イルウェン、成長期
大猪を仕留めた晩から、一月と少し。
五月の十日、ソラーナの屋根の煙が背中のほうへ遠のいていく。
冬を越した町を出て、四人は東の玄関口、ドラージョへ下っていた。
街道は、鉱石を積んだ荷車が冬じゅう往き来した道だ。
轍が膝の深さまで掘れていて、雪解けの水がそこに溜まっている。
一歩ごとに靴が泥に沈み、抜くと、ぐぼ、と鳴った。
ノアは轍を避けた。
泥から頭を出した石を見つけて、跳び石を渡るように一つずつ踏んでいく。
大きくは跳ばない。
飛ぶな、灯すな。
足が乾いた所に着くたび、背中の荷を背負い直した。
外套の下で、畳んだ翼が袋ごと揺れる。
峠の上に、茶屋の屋根が見えてきた。
軒先から湯気が上がっている。
その前の空き地に、驢馬と荷車が十数台、ばらばらに止まっていた。
東から上ってきた隊商だ。
荷車の幌には、ソラーナでは見ない赤と黄の縞が染めてある。
日に焼けた男たちが、車輪に背を預けて煙草をふかしていた。
風に、嗅いだことのない香辛料の匂いが混じる。
茶屋の手前で振り返ると、ラウロが轍から片足を引き抜いているところだった。
その後ろで、ブランは泥を気にもせず真ん中を歩いてくる。
いちばん後ろのイルウェンは、外套の裾を泥に浸したまま、のそのそと足を運んでいた。
「休もう」
三人が追いつくのを待ってから、ノアは隊商のほうへ歩いていった。
驢馬の首を一度撫でて、いちばん手前の商人に声をかける。
「ねえ。東から? ドラージョの道、どう?」
商人は煙草を口から離して、白い歯を見せた。
「下りはまだ泥だが、川沿いに出りゃ乾いてる。ドラージョは船が着きはじめて人だらけだ。
宿は早めに押さえな」
茶屋の主が、湯気の立つ茶を盆に載せて出てきた。
ブランは縁台に腰を下ろして、茶を一口すすった。
商人に、軽く顎を引く。
「どうも。……船が着きはじめたってんなら、港のそばは高えだろ。裏の通りで安いとこ、知ってますかい」
「魚市場の裏に、樽屋がある。二階を貸してるよ。臭いが我慢できりゃ、安い」
「樽の臭いなら、酒と変わらねえってんだ」
商人が声を上げて笑った。
ノアの隣で、イルウェンが縁台の端に座りこみ、茶碗を両手で包んでいた。
飲むより先に、もう目を閉じかけている。
峠を下ると、道は川に寄り添った。
商人の言ったとおり、川沿いの土は乾いていた。
日が西の山にかかるころ、ブランが川べりの草地で足を止めた。
「今日はここまでだ」
日が落ちると、急に冷えた。
ラウロが薪を組み、ブランが火をつける。
イルウェンは焚き火の前に立ったまま、肩を小さく縮めていた。
外套が、昼のぬかるみで裾から腰までびしょ濡れになっている。
濡れた布が、脚に張りついていた。
ノアは自分の荷をほどいた。
ソラーナで新しく誂える前に着ていた、古いほうの外套が入っている。
「イルウェン、これ着て」
イルウェンは濡れた外套を、肩から滑り落とすように脱いだ。
草の上に放ったきり、拾わない。
差し出された外套を受け取って、のそのそと羽織る。
前を合わせ、襟に顎を埋めて、そのまま火の前に座りこんだ。
「……ありがとー。……あったかいー」
薪をくべていたラウロの手が、止まった。
イルウェンの足もとを見て、手首を見る。
外套の裾は、くるぶしの上で止まっていた。
袖口からは、手首の骨がはっきり出ている。
ラウロは、隣に立っていたノアとイルウェンを見比べた。
「おい、イルウェン。その外套、ノアのだよな。……丈、足りてねえぞ。お前、また伸びたろ。
ソラーナ出たときより、絶対でかくなってる」
ブランは水筒を傾けていた。
中身は、水だ。
イルウェンの手首と裾に一度だけ目をやって、すぐ火に戻す。
「ドラージョで古着屋でも覗くか。袖の足りねえ外套で冬は越せねえだろ」
「……ああ。買うなら大きめにしとけよ。どうせすぐ合わなくなる」
ラウロはブランを横目で見て、薪を火に放った。
ノアはイルウェンの前にしゃがんだ。
短い袖口を指でつまんで、引っぱってみる。
引いても、手首は隠れなかった。
小さく笑う。
