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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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柔よく剛をやるせない

宿の裏の空き地は、朝露でまだ湿っていた。

踏み固めた土の端に、樽がひとつ転がっている。

ブランがそこに腰かけて、欠伸を噛み殺していた。


ガレナが組に加わって、一月と少し。

その間、手合わせの話は何度も出ては流れていた。

今朝は、流れなかった。


「ラウロ、やんぞ。手ぇ抜くなよ!」

木剣が一本、空を飛んできた。

ラウロは片手で柄を掴む。

ガレナはもう一本を肩に担いでいた。

つり上がった目が、まっすぐこっちを向いている。


「朝飯の前にか」

「飯のあとだと、お前が言い訳するだろ」

「しねえよ」


構えた瞬間、ガレナの腕と脚に朱が灯った。

手のひらからあふれた色が、肘から先と膝から下に、薄く張りつく。

地を蹴る音がした。


真正面から、木剣が降ってくる。

ラウロは両手で受けた。

手首から肘まで、痺れが走る。

もう一度。

もう一度。

受けるたびに、足が半歩ずつ後ろへ削られた。


「ぐっ……重てえな、相変わらず!」

「まだ全然だぞ!」


握った指が、白くなっている。

正面から受ければ、押し負ける。

握るな、持て。

爺さんの言葉が、痺れた掌の底から浮いてきた。


次の振り下ろしに、指をわざと緩めた。

木剣の腹で斜めに受け、刃の上を滑らせる。

がつ、と音がして、ガレナの剣が外へ流れた。

体が前へ泳ぐ。


「そこだ!」

半歩、踏み込む。

脇腹へ、返しの一撃を――。


脚の朱が、跳ねるように強まった。

ガレナの体が、泳いだ勢いのまま横へ消える。

返しの内側に潜りこまれた。

柄で木剣を跳ね上げられ、踏み込んだ足に足首をすくわれる。


「させっかよ!」


背中が、地面を打った。

息が詰まる。

空が見えた。

薄い雲が、ゆっくり流れていく。


流しまでは、通った。

脚の灯りで詰められたら、届かない。

ラウロは舌打ちして、片腕で目を覆った。

「……ちっ。今のは流せたろ…もう一本だ」


「流せたって、転がってるじゃねえか」

頭の上から、声が降ってくる。

木剣を肩に担ぎ直したガレナが、見下ろしていた。

「……ほら、立てよ。もう一本、やってやる。次は流してみろよ」


その声が、ほんの少しだけ硬い。

ラウロは気づかなかったふりをして、跳ね起きた。

背の土を払い、転がった木剣を拾う。

「うるせえ。次は転がるのはお前だ」


樽の上で、ブランが小さく喉を鳴らした。



その時だった。

空き地の端の木陰から、ふらりと人影が出てきた。


胸まで届くひげに、後ろで結んだ髪。

粗末な服に薄い外套を引っかけ、靴はぼろぼろのブーツ。

どこから見てもみすぼらしい爺さんだが、腰の細身の剣の鞘だけが、ぎらりと光るほどに磨かれている。

刀の爺さんだった。


眠たげな目が、ラウロの手元に落ちる。

「握っとるのう。それで何を流すつもりじゃ」


「なんだよじいさん、横から口出してんじゃねえ」

ガレナが、木剣の先を老人へ向けた。

老人は切っ先を見もしない。

ひげを撫でた。

「口は出しとらん。そやつの手に言うただけじゃ。お主は動きが速いのう」


ガレナの眉が寄る。

ラウロと老人を、交互に見た。

「……お前、ラウロのこと知ってんのか。名乗れよ、じいさん。何者だ」


「名は無い。人は刀子と呼ぶ。そやつの師じゃ」


ラウロは、思わず老人の顔を見た。

弟子入りして五か月近く、剣を見てもらっている。

爺さんとしか呼んだことがなかった。

「……刀子、か」

握っていた指が、勝手にほどけた。

持ち直す。

「握るな、持て、だろ」

老人は何も言わず、目だけを細めた。


「お前がラウロの師匠か」

ガレナが、一歩前へ出た。

朱の灯りが、また腕と脚に灯る。

「だったら話が早え。あたしとやれよ、刀子。お前の剣、正面からぶち抜いてやる」


「おい、ガレナ」

「口出すな、ラウロ!」


刀子は、足元に転がっていた宿の備えの木剣を、拾い上げた。

切っ先を地に垂らす。

眠っているような、ゆるい構えだった。


ガレナが打ち込む。

半歩、ずれる。

木剣の腹が、軽く添えられる。

ガレナの力が、そのまま横へ逃げた。

二の太刀も、三の太刀も同じだった。

刀子の足は、ほとんど動かない。


「ラウロ、見ておけ。受けるでない、添えるんじゃ」


ラウロは、息を詰めて見ていた。

自分が必死で一本流した技が、そこでは息をするように繰り返されている。


「ふざけんな……」

ガレナが跳び退いた。

肩で息をしている。

「添えられる前に、ぶっ叩きゃいいんだろ!」


朱が、爆ぜた。

腕も脚も、さっきまでとは比べ物にならない濃さで燃えあがる。

地面をえぐって蹴った。

一息で間合いに入り、両手で振りかぶる。

真上から、渾身の一撃。


刀子の体が、半身だけ開いた。

木剣が、外へ流れる。

