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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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62/102

変えられるさ

狼の遺跡から戻って、十七日が経った。

八月の二十日。

ブルチャ野の白い台地は昼の日にあぶられて、靴の底まで熱い。


東へ塩と布を運ぶ隊商の護衛は、台地の東の端で別の組に引き継いで終わった。

依頼の証を懐に入れて、五人で西のドラージョへ戻る。

日暮れまでに屋根の下で眠れる所は、この道筋に一つしかない。


丘の肩を越えると、村が見えた。


村外れの丘の上に、館が建っている。

戸板が一枚外れて、風が吹くたびに、ばたん、と鳴った。

鎧戸は半分落ち、崩れた石垣の内側で山羊が草を食んでいる。

煙突から、煙は上がっていない。


ノアは一度だけ、館を見上げた。

去年の十月、あそこへ松明の列が流れていった。

ボクは土に頬をつけて、それを見ていただけだった。


畑には、刈り入れ前の麦が並んでいた。

穂は細いが、去年より畑は広い。

十人ほどの村人が、腰をかがめて鎌を使っている。

その首筋に、腕に、赤い花があった。

灼けた鉄を押しつけたような、小さな花の跡。

日に焼けた肌の上に、ほとんど皆、どこかしらにある。


五人が街道から村の道へ折れると、鎌の音が一つずつ止まった。

村人たちが顔を上げる。

こっちを見て、それから黙って目を伏せた。

誰も、声をかけてこない。


目を伏せた鎌の男の前で、ノアの足が鈍りかけた。

声はかけずに、外套の下の荷を背負い直す。

外套は、遺跡から帰ってすぐに繕った。

翼は、帆布を二重にした新しい袋で背に押さえてある。

「花が増えてる」


すぐ後ろで、ガレナの足が止まった。

畑の縁で鎌を握っている女の、首筋を見ている。

一歩、そっちへ寄りかけた。

女が目を伏せたので、足が止まる。

背に担いだ白い大剣の柄を握り直して、ガレナは大股でノアに追いついた。

「増えてるって……なんだよ、あれ。前にもあったのかよ」


答えたのは、ラウロだった。

ノアの横に並んで、畑に背を向ける。

「領主が消えて、あいつの奇跡だけ残ったってことだろ。ここで考えても分かんねえ。中でガスパロに聞く。

……何も貰うなよ、いいな」

宿の戸口を、顎で示した。


ガレナは何か言いかけて、口を閉じた。

もう一度だけ振り返って、畑の女の首を見た。


宿の土間は、薄暗かった。

竈に火が細く残っていて、麦を炒ったような匂いがする。

卓が三つ。

客はいない。


奥で石臼の回る音が止まって、足音がした。

背の低い男が、粉だらけの手を前掛けで拭きながら出てくる。

丸い顔に無精ひげ、目尻の皺が深い。

宿の主のガスパロだった。

一行の顔を一人ずつ見て、ガレナの背の白い剣に、ほんの一瞬だけ目を留める。

それから黙って、帳場の後ろに立った。

「……ああ、去年のお客さんがたでさ。泊まりですかい」


ラウロが帳場の前に出て、懐から銅貨を置いた。

「ああ、五人、一晩だ。……あの時の粥、助かった。で、丘の館、空だな。

