弓を取る
ラーモの宿場から下ってきて、三月が経つ。
八月の十九日、ドラージョの朝は、窓を開ける前から魚の匂いがした。
魚市場の裏の樽屋の二階は、床板の隙間から、下で箍を叩く音が上がってくる。
ノアは帆布の袋を背負い、紐を肩に回した。
その上から、イルウェンの麻袋を背負う。
翼の袋の膨らみに麻袋の底が乗って、紐が鎖骨に食いこむ。
肩を回すと、袋の中で筒どうしがごとりと鳴った。
「ん」
もう一度回す。
麻袋がずり落ちて、翼の袋の継ぎ目に引っかかった。
寝台の上で、イルウェンがそれを見ていた。
目はいつもどおり半分しか開いていない。
窓の光で、束ねた髪からはみ出た耳の先が白く透けていた。
膝を立てて座っているのに、脛が寝台の端から余っている。
春先までは、足が床に届かなかった寝台だ。
しばらくそうしていてから、イルウェンはのろのろと立ち上がり、壁の釘から外套を外して羽織った。
ドラージョの古着屋で、ノアと選んだ大きめの外套だった。
袖は、もう指の付け根までしか届かない。
「……ノアー。……わたしも行くー」
「市だよ。歩くよ」
「……うん。……袋、自分で持てるのー、買うー」
麻袋の口を、指で一度つまんだ。
ヴァレンツァで組んでから四年、イルウェンはこの袋を一度も自分で背負っていない。
「行こう」
ノアは麻袋を背負い直して、階段の戸を開けた。
東の市は、波止場から倉の並びを抜けた先にある。
船が着く季節で、通りは荷車と人でつかえていた。
干した魚、塩、樽、縄。
表の通りに並ぶのは、それくらいだ。
ノアは外套の前を合わせ直した。
八月に冬の外套を着ているのはノアだけで、背中の膨らみをときどき通りの誰かが見る。
汗が背筋を伝って、袋の中まで落ちていく気がした。
イルウェンは珍しく足を止めなかった。
ノアの半歩後ろを、ゆっくり、でも途切れずについてくる。
屋台の並びを二筋、三筋と奥へ入るうちに、聖堂の鐘楼が倉の屋根に隠れて見えなくなった。
そのあたりから、並ぶ品が変わる。
見たことのない字の刷られた布。
口の割れた壺。
針金で縛った、何に使うのか分からない金物。
東から船で流れてきて、どこの帳面にも載らない物だ。
売り手は品の名を言わず、値だけを言った。
ひとつの屋台の前で、イルウェンが止まった。
古道具の屋台だった。
幌の下に、錆びた鍋と鋤の刃と、鞘の無い短剣が積んである。
その奥の柱に、一張りの弓が立てかけてあった。
埃をかぶって、弦はたるんでいる。
黒ずんだ木目の浮いた弓で、握りのところだけが手の脂で鈍く光っていた。
握りは太く、その両端から細い腕木が伸びている。
継ぎ目に、髪の毛ほどの筋が一本ずつ走っていた。
イルウェンはしゃがみこみ、握りの内側に顔を近づけた。
そのまま動かない。
台の向こうで、日焼けした男が煙管をくわえたまま顎を上げた。
肩の厚い、四十ほどの男だ。
「そいつはただの古弓だよ、姉ちゃん。遺跡から出たって触れ込みだが、硬くて誰も引けやしねえ。
弦も替えなきゃ使えねえ」
ノアはイルウェンの横にしゃがんで、同じところを覗いた。
握りの内側に、細かい溝が一列に並んでいる。
ほとんど擦り切れていて、字なのか模様なのかも分からない。
イルウェンが、こんなに長く物を見ているのは珍しい。
「イルウェン、それ、なに?」
それから台の上の男を見上げる。
「おじさん、これいくら?」
「銀貨八枚だ。古いが、木はいい」
