力が欲しい
イルウェンが弓を手に入れてから、二十日あまりが経つ。
九月の十二日、ドラージョの東門の市は、昼を回っても日差しが白かった。
門の外から隊商の荷車が続けて入ってきて、車輪の土が乾いた音を立てる。
荷台には東の布と、塩と、麻袋に詰めた豆。
門の内側に、聖堂の灯改めの詰め所が建っている。
白く塗った小さな石の建物で、戸口の上に灯帳の印が彫ってあった。
その向かいの並びには、出所の知れない金物を広げた屋台が、詰め所の目を気にもせずに続いている。
ノアは外套の前を合わせて、荷車の列の脇に立っていた。
ラウロが隊商の頭と、明後日の護衛の段取りを詰めている。
ブランは荷車の車軸を一本ずつ覗いて回り、イルウェンは弓と筒を背負ったまま、
日陰の樽に腰を下ろしていた。
「……休憩ー」
「まだ何もしてねえだろ」
ラウロが振り返らずに言った。
段取りが済むと、隊商の男の一人がノアたちに顎をしゃくった。
日に焼けた細い男で、首に巻いた布が汗で黒くなっている。
「あんたら、坂の組だろ。ブルチャ野まで三度通して、荷を一つも落とさなかったって聞いた」
「エンジェルウィングだ。坂の組じゃねえ」
ラウロが言い直すと、男は笑って手を振った。
「どっちでもいいさ。次も頼む。……ただな、ブルチャ野の開拓村は今年、麦が駄目だった。
夏に雨が来なくてよ。冬は越せねえって、村の連中が言ってる。荷を狙うのも出るだろうな」
ブランが車軸から顔を上げた。
「狙うのは、腹の減った百姓か」
「百姓だよ。刃物の持ち方も知らねえ」
男は肩をすくめた。
そのとき、詰め所の戸が開いた。
白い衣の灯改めが二人、荷運びの列のほうへ歩いてくる。
一人が帳面を抱え、もう一人が列の端から、荷運びの袖を順にめくっていった。
腕を見て、うなずいて、次へ。
誰も文句を言わない。
めくられる前から、自分で袖をまくって待っている者もいた。
五人目の若い荷運びのところで、灯改めの手が止まった。
袖をめくられる前に、荷運びが一歩下がったのだ。
灯改めは何も言わず、荷運びの襟に手をかけて引いた。
胸元がはだけた。
鎖骨の下に、赤い跡があった。
花の形をしている。
「印持ちだ」
灯改めの声は、帳面を読むのと同じ高さだった。
もう一人が荷運びの腕を取る。
荷運びは抵抗しなかった。
引かれていきながら、一度だけ振り返った。
目が、ちょうどノアのところで止まった。
ノアは一歩前に出た。
外套の裾が膝に絡む。
二歩目は、出なかった。
飛ぶな、灯すな。
ブランの決まりが、足の裏に貼りついている。
右手を脇に挟んだ。
荷運びの目を、見返す。
そらさない。
詰め所の戸が閉まるまで、ノアは荷運びを見ていた。
ラーモの宿場の物置で、鎖につながれていた男の胸にも、同じ花があった。
あのときも、手拭いを一枚挟んだだけだった。
「……今の、どこへ連れてくの?」
隊商の男に向き直って聞いた。
男は首の布で汗を拭いた。
「聖堂の下の牢さ。聖都へ送られるって話だが、出てきた奴は見たことねえ」
横で、ブランがノアの外套の肩を指で一度つまんだ。
それだけで、手を離した。
ラウロは何も言わずに、帳面を懐にしまった。
イルウェンは樽に座ったまま、閉まった戸のほうを見ていた。
半分の目が、いつもより少しだけ開いている。