今は誰がこの村の取り立てに来てる?」


ガスパロは銅貨を数えて、手元に寄せた。

目を伏せたまま、壁の鍵を取る。

「誰も来やしませんでさ。あの後に同盟の兵が来て、館と蔵を検めてったきり。新しい領主も来ねえ。

麦は今年、村で分けてますわ。……部屋は奥の二つでさ」


鍵を取るあいだ、ガスパロの目は一度も上がらなかった。

ノアは帳場の端に手をついて、伏せた顔を下から覗きこんだ。

「おじさん、みんなの花が去年より多いよ。あいつが来たの?」


鍵を握った手が、止まった。

少し間があって、ガスパロの手が首筋へ行きかけ、途中で下りた。

「……あのお方は来てませんでさ。

冬に二度、使いの男が涸れ井戸の方から来て、欲しい者に、なんで欲しいか聞いてから置いてったんですわ。

……欲しがる者が増えたのは、兵が来た後でさ」


ブランは、帳場の脇の壁にもたれていた。

ガスパロの首筋ではなく、窓の外の畑を見ている。

間を置いて、ゆっくり言った。

「……兵が来た後、か。親父さん、責めに来たんじゃねえ。

その使いの男、何を聞いて、何と引き換えに置いてった。あんたが話せる分だけでいい」


「何も取りゃしませんでさ」

ガスパロは、帳場の板に目を落とした。

「聞くのは、なんで欲しいか、それだけ。首だの腕だのを指で押して確かめてから置いてく。

答えられねえ者には置いてかねえ。

……欲しがった者は大方、次に兵が来たら今度は差し出さずに済むように、って答えてましたわ」


差し出さずに。

ノアは帳場から手を離した。

自分の手のひらを見下ろす。

何も無い手のひら。

去年の秋、ドラージョの酒場で、なぜ力が欲しいのかと聞かれて、何も言えなかった手だ。

「みんな、答えられたんだ」

顔を上げた。

「兵は、何を差し出させたの?」


ガスパロは、しばらく黙っていた。

それから鍵を帳場に置いて、ノアのほうへ押しやる。

目は、上げない。

「……人でさ。あの夜、館へ先に立った者を四人。村の者が指さして、縄で縛られてドラージョへ。

……あっしも黙って見てましたわ。名は勘弁してくだせえ、お客さん」


ノアは、鍵を取らなかった。

ラウロが横から手を伸ばして、拾った。

竈の火が、ぱちりと鳴った。



日が台地の西へ傾いて、白い石が赤く染まっていた。

宿の裏には水甕しかなく、水は広場の井戸から汲んでくることになっている。

ノアは桶を借りて、外に出た。


広場には、畑から戻った村人たちが、井戸の周りに腰を下ろしていた。

ノアが近づくと、話し声が低くなる。

誰も、こっちを見ない。

釣瓶の縄に、手をかけた。


広場の東の口に、人影が一つあった。

涸れ井戸の方へ延びる道から、歩いてくる。

背が高く、肩と胸が厚い。

黒い外套を背に垂らしていて、夕方の風が吹いても、裾が揺れない。

左手には、手首の先まで布が巻いてある。


ベリアトだった。


村人たちが、次々に立ち上がった。

鎌を置き、桶を置いて、男のほうへ寄っていく。

女が一人、柄杓に水を汲んで走っていった。

琥珀に赤を混ぜたような目が、人垣の上から、井戸の前のノアに止まった。


縄を握った手が、止まる。

腰には、年明けにブランから渡された古い短剣。

背には、外套の下の翼の袋。

どちらにも、手をやらなかった。

十月前、この村の土に顔を押しつけられた。

