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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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61/82

刻々と

野盗の巣を見に行ってから、半月あまりが経った。

八月の三日。

ドラージョの朝は、もう石畳が温い。


灰鷹の詰所の掲示の板に、新しい依頼書が一枚増えていた。

帳場の男が、太い指でそれを押さえて読み上げる。

「東の街道の、ドラージョから半日ほどのところに狼が住み着いた。

通りがかる馬車が三度襲われて、馬が二頭食われた。御者も一人、腕を噛まれてる。荷馬車組合からの依頼だ。

数は分からん。銅の組からなら受けられる」

男の目が、ブランの札に落ちた。

銅の二。

それから、少しだけ間が空いた。

ブランの灯りの色を思い出したのだ。


ブランは、その間に気づかないふりをした。

依頼書を板から外して、数の欄を指で叩く。

「数は分からねえ、ときたか。……受ける」

依頼書を持ったまま、ガレナに顎を向けた。

「その前に、ガレナ。足は痛まねえか」


ガレナが、自分の脛をぱんと叩いた。

その場で、二度、三度と跳ねてみせる。

着いた足は、もう揺れない。

「痛くない。走れる」

跳ねるのをやめて、ブランをまっすぐ見た。

「……今度は隠してねえからな」

「おう」

ブランはそれだけ言って、依頼書をラウロへ回した。


帳場とのやり取りは、顔役のラウロの受け持ちだ。

ラウロは依頼書を台に置いて、帳場の男を見た。

「襲われたのは、三度とも同じとこか」

「同じ辺りだ。丘が二つ並んだ切り通しの先。昼下がりが二度、夕方が一度」

「噛まれた御者は」

「組合の厩で寝てる」

「なら、行く前に話を聞いとく。あんたの依頼書だけじゃ、数が分からねえからな」

帳場の男が、肩をすくめた。


「狼くらい、何匹いたってあたしが前に出てやるよ」

ガレナが、ラウロの背中に言った。

ラウロは振り返りもしなかった。

「前に出るのはいい。けど一人で突っ込むな、俺の横だぞ」

「分かってるよ」

ガレナが、口を尖らせた。


組合の厩は、藁と馬の汗の匂いがした。

腕に布を巻いた御者が、干し草の上で身を起こす。

「前に二匹、道の先に座ってたんだ。

追い払おうと鞭を鳴らしたら、横の藪から別のが馬の首に飛びついてきた」

御者は、布の上から腕をさすった。

「……前の二匹は、最後まで動かなかった。合図でもしてるみたいだった」


ノアは、自分の手のひらを見た。

合図。

獣が。



東の街道を、半日歩いた。

昼過ぎ、丘が二つ並んだ切り通しを抜けた。

風が背中から吹いて、草の穂を前へ倒していく。


街道の先の、矢の届かないほど遠い丘の肩に、灰色が二つあった。

狼だ。

犬よりひと回り大きい。

座ったまま、こっちを見ている。

吠えない。

近づきもしない。

首だけが、ゆっくり動いた。

こっちの頭を、一つずつ数えているみたいに。


ノアは、足を止めた。

前の二匹。

御者の話と、同じだ。

丘から目を外して、街道脇の藪を見た。


ブランの手が、低く上がった。

「止まれ。あの二匹は見るな。見せ札だ」

「見せ札? なんだよ、それ」

ガレナが、木剣の柄に手をかけたまま振り返った。

答えたのは、ラウロだった。

「前で目ぇ引いといて、横から来るってことだろ。御者の話、聞いてなかったのか」

「……聞いてたよ!」

ガレナは丘を睨むのをやめて、藪へ向き直った。


ノアの目の先で、右の藪の穂先が一本、風と逆に揺れた。

「右にいる」

少し遅れて、イルウェンが半分の目を左へ向けた。

「左もー」

ラウロが片手を横に出した。

背の剣の柄に手をかけて、抜かない。

