切先だけを
ブルチャ野の村で膝をつかされた日から、七十九日が経つ。
年が明けて七日、ドラージョの東の市は、息が白くなるほど冷えていた。
ラウロは、人の流れの端を歩いていた。
隣のノアが、焼き栗の屋台を二度振り返る。
買ってやる気分ではなかった。
背には、剣。
ソラーナの裏山で切っ先から三割を断たれた剣は、今も短いままだ。
腰より下で、鞘がぶらぶら遊ぶ。
鞘ごと買い替えろと、何人に言われたか。
そのたびに、舌打ちで返してきた。
夜ごとに、宿の裏で振っている。
空を切る音しかしない。
灯りも翼も無い手で、伝承者の黒い左手の前に立った。
立っただけだった。
指一本、触れられなかった。
思い出すたびに、右の拳が固くなる。
露店が途切れたあたりで、足が止まった。
人の流れから外れた石積みの前に、老人が一人、立っている。
胸まで垂れた白いひげ。
薄い外套。
靴はボロボロのブーツで、つま先が割れていた。
みすぼらしいなりの腰に、細身の剣が一振り。
その鞘だけが、冬の日を受けて、ギラリと光っている。
「……ノア、ちょっと待ってろ」
袖を軽く引いて、離した。
老人の二歩手前まで歩いて、止まる。
柄に一度、触れた。
「爺さん。ソラーナで俺の剣を折ったろ。覚えてるか」
老人は、目を細めた。
ラウロの背の柄を一瞥して、ひげを撫でる。
「折ってはおらぬ。断ったんじゃ」
声は低く、乾いていた。
「……で、その長さで何を切ってきた」
舌打ちが出かけて、喉で止まる。
見栄を張っても、この目には通らない。
ラウロは老人の目を見た。
それから、頭を下げた。
腰から、深く。
「……何も切れてねえよ。毎晩あんたの振りを真似て、空を切ってただけだ」
石畳が、視界の下で冷たく光る。
「三月やって、まだ何も見えねえ。俺は剣しかねえんだ。教えてくれ。弟子にしてくれ」
足音が、背後で近づいた。
待ってろと言ったのに。
ノアが、斜め後ろに立つ気配がする。
「ラウロ、本気だよ。おじさん、聞いてあげて」
しばらく、風の音だけがあった。
ひげの老人は、下げられた頭を見下ろしている。
やがて、踵を返した。
「才は無い」
背中で言う。
「……それでも来るなら、ついて来い」
ブーツの底が、霜の残る石を擦って、市の外へ向かう。
ラウロは顔を上げた。
ノアと、目が合う。
ノアは何も言わず、老人の背中を顎でしゃくった。
二人で、あとを追った。
市を抜け、畑の畦を越えて、町外れの空き地に出た。
枯れ草が膝まで伸びて、風に鳴っている。
老人が足を止めた。
ノアは空き地の端、枯れ草のところで荷を背負い直した。
腕を組む。
「ボクは見てる。ラウロ、行って」
ラウロだけが、老人の前に出た。
老人は、腰の剣を抜かない。
腕をだらりと下げて、立っているだけだ。
眠っているのかと思うほど、どこにも力が入っていない。
「抜け。構えてみい」
短い剣を抜く。
切っ先を老人の胸の高さに据えた。
柄を握る指に、力が入る。
入れた分だけ、肩が上がった。
「肩が上がっておる」
老人は、目も動かさない。
「剣を握るな、持っておれ。落とさぬ程度にのう」
握るな、持て。
ブランにも言われた。
百回まっすぐ落とせるまで、と言われて、宿の裏で数えた夜がある。
あのとき締めていたのは、剣じゃなくて、自分の指だったのか。
息を吐いた。
肩が落ちる。
指の締めを、ひとつずつ緩めた。
柄が、掌の上に乗る。
短くなった剣が、急に、手の延長のように軽くなった。
「……こうか」
老人は答えない。
ひげが風に揺れただけだ。
ラウロは、切っ先を動かさずに言った。
「俺は灯らずだ。魔法も印もねえ。だから剣だけで、どこまでも届くところまで行く」
切っ先の先に、あの一閃がある。
断たれた三割が、どこかの山の雪の下にある。
「あんたのあの一閃まで、まず届きてえ」
掌の中の柄は、握らずにいても、落ちなかった。
老人が、初めて目を動かした。
ラウロの切っ先を見て、足元を見て、また顔を見る。
「届く、か」
ひげの下で、口が少しだけ動いた。
笑ったのかどうか、分からない。
「しばらくは、この街におる。暇なときに見せに来い」
「毎日来る」
「暇なときと言うた」
話は終わりだと言うように、老人は背を向けかけた。
そこへ、枯れ草を踏む音が近づく。
「ボクにも、教えて」
ノアだった。
腕は組んでいない。
背の樫の棒を片手で押さえて、老人の前に立っている。
老人は、ノアを上から下まで見た。
棒を見て、空の手を見て、薄い外套の肩を見る。
「お前に剣は必要ない」
「……やだ」
間を置かずに、ノアが言った。
