逃げるしかなくて
松明の輪のふちに立ったベリアトは、たしかに一人だった。
左手には布が巻いてある。
その後ろの闇に、少し遅れて火が増えていった。
一つ、五つ、十。
二十ほどの松明が輪の外で止まり、村人たちは声も出さずに並ぶ。
「よう、坂の娘」
ベリアトは四人を順に見て、笑みを薄めた。
「蔵の番とはな」
ノアは扉の前から動かなかった。
右手のひらの熱が、まだ引いていない。
「これから館へ行く。領主を討つ」
ベリアトは声を落として、身を乗り出す。
「こいつらの麦を積んで、こいつらを飢えさせた男だ。
あいつがあの館に座ってるのは、あの家に生まれたからだ。
こいつらがこの痩せた野で飢えてるのも、ここに生まれたからだ。地上は血筋で、天界は規格で、人を分ける」
松明の火が、琥珀の目の中で揺れた。
「俺はそれが気に食わない。だから選べる力を配ってる。こいつらは自分で選んで、自分で来た。
……あんたもその翼で、生まれに振り回されてきたんだろう」
背中の痣が、ふっと冷えた。
ノアは奥歯を噛む。
ベリアトが右手を差し出した。
布を巻いた左手ではない。
大きくて、荒れた手のひらだった。
「いっしょに来い、ノア」
ノアはその手を見て、それから男の目を見た。
一月前、酒場で答えられなかったことが、喉の奥でつかえる。
生まれで分けられるのは嫌だ。
けれど、この男が配った力で誰かが死ぬのは、もっと嫌だった。
「やだ」
手は取らない。
「……キミの言うこと、半分は分かる。でも、行かない。ボクは自分で選んで、ここに立ってる」
ベリアトは右手をゆっくり引いた。
少しだけ笑う。
「そうか。あんたの口から聞けたなら、それでいい。奇跡があるかどうかは、あんたが決めろ」
松明の列へ振り返り、顎で館の方角を示して右手を上げた。
「行くぞ。館だ」
列がざわりと動く。
火の流れが、蔵を離れていく。
蔵を離れたら、麦が危ない。
館で人が死ぬのも、止めたい。
ノアはラウロたちを振り返った。
「ラウロ、蔵お願い」
目だけで合図して、松明の列の脇を駆ける。
道のまんなかに回り込んで、両腕を広げた。
「待って。討つのは、だめ。ボクも館に行く。キミたちと、じゃない」
ベリアトの足が止まる。
笑みが消えていた。
村人たちに右手で下がれと示すと、松明が引いて、二人を囲む輪になる。
「そこに立つ理由を言え」
ベリアトは左手の布の結び目を歯でくわえた。
「言えたなら、止まってくれる?」
布がほどけて落ちる。
出てきた左手は黒かった。
指の先が、針のように尖っている。
背の黒いものは、畳まれたままだった。
ブランが輪の内へ入り、ノアの半歩後ろ、左に立った。
指先に黒い灯りを溜めている。
「ノア…。…ベリアトさんよ、こいつの話を聞くまでは手を出さねえでくれ。聞きたくなきゃ、それでいい」
輪の外の石垣では、イルウェンが膝に筒を出していた。
「……ノアー。……あの手、変ー。……近いの、だめー」
筒口は、黒い左手に向いている。
蔵の戸の前から、ラウロの声が飛んだ。
「ノア、無茶すんなよ。危なくなったら呼べ」
ノアは手のひらに白い灯りをともした。
「生まれで決まるの、ボクも嫌い。でも、殺したら、次に誰か生まれで泣く」
腰を落とす。
「だから、どかない…!」
地を蹴った。
一歩で懐に入り、針の左手の内側を払いにいく。
手首をつかまれた。
右手一つで流されて、体が入れ替わる。
ブランの黒い灯りが、さっきまでノアのいた空気を焼いて通り過ぎた。
イルウェンの弓が鳴る。
ベリアトは首を傾けただけで、矢は耳の横を抜けていった。
蔵の戸から、剣を抜いたラウロが駆けこんでくる。
踏みこみの剣を、針の左手の甲が外へ弾いた。
膝が腹に入り、ラウロは地面を転がる。
ベリアトはブランの懐へ一歩入った。
右の掌底が胸を打つ。
鈍い音がして、ブランの体が輪の外まで飛んだ。
振り向きざま、立て直したノアの足を払われる。
肩を押さえられて、土に伏せられた。
首の横に、針の先が突き立つ。
冷たい土の匂いがした。
「……いい理由だ。だが、足りない」
頬を土につけたまま、ノアは肩を押さえる手の重さを確かめた。
ラウロは呻いている。
ブランは立ち上がれない。
イルウェンの弓の音も止んだ。
このままじゃ、誰も止められない。
背中の痣に、力を込めた。
「……足りないなら、足す」
外套が裂けた。
白い翼が開き、その勢いでベリアトの手が跳ね上がる。
ノアは身を起こした。
輪の村人たちがどよめいて、後ずさる。
ベリアトは跳ね上げられた手を引き、半歩退いた。
翼の一打ちを、背に畳んだ黒いものが受け流す。
ノアが踏みこんだ瞬間、男は身を沈めて懐に入った。
右の拳が鳩尾に沈む。
息が抜けた。
崩れた首のあたりを、針の左手の腹が打った。
視界が白くなる。
倒れる体を、太い腕が受け止めたような気がした。
地面に、静かに寝かされる。
「……足しても、まだだ。起きたら、また聞く」