午後は、荷車に積む縄と水の数を数えて過ぎた。
日が落ちてから、ノアは一人で宿を出た。
魚市場の裏の通りを抜けて、波止場の手前の酒場に入る。
煤けた梁の低い店で、魚の油と酒の匂いがこもっていた。
人足と船乗りで卓が埋まっている。
ノアは外套の前を合わせたまま、戸口で中を見回した。
隅の卓に、知っている肩幅があった。
長身で、胸が厚い。
黒く短い髪。
煤けた浅黒い肌に、灯皿の火が赤く映っている。
左手は、いつものように布で巻いて、卓の下に下ろしていた。
ベリアトは杯を置いた。
右手を上げて笑い、向かいの椅子を足で押し出す。
椅子の脚が床板を擦って、ノアの膝の前で止まった。
「よう、坂の娘。一人か。珍しいな、座れよ。……東門の話、聞いたか」
ノアは椅子に座った。
右手は卓の下に置いたままにする。
「見てた。荷運びの胸に、花の跡。聖堂の下に連れてかれた。……あれ、キミのとこの?」
ベリアトの笑みが、少し薄くなった。
隣の卓で、二人連れの客が小声で話している。
片方が袖を手首まで下ろして、指で押さえていた。
「伝承者さまが、来てるらしい」
「この町にか」
「東門のあいつも、伝承者さまに……」
ベリアトはその二人をちらりと見た。
それから、卓の上に身を乗り出して声を落とした。
「ああ。花の跡は、俺らが配った奇跡の跡だ。あいつに植えたのが俺か部下かは知らねえが、うちのだよ」
杯の縁を、右の指でなぞる。
「ソラーナで言ったろ、運んで渡すだけだって。あれは嘘じゃない。
ただ、運んでるのは、伝承者って呼ばれてる一団で、俺はその頭だ。
……あそこの二人が言ってる伝承者さまってのは、俺のことさ」
ノアは黙って、ベリアトの顔を見た。
灯皿の火が揺れて、赤い琥珀色の目に映った。
ソラーナの選鉱場で笑い合っていた坑夫たち。
首筋に浮いた花の跡。
ラーモの物置の、石みたいに灰色になった腕。
今日の荷運びの、振り返った目。
卓の下で、右手を握った。
ゆっくり卓の上に出して、開く。
灯さない。
何も無い手のひらだった。
「……そう。頭なんだ。じゃあ、聞く。あの荷運び、どうなる?」
手のひらを、卓に置いたままにする。
「それと。ボクも、力が欲しい」
ベリアトの笑いが消えた。
杯の縁をもう一度なぞって、ノアの開いた手を見る。
それから目を上げた。
「荷運びは……聖堂の下から出てきた奴は、俺も知らねえ。手を回せるか探る。約束はしない。
できるかどうか分からねえからな」
指が、杯から離れた。
「で、あんただ。力が欲しい、か。……なら聞く。なぜ力が欲しい。あんたの口から言え」
粒を渡す前に、この人は必ずそれを聞く。
ソラーナの坑夫が、そう話していた。
ノアは、ベリアトの目を見たまま、開いた手を握った。
「人を、助けられるようになるし。……見てるだけは、やだ。
ラーモの人も、今日の人も、手、伸ばしたのに届かなかった。次は、届かせたい」
ベリアトは椅子の背にもたれた。
右手で顎をかきながら、ノアの拳を見る。
「届かせたい、か。いい顔だ。けどな、何に届かせる。病人か? 敵からか?」
顎から手を下ろした。
「病なら、医者を目指せばいい。敵なら、足と腕を鍛えりゃいい。
あんたの体なら、たいていの奴より先まで行けるだろ。……強くなる努力をしたらどうだ?