「寄れ。背中合わせだ」


五人で、背中を合わせた。

何も来ない。

藪の奥で、一度だけ枝が鳴った。

音は、遠ざかっていく。

丘の二匹がゆっくり立ち上がった。

一度だけ振り返って、丘の向こうへ消えた。


ブランが藪を分けた。

草が、四つ、五つ、丸く寝ている。

屈んで手のひらを当てたブランの眉が、わずかに寄った。

「まだ温い」

獣の脂と、古い血の匂いがする。

踏み跡は丘の二匹と同じ向きに、街道を外れて北東の丘陵へ延びていた。

ブランは指で跡の向きをなぞって、目を細めた。

「寝床が五つ、丘に二匹。七匹ってとこだ。……俺の勘だがな」

「七匹なら、今から追えば——」

ガレナが言いかけたところで、ラウロの肘が脇腹に入った。

「焦んな」

ブランは膝の土を払って、立ち上がった。

「こいつら、俺たちが固まったのを見て引いた。頭のいい群れだぜ。

日の傾きかけた丘に入って、あいつらの庭で囲まれるのは御免だ。

今日は切り通しまで戻って、風上に野営を張る」

ガレナは北東の丘をひと睨みして、黙った。



その夜、遠吠えが一つ上がった。

間を置いて、別の方角から二つ、三つと応える。

火の届かない闇のどこかを、何かが回っていた。

近づいては、こなかった。


夜明けに、野営の周りを歩いてみた。

火から三十歩ほど離れた草に、踏み跡がぐるりと輪になっていた。

ノアは、輪の内側に立って、焚き火の跡を振り返った。

自分たちが寝ていたところが、輪の真ん中にある。


ブランが、輪を一周たどって戻ってきた。

「夜中に品定めされてたってわけだ」

輪から外れた跡が一本、昨日と同じ北東へ延びている。

露を踏んだばかりで、まだ濃い。

ラウロが、その跡とブランの顔を見比べた。

「どうする。町へ戻って、人を足すか」

「戻りゃ、帰り道で今夜と同じことをやられる」

ブランは、跡の一本の前で立ち止まった。

「昨日の話は無しだ。追う。二手に分かれりゃ、残ったほうが囲まれる、全員で行くぞ。

俺が跡を読む、ラウロは俺の横で藪を見ろ。ノア、ガレナは真ん中。イルウェン、殿だ。風は鼻に当てて歩け」

「うん」

イルウェンが、のそりと列の最後に回った。


跡は二刻ほど、丘陵の草地を縫った。

浅い沢に下りたところで、途切れた。

水は踝ほど。

向こう岸は平たい岩の斜面で、濡れた足跡はもう乾いて見えない。


「ここで待て。狼は水で跡を切る。だが出るときは、必ずどっかの岸を踏む」

ブランは一人で沢に入った。

上流へ、下流へと、岸を屈みながら歩く。

「ラウロ、お前は下流の岸を見ろ。泥に爪の跡か、岩に灰色の毛だ。見つけても声を上げるな、手を挙げろ」


手を挙げたのは、ブランだった。

上流へ二十歩ほどの岸。

岩の割れ目の草に、灰色の毛が引っかかっている。

その上の岩の縁が、爪でかすかに白く擦れていた。

ブランが鼻を上げた。

斜面の上から吹き下ろす風に、血と獣の脂の匂いが細く混じっている。



尾根を越えると、下に木の茂った窪地があった。

茂みに半ば埋もれて、角の取れた石の壁が見える。

崩れかけた門のような入り口。

人が積んだ石だ。

でも、ヴァレンツァのどの家とも、ドラージョの聖堂とも、積み方が違う。

入り口の前の土は踏み固められて、馬の脚の骨が一本、転がっていた。


入り口の脇の石の上に、狼が一匹伏せていた。

昨日の丘の二匹とは、毛色が違う。

背中が黒い。

耳を立てて、窪地の向こうを向いている。

まだ、こっちには気づいていない。


ブランが尾根の陰に伏せて、手で皆を伏せさせた。

まず、イルウェンを見た。

「あの黒いの、一本で落とせるか」

イルウェンは腹ばいのまま、背の筒を下ろした。

弓ではない。

筒の先を黒い狼へ向けて、しばらく黙っていた。

「うん。……落ちるー」

「なら、俺が合図したら撃て」

ブランは、残りの顔を一つずつ見た。

