迷いとは、動かないこと
領主の蔵は、村のはずれの石灰岩の台地に背を向けて建っていた。
扉の両脇に松明が二本。
火のはぜる音のほかは、犬の声ひとつしない。
昼に、扉の隙間から中をのぞいた。
麦袋が梁の下まで積まれ、燻した肉の束が何本も吊られている。
ドラージョの市で見たどの倉より、満ちていた。
それを、この野で山羊の骨まで取り立てて、領主はここに溜めこんだ。
今夜は、取り返しに来る者たちから、これを守る。
ノアは扉の前に立っていた。
夜気が頬に冷たい。
ラウロは扉の脇で、短くなった剣の柄を握ったり離したりしている。
ブランは壁にもたれて腕を組み、イルウェンは蔵の前の空き樽に腰かけて、膝に筒を寝かせていた。
半分しか開いていない目は、闇のほうを向いたまま動かない。
「……来たー」
イルウェンが言うより先に、ノアにも足音が聞こえた。
土を踏む音が、一つではない。
十、十二、もっと。
松明の輪のふちに、人影がにじみ出る。
鍬、鎌、斧の柄を割ったもの。
どの顔も黙っていた。
額や手の甲に、灯りを帯びた赤い印が浮いている。
花びらの形をした印だった。
先頭の男が鎌を振り上げて走り出した。
ノアは扉の前へ跳び出した。
振り下ろされる鎌の柄を左腕で受ける。
骨に響いたが、重くはない。
右手で男の手首をつかんで捻ると、鎌が地面に落ちて乾いた音を立てた。
「止まって」
ラウロが横から割りこみ、二番手の鍬を剣の腹で受けて押し返した。
「止まれ! 蔵には入れねえ!」
ブランの声が背中から飛ぶ。
「ラウロ、前。殺すなよ。イルウェン、後ろの数を見ろ。ノア、扉から離れんな」
先頭の男の足もとに、黒い灯りが落ちた。
男の膝が、見えない手に押されたように折れる。
その後ろの地面で、土がはじけた。
イルウェンの筒の弾が、村人たちの足もとを掘り返していた。
「……止まってー」
それでも、村人は退かなかった。
印が赤く強まる。
押し寄せてくる。
ノアは扉を背に、鍬の柄を受け、足を払い、鎌を握る手首を捻って落とした。
ラウロの剣は、一度も刃のほうを向かない。
倒れた者の得物は、ブランが片端から蹴り飛ばした。
何度目かの波が引いたとき、村人たちは松明の輪の外で半円を作っていた。
肩で息をしている。
鎌を失った男は、膝をついたまま歯を食いしばっていた。
こちらも動かない。
どちらも動けなかった。
痩せている、とノアは思った。
頬の骨が、松明の火で浮いて見える。
手の甲の印だけが、やけに元気に光っていた。
ノアは手のひらを下ろして、一歩だけ前に出た。
「なんで、蔵?」
半円の真ん中から、年かさの女が鍬を握り直した。
「あんたらに話すことはない。その中のは、もとはあたしらの麦だ。伝承者さまが、冬を越させてくださる」
「伝承者さまが」
「伝承者さまが」
周りの口が、同じ言葉をなぞっていく。
印の灯りが、いっせいに強まった。
踏みこんでくる気配に、ノアは足を開いた。
「来ないで」
右の手のひらに白い灯りをともして、前へ突き出す。
闇に慣れた目を刺されて、先頭の者が顔をそむけた。
その肩へ飛びこんできた鍬の柄を、爪先で蹴り払う。
「下がれ! 腹ぁ減ってんのは分かる、けど斬らせんな!」
ラウロが叫んで、一番手の鍬を叩き落とした。
「伏せとけ」
ブランが前に出て、黒い灯りを広く撒いた。
踏み込んだ列の膝がまとめて落ちる。
「ラウロ、倒れた奴の得物だけ蹴り飛ばせ」
「……そこから先、だめー」
イルウェンの筒から緑の光が一筋走り、村人たちの足もとに線を引いた。
線を越えようとした男が、見えない壁に額をぶつけてのけぞる。
斬らずに止めている。
それが、じわじわと苦しくなってきた。
村人は倒れても、また立つ。
赤い印が、立たせている。
そのとき、闇の奥から声がした。
「下がれ」
低い声だった。
大きくはないのに、鍬を振る音を割って届いた。
「今は下がれ。……あんたらの相手じゃない」
聞き覚えがある。
ノアは白い灯りを手に残したまま、顔を上げた。
松明の輪のふちに、男が一歩出てきた。
長身で、肩と胸が厚い。
黒い短髪の下で、赤みの強い琥珀の目が火を映している。
右手を上げていた。
背に、黒いものが畳まれて沿っているのが見えた。
村人たちは迷わなかった。
鍬を下ろし、鎌を下ろし、足を引いて、男の後ろへ退いていく。
さっきまで押し寄せていた波が、一声で引いた。
一月前、波止場の酒場で、この男に聞かれた。
なぜ力が欲しい、と。
答えられなかった。
今も、答えはない。
ノアは灯りを下ろさずに、背の黒いものを見た。