冷たい土の匂いを、まだ覚えている。

それでも、逃げない。

ノアは縄を離して、桶を井戸の縁に置いた。

「ベリアト」


ベリアトは、女の柄杓を受け取った。

一息で飲み干して、空の柄杓を返す。

「ありがとよ、生き返った」

それから笑って、こっちへ歩いてきた。

井戸の三歩手前で、足を止める。

「よう、坂の娘。傷はもう塞がったみてえだな。で、あんたはここで何してる。俺を待ってたなんて言うなよ」


村人たちは、二人を遠巻きにして黙っていた。

誰も動かない。


ノアは、井戸の縁の桶を片手で示した。

「水汲みだよ。隊商の帰りで、待ってたんじゃない」

遠巻きの村人たちの首筋へ、一度だけ目を流す。

ベリアトに戻した。

「でも、聞かせて。ここのみんなは、答えてから貰ったんだね。兵に差し出さずに済むように、って」


ベリアトの笑みが、薄くなった。

少し身を乗り出して、声を落とす。

顎で、後ろの村人たちを軽く示した。

「ああ。望んだ奴にだけな。なぜ欲しいか、一人ずつ口で言わせてから渡した。

……差し出さずに済むかは、約束はしてねえ。それでも欲しいって言ったのは、こいつらだ。

で、あんたはそれを見て、どう思った。あんたの口から言え」


ノアは、自分の手のひらを見下ろした。

握って、顔を上げる。

「いいなあって思った。みんな、ちゃんと答えられて。ボクは……まだ言えないのに。でも、怖い。

ラーモの宿場の人は、腕が石になってた。テオって子は、腕にこぶが広がって死んだ。

ここの人の奇跡は、合ってるの? キミは、ちゃんと見たの?」


日が落ちかけていた。

村人の何人かが、広場の真ん中の焚き火の跡に薪を運んで、火を起こしはじめる。


ベリアトは焚き火のそばへ歩いて、腰を下ろした。

火を挟んで、ノアの向かいになる所だった。

膝に肘をついて、声を落とす。

「座れよ。……ここのは、うちの者が器殻を一人ずつ確かめて、合う奴にだけ渡した。

合わねえ奴には渡してねえ。報せでそう聞いてるし、俺の部下はそんな嘘はつかねえ」

火の粉が一つ、上がった。

「ラーモの石の腕も、そのテオって子も、うちのじゃねえ。見境なくばらまく連中がいる。

……けどな、同じ地下から来たもんだ。それは否定しねぇ。合ってても、楽な代物じゃねえ。それも本当だ」


ノアは少し迷った。

背の荷は下ろさずに、火を挟んだ向かいに膝を立てて座る。

短剣の柄からは、手を離したままにした。

「座るよ。報せってことは、キミが見たんじゃないんだ。楽じゃないなら、どう楽じゃないの?

ここの人は、知ってて貰ったの?」


ベリアトは、一瞬だけ笑った。

すぐに笑みを消して、火に薪を一本くべる。

「ああ、俺の目じゃねえ。だから今夜、俺が見て回る。それでいいか」

顔を上げた。

「楽じゃねえってのは……根が張るあいだは熱が出る。何日か寝込む奴もいる。

体の中が書き換わるんだ、跡は灼けたまま一生残る。それは、置く前にうちの者が一人ずつ言った。

知ってて、それでも欲しいって言った奴だけだ。……印を見られりゃ、灯改めに引かれる。

それも、この村の連中は兵の顔を見て知ってる」


一生。

ノアは、遠巻きの村人たちの首を見た。

花は、火明かりの中で黒く見えた。

「うん。ボクもついて行く。見るだけだよ。それと、見境なくばらまく連中って誰?