「ラウロ、ノア。入り口の両脇の石の陰まで下りて待て。出てくるのは一匹ずつだ、出たとこを叩け。

ガレナ、お前は俺と尾根に残れ」


ガレナの目が、ブランを睨んだ。

「……なんで、あたしが後ろなんだよ」

「昨日の丘の二匹が、まだ外にいる。背中を取られりゃ、下の二人が挟まれる」

ブランは、窪地から目を離さずに言った。

「足のせいだ、と言いてえが、違う。背中を任せられる奴が要るんだよ」

ガレナは唇を噛んで、それから頷いた。

「……わかった。背中は通さねえ」

来た斜面のほうへ身を返して、木剣を膝の横に寝かせた。


ラウロが、小声でノアの肩をつついた。

「俺が左。お前、右な」

「うん」

ラウロは先に、茂みへ身を沈めた。


斜面を下りるあいだ、黒い狼は一度だけ耳を動かした。

こっちは見なかった。

入り口の右の石に、背をつける。

石は、日陰の冷たさだった。

外套の下で、背中の袋を寄せる。

手は空けておく。

左の石の陰で、ラウロが音を立てずに剣を抜いた。


尾根の上から、ブランの声が風に乗って細く届いた。

「——今だ、イルウェン」


筒が短く鳴った。

薄い緑の光が一筋、ノアの頭の上を走る。

黒い狼が、声も上げずに石から転げ落ちた。

足が二度掻いて、止まった。


ノアは、入り口の暗がりへ腰を落とした。

来る。


来なかった。


入り口の奥の、ずっと深いところで、低く長い遠吠えが一つ上がった。

それきり、何も聞こえない。

暗がりから冷たい風が吐き出されて、獣の匂いが鼻を刺した。

百を数えた。

一匹も出てこない。


ノアは、尾根のブランを見上げた。

ブランが下りてきて、入り口の手前で屈んだ。

中の風を頬で受けて、匂いを嗅ぐ。

「入らねえ」

立ち上がって、皆を十歩離れた茂みへ呼び寄せた。

「暗がりで狼の群れとやり合うのは、割に合わねえ。……中から風が出てる。

奥にもう一つ口がある、ってことだ。ラウロ、ガレナ、窪地の縁を回って、風の通ってる穴を探せ。

見つけても触るな、戻って言え。ノアとイルウェンは俺とここで入り口を張る。乾いた枝と青草を集めとけ。

燻して出す」

「わかった、触らねえ」

ガレナが、ラウロの袖を引いた。

「行くぞラウロ、遅れんなよ。風が吸いこまれてんなら、草がそっちになびいてるはずだ」

「なら、先に見つけるのは俺だ」

二人が茂みの向こうへ消えた。


ノアは、入り口から目を離さないように、横歩きで茂みの縁を回った。

乾いた枝を折る。

青草を、根ごと引き抜く。

ときどき手を止めて、暗がりに耳を向けた。

何も聞こえない。

抱えたぶんを、ブランの足もとに置く。

「枝、これくらいでいい?」

「もう一抱えだ」

もう一抱え、運んだ。

イルウェンは、入り口の見える石に座って、筒を膝に載せたまま動かなかった。


ラウロとガレナは、思ったより早く戻ってきた。

ラウロがブランの前に屈んで、低く言う。

「裏の斜面、木の根の下に石段の穴。草は穴の中へなびいてる、吸ってる口だ。

足跡は全部外向き、露が乾いてねえ。丘の二匹の毛もあった」

少し間を置いた。

「……何匹かは今朝出てる。外にいるぞ」

「見つけたのは、あたしが先だからな」

ガレナが横から言った。

ラウロは聞こえないふりをした。

ブランが、ラウロの肩を一度叩いた。

「よく見た。……時間がねえ。外の連中が戻りゃ挟まれる。吸い口で燻す。煙は中を通って、ここから出る。

狼も一緒にな」



ブランとラウロが裏へ回って、しばらくすると、入り口から白い煙が吐き出されてきた。

ノアは、イルウェンとガレナと三人で、入り口の正面を外した石壁を背に固まった。

煙だけが、目の前を流れていく。

狼は、出てこなかった。

一度だけ、ずっと下の深いところで、鼻を鳴らすような声がした。

それきりだった。


戻ってきたブランの顔に、煤が付いていた。

