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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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代償

川べりで野営した晩から、二週間。

五月の二十四日の昼、四人は街道を下りきって、ドラージョの手前のラーモの宿場に入った。

街道の土はすっかり乾いて、荷車の轍の跡が白く固まっている。

旅籠が三軒と、馬繋ぎ場が一つ。

繋がれた驢馬が、飼い葉桶に鼻を突っこんでいた。


じゃら、と鉄の鳴る音がした。

村の外れ、物置小屋が三つ並んでいるうちの、いちばん端からだ。

続いて、低い呻き声。

人の声だった。

戸の隙間から、土間に投げ出された男の脚が見える。

その足首の先に、鎖が延びていた。


井戸のそばで、女が水を汲んでいた。

ノアが小屋と女を見比べると、女は桶の縄を握ったまま、口だけ動かした。

「あれは……力をもらったんだよ」

それだけ言って、桶を抱えて家のほうへ行ってしまう。

一度も、小屋のほうを見なかった。


力をもらった。

それで、どうして鎖なんだ。


ノアは女の背中を一度見てから、小屋へ歩いた。

戸の前で止まり、隙間に目を寄せる。

薄暗い土間の真ん中に柱が一本立っていて、男がそこに鎖で繋がれていた。

「……繋がれてる」

振り返って、後ろの三人に目だけで来いと言った。



ブランが真っ先に来て、ノアのすぐ後ろに立った。

ラウロとイルウェンは、少し離れたところで村のほうを見ている。

ノアが戸を押すと、軋みながら開いた。


男は、三十くらいに見えた。

柱に背を預けて、座りこんでいる。

上衣の前ははだけ、胸の真ん中に赤い跡が浮いていた。

花の形をしている。

ノアは、その形を知っていた。

去年の秋、ソラーナの坑夫たちの首筋に浮いていたのと、同じ花だ。

咳が止まった坑夫たちは、笑っていた。


この男は、笑っていない。

花の跡から肩へ、肩から右腕へ、肌が灰色にくすんでいた。

濡れた石のような色だ。

右手の指は、何かを掴みかけた形のまま曲がって、動かない。

男が、かすれた声を出した。

「……行商が、強くなれるって……。寝てる間に、植えてったんだ。頼んでねえ……俺は、頼んでねえ」


ノアは男の前にしゃがんだ。

花の跡には触れずに、灰色の腕を見る。

肘の内側まで、色が変わっていた。

「行商、どこ行った。いつ。……ブラン、これ、知ってる?」


ブランは戸口で一度振り返り、外に人がいないのを確かめてから、中へ入ってきた。

灰色の肩に顔を寄せる。

指は、触れない。

それから柱に回って、鎖を留めている南京錠を手に取った。

古い錠だった。

ブランは鍵穴を覗いて、鼻を鳴らす。

「知らねえ。見たこともねえよ。

……だが、頼んでもねえのに寝てる間に植える力なんざ、まともな代物じゃねえだろ」

男のほうへ顎をしゃくる。

「あんた、植えられてから何日だ。灰色は、どれくらいの速さで広がってる」


「十日……」

男は息を継いだ。

「最初の三日は、力が出た。暴れ馬を、素手で止めたんだ。……そのあと、止まらなくなった。

暴れちまって、村の連中に鎖に繋がれた。灰色は、毎朝、指一本ぶん伸びてる。

行商は北へ……ソラーナのほうへ戻ってった。名前も知らねえ」


男が身じろぎした。

固まった右腕が鎖に擦れて、石と石を擦り合わせたような音がした。


ノアの手が、南京錠のほうへ伸びた。

古い錠だ。

灯せば、たぶん、指でねじ切れる。

飛ぶな、灯すな。

それに、外してどうする。

外しても、灰色は止まらない。

また暴れたら、今度は村の誰かが怪我をする。


手を止めた。

握って、膝の上に戻す。

ノアは首に巻いていた手拭いをほどいて、鎖と灰色の腕のあいだに挟んだ。

石の音が、布で鈍くなる。

それから、立ち上がってブランを見た。

「鎖は、今は外せない。ごめん。……ブラン、施療院か、わかる人。ドラージョにいる?」


ブランは南京錠を放した。

鎖が、柱に当たって鳴る。

「聞いてみる。旅籠なら、ドラージョから上ってくる奴がいるはずだぜ」



日が傾いても、ブランたちは旅籠から戻らなかった。

ノアは小屋の前の地面に、一人で座っていた。

戸は開けたままにしてある。

中の男は、ときどき呻いて、また静かになる。

灰色は、少しも引かない。

村の人たちは遠巻きに、こっちを見ないようにして通り過ぎていった。


街道のほうから、足音が来た。

大きな歩幅で、急がない足音だった。

それが、小屋の手前で止まった。


顔を上げると、背の高い男が立っていた。

肩と胸が厚い。

煤けたような浅黒い肌に、短い黒髪。

