思う?」
ラウロは剣を膝に立てて抱えたまま、下り道から目を離さなかった。
少し黙ってから、横目でノアを見る。
「……同じだよ。帳に一行書かれて、それで人の値打ちが決まる。俺は灯らずって書かれた。
あいつらは偽りの灯りって書かれた。違うのは、捕まって焼かれるかどうかだけだ」
剣の柄に、顎を乗せた。
「けどな、ノア。選ばせないのが嫌なら、俺らもあいつらに選ばせなきゃなんねえ。
井戸の下がどうなってるか、着くまでに俺から話しとく。それだけは決めとけ」
ノアは、ラウロのほうを向いて最後まで聞いた。
小さく頷く。
「うん。ありがとう、ラウロ。涸れ井戸まで、ちゃんと連れていこう」
下の窪みから、ひそめた声が上がってきた。
猫の行商に植えられた三人の、若い女の声だった。
眠れないらしく、隣の男に話している。
「……あの旦那は、優しかったよ。下へ行けば救われるって、ちゃんと言ってくれた。
固まっても、下へ行けば治してもらえるんだって。だから怖くない。
……あの旦那にもう一度会えたら、お礼を言いたいくらい」
隣の男は答えなかった。
昼にイルウェンが見たとき、女の首の花の縁は、もう灰色に硬くなっていた。
ノアは声のほうへ顔を向けた。
唇を噛む。
腰を浮かせて降りていきかけ、足を止めた。
岩に座り直す。
右手を脇に挟んだ。
救われる、と言ったのは、あの猫の行商だ。
本当に治るのかどうか、誰も確かめていない。
確かめないまま、笑っている。
ノアは、ラウロにだけ聞こえる声で言った。
「ラウロ、下へ行けば治るって本当かどうか、ボクは知らない。だから涸れ井戸でベリアトに聞く。
それで、もし嘘だったら、ボクはあの猫を止める。救うって言って人を騙すのは、もうさせない」
ラウロが、横目でノアを見た。
言い返しはしなかった。
口の端だけで、短く笑った。
「……ああ。止めるときは、俺も行く」
下の岩で、ブランが外套の中で寝返りを打った。
星のほうへ、顔が向いていた。
三日目の夜。
涸れ井戸までは、あと半日だった。
台地の窪みに火を焚き、一団の十四人が火を囲んで、干した豆を煮ていた。
ブランは火から少し離れた岩に座っている。
ほかの四人は、火のそばにいた。
台地の下の道から、ぎし、ぎし、と車輪の音が上がってきた。
ランタンが一つ、揺れている。
小さな荷車を一人で引いて、窪みの縁まで上がってきたのは、腹の突き出た太った猫の獣人だった。
茶虎の毛並みに、丸い顔。
細い目と、垂れた長い髭。
上等だが袖口の擦り切れた商人の上着を、突き出た腹の上で留めている。
荷車には、縄で括った干し魚が山と積まれていた。
塩と魚の匂いが、火の煙に混じった。
猫の獣人はランタンを荷車の柄に掛け、肉球の手を上げて、にこにこと窪みへ下りてきた。
干し魚の束を一つほどき、火のそばの顔を一人ずつ見ては、細い目で頷いてみせる。
子どもの前にしゃがんで、一尾を差し出した。
「ほれ坊や、塩が利いてるよ」
それから腹を揺すって立ち上がり、火のそばの四人へ向き直った。
「やあやあ、冷える晩だよなあ。わしはグラッソ、ただの干し魚売りさね。……おや、見た顔がいるねえ。
元気そうで何よりだ、ほんとに何よりだよなあ。――で、旅の旦那がた。
この子らを、どこまで連れてく気だい?」
火のそばで、灰色の腕の男が顔をこわばらせた。
布を巻いた腕を、胸に抱えこむ。
背を向けて寝ていた三人のうち、二人も身を固くした。
けれど若い女が一人、膝立ちになった。
「旦那……」
声を漏らして、猫の獣人のほうへにじり寄ろうとする。
前掛けの若い男が、その袖をつかんで止めた。
干し魚。
猫の獣人。
誰の肩でも叩く、肉球の手。
グラッソ。
ベリアトが言った、あまねく希望の頭だ。
ノアは立ち上がった。
子どもと猫の獣人のあいだへ、半歩割って入る。
子どもの手から干し魚をそっと取り、荷車のほうへ置いた。
膝立ちの若い女の前にも立って、間をふさぐ。
両手は空けたまま、間合いは詰めなかった。
「それは食べないで。おじさん、近寄らないで。肩も叩かないで。この人たちはボクたちが連れていく。
行き先は、キミには言わない」
ラウロとガレナが、腰を浮かせた。
岩の上のブランは、座ったまま、こっちを見ている。
グラッソは両の肉球を上げて、一歩下がった。
喉を、ごろごろと鳴らして笑う。
「おお怖い怖い、叩きゃしないよ、坊っちゃん」
ノアの肩越しに、膝立ちの若い女へ首を伸ばして、目を細めた。
「……なあねえさん、覚えてるだろう、会所の飯。上じゃあ、印のある者に居場所なんざ無いさね。
下へ行けば救われる、わしは嘘は言わんよなあ。この旦那がたが連れてく先に、屋根と飯はあるのかい?」