「ボクも、強くなりたい。ラウロだけ、置いてかれるの、やだ」
「要らぬ者には、教えられぬ」
それだけ言って、老人は枯れ草の中を歩き出した。
細身の剣の鞘が、一度だけ光って、畦の向こうへ消える。
ノアは、しばらく動かなかった。
握っていた棒の先が、地面に落ちる。
帰りの畦道で、ノアは一言も口をきかなかった。
肩が落ちて、棒の先が草を引きずる。
翼の袋を背負っているはずなのに、いつもより小さく見えた。
ラウロは、足が軽かった。
自分でも、可笑しいくらいに。
握るな、持て。
たったそれだけを言われて、柄が羽根のように軽くなった。
三月ぶりに、空の向こうに、道らしいものが見えている。
舌打ちが、出ない。
市の端まで戻ると、焼き栗の屋台がまだ出ていた。
行きにノアが二度振り返った屋台だ。
銅貨を二枚出して、紙の袋を受け取る。
黙って、ノアの胸に押しつけた。
「……いいの」
「いいから食え。熱いうちだ」
ノアは袋から一粒つまんで、皮を剥いた。
かじって、しばらく噛んでいる。
「おいしい」
それからまた、棒の先を見た。
「……ラウロ、いいなあ」
「何がだよ」
「見てもらえて」
ラウロは、口を開けて、閉じた。
気の利いた言葉が、出てこない。
代わりに、ノアの袋から栗を一粒取って、自分の口に放った。
熱くて、舌を火傷した。
宿の食堂は、夕飯前でまだ人がまばらだった。
ブランが、窓際の卓で杯を傾けている。
イルウェンは隣の椅子に、猫のように丸まっていた。
壁には、あの古い弓と筒が掛けてある。
「遅かったな」
ブランは窓の外を見たまま言った。
「ノアを連れて、どこ行ってた」
「爺さんに会った。ソラーナの」
ラウロは椅子を引いて、座るより先に言った。
「弟子にしてもらった」
ブランの杯が、止まる。
イルウェンの目が、半分だけ開いた。
「……へえー」
「しばらくこの街にいるそうだ。暇なときに見せに来い、だとよ。握るな、持て、って言われた。
……ブランが言ったのと、同じだった」
「同じ話を、違う爺さんが言うと効くんだな」
ブランは杯を置いて、ようやくラウロを見た。
皮肉の口ぶりなのに、目が少し笑っている。
「才は無いって言われたろ」
「言われた」
「だったら、見込みはある。才のある奴にゃ、爺さんはそう言わねえ」
「根拠は」
「ねえ。俺の勘だ」
ノアは、ラウロの隣に立ったまま、口を開かなかった。
ブランがちらりと見る。
「で、お前は」
「……ボクも、頼んだ」
ノアは、床を見たまま言った。
「お前に剣は必要ない、って。教えてもらえなかった」
「……ノアはー、剣、いらないのー」
イルウェンが、間延びして言った。
「……棒、あるものー」
「ボクも、そう思う。……けど」
ノアの声が、少しだけ低くなる。
「ベリアトに、棒、届かなかった」
ブランは、しばらく黙っていた。
窓の梁を見る。
大事な話をするときの、癖だった。
「ノア。フランカの棒は、いい棒だ。いい樫で、よく手に馴染んでる」
ゆっくり、区切って言う。
「だがな、あの黒い左手に、樫は通らねえ。
……爺さんが要らねえって言ったのは、教える気がねえってだけだ。
お前が剣を持っちゃいけねえって話じゃねえ」
「……持っていいの」
「いいも悪いもあるか。持て。持ってから考えろ」
ブランは椅子の脇の荷を引き寄せて、底から布の包みを出した。
解くと、革の鞘の短い剣が出てくる。
飾りも無い。
鞘の口の革が、擦り切れていた。
「ラーモで、古道具のおまけに付いてきた。誰にも使わせずに、ずっと持ってた」
卓の上を、すべらせる。
「小指と薬指で締めて握る。……教えたろ、昔」
「うん。覚えてる」
ノアは、剣を両手で受け取った。
抜く。
刃は短く、薄く、少し曇っていた。
灯りに、白く光る。
「……軽い」
「お前の棒より、軽い。だから、重くなるまで振れ」
ノアは、剣を鞘に戻した。
背の棒を肩から外して、しばらく眺める。
フランカの手の跡が、握りに残っているような気がした。
捨てるつもりは、なかった。
荷の横に括りつけて、紐を固く結ぶ。
空いた手で、腰に剣を差した。
「……似合うー」
イルウェンが言った。
「うるさい」
ノアが、小さく笑った。
行きの市から、初めて見る笑いだった。
夕飯の皿が運ばれてくる前に、ラウロはノアを誘って、二人で裏庭に出た。
暗くなる空の下で、ラウロは肩を落として構えた。
ノアは、隣で見よう見まねの構えを取る。
「握るな。持て」
「持つ」
「落とさない程度だ」
「……落とした」
「拾え」
薄い月が出るまで、鞘走りの音と、笑い声が、宿の裏に続いた。