左手には、手首の先まで布が巻いてある。

ベリアトだった。


ベリアトは、ノアを見ていなかった。

開いた戸の中の、男の胸の花と、灰色の腕を見ていた。

しばらく、黙って。

笑っていない顔を、ノアは初めて見た気がした。


それから、ベリアトは笑った。

いつもの顔に、作り直したように。

ノアの前まで歩いてきてしゃがみ、目の高さを合わせる。

右手で、ノアの肩を軽く叩いた。

「よう、坂の娘。こんな所で会うとはな。……あの手拭い、あんたが挟んだのか」


肩に置かれた手を、ノアは見た。

払わなかった。

座ったまま、赤みの強い琥珀色の目を見返す。

「うん。……ベリアト。あれ、知ってる?」


小屋の中から、男のかすれた声がした。

「行商が……寝てる間に植えてった。十日前だ」


ベリアトは立ち上がって、小屋に入った。

男の前に片膝をつく。

右手の指で、灰色になった肩口を押した。

次に、花の跡の縁を押す。

一か所ずつ、硬さを確かめていく指だった。

市場で、樽の箍の締まりを確かめる樽屋の指に似ていた。

男が顔をしかめても、指は止まらない。

最後に鎖の具合を見てから、ベリアトは戸口のノアを振り返った。

「知ってる。……けど、うちのじゃない。器殻も見ずに植えてやがる」


うちの。

ノアの指が、膝の上で握られた。


ベリアトは男のほうへ向き直って、声を落とした。

「あんた、よく十日もったな。もう少しだけ辛抱してくれ」

それから、またノアを見る。

「ここじゃ止められない。下で診る。俺が担いでいく。鎖の鍵、誰が持ってる?」


下。

それも、引っかかった。

けど、止められるなら、それが先だ。

ノアは立ち上がって、井戸の女が入っていった家のほうを指さした。

「知らない。村の人。……聞いてくる。下って、どこ?ボクも行く」



ノアが戸を叩いて回ると、三軒目で、腰の曲がった年寄りが出てきた。

鍵を握ったまま、小屋の前まで杖をついてくる。

ベリアトを見上げて、しばらく口ごもった。

「連れてってくれるなら……もう、村じゃ面倒見きれねえ」

鍵が、ベリアトの手のひらに落とされた。


「ありがとな。預かる」

ベリアトは南京錠を外し、鎖を柱からほどいた。

ずり落ちかけたノアの手拭いを、男の灰色の腕に巻き直してやる。

それから、右腕一本と肩だけで、男を背負い上げた。

大人の男一人ぶんの重さを、粉袋でも担ぐように。

布を巻いた左手は、一度も使わなかった。


戸口で、ベリアトはノアの前に立ち止まった。

少しのあいだ、何か考えている顔をした。

「器殻ってのは、受け皿の形だ。

体の場所ごと、奇跡ごとに決まった形があって、合わなけりゃ根づかずに、こうなる。

こいつは、形も見ずに植えられた」

背中の男が、呻いた。

「……下ってのは、地下だ。あんたは来るな。来るなら、自分で選んだときにしな」


形を見てから植えれば、根づく。

ソラーナの坑夫たちみたいに。

じゃあ、形を見て植える人たちがいるのだ。

それが、うち。


ベリアトは背を向けかけて、振り返った。

笑っていた。

「じゃあな、坂の娘」


ベリアトは街道を東へ歩いていった。

背中の男の灰色の腕が、歩くたびに揺れる。

夕日が、二人の影を長く伸ばした。

影はすぐに、道の曲がり角の向こうへ消えた。


助けに行ったのか。

確かめに行ったのか。

ノアには、分からなかった。

花の跡の縁を押していた指を、思い出す。

樽屋の指。



戻ってきたブランたちに、起きたことを話した。

ブランは黙って聞いていた。

聞き終えると、旅籠の部屋を取らずに荷を担ぎ直した。

「今夜のうちに、ドラージョへ下る。……ここは、寝覚めが悪い」

誰も、文句は言わなかった。


夜の街道は、昼の熱がまだ地面に残っていた。

ブランとラウロが、少し前を歩いている。

ランタンの小さな灯りが、二人の足もとだけを照らしていた。


ノアは、その後ろを黙って歩いた。

右手が、脇へ挟まりかける。

外に出した。

握って、開く。

もう一度、握る。

選んでない、と言われた。

何を選べば、あそこへ行けるんだろう。

選んだら、ボクはあの男みたいに笑っていられるんだろうか。

坑夫たちみたいに、か。


一度だけ、後ろを振り返った。

東の街道は、真っ暗だった。

足音も、もう聞こえない。

前を向いて、ブランとラウロの背中に歩幅を合わせた。


いつのまにか、足音が一つ増えていた。

イルウェンが、すぐ隣を歩いている。

何も聞かない。

外套の袖が、ノアの腕に触れるくらい寄っていて、そのまま同じ速さで歩いている。


ノアは、握っていた右手を開いた。

今度は、握らなかった。

二人で並んで、ドラージョの灯りのほうへ下っていった。

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