冒険者の日常
ラウロの剣が短くなってから、二月が経った。
三月の十八日。
ソラーナの屋根の雪はもう落ちたが、坑道へ上る道の日陰には、まだ黒ずんだ雪が残っている。
灰鷹の詰所の掲示板に、新しい札が一枚、増えていた。
昼過ぎの詰所は空いていて、炉の前で坑夫上がりの男が二人、居眠りをしている。
ノアは札の字を目で追った。
グリージョ山地の東の放牧地。
大猪、一頭。
牛ほどもある。
柵を三つ破られ、仔羊が二頭やられた。
「名義の頭が受けるなら、回すぞ」
受付の男が、帳面から顔も上げずに言った。
ブランが、耳の先を掻いた。
札に手を伸ばし、留め釘ごと剥がす。
ノア、ラウロ、イルウェンと、三人の顔を順に見た。
誰も、やめようとは言わない。
ブランは札を受付の台に置いた。
「……猪ね。でかいだけの獣なら、罠と足止めで片がつく。受けます、エンジェルウィングで」
受付の男がようやく顔を上げ、帳面を開いた。
「報酬は銀貨四十。牙と皮は、そっちの取り分だ」
ラウロが、台に肘をついて身を乗り出した。
「四十か。で、そいつ何頭だ。一頭なら牙と皮込みで受ける。群れなら話が違う、上げてくれ」
「一頭だ。羊飼いが見てる」
「山まで丸一日かかるだろ。糧代は?」
男は鼻を鳴らしたが、帳面の隅に何か書き足した。
「……道中の糧代に、五枚。それ以上は出ねえぞ」
「それでいい」
ラウロは台から肘を下ろした。
腰の剣が、鞘の中で軽く鳴る。
寸の詰まった剣だ。
詰所を出ると、四人で市を回った。
縄を二巻き。
火口と、松脂を練った油の小瓶。
干し肉と、固く焼いた黒パン。
替えの靴紐は、ブランが四人ぶん買った。
「山で紐が切れたら、そいつは裸足で歩くってんだ」
ノアは荷を担いだ。
背中の袋の上から、さらに荷を重ねる。
外套の内側で、畳んだ翼が窮屈そうに背に沿った。
翌朝、まだ暗いうちに町を出た。
グリージョの峠道は、上るほど雪が深くなった。
日の当たる斜面では雪が解けて、道はぬかるみになっている。
一歩ごとに、靴が泥に吸いつく。
抜くたびに、ぐぼ、と音がした。
替えの紐、買っておいてよかった。
ラウロの靴紐は、昼前に一度切れている。
昼過ぎ、ブランが道を外れた。
斜面の一角が、畑を耕したように掘り返されていた。
黒い土の上に、雪が散っている。
ブランはしゃがんで、土に残った蹄の跡に指を入れた。
跡は、ノアの手のひらより大きい。
少し先に、糞があった。
まだ湿っている。
「今朝のだ。……このまま沢沿いに上がってる」
ブランは鼻をひくつかせて、風上を見た。
それからは、跡を追った。
掘り返し、折れた若木、木の幹に擦りつけた泥。
どれも、腰より高いところに付いていた。
夕方、沢から少し上がった平らな岩場に荷を下ろした。
日が落ちると、急に冷える。
拾ってきた薪は、どれも雪に濡れていた。
ラウロが火打ちを三度打ったが、火口が煙を上げるだけで、火にならない。
「……くそ、つかねえ」
ノアは手のひらを見た。
灯せば、すぐに乾く。
飛ぶな、灯すな。
手を、外套の脇に挟んだ。
荷に寄りかかって座っていたイルウェンが、もぞりと動いた。
麻袋に手を入れて、黒い石のはまった筒を引っぱり出す。
座ったまま、筒の先を薪の山に向けた。
「……乾かすー。……誰か、火打ち、持っててー」
筒の先から、温い風がゆるく吹き出した。
薪の表から、湯気が上がる。
ラウロが呆れた顔をした。
「最初からやれよ、それ」
「……いま、思いついたー」
ブランが、腰の袋から自分の火打ちを出してしゃがんだ。
湯気の止んだ薪の端に火口を置いて、打つ。
今度は、火口が赤くなった。
ブランが息を吹きこむと、小さな炎が立った。
細い枝を一本ずつくべる。
炎が太くなったところで、ブランは立ち上がった。
「ほらよ、イルウェン。もう止めていい」
筒の風が止んだ。
ブランは、火の向こうの暗い斜面を見た。
「……番は二人ずつ。最初はラウロとノア、真ん中はイルウェンと俺、明け方は俺とラウロだ。
猪は夜明け前に来る。寝ぼけんなよ」
「明け方、親父がやるのか」
「一番危ねえ刻だからな」
ブランは、それ以上は言わなかった。
火は、一晩じゅう煙ってばかりいた。
濡れた薪がはぜるたびに、煙が目に入る。