ラーモの人みたいなのは、まだ増えてるの?」


ベリアトは頷いて、膝を叩いて立ち上がった。

少し間を置いて、低い声で続ける。

「いいぜ、ついて来い。口は出すなよ、見るだけだ。……『あまねく希望』って名乗ってる。

俺らと同じ伝承者を名乗るが、なぜ欲しいかも聞かねえ、器殻も見ねえ。撒いて、あぶれた奴は地下へ売る」

火のほうを見た。

「増えてるかって聞かれりゃ、増えてる。止めてえが、約束はしない」


あまねく希望。

ノアは口の中で、一度だけ繰り返した。

立ち上がって、井戸の縁の桶に水を汲む。

宿のほうを、一度振り返った。

「うん、口は出さない。あまねく希望、覚えた。水を宿に置いてくる。すぐ戻るから、待ってて」



宿の土間では、四人が卓の一つを囲んでいた。

竈の前で、ガスパロが鍋をかき回している。

広場のほうから、薪の爆ぜる音がかすかに聞こえてきた。


ノアは桶を水甕の脇に置いて、卓の前に立った。

「広場にベリアトが来てる。今夜、村の人の花を見て回るって。ボクもついて行く。見るだけだよ。

剣は抜かない。ラウロ、いい?」


ラウロは卓に手をついて、少し黙った。

壁に立てかけた剣に、目をやる。

それから、立ち上がった。

「……条件がある。俺も行く。何も貰うな、あいつに触らせるな。俺が戻るって言ったら戻る。

それでいいなら、いい」


ブランが杯を置いた。

窓の外の広場のほうを見たまま、間を置いて言う。

「いいか。ノア、ラウロの条件で行け。……俺も行く、と言いてえが、三人並べりゃあいつも構える。

俺は広場の端で、火の外から見てる」

イルウェンとガレナを、順に見た。

「イルウェン、ガレナは宿だ。親父さんの戸口から離れるな」


椅子が鳴った。

ガレナが半分立ち上がって、ブランを睨んでいる。

それからノアの顔を見て、拳を卓に押しつけたまま、どすんと座り直した。

壁に立てかけていたコッコを、膝の横へ引き寄せる。

「なんだよ、またあたしは留守番かよ。……分かった、戸口はあたしが守る。けど、なんかあったら呼べよ。

すぐ駆けつけるからな」


イルウェンは、卓に頬杖をついたままだった。

半分の目でノアを見て、鞄の筒の留め具を、指で一度だけ確かめる。

「うん、留守番。……ノア、触らせちゃ、だめー」


「うん」

ノアは頷いて、戸口へ向かった。

ラウロが、剣帯を締めながら後ろについてきた。



日が暮れた。

広場の焚き火が高くなって、村人たちがその周りに集まっている。

ブランは広場の端の石垣に腰を下ろした。

火明かりの、届くか届かないかの所だった。


ベリアトは火のそばを離れて、家を一軒ずつ回りはじめた。

ノアとラウロは、その二歩後ろをついて歩く。


戸口ごとに、村の者が首筋や腕をさらした。

ベリアトは右手の指で、花の縁を一つずつ押していく。

ラーモの小屋で見たのと、同じ指だった。

樽の箍の締まりを確かめる、樽屋の指。

押されて顔をしかめる者はいたが、腫れている跡は無い。

ベリアトは家ごとに低い声で何か尋ね、村の者は、ノアたちには聞こえない声で答えた。


五軒目の戸口で、腰の曲がった女が、ベリアトの袖をつかんだ。

「伝承者さま。春に、街道の宿場に、干し魚を山ほど積んだ荷車の行商が来たって。

猫の獣人の、腹の出た、愛想のいいおやじで、誰の肩でも叩いて、ただで力をくれるって。

うちの甥っ子が行きたがったけど、伝承者さまの使いは、なぜ欲しいかを聞くからって、止めたんです。

……止めて、よかったんですよね」


ベリアトは、袖をつかむ女の手に、自分の手を重ねた。

腰を落として、目の高さを合わせる。

笑みは、無かった。

「ああ、よく止めた。ただでくれる奴は、代価を後で取る。

甥っ子には、そのおやじにはもう近づくなって言っといてくれ。……その宿場、どこの宿場だ。

いつ頃、どっちへ行った。覚えてる分だけでいい」


女は、ドラージョへの西の街道の、峠の下の宿場だと言った。

春の終わりで、荷車は西へ、ドラージョのほうへ下っていったらしい。

それだけ言うと、戸を閉めた。


峠の下の宿場。

ノアは閉まった戸を見たまま、ラウロの袖を軽く引いた。

「ラーモかも」

それから、立ち上がるベリアトに、一歩も詰めずに言った。

「口は出さない約束だけど、一つだけ。

峠の下の宿場がラーモなら、去年の五月、ボクはそこで石の腕の人を見た。同じやつが、まだいる」


ベリアトはノアを見下ろして、一度だけ短く笑った。

それから西の闇のほうへ目をやって、笑みを消す。