「うん。大きいの買う。ドラージョで、一緒に選ぼう、イルウェン」
イルウェンは、襟の中で「……うん」とだけ言った。
ノアは鍋を取って立った。
水を汲みに川べりへ向かうと、後ろで草の擦れる音がした。
イルウェンが外套の裾を引きずって、ついてくる。
並んで歩いていく二人の背中を、ラウロは黙って見ていた。
焚き火に照らされた頭が、同じ高さで揺れている。
どっちが年上かと聞かれても、答えに困る。
同い年の娘が二人、としか見えなかった。
ヴァレンツァで組んだころのイルウェンを、ラウロは覚えている。
坂の子どもに混ざって石蹴りをしていても、誰も気にしなかった。
十四のノアと並べば、妹にしか見えなかったのだ。
町を出る朝には、もう十七、八の娘に見えていた。
それで慣れた気でいた。
ラウロは、ブランのほうへ身を寄せた。
「……なあ、ブラン。あいつ、ヴァレンツァで組んだときはチビだったろ。
町を出るころにはもう娘で、一年たったら、これかよ」
ブランは火を見たまま、小枝を一本くべた。
「伸びる時期ってのはあるんだろ。……本人の前で騒ぐなよ。言いたくなったら言うってんだ」
ラウロは口を開けて、閉じた。
エルフは何百年も生きると聞いている。
なら、育つのももっとのろいはずだ。
ブランだって、それくらい知っている。
知っていて、言わないのだ。
ラウロは、膝の上で指を一本ずつ折った。
組んでから何年たったか数えかけて、やめた。
川の水は、手が痺れるほど冷たかった。
ノアが鍋を沈めると、隣でイルウェンがかがんだ。
暗くなりかけた水面に、顔が二つ映っている。
同じ高さに。
ノアは水面と、隣の顔を見比べた。
濡れた手を上げて、イルウェンの頭のてっぺんに置く。
それから、自分の頭に置いた。
もう一度、イルウェンの頭。
手のひらの高さは、変わらなかった。
「並んだ。冬のあいだに。すごいね」
イルウェンは、ノアの手が頭から離れるのを待った。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「……うん。……伸びたー」
それだけだった。
ノアは鍋を持ち上げた。
水の重みが、腕に来る。
焚き火のほうを見ると、ラウロとブランが額を寄せて何か話していた。
言葉までは聞こえない。
ラウロが、ちらちらとこちらを見ている。
イルウェンはその視線に気づいたようだったが、気にした様子もなかった。
裾を引きずってノアの後ろを歩き、火にいちばん近いところへ座りこむ。
ラウロが肩をすくめた。
ノアから鍋を受け取って、火にかけるのを手伝う。
ついでに、草の上に広がったイルウェンの裾を、足で火から離してやった。
「裾、焦がすなよ。伸びた分、火にも近えんだからな」
「……近いー」
イルウェンは、裾を引き寄せもしなかった。
干し肉と豆を煮た汁を、四人ですすった。
ブランは、樽屋の二階の話をもう一度した。
ラウロは、古着屋はどこにあるのかと、まだ見ていない町の話をした。
夜が更けた。
ブランとラウロは、火の向こうで毛布にくるまって寝息を立てている。
焚き火は小さくなって、熾がときどき赤く息をするだけだ。
川の音が、昼より大きく聞こえた。
ノアの隣で、イルウェンが座ったまま船を漕いでいた。
自分の毛布は、荷の上に畳んだままだ。
取りに行く気は、ないらしい。
「……おやすみー」
こてん、とノアの肩に頭が乗った。
いつものことだ。
旅に出てから、イルウェンが寝るのはたいていここだった。
けれど、肩にかかった重みが違った。
冬の初めのころは、麻袋を一つ載せられたくらいだった。
今は、水を汲んだ鍋のほうが、まだ軽い。
束ねた髪から尖った耳の先がはみ出して、ノアの頬をくすぐった。
ノアは、頬に触れる耳の先を少しよけた。
肩は、下げない。
重みをそのまま受け止めて、手探りで毛布を引き寄せる。
イルウェンの肩まで引き上げてやると、寝息が一つ深くなった。
川べりの水面に並んだ、二つの顔を思い出す。
同じ高さだった。
「おやすみ」
火を一度見てから、ノアは目を閉じた。
肩の重みは、朝まで動かなかった。