「裏の階段は、下へ下へと続いてやがる。煙は上の通路を抜けて、こっちへ出ただけだ」

入り口の古い石組みを見上げて、ブランは少し黙った。

「……潜らねえ。あの階段の下は、狼の巣ってだけの穴じゃねえ。

依頼は馬車を襲う狼だ、穴の底のもんじゃねえ。外に出た連中は、日が傾きゃ必ずここへ帰る。帰り道で待つ」

「……また待つのかよ」

ガレナが、小さくこぼした。

「待つのも仕事のうちだ」

ブランは振り向かずに言った。


入り口を見下ろせる、風下の岩場に伏せた。

黒い狼は茂みに引きずって隠し、血の跡には土をかけた。

水と干し肉が回ってくる。

ガレナが、干し肉を食いちぎった。



日が傾いて、窪地の底から先に翳っていった。

谷が冷えて、風の向きが変わった。

さっきまで顔に当たっていた風が、背中から窪地へ抜けていく。


ノアのうなじの毛が、立った。

自分の匂いが、窪地へ流れていく。


窪地の、右の縁。

左の縁。

ほとんど同時に、灰色の影が出てきた。

左に四つ、右に四つ。

丘の二匹もいる。

吠えない。

縁に沿って、左右からゆっくり回り込んでくる。

背中は開けた斜面だ。

このままだと、岩場ごと輪の中に入る。

野営の周りの、あの輪だ。


ブランが跳ね起きて、短剣を抜いた。

「入り口だ、走れ! 今だ!」


斜面を駆け下りた。

入り口の通路は、左右を石の壁に挟まれて、二人並べるほどの幅しかない。

通路の奥は、一歩先から真っ暗だった。

ブランは最後に飛び込んで、そのまま暗がりのほうへ背を向けて立った。

「ラウロ、ノア、前で二人並べ。入ってくるのは二匹ずつだ、叩け。イルウェン、二人の肩越しに撃て。

ガレナ、イルウェンの横だ、抜けてきたのを叩け。奥は俺が見る。……持ちこたえろよ」


外の八匹は、入り口の前で止まらなかった。

二匹が、低く跳び込んでくる。


ラウロは一歩も退かなかった。

半身のまま、左の一匹の鼻先を剣の腹でずらす。

流れた首筋へ、刃を寝かせて落とした。

重い手応えが、隣のノアにまで伝わる。

「一つ!」


ノアは、右の一匹へ半歩踏み込んだ。

跳びかかる鼻面を、左の腕で外へ払う。

右の拳を、首の付け根へ叩き込んだ。

骨の奥で、何かが鈍く鳴った。

倒れたのを壁へ蹴り寄せる。

「二つ」

「数えんな、次来るぞ!」


背中の側で、爪が石を掻く音がした。

振り返ると、奥の暗がりに、光る目が二つ、四つ、六つ。

上がってきている。

挟まれた。


「奥からも来やがったか。……イルウェン、明かりだ」

ブランの声に、イルウェンが左の手のひらに薄い緑をともして、奥へ掲げた。

右手の筒は、ノアとラウロの肩のあいだから外へ向いたままだった。

「前も、……撃つー」

筒が鳴った。

入り口に跳び込みかけた三匹目が、外へ転がる。

外の残りは、入り口の左右に散って、唸りながら出入りを繰り返し始めた。


「奥はあたしもやる!」

ガレナが、腕に朱を細くまとわせて、ブランの横へ出ようとした。

「出るな。イルウェンの横だ、抜けてきたのだけ叩け」

「……っ、分かってるよ!」

ガレナは木剣を低く構え直して、イルウェンの横に足を据えた。


奥で、ブランが左の手のひらを突き出した。

黒に近い灰色の灯りが、暗がりを押し返す。

「来いよ。黒い灯りを見るのは初めてか」


緑と黒灰の光の先で、通路は広間につながっていた。

狼が三匹、ブランの前で足を止めて、身を低くしている。


そのとき、広間のさらに奥から、重い足音が近づいてきた。

一つずつ。

三匹が、左右へ道を開けた。


光の中に出てきたのは、灰色の狼だった。

大きい。

肩が、人の頭より高い。

牙の一本一本が、ブランの短剣ほどもある。

首の毛が逆立って、片耳が古傷で裂けていた。

それが、通路の口のブランを真っ直ぐ見て、喉の奥で低く唸った。

三匹は、その後ろに伏せた。