「一つで済むなら、いい一つだ。ありがとよ、坂の娘。

……一年同じ所で撒いてて、春にドラージョへ下った、か。覚えとく。次の家だ」


次の家までの路地は、暗かった。

ラウロは、ノアとベリアトのあいだに半身入る位置を崩さずに歩いていた。

前を行く背中に、低く言う。

「……あんた。そのタダで撒く奴を追うのは分かった。じゃあ、あんたが置いてく奇跡は、何を取る。根拠は」


ベリアトは足を止めなかった。

肩越しに振り返って、口の端を少し上げる。

「坊主、いい問いだ」

前を向いたまま、声を落とした。

「金も、魂も取らねえ。取るのは、根づいたあとの体がどうなったか、だ。

うちの者が時々見に来て、確かめて、下へ持って帰る。それが代価だ。

根拠を言えってなら、ここの連中の首を見たろ。腫れてる奴は一人もいねえ。

……それ以上は、自分の目で確かめろ」


体がどうなったか。

確かめて、持って帰る。

ノアは、さっきの女の首の花を思い出した。

指で押されて、少しだけ顔をしかめた女。

右手が、脇へ挟まりかける。

外に出して、握った。



残りの家を回り終えるころには、夜も更けていた。

腫れた跡は、一つも無かった。


広場へ戻ると、焚き火の周りの村人たちは、一人、二人と家へ引きあげていった。

火のそばには、薪の山と、水の甕と、麦の平たいパンの籠が残る。

ベリアトは火のそばに腰を下ろした。

ノアとラウロも、火を挟んだ向かいに座る。


石垣から、ブランが腰を上げた。

ゆっくり火のそばまで歩いてきて、ベリアトから一人分空けて座る。

パンの籠には、手を伸ばさない。

火を見たまま、言った。

「……よう。また会ったな。親父さんから聞いたぜ、なんで欲しいか聞いてから置いてくってな。

兵に人を差し出さずに済むように、だとよ。……ほう。あんたの奇跡ってのは、そういう勘定か」


ベリアトはパンを一つちぎって、籠をブランのほうへ押しやった。

自分は火を見たまま、噛む。

「よう、兄さん。食えよ、村のだ。勘定って言われりゃ、そうかもな。

理由を言ったのはあいつらだ、俺は聞いただけだ。……差し出さずに済むかは、約束してねえ。

あんたこそ、何が言いてえ。理由を言え」


火の向こう、丘の上に、館の黒い影があった。

戸板の外れた口が、夜の中でも暗く開いている。

ブランは籠に手をつけずに、その影を見ていた。

間を置いて、ゆっくり区切って言う。

「理由、ねえ。……いいか。理由を言わせりゃ、言った方が自分で決めたことになる。

兵が来て、印の奴から先に縄にかかっても、あんたは聞いただけだ。……俺が言いてえのは、それだけだ」

籠を、ベリアトのほうへ押し戻した。

「食い物は、いらねえよ。弟子に釘を刺した手前でな」


ベリアトは、しばらく黙ってパンを噛んでいた。

飲みこむ。

笑みの無い顔で火に目を落とし、身を乗り出して声を落とした。

「……ああ。そこは、言い返せねえ。だから来た。

十月前、館へ先に立った四人が、ドラージョの牢へ縄で引かれた。そいつらを取り返す算段をつけにな。

聞いただけで済ませる気なら、ここへはこねぇよ」


ノアの指が、膝の上で握られた。

四人。

ガスパロが、名を言わなかった四人。


ブランが、館の影から目を外した。

初めて、ベリアトの横顔をまっすぐ見る。

「……ほう。取り返す、ってのは、こういうのか。ドラージョの牢から四人、だとよ。

……算段とやらを聞かせてもらおうか。ただし、先に言っとく。

うちの弟子を勘定に入れてるなら、話はここまでだ」


ベリアトは口の端を少し上げて、首を横に振った。

パンの残りを口に放りこんで、膝に肘をつく。

「入れてねえよ。坂の娘は答えも出してねえ、そんな奴を牢破りに連れてくほど落ちちゃいねえ。

算段は、まだ半分だ。兵が五十、領主の死んだ三日後、西へ縄で引いた。そこまでは今夜聞いた。

牢の中のことは、これから調べる」

ちらりと、ブランを見た。

「……兄さんの耳と鍵開けの腕なら、話は別だがな。約束はしない、聞いてみただけだ」


家々の窓の灯りが、一つ、また一つと消えていく。

畑のほうで、山羊が一度鳴いた。


ブランが、鼻で短く笑った。

膝を叩いて、立ち上がる。

丘の館の影を一度見上げてから、火を見下ろした。

「ただでくれるもんにも、ただで頼まれるもんにも、どっかで勘定がついてる。

……世の中は、と言いてえが、やめとく」

耳の先が、少しだけ下がった。