それでも奇跡が要るってんなら、その理由を言え」
ノアは口を開いた。
何も出てこなかった。
閉じる。
拳を見下ろした。
病人を治したいのか。
追ってくる白い衣を、払いのけたいのか。
自分の足と腕なら、もうたいていの者より速い。
それでも、今日の荷運びには届かなかった。
届かなかったのは、足のせいでも腕のせいでもない。
じゃあ、何のせいなのか。
そこまで考えて、先が無かった。
「うん……」
しばらく黙ってから、顔を上げた。
「……分かんない。まだ、言えない」
ベリアトは小さく笑った。
立ち上がって、卓に銅貨を二枚置く。
すれ違いざまに、右手でノアの肩を軽く叩いた。
ヴァレンツァの坂の下で、ブランの肩を叩いたのと同じ手つきだった。
出口のほうへ歩きかけて、振り返る。
「なら、今日はここまでだ。答えが出たら、また聞く。俺は逃げねえよ」
笑ったまま、声だけを少し落とした。
「奇跡があるかどうかは、あんたが決めろ」
黒い外套の背中が、人足のあいだを抜けていった。
戸が開いて、波止場の夜風が一度だけ入ってくる。
隣の卓の二人が、ベリアトの背中を目で追って、袖の上から自分の腕を押さえた。
ノアは卓の上の拳を開いた。
手のひらに、爪の跡が四つ並んでいた。
樽屋の二階に戻ったのは、夜更けだった。
下の樽屋はとうに火を落としていて、階段がきしむ音だけが響く。
ラウロは壁ぎわの寝台で、短くなった剣を抱えて寝ていた。
イルウェンは毛布を頭までかぶって、足の先だけが寝台の端から出ている。
ノアは自分の寝台の端に腰を下ろした。
外套も脱がずに、右の拳を見る。
奥の寝台で、ブランが身を起こした。
起きていたのだ。
水差しを取って、杯に水を注ぐ。
それをノアの横の床に置き、自分は少し離れた壁にもたれて座った。
酒の匂いは、しなかった。
「……寝ろってんだ、と言いてえとこだが、その顔じゃ寝れねえだろ」
窓の外を見たまま言う。
「酒場の隅で、例の旅の男と話してたってな。下の親父が言ってた」
少し間を置いた。
「前に井戸端で、あんたが聞き流した話があったな。網のヴィトが熱を治した、テオってガキの話だ。
……あの後まで、聞くか。聞きたくなきゃ、それでいい」
三年前の春だった。
坂の下で咳の子を治した旅の人に、港まで付いて歩いた日の夜。
井戸の縁でブランが言いかけた話を、ノアは「いい。聞かない」で切った。
桶を持って、一度も振り返らずに坂を上がった。
ノアは床の杯を両手で持ち上げた。
一口飲む。
水は、ぬるかった。
それからブランのほうを向いた。
「ありがとう。……聞く」
ブランは壁にもたれたまま、天井の梁を見た。
「あんたが十の年だ。テオは熱を出して、十日下がらなかった。
網のヴィトが手を握ったら、その晩にけろっと治った。代価は取らなかった。網元はじめ、みんな拝んでたよ」
ゆっくり話す。
「そのあとだ。二の腕に、貝殻みてえな硬いこぶが出たのは。最初は爪の先くらいだった。
痛くねえってんで、誰も気にしなかった」
「……見た。ボク、あの日、見た」
「ああ。一年で、手のひらほどになった。腕が上がらなくなって、網を引けなくなった。
施療院の司祭は、治したやつに聞けって言った。ヴィトはもう、波止場にいなかった」
梁を見たまま、少し黙る。
「テオは、それから二年もたなかった。こぶは肩から、首まで来てた」
ノアの手の中で、杯の水が揺れた。
ブランは、自分の左の二の腕を、指で一度だけ叩いた。
「ただでくれるもんには、どっかで勘定がついてる。払うのが、くれたやつとは限らねえってだけだ」
それから、ノアの拳に目を落とした。
「あの男と何を話したかは聞かねえ。けど、その手に何か貰ったんなら、明日の朝、俺に見せろ」
ノアは杯を膝に置いた。
右の拳を、ゆっくり開く。
爪の跡が四つ、まだ残っていた。
その手のひらを、ブランのほうへ向ける。
「何も、貰ってない」
ブランの目が、手のひらの上で止まった。
耳が、少しだけ下がった。
ノアは手のひらを自分のほうへ戻して、しばらく見た。
テオの二の腕の、白い貝殻。
ラーモの男の、灰色の腕。
今日の荷運びの胸の、赤い花。
ボクも、力が欲しい。
自分の声が、耳の奥でもう一度聞こえた。
「……ごめん。まだ、分かんない」
「謝るとこじゃねえよ」
ブランは壁から背中を離して、自分の寝台に戻った。
毛布を引き上げる音がする。
「寝ろってんだ」
ノアは外套を脱いで、翼の袋を胸の前に回した。
横になる。
窓の外で、波止場の綱がきしんでいる。
答えが出たら、また聞く。
目を閉じても、その声は消えなかった。
右手を、枕の下に入れた。