合図を待つ顔で。


「ほう。群れの頭ってのは、こういうのか」

ブランの声は、軽いままだった。

でも、灯りを掲げた手が、さっきより高い。


ノアは、ラウロの肩を軽く叩いた。

「ラウロ、前を任せていい?」

「行け。前は俺一人で持つ」

ラウロは、仕留めた狼の体を入り口の前へ蹴り出した。

足場が塞がる。

「イルウェン、外はもういい。お前も奥だ」

「うん」

イルウェンが体をひねって、筒を奥へ向けた。


ノアは、イルウェンとガレナの横をすり抜けた。

ブランの斜め後ろで、腰を落とす。

「ブラン、ボクもやる」

「おう。脇の三匹を俺に寄せるな」

ガレナが、二人の後ろから声を張った。

「ブラン、あいつが跳んだら左にずれろ。首、あたしが叩く。……全開じゃねえ、ちゃんと当てる」

ブランは、一拍だけ黙った。

「……言ったな。外すなよ」

「ブラン、……右、空けてー」

イルウェンの声は、こんなときでも間延びしていた。

「目、狙うー」


ブランが右へ身を寄せた。

その隙間を、緑の光が抜けた。


大狼は、撃たれる寸前に首を振った。

光が頬を焼いて、裂けた耳を千切り飛ばす。

焦げた毛の匂い。

大狼が、一声吠えた。


それが合図だった。

伏せていた三匹が、左右の壁沿いに跳び出した。

大狼自身も、通路の口のブランめがけて、真っ直ぐ跳んだ。


ブランは灯りの手を、大狼の鼻先へ突き出した。

跳ぶ瞬間に、左の壁際へ身を沈める。

すれ違いざま、逆手の短剣が前脚の付け根から喉の下へ斬り上がった。

厚い毛に、刃が滑る。

浅い。

大狼はブランを通り越して、通路の口に降り立った。

首をひねって、こっちへ向き直る。


その首が、ガレナの目の前にあった。

「ガレナ、今だ! ノア、脇だ!」


右の壁沿いを、一匹が走り込んでくる。

ノアは跳ぶより先に踏み出して、その脇腹を蹴り上げた。

壁に叩きつけられた音が、通路に響く。

足を止めずに体を返す。

左から来た二匹の前へ割って入って、先頭の鼻面に肘を落とした。

「こっちだよ」


「らあぁっ!」

ガレナの脚から腕へ、朱が一気に流れ込んだ。

腰をひねって、大狼の耳の後ろへ、木剣を真横から振り抜く。


大狼が、首を返した。

振り抜かれてくる木剣に、横から噛みついた。


乾いた音がした。


木剣が、ガレナの手もとから一尺を残して、噛み折られていた。

ささくれた短い木と、柄だけ。

大狼の右の前脚が、持ち上がる。

爪が、ガレナの顔の高さにある。

指の長さほどもある爪だった。


二歩。

ノアは、足もとの二匹を捨てた。

床を蹴る。

一跳びで詰めた。

「ガレナ、下がって!」

左腕で、ガレナの胸を突いた。

ガレナは、爪の内側へ潜り込もうとしていた。

潜る勢いと押す力がぶつかって、ガレナの体が横ざまに床へ転がる。

突き上げた木の折れ口が、大狼の胸の毛をかすめた。

「ふざけんな、まだ終わってねえ!」


ノアの右の踵が、大狼の前脚の肘に入った。

爪の向きが逸れる。

外套の肩が裂けた。

爪が石の床を掻いて、火花が散った。


大狼は、よろめかなかった。

体の重みを前へかけて、逸れた前脚を、倒れたガレナの腿の上に下ろした。

ガレナの体が、床に押しつけられる。

真上で、顎が開いた。


近い。

近すぎる。

拳も踵も、振り切れない。

後ろで、さっき捨てた二匹がノアの外套の裾に食いついて引いた。


腰の短剣を、逆手に抜いた。

年明けにブランから渡された、古い短剣。

大狼の肩に左手でしがみついて、体を寄せる。

開いた顎の付け根、耳の下へ、刃を突き込んだ。

「ガレナから離れて!」


「食わせるかよ!」

下でガレナが叫んで、折れた木剣の柄を、下りてくる顎の奥へ縦に突き立てた。

顎がつっかえて、一瞬止まる。


短剣は、厚い皮と首の肉に、半ばで止まっていた。

大狼が頭を振り上げた。