男は煙を吐いて、また別の客のほうへ目をやった。
イルウェンは溝を指でなぞって、目をもう少しだけ細くした。
それから、ノアの耳もとに顔を寄せる。
外套の襟から、干し草のような匂いがした。
「……古い字ー。……ちゃんと読むなら、明るいとこー」
指の腹で、溝をもう一度なぞる。
「……おじさん、知らないみたいー。……八枚なら、安いー」
ノアはうなずかずに立ち上がった。
弓を柱から持ち上げる。
思ったより軽い。
指の節で握りを叩くと、こつ、と詰まった音がした。
木の音ではなかった。
細い腕木を押してみても、ほとんどたわまない。
たるんだ弦を指で弾くと、ぼん、と間の抜けた音がした。
男がこっちを見た。
ノアはその目を見たまま、もう一度弾いた。
「弦、だめだね。五枚」
ミラベルの市で、母さんがやっていたやり方だった。
相手が自分で言った傷を、こっちの値に使う。
母さんは笑いながらそれをやって、魚屋の親父に「奥さんにはかなわねえ」と言わせていた。
男が鼻を鳴らした。
「七枚。弦なんざ安いもんだ」
そのとき、幌の切れ目から朝日が差した。
光が斜めに落ちて、ノアの手の中の握りに当たる。
横で、イルウェンが息をのむように黙った。
ノアの手もとを覗きこんだまま、半分の目が、ほんの少しだけ開いている。
イルウェンの顔が変わった。
長引かせないほうがいい。
ノアは弓を胸に寄せて、懐の巾着を開けた。
銀貨を一枚ずつ台に並べる。
六枚目を置いたところで、手を止めた。
男の顔を見る。
間をおいて、七枚目を足した。
「七枚。弦の分、おまけで紐ひとつ付けて」
男は煙管を口から離して、声を上げて笑った。
「しっかりしてやがる」
台の下から麻の紐を一巻き出して、放ってよこす。
紐はノアの胸の弓に当たって、腕の中に落ちた。
イルウェンが立ち上がった。
朝日に握りをかざして、溝を目で追う。
口の中で、何かを小さく読んだ。
ノアには聞き取れない音だった。
それから、ノアの胸から弓を両手で受け取り、肩にかけた。
「……「森の歌を射るものへ」ー」
握りの溝を、親指でなぞる。
「……灯り弓ー。……里の本に、載ってたー。……ありがとー、ノアー」
そう言って、ノアの背の麻袋の紐に手をかけ、自分のほうへ引いた。
「……筒も、もう自分で持つー」
イルウェンの手のひらが、握りを包んだ。
溝の奥が、一瞬だけ光った。
白に寄った、薄い緑。
若葉を光に透かしたような色で、イルウェンの手のひらに灯るのと同じ色だった。
光はすぐに消えた。
台の向こうで、男は別の客と鍋の値で言い合っている。
こっちを見ていない。
イルウェンは握りを包んだまま、溝の続きを指でなぞった。
ノアにだけ聞こえる声で言う。
「……続き、「灯りを、矢に」ー。……灯り流すと、軽く引けるのー。……わたしでも、引けるかもー」
ヴァリエルの小屋で聞いた話を、ノアは思い出した。
灯りで動く道具は、翼とも、イルウェンの筒とも、仕組みがまるで違う。
この弓は、灯りで動く方なのだ。
イルウェンは麻袋の紐を解いて、筒を受け取った。
もらったばかりの紐で、弓と筒をまとめて背に括る。
結び目を作る手つきは遅いが、ほどけない結び方だった。
背中で、弓の端と筒がこつんとぶつかる。
少し窮屈そうだった。
「……筒も、わたしが背負うー。……ノア、軽くなったー?」
ノアの背中には、翼の袋だけが残っていた。
紐が鎖骨から外れて、肩がすっと上がる。