地面へ落ちきる前に、細い音がした。


ガレナの手の中で、木剣が軽くなった。

刀身が、根本から折れて、足元に転がる。

握っているのは、柄だけだった。


刀子は、自分の木剣を下ろす。

また、眠たげに立った。

「叩く前に、お主の剣が先に折れたのう。その灯り、何を切るために燃やしとるんじゃ」


「……は?」

朱の灯りが、ふっと消えた。

ガレナは口を開けたまま、柄と、地に転がった刀身を見比べている。

「斬った……木剣で、木剣を……?」


ラウロも、何も言えなかった。

断たれた断面は、倒木の端のようにばらばらだった。


刀子は木剣を宿の壁に立てかけると、ふらりと歩き出した。

ひげを風に揺らしながら、振り返りもせずに、通りの方へ消えていく。



昼の軒下は、日陰でも蒸していた。

ラウロは段に座りこんで、黙っていた。

膝の上で、手を開いて、閉じる。

朝の痺れが、まだ指の付け根に残っている。


少し離れた柱に、ガレナがもたれていた。

折れた木剣の柄を、指でいじっている。

いつもなら何か言ってくる口が、今日は閉じたままだった。


足音がして、ブランが来た。

酒の小瓶を片手に、ラウロの一段上に腰を下ろす。

梁を見たまま、一口あおった。

小瓶が、ラウロの脇に置かれる。


「……朝のは、悪くなかったぞ。一本は流して返したろ。

……と言いてえが、聞きたいのはそんな話じゃねえか」


ラウロは、ブランを見なかった。

「……ああ。一本流して、次で転がされた。爺さんは灯り全開のガレナを動かずに流して、木剣まで切った。

俺のは、まだ何も切れてねえよ」


「ラウロ」

ブランは、間を置いた。

梁を見たままだった。

「あの爺さんが、今のお前の歳で木剣を切れたと思うか。……ねえよ。俺の勘だがな。流して一本返した。

それでよくやってるほうだ。」

ゆっくり、区切って言った。

「切れるようになるまで、重くなるまで振れ。湿っぽい顔は、振りながらにしろ」


ラウロは、膝の上の手を握った。

握ってから、ほどいた。


柱の方で、柄を回す音が止まった。

「ラウロ、お前足りねえよ」

ガレナが、折れた柄を握りしめて、ラウロに突きつけた。

「流して、次で転がされてりゃ世話ねえだろ」


「お前な」

「……けど」

声が、一段低くなった。

「あたしは一本も流せねえし、あのじいさんにかすりもしなかった」

突きつけた柄が、少し下がる。

「オノリオのじいさんが言ってたんだ。朱は燃やす場所を間違えりゃ、ただの空回りだって。

あたし、全開にすりゃ勝てると思ってた」

少し黙ってから、付け足す。

「色は強い弱いじゃねえ、性質が違うだけだ、とも言ってた。……そんときは、意味わかんなかったけど」


ラウロは、目を丸くした。

ガレナの口から、そんな話が出るとは思っていなかった。

「……次は、凹ますだけじゃ済まさねえからな」

ガレナは柄を握り直す。

「お前も、あのじいさんも」


「言ってろ」

ラウロの口の端が、勝手に上がった。

「俺が先に、あの爺さんから一本とってやる」

「できるもんならな!」


ブランが、目だけをガレナへ向けた。

喉の奥で笑う。

「色に性質、ねえ。学者さまの言いそうなこった」

それから、小瓶の口を指で拭った。

「……と言いてえが、あんた、いい爺さんに教わってるじゃねえか。朱だろうが黒だろうが、色は燃やし方だ」

小瓶を拾い上げた。

「全開で勝てねえと分かったなら、今朝の負けは安い買い物だぜ。……凹ますのはいいが、宿の柱は折るなよ」


「折らねえよ!」

ガレナが、柱を拳で叩いた。

みし、と鳴った。

三人とも、そこで黙った。



夜の空き地には、月が出ていた。

宿の窓はもう暗い。

朝に三人が打ち合った地面が、まだ荒れたまま残っている。


ブランは、ひとりで裏口を出た。

辺りを見回す。

誰もいない。


足元に、こぶしより少し大きな石が転がっていた。

そこにしゃがみこむ。


昼に、自分で言った。

色は燃やし方だ、と。

口に出してから、ずっと耳に残っている。

俺は、この色を燃やしきったことが一度でもあったか。


「……人に言う前に、自分で試せってんだ」


右の手のひらを、上に向けた。

黒に近い灰色が、ゆっくり溜まっていく。

二十年以上、腐らせてきた色だった。

溜まったそれを石の上にかざして、量を少しずつ上げる。

上げて、上げて、止めた。


石が、みしりと鳴った。


触れていない。

手のひらは、石の上に浮いたままだった。

なのに石が、上から押さえつけられるように、地面へずぶりとめり込んでいく。

周りの土にひびが走る。

石は半ばまで埋まって、止まった。

押した手応えは、どこにも無かった。


ブランは動かなかった。

灯りをすっと消す。

埋まった石を、しばらく見つめた。

指を伸ばして、ひび割れた土に触れる。

冷たい。

それから、自分の手のひらを月にかざした。

何も無い。


「……なんだ、こりゃ」

低い声が、夜に溶けた。

「……強欲の色、ねえ」


手のひらを、もう一度握った。

石は、埋まったままだった。

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