若い女の目が、揺れた。
前掛けの若い男の手を、振りほどきかける。
「……会所には、屋根があった」
猫の行商に植えられたほかの二人も、顔を見合わせた。
グラッソは、子どもと荷車の陰に立ったまま、にこにこしている。
ノアは、若い女の前にしゃがんだ。
目の高さを合わせる。
グラッソからは、目を外さなかった。
女の首の、灰色に硬くなった花の縁を指さす。
それから、年配の男の布を巻いた腕を指した。
「屋根があるかどうかは、ボクにも分からない。嘘は言わない。でも、見て。
キミの首はもう固まってきてるし、おじさんの腕も同じだよ。寝てるあいだに勝手に植えられたんだ」
女の手が、自分の首に触れた。
ノアは声を落とさなかった。
「選ぶのはキミ。でも、涸れ井戸でベリアトに本当のことを聞いてからにして。それまでは、ボクが守る」
若い女は首に手を当てたまま、膝立ちで止まった。
前掛けの若い男が、その肩を抱えた。
ラウロが、ノアの背中を見ていた。
ブルチャ野の村で「わかんない」と漏らした背中と、同じ背中のはずだった。
グラッソの喉が、鳴りかけた。
咳払いでごまかし、髭をしごく。
笑みは崩さないまま、荷車の陰へ半歩寄った。
「ほうほう、守るときたか。頼もしい坊っちゃんだよなあ」
ガレナが、火のそばから立ち上がった。
背のコッコの柄に手をかけて、ノアの横まで大股で出てくる。
「おい、さっきから坊っちゃん坊っちゃんって、どこに目ぇつけてんだよ。ノアは女だろ」
グラッソは、まばたきをした。
細い目が、頭巾の下のノアの顔から足もとまでを、一度だけゆっくりなぞった。
髭の先が、ひくりと動く。
「はて。これは失礼……」
それ以上は何も言わず、肉球で髭をしごいた。
笑みが、すぐに戻る。
「わしも目が利かなくなったもんだよなあ。……ベリアト? へへ、知りませんなぁ」
膝立ちの若い女へ、首を伸ばす。
「ねえさん、わしは急かしゃしない。会所の戸はいつでも開いてる、腹が減ったら思い出しな」
置かれた干し魚の束を、顎でしゃくった。
「干し魚は置いてくよ。毒なんぞ入っちゃいない、ただの魚さね」
グラッソと自分のあいだには、子どもが二人と、荷車と、膝立ちの若い女がいる。
ノアの手は、腰の短剣のほうへ動かなかった。
立ち上がり、子ども二人の手を取って、自分の背の側、火のほうへ引き寄せる。
干し魚の束を拾い、荷車の上へ戻した。
「要らない。魚も持って帰って。おじさん、もう行って。ここにいる人には誰にも触らないで」
ブランが、岩から腰を上げた。
急がずに歩いてきて、荷車の柄の脇に立つ。
ランタンを柄から外し、火の側ではなく、下り道のほうへ提げて照らした。
グラッソと荷車のあいだに、半身を入れる。
短剣には、手をかけなかった。
「ほう。干し魚売りってのは、こういうのか。夜中に台地まで荷車引いて、売りもしねえで配って回るとはな」
ランタンを、グラッソのほうへ差し出す。
「いいか、旦那。商いの口上はそこまでだ。
あんたが寝てる連中に何を植えて回ったかは、ここの全員が知ってる。
俺は灯改めじゃねえから、縛りゃしねえ。だが、この先は俺らの道だ。ランタンは返す、魚も持ってけ。
道は下だぜ。……来いよ、とは言わねえ。帰れ」
グラッソはランタンを肉球で受け取った。
喉が鳴るのを隠さずに、肩をすくめて笑う。
「へいへい、おっかない旦那がただよなあ。商いってのは、断られてからが始まりさね」
荷車の柄を握って、向きを変えた。
振り返りざまに、膝立ちの若い女へ片目をつむってみせる。
「……ねえさん、会所はカプレオの港裏だ、覚えときな。じゃあ、また会おうねえ」
車輪が、ぎしぎしと鳴った。
ランタンの灯が、台地の下で小さくなっていく。
やがて、見えなくなった。
若い女は膝立ちのまま顔を覆って、泣き出した。
前掛けの若い男が、その背をさすっている。
灰色の腕の男は、火を見たまま動かなかった。
子ども二人は、ノアの外套の裾をつかんだまま離さない。
ノアは子どもの頭に手を置いたまま、火のそばに座り直した。
仲間の顔を、順に見る。
「ブラン、ありがとう。でも、今は追わない。明日この人たちを涸れ井戸まで連れていくのが先だから。
カプレオの港裏は覚えておく」
火に、薪を一本くべた。
「今夜の火の番は、ボクがもう一回やる」
ガレナが、何か言いかけて、やめた。
イルウェンは外套にくるまったまま、半分の目でノアを見ていた。
ブランは岩には戻らず、火の向こう側に腰を下ろした。
荷車の轍が、下り道の白い石灰岩に、二本残っていた。
ノアは、握っていた右手を開いた。