「返事は今夜はしねえ。組の頭はラウロだ、決めるのはあいつらとだ。牢の中が分かったら、また声をかけな」


ベリアトは座ったまま、ブランを見上げた。

笑みを薄めて、静かに言う。

「言いかけてやめるなよ、兄さん。世の中はそういうもんだ、って続くんだろ。

……俺はそれが気に食わねえから、こんな稼業をしてる」

火に、薪を一本くべた。

「ああ、分かったら声をかける。おやすみ」


ブランは、背を向けかけた。

足が止まる。

振り返らずに、肩越しに言った。

「……続きが言えねえから、やめたんだ。おやすみ、伝承者さま」


宿の灯りのほうへ、歩いていく。

ノアは、その背中を目で追った。

世の中は変わらねえよ。

四年前、ヴァレンツァの酒場で、ブランはそう言って杯をあおった。

その晩の井戸の縁でも、落とすような声で、もう一度言った。

その続きを、今夜は言わなかった。


「……いい師匠だな、坂の娘」

ベリアトの声で、火の向こうに目を戻した。


ノアは、短く頷いた。

少し黙ってから、膝の上で手を握る。

「うん。ブランは、いい師匠だよ。答えはまだ出てない。キミの言うとおり。でも、今夜は見た。

腫れてる人はいなかった。それは覚えとく」

握った手に、力が入った。

「四人のことが分かったら、ボクにも教えて」


ベリアトは火を見て、少し考える顔をした。

それから顔を上げて、ノアを見る。

立ち上がって、外套の裾を払った。

払われても、裾は揺れなかった。

「教えるのはいい。ただ、教えたら来るだろ、あんた。……来るなら、それはあんたが決めたことだ。

俺は止めねえし、頼みもしねえ。答えが出たら、また聞く。今夜はもう寝ろ、坂の娘。坊主もな」


ラウロが立ち上がった。

ノアの肩を軽く叩いて促してから、一歩だけ火のほうへ戻る。

「……坊主じゃねえ、ラウロだ。一つだけ。下へ持って帰ったその体の話、下で何に使う。

……答えねえなら、それも覚えとく」


ベリアトは一度だけ短く笑った。

すぐに笑みを消して、ラウロを正面から見る。

「ラウロ、な。覚えた。……次の奇跡を作るのに使う。もっと多くの奴に合う器殻をな。

それ以上は、ただの外套だと思っとけ」

低く、付け足した。

「覚えとけ、それでいい」


「……行くぞ、ノア」

ラウロが、宿のほうへ顎をしゃくった。

ノアは立ち上がった。

一度だけ振り返ると、ベリアトは火のそばに座り直して、館の黒い影を見上げていた。



夜明け前に、目が覚めた。


宿の中では、まだ皆が眠っている。

隣の寝台で、イルウェンが寝返りを打った。

戸口の内側では、ガレナが壁にもたれて、コッコを抱えたまま寝息を立てていた。

ノアはその脇を抜けて、音を立てずに戸を開けた。


台地の東の縁が、白みはじめていた。

広場の焚き火は灰になって、細い煙だけが上がっている。

朝の空気は、昼の熱が嘘のように冷たい。


広場の東の口に、黒い外套の背中があった。

涸れ井戸の道へ、発とうとしている。


ノアは戸口の柱に手をかけた。

追いかけたら、決めないまま行くことになる。

だから、ここから。

宿から一歩も出ずに、その背中を見た。

少しためらってから、眠っている皆を起こさない声で呼ぶ。

届くか届かないかの声だった。

「ベリアト。答えが出たら……ボクから行く」


背中が、止まった。

半身だけ、振り返る。

声は低く、ゆっくりだった。

「ああ、待ってる」

片手を、軽く上げた。

「……一つだけ。さっきの婆さんの言ってた、ばらまく連中の頭だ。グラッソって名の、猫のおやじ。

干し魚を持って、人の肩を叩いて笑ってる、気のいいおっさんだ。そこが、いちばん悪い。

会ったら、肩を叩かせるな。ただでくれるって言われても、何も受け取るなよ」

上げた手を下ろして、付け足す。

「奇跡があるかどうかは、あんたが決めろ」

少し、笑ったように見えた。


ノアは、柱から手を離した。

背中をまっすぐ見たまま、小さく頷く。

「うん、貰わない。ボクが決める」


ベリアトは背を向けて、片手を一度だけ振った。

涸れ井戸の道へ、歩き出す。


黒い外套は、白みはじめた台地の道を遠ざかっていった。

丘の肩を越えたところで、見えなくなる。

最後まで、裾は揺れなかった。


灰から上がる煙が、朝の風に横へ流れた。

ノアは、右手を開いた。

何も無い手のひらに、冷たい風が当たる。

握らずに、そのまま戸を閉めた。

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