しがみついていた体が、宙に浮く。

ノアは、裾に食いついていた二匹ごと、通路の壁に叩きつけられた。


息が、詰まった。


背中の石が冷たい。

短剣は、まだ手の中にある。

二匹は振り飛ばされた拍子に裾を放して、目の前で身を低くしていた。


大狼の口の中で、木の柄が噛み砕かれた。

耳の下から血を流しながら、大狼はガレナの腿を踏んだまま、もう一度、右の前脚を高く振り上げる。

ガレナは両腕で顔をかばって、歯を食いしばっていた。


四歩。

間に、二匹。

ブランは大狼の向こうの壁際で、まだ身を起こしきれていない。

イルウェンの筒の先には、大狼とガレナが重なっている。


四歩じゃ、間に合わない。


壁を、背中で蹴った。

全身で、前へ跳ぶ。

二匹の頭の上を越えるつもりで。


背中の袋が、張った。


跳ぶ力に合わせて、何かが背中で大きく引かれる。

帆布の縫い目が、裂ける音がした。

外套の裂け目を押し広げて、白いものが左右へ開く。


母さんの翼だった。


羽ばたいたつもりは、なかった。

跳んだ力を、翼がそのまま掴んだ。

体が、二匹の頭の上をひと息で越える。

翼の縁から、白い光が粉のようにこぼれた。

継ぎ直した左の端も、跳ねない。


「あたしは、まだ……っ!」

床から跳ね起きたガレナの朱の拳が、ノアの短剣の刺さった耳の下を、下から殴り上げた。

大狼の頭が、のけぞる。

振り下ろしかけた前脚が、一拍遅れた。


ノアの目の前に、大狼の喉があった。

足は、床に着いていない。


……母さんの翼。

今は、これで届く。


宙で体をひねった。

のけぞった喉の下、ブランが浅く斬った傷の上へ、逆手の短剣を体の重みごと突き下ろす。


切っ先が、喉の毛に触れた。


翼の縁からこぼれていた白い光が、肩から腕へ流れ込んだ。

止めようと思う間も、なかった。

腕を伝って、刃へ。

刃の先から、白い光が噴き出した。


通路いっぱいに、白が弾けた。


大狼の体が、ガレナの上から吹き飛んだ。

通路の口から広間へ転がって、太い石の柱に背を打ちつけて、止まる。

焦げた毛の匂いが、遅れて鼻に来た。

広間の三匹が、ちりぢりに奥へ逃げていく。


ノアは、翼を開いたまま、通路の口に浮いていた。

短剣は、手の中にある。

熱くも、冷たくもない。


柱の下で、大狼が四肢を踏ん張った。

喉の下の傷が白く焼けて、開いている。

それでも、起き上がろうとしている。


足を、床に下ろした。

倒れたガレナの前に立つ。

短剣を前へ構えて、大狼から目を外さずに、片手を後ろへ伸ばした。

「ガレナ、立てる?」


伸ばした手を、ガレナが掴んだ。

一瞬、間があった。

払わずに、掴んだ。

引き起こすと、ガレナは腿を引きずってノアの横に並び、素手の拳に朱を灯し直した。

「立てる。……ノア、その羽、あとで全部話せよ」


ブランが、壁際から身を起こした。

ノアの翼に、ちらりと目をやった。

「ブラン、あれはまだ生きてる」

「見りゃ分かる。ノア、ガレナを下げろ。こいつは俺がやる」

「下がらねえ! あたしも——」

ガレナの声には答えずに、ブランは短剣を握り直して、大狼の横へ回り込んでいった。

イルウェンも、何も言わなかった。

ただ、筒を大狼へ向けた。

「起きなくて、……いいー」

筒が鳴った。

入り口のほうから、ラウロの声が飛んでくる。

「前は片付いた、外のは退いた! ……そっちはどうなってんだ!」


答える者はいなかった。

緑の光が、大狼の肩を焼いた。

ブランが首の後ろへ突き下ろした短剣は、大狼が跳ね起きた勢いで毛を滑った。

大狼はブランを振り払った。

焼けた喉から血の泡を噴きながら、広間を真っ直ぐ、こっちへ突っ込んでくる。


十歩が、六歩。

頭を低く、牙を前に。

横のガレナは素手で、腿を引きずっている。


「ガレナは後ろにいて」