ノアはイルウェンの後ろに回って、弓と筒を並べ直した。
弓の端が筒の口に当たらないよう、少し斜めにずらして紐を締め直す。
「うん、軽い。ありがとう。矢、あとで見せて」
客を帰した男が、振り返った。
イルウェンの背中の筒に目を留める。
「嬢ちゃん、その筒も古そうだな。要らねえなら引き取るぜ」
煙管で筒を指した。
「銅貨三十なら出す」
イルウェンは、半分開いた目を男に向けた。
それから、ゆっくり首を振る。
「……売らないー。……まだ、使うー」
「そうかい」
男は肩をすくめて、煙管を灰皿に叩いた。
二人は残りの買い出しを済ませた。
塩と干し魚と、ラウロに頼まれた砥石。
帰りに通りの弦屋で、弓の弦を一本と、矢を十本買い足した。
矢筒は、イルウェンが要らないと言った。
「……筒は、もう背負ってるー」
樽屋の階段を上がるとき、ノアは右手を肩へやった。
いつもの紐を探した指が、外套の布をつまんだだけで戻ってきた。
日が傾いてから、二人は町外れの空き地へ出た。
倉の並びが途切れた先で、草が膝まで伸びている。
人気は無い。
西日が長い影を引いて、草の先だけが赤い。
昼の熱が、まだ地面から上がってきていた。
ノアは古い杭に板切れを立てかけて、的にした。
二十歩ほど下がって、イルウェンの横に立つ。
弦は、宿で張り替えてあった。
新しい弦は、まだ白い。
イルウェンは背中から弓を下ろした。
筒は背負ったままだ。
矢を一本取って、弦にかける。
そのまま、灯さずに引いた。
弦は指一本ぶんも動かない。
細い腕が震えて、すぐに下りた。
「……かたいー」
「屋台のおじさん、誰も引けないって言ってた」
「……うん。……だから、こうするー」
握りを手のひらで包み、目を閉じる。
指のあいだから、手のひらほどの薄い緑がにじんだ。
刻印の溝に、その色が一筋ずつ灯っていく。
「……見ててー」
イルウェンは、もう一度弦を引いた。
さっきびくともしなかった弦が、するすると下がってくる。
細い腕木だけが大きくしなって、太い握りは少しも曲がらない。
細い腕が、ゆっくり耳のそばまで弦を運んだ。
麻袋ひとつ自分で背負わなかった腕だ。
矢の先に、薄い緑が溜まっていく。
指が弦を放す。
びん、と弦が鳴った。
矢が、薄い緑の尾を引いて草の上を走った。
板切れの真ん中に当たって、止まらない。
抜けた矢は、奥の崩れた柵の柱に突き立って、まだ震えていた。
少し遅れて、草の匂いに焦げた匂いが混じった。
イルウェンは、そのまま弓を下ろした。
肩で息もしていない。
筒を構えるときの、腰を落として足を踏ん張る格好とは、まるで違う。
ノアは草をかき分けて的に駆け寄った。
板の真ん中に、矢の太さの穴が開いている。
縁が黒く焦げて、まだ温かい。
奥の柵まで行って柱から矢を引き抜くと、鏃が半分まで埋まっていた。
それから振り返って、目を細めて笑った。
「抜けた。イルウェン、いい弓だね」
板を杭から持ち上げて、胸の前に掲げる。
「次はボクが的、持つ」
イルウェンは弓を胸に抱えたまま、少しだけ首を傾けた。
「……ノア、それは、だめー」
「なんで? ボク、よけられる」
「……外したら、拾いに行くの、面倒ー」
そう言って、弓の握りをもう一度手のひらで包んだ。
溝に、薄い緑が灯る。
ノアは板を杭に立てかけ直して、走って戻った。
背中の翼の袋が、走るたびに軽く跳ねた。
イルウェンの隣に並ぶ。
二人の影は、西日の中で同じ長さだった。