「ベリアト。キミが、伝承者?」
ラウロが半歩ずれて、ノアと男のあいだに立った。
剣は構えたままだ。
「ベリアト……ノアの言ってた、旅の人か。こいつらの頭も、あんたなのか」
ブランも前に出る。
手のひらに黒い灯りを残したままだった。
「選鉱場で会ったな。……あんたが、伝承者さまの頭ってわけか。背中のそれ、なんだ」
「……あなたがー。ノアの、旅の人ー」
イルウェンの筒は、男の背をまっすぐ向いていた。
男は、ノアに向けて小さく笑った。
ラウロを見て、ブランを見る。
「選鉱場の兄さんか。二度目だな」
ブランの目を、一度だけ見返した。
背の黒いものには、何も答えなかった。
肩をすくめる。
「ああ。酒場で言ったとおりだ、坂の娘。頭は俺だよ、坊主。……背中のは、ただの外套だと思っとけ」
後ろの村人の肩を、右手で順に叩いていく。
「今夜は引く。腹を空かせた連中に、これ以上血を流させる気はない。答えが出たら、また聞く」
踵を返した背を、村人たちが追っていった。
松明の輪の外で、足音が闇に溶ける。
ノアは、白い灯りを握りつぶすように拳を閉じた。
手のひらが、まだ熱かった。
夜が明けても、村は戸を開けなかった。
昼前、ノアは水をもらいに、蔵から一番近い家の井戸へ行った。
釣瓶を持った女が、ノアを見て手を止める。
何も言わずに桶を抱え、背を向けて戸の内へ入った。
閉まる音がして、井戸の縁の縄だけが揺れている。
水は冷たかった。
水筒に汲みながら、背中に目が刺さるのが分かった。
振り向くと、板戸の隙間から子どもが覗いている。
母親らしい手が伸びて、その子を暗がりへ引っ張りこんだ。
帰る道の脇で、老人が薪を割っていた。
ノアが通ると斧が止まる。
目をそらさない。
そらさないまま、老人はもう一度、斧を振り下ろした。
薪が二つに割れる音が、いつまでも耳に残る。
蔵の前へ戻ると、ラウロが剣の刃こぼれを砥石でならしていた。
「どうだった」
「誰も、話してくれない」
ノアは水筒をブランに渡した。
「みんな、ボクを見てた」
「見るだろうよ」
ブランは水を一口飲んで、蔵の扉を顎でしゃくった。
「あの中のもんを見張ってる連中だ。村の側から見りゃ、領主の犬だ」
樽の上のイルウェンは、膝に頬を載せて目を閉じていた。
薄く開いた口から、声が漏れる。
「……おなか、すいたー」
ノアは荷から干した果物を出して、イルウェンの手に握らせた。
自分の分にも手を伸ばして、やめた。
扉の向こうには、一冬ぶんの麦がある。
ここで干した果物をかじるのが、急に、恥ずかしいことのように思えた。
「なあ、ラウロ」
「ん」
「ちょっとだけ、開けたら、だめ?」
ラウロの手が、砥石の上で止まった。
「だめだ」
すぐに言って、少し置いて、続ける。
「領主が溜めこんだもんでも、受けたのは俺たちだ。……悪い」
舌打ちが、小さく混じった。
自分に向けたようだった。
ブランが、梁を見上げるように顔を上げた。
「どっちが正しいかは、ここで決める話じゃねえ。
……と言いてえが、決めねえで立ってんのも、決めたうちだ。嫌な顔して立ってろ。それしかできねえよ」
午後が過ぎていく。
日が傾くにつれて、台地の石灰岩が白く、それから赤く染まっていった。
村のほうから、煮炊きの煙は上がらない。
ノアは扉の脇に座って、右の手のひらを見ていた。
酒場で聞かれたこと。
牢へ連れていかれた荷運びの、背中。
テオの腕に広がったこぶ。
老人の目。
どれにも、答えは付いてこない。
手のひらを握る。
開く。
また握る。
夕陽が地面に長い影を引く頃、ノアは立ち上がった。
「ベリアトは、今夜も来る」
三人が顔を上げた。
「村の人は、斬らない。でも、ベリアトは止める」
声は震えなかった。
「戦う。……殺さないで、止める」
「あの背中のやつは、印の連中とは違うぞ」
ブランが低く言った。
「ひと目見りゃ分かる。手に負えるかどうか、俺にも読めねえ」
「それでも、やる」
ラウロが砥石を懐にしまった。
「前は俺が出る。段取りは変えねえ。……お前は、無茶だけ控えろ」
「……わたしもー。起きてるー」
イルウェンが筒を膝に載せ直した。
日が落ちた。
ラウロが二本の松明に火を移す。
夜気が、また頬に冷たくなる。
四人は、扉の前に並んで待った。
風は止み、麦藁の匂いだけが残っている。
遠くで、戸の閉まる音がした。
足音が聞こえた。
今夜は、一つだった。
松明の輪のふちに出てきたのは、ベリアトだった。
一人きりで、後ろには誰も続いていない。
左手に、布が巻かれていた。