左腕で、ガレナを自分の背の後ろへ押しやった。

一歩前へ出て、腰を落とす。


三歩。

突っ込んでくる低い頭に合わせて、床を蹴った。

翼が開く。

体が浮いて、牙の上を越える。

越えざまに、白く焼けた喉の傷へ、短剣を逆手で突き下ろした。


刃が、柄まで沈んだ。


大狼の突進が、ノアの足の下を抜けていった。

勢いのまま床を滑って、ガレナの二歩手前で止まる。

四肢が一度、大きく掻いた。

それきり、動かなかった。



広間が、静かになった。


ノアは、大狼の向こうに降りていた。

肩が上下する。

何度か、息を吸って、吐いた。

翼の縁の白い光が、少しずつ薄れていく。


大狼の喉から、短剣を引き抜いた。

ひらいたままの翼が、通路の壁に擦れる。

それにはかまわずに、大狼をまたいだ。


ガレナは、大狼の頭の二歩手前で、素手のまま立っていた。

「ガレナ、脚を見せて」


ガレナは、空の手を一度握りしめた。

目を逸らしたまま、壁に背を預けて座り込む。

踏まれた腿を、投げ出した。

赤く腫れている。

ノアは横にしゃがんで、そっと手を当てた。

骨は、折れていない。


ガレナの目は、ノアの顔を見ていなかった。

背中の翼を、見ていた。

「……折れてねえよ。痛くない」

少し、声が落ちた。

「……けど、あたし、今度こそ届くと思ってた」

それから、もう一度、翼を見た。

「……その羽、なんなんだよ」


足音が近づいて、少し離れて止まった。

ブランとイルウェン。

入り口から駆けてきたラウロも、ノアの背中を見て、足を止めた。


ノアは、自分の肩越しに翼を振り返った。

しまおうとは、思わなかった。

「母さんの」

少し、黙った。

「勝手に開いたんだ。刃から光が出たのも、ボクは初めて。……まだ、うまく言えない」

ガレナの腿から手を離して、その目を見た。

「ガレナは届いてたよ。殴ったのが効いてた」


ガレナの顔が、ぐいと横を向いた。

耳まで赤い。

その手が伸びてきて、ノアの裂けた外套の肩を乱暴に引っ張った。

爪の当たったところを、確かめている。

「……今のはなし! 慰めんな」

外套を放して、膝を抱えた。

「……言えねえなら、いい。けど、次はあたしが先だ。

お前に羽があろうがなかろうが、追い越してやるからな」


「うん、負けない」


ブランが、短剣の血を大狼の毛で拭って鞘に収めた。

灯りを小さくして、ガレナの前にしゃがむ。

折れた木剣の、ささくれた先を拾い上げた。

「木剣一本と腿の痣で、こいつの首だ。安い買い物だぜ」

ガレナの膝の上に、それを置いた。

「歩けるか」

「歩ける。肩はいらねえ」

「なら、自分で歩け」

ブランは立ち上がって、ノアのほうは見ずに言った。

「ノア、その外套は繕っとけ。街で目立つ」

それきり、大狼のほうへ歩いていった。

「頭の耳を切って持ってく。依頼の証だ。日が落ちる前にここを出るぞ」


ラウロが歩いてきた。

しばらく黙って、ノアの翼を見ていた。

それから、ノアの頭を軽く小突いた。

「……言えねえなら、聞かねえよ。羽があろうが光ろうが、お前はお前だろ」

「うん、ありがとう」

ラウロは小突いた手を引っこめて、そっぽを向いた。

「……隣に立つのは、羽があろうが俺だ」

「あたしだ!」

膝を抱えたまま、ガレナが噛みついた。

ラウロは鼻で笑って、何も返さなかった。


イルウェンは、近くの崩れた石に腰を下ろしていた。

筒を膝に置いて、ノアの背中をぼんやり眺めている。

「ノア、……似合うー」

一拍おいて、言葉が付け足された。

「袋は、縫わなきゃー」

そう言って、手の灯りを少し持ち上げた。


薄い緑が、初めて広間の奥まで届いた。


骨と毛の散らばった、奥の壁際。

大狼の寝床だったところだ。

その床の、石の割れ目に。


白いものが、真っ直ぐ立っていた。


剣だった。

片刃の、幅の広い直剣。