遠くなる声が、そう言った。
「館へ行くぞ」
最後に見えたのは、松明の列だった。
火が一つずつ、館の方へ流れていく。
湯気の匂いで、目が開いた。
天井の梁が低い。
体の下は、固い寝台だった。
脇腹と肩に、布が当てられている。
首を動かすと、隣の寝台にラウロ、その向こうにブランとイルウェンが見えた。
みんな、いる。
戸が開いて、背の低い男が入ってきた。
腕が太く、前掛けは粉と油で斑になっている。
丸い顔に無精ひげが伸びて、目尻の皺が深い。
湯の桶と粥の椀を盆に載せていた。
「……起きなすったか」
男は卓に盆を置き、椀を一つずつ寝台の手の届くところへ押しやった。
「湯と粥でさ。熱いうちにどうぞ。あっしはこの宿の主のガスパロですわ」
ノアは椀を受け取った。
湯気が顔に当たる。
「夜中に、伝承者さまが村の者に担がせて、お客さんらを運んできたんでさ。『丁重に扱え』と言い置いてね。
傷には布を当てときましたが、痛むとこがあったら言ってくだせえ」
ガスパロは盆の縁を指でなぞった。
「……夜のうちに、村の者らが館へ押しかけましてね。領主は死にました。
蔵も開けられて、麦も肉も村へ戻ってきてますわ。
あっしは戸を閉めて朝を待ってたんで、それ以上のことは知りませんがね」
窓の外から、笑い声が聞こえてきた。
人の声が重なって、遠くで何かを叩く音もする。
祭りのような騒ぎだった。
止められなかった。
なのに、外は笑っている。
ノアは椀を持ったまま、口をつけずに窓のほうへ顔を向けた。
少しして、椀を膝に置く。
ガスパロを見た。
「……ありがとう。粥、もらう」
ラウロが身を起こした。
脇腹を押さえて、舌打ちが漏れる。
隣の寝台のノアの顔色を、先に確かめた。
「……領主が死んで、蔵は開いた、か。俺たち、何しに来たんだよ」
椀には、手をつけない。
「……すまねえ、親父さん。いただく」
ブランは身を起こしながら、椀を受け取った。
ノアの寝台に目をやり、息をしているのを確かめてから、粥を口に入れる。
イルウェンは寝たまま腕だけ伸ばして、椀を引き寄せた。
横向きのまま、すする。
「……ありがとー。……あったかいー」
粥は熱かった。
ノアは匙を取って、一口ずつ飲みこんだ。
味は、よく分からなかった。
昼になって、四人は荷をまとめて宿を出た。
広場から、煙の匂いがした。
焚き火の上で、塩漬けの肉が脂を落としている。
取り返した麦で焼いた平たいパンが、籠に山になっていた。
子どもが肉の切れ端を握って、足の間を駆け回る。
昨日、板戸の内へ引っこんだ女が、杯を回して笑っていた。
井戸の縁で、背を向けた女だった。
薪を割っていた老人は、杯を手にして座りこみ、ノアと目が合うと、先に目をそらした。
ノアは足を止めた。
みんな、笑っている。
ボクが守ろうとした蔵の麦で。
手のひらを、握って開く。
気づいた村人が何人か、気まずそうにうつむいた。
老婆が一人、籠からパンを取って近づいてくる。
「食べていきな」
ノアは両手で受け取った。
ひと口かじる。
小麦の甘い匂いがした。
「……ありがとう。おいしい」
おいしいのが、悔しかった。
ブランが老婆に軽く頭を下げた。
「ありがとうございます、婆さん」
パンを一切れ受け取って、懐にしまう。
広場を見回してから、ノアの背を軽く叩いた。
「札は終いだ。俺らの負けで、村の勝ち。それでいいってんだ」
顎を、村の出口へしゃくる。
「行くぞ。湿っぽい顔は、歩きながらにしろ」
ノアはパンの残りを口に押しこんだ。
飲みこんで、一度だけ館の方を振り返る。
「……うん。次は、負けない」
ブランの横に並んで、歩き出した。
後ろから、笑い声がいつまでも追ってきた。
一晩野営して、翌日の昼前になった。
白い石灰岩の台地を抜ける街道を、西へ歩く。
風が乾いていて、麦藁の匂いはもうしない。
向こうの土煙の中から、槍の穂先が見えた。
旗がある。
同盟の旗だった。
五十人ほどの兵が、荷車を引いて隊列を組み、こちらへ急いでくる。
村のほうへ。
ノアは足を止めた。
もしかして、と思う。
あの村に行く。
笑っていた人たちが、今度は──。
「……ブラン。あれ、村に行く」
「脇に寄れ」
ブランが三人を手で制した。
「黙って通すんだ。何か聞かれたら、俺が話す。あんたらは顔に出すなってんだ、特にノア」
「……脇へ寄れ。目ぇ合わせんな」
ラウロがノアの肩を軽く押して、道を空けさせる。
「……よけるー。……見ない、言わないー」
イルウェンが袖を引いた。
四人は街道の端の枯れた草むらに寄って、背を丸めた。
外套の前を寄せて、翼の痕を隠す。
槍の列が目の前を過ぎていく。
鎧の擦れる音。
荷車の軋み。
誰も、こちらを見なかった。
何もできない。
ノアは歯を食いしばって、列が通り過ぎるのを待った。
旗の最後尾が過ぎてから、ようやく振り返る。
土煙が、村の方角へ細く伸びていく。
その先で何が起きるのか、ここからは見えなかった。