柄まで入れれば、ガレナの背丈ほどもある。

埃も錆もない。

周りの石はこんなに古いのに、その剣だけが、今朝打ったばかりのように灯りを返していた。


ガレナが、立ち上がっていた。

腿を引きずりながら、骨を蹴散らして奥へ歩いていく。

剣の前で止まった。

見上げて、柄へ手を伸ばす。


その肩を、後ろからブランがつかんだ。

「待て」

「なんだよ、あたしが見つけたんだぞ!」

「取り上げやしねえよ。先に俺に見せろ。古い穴で錆ひとつねえ剣ってのは、まともじゃねえ」

ブランはガレナを半歩下がらせて、灯りを近づけた。

床と、石の継ぎ目と、刃の根元を、屈んで見ていく。

剣には、触れない。

ガレナは、腕を組んでその背中を睨んでいた。

足の先が、石の床を小刻みに叩いている。


しばらくして、ブランは膝の埃を払って立ち上がった。

一歩横へ退く。

「仕掛けは無え。根元に何か彫ってあるが、町のもんでも聖堂のもんでもねえ。曰くはあるだろうよ」

剣の前が、空いた。

「……それでもいいなら、持て。持ってから考えろ。抜けなきゃそれまでだ。……足、踏ん張れよ。

腿は折るなよ」


ガレナが、両手で柄を握った。

柄は、ガレナの手には太い。

痛む腿をかばって、左足を前に踏ん張る。

脚と腰に、朱が細く灯った。

「……っ、ぐ……抜けろっ!」


剣は、思ったより素直に石から抜けた。

ガレナが、一歩たたらを踏む。

刃先を床につけて、重さを確かめるように、しばらく黙っていた。

それから、ゆっくり持ち上げた。

一度だけ、横に振る。

低い唸りが、広間に響いた。

「……重てえ。けど、振れる」

剣を、立てた。

「これ、あたしのだ」


立てた刃の根元を、イルウェンの灯りがちょうど照らしていた。

鍔のすぐ上に、細かな字が一列。

刻みの溝の中まで、白い。

「それ、……古い字ー」

イルウェンが、座ったまま首だけを伸ばした。

「ガレナ、動かないでー」

ガレナが、ぴたりと止まった。

半分の目が、字を左から順に追っていく。

灯りが下ろされた。

イルウェンは、また石に深く座り直した。

「『刻刻』ー」

それから、ひと呼吸遅れて付け足した。

「時を刻む、の字が二つ。……名前。ほかは、作った人の印だけー」


「こっ……」

ガレナの口が、止まった。

「こっく……」

もう一回。

止まった。

「……言いにくいんだよ!」

大剣を、両腕で抱え込むように肩へ担いだ。

皆の目から隠すみたいに、半身になる。

胸を張った。

「……コッコ。こいつはコッコだ。もう決めたからな、誰にも渡さねえぞ」


ラウロが、横から刃を眺めた。

鼻で、短く笑う。

「……コッコって。締まらねえ名前だな」

「締まらなくて悪いかよ!」

「取りゃしねえよ、そんなの。……ただ、振り回して俺の背中斬んなよ。並んで前に立つんだからな」

「お前の背中なんか斬らねえ。斬るのは前のやつだけだ」


ノアは、ガレナの肩の白い大剣を見上げた。

手は、伸ばさない。

目が、細くなった。

「コッコって、かっこいい」


ガレナが、ノアから顔を背けた。

「……かっこいいとか言うな!」

大剣を担ぎ直す。

腿を引きずって、先に入り口へ歩き出した。

ノアの横を通り過ぎたところで、足が一度だけ止まった。

背中を向けたまま、聞こえるか聞こえないかの声がした。

「……さっきの。……ありがとな」

すぐに、声が戻った。

「……行くぞ、日が落ちる!」


「うん」

ノアは、背中の翼を畳んだ。

裂けた袋は、もう入れものにならない。

外套の前を合わせて、その上から押さえる。

帰ったら、縫わなきゃ。


入り口の向こうで、空が赤くなっていた。

先を行く背中の上で、白い刃が、その色を映していた。

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