ラウロと背中合わせに座り、ノアは闇の斜面に耳を澄ませた。
沢の水音。
遠くで、雪の塊が枝から落ちる音。
寒さで、指の先が痺れる。
番を替わって横になると、いつのまにかイルウェンが隣に来ていた。
ノアの肩に頭を乗せて、もう寝息を立てている。
麻袋の口紐が、ノアの手に握らされていた。
明け方、ブランに肩を揺すられた。
「起きろ。……来てる」
声は、ほとんど息だった。
四人で、岩場の上の窪地の縁まで這った。
空が白みはじめている。
窪地の底で、何かが土を掘っていた。
ふご、ふご、と鼻息が聞こえる。
大猪だった。
黒い剛毛が、背中で逆立っている。
反り返った牙は、ノアの腕ほどの長さがあった。
牛ほど、というのは本当だった。
港で荷を引いていた牛より、まだ肩が高い。
大猪が、頭を上げた。
鼻が、こちらを向く。
ぶしゅ、と鼻を鳴らした。
ラウロが、短い剣を抜いた。
縁から斜面を半ばまで駆け降り、大猪の正面で腰を落とす。
小指と薬指で柄を締め、突っ込んでくる筋から半歩外れたところに、足を置いた。
「こっちだ、豚! ノア、横から回れ。俺が引きつける!」
大猪が、土を蹴った。
地面が鳴る。
ラウロは、受けなかった。
半歩ずれて、すれ違いざまに脇腹を斬る。
刃が、剛毛の上を走った。
浅い。
大猪は土を蹴立てて止まり、向き直りかけた。
向き直った今なら、首の脇が空く。
ノアは斜面を蹴った。
大きくは跳ばない。
雪と泥の斜面を、跳ねるように駆け降りる。
大猪の横腹へ回りこみ、首の付け根に飛びついた。
片腕を、牙の根元に掛ける。
獣の脂と、土の匂い。
体ごと、押さえこんだ。
「ラウロ、今!」
大猪が、首を振った。
ノアの足が、泥の上を滑る。
重い。
市場へ運ぶ粉袋を、十も二十も抱えているようだった。
本気で踏ん張れば、止められる。
地面を蹴れば、たぶん、ひっくり返せる。
ノアは歯を食いしばった。
それをしたら、ただの娘ではいられない。
窪地の縁で、イルウェンが膝をついた。
筒を構えている。
「……脚、止めるー」
緑の光と風が、大猪の前脚の足もとに撃ちこまれた。
土がえぐれて、前脚がよろける。
けれど、大猪は止まらなかった。
首を大きく振った。
ノアの腕が、牙の根元から外れる。
体が宙に浮いて、泥の上に転がった。
ラウロの剣が、空を切る。
大猪はラウロの脇をすり抜けて、斜面を駆け上がった。
その先に、ブランがいた。
縄を手にしたまま、ブランは立っていた。
避けられる間合いでは、もうない。
「……年貢の納めどきかよ。ヤキが回ったってんだ」
ブランの唇が、そう動いた気がした。
縄を捨てる。
腰を落として、両手を前に突き出した。
「来いってんだ!」
ブランの手のひらに、灯りがともった。
黒に近い、灰色の灯り。
煙のように立つ、あの陰気な灯りだ。
それが、手のひらからふくらんだ。
大猪の額が、ブランの両手にぶつかった。
鈍い音。
ノアは、ブランが吹き飛ぶのを見ると思った。
飛ばなかった。
ブランの靴が、泥に半分沈んだだけだった。
黒い灯りが、ブランの両手を手首の先まで大きく覆っていた。
灯りは光らない。
ただ、重かった。
上からのしかかるように、大猪の頭を地面へ押しつけている。
大猪は四本の脚で土を掻いた。
起き上がれない。
牙の先が、泥に埋まっていく。
ブランが、自分の手を見た。
目が、丸くなっていた。
それから、歯を食いしばって首だけで振り向いた。
「ラウロ、首! ノア、後ろ脚! 長くはもたねえぞ!」
ノアは泥から跳ね起きた。
大猪の後ろへ回り、暴れる後ろ脚を両腕で抱えこむ。
蹄が、ノアの脛をかすめた。
ラウロが、斜面を駆け下りてきた。
押さえつけられた大猪の首の横に、回りこむ。
「ブラン、そのまま押さえてろ!」
ラウロの肩から、力が抜けた。
短い剣が、ゆっくり上がっていく。
落とす瞬間だけ、小指と薬指が締まった。
刃が、首の付け根に吸いこまれた。
硬い手応えの音が、窪地に響いた。
大猪が、長く鳴いた。
四人がかりで押さえ、ラウロがもう一度、刃を入れた。
やがて、脚が土を掻くのをやめた。
ブランの手の黒い灯りが、ふっと消えた。
ブランは、尻から泥に座りこんだ。
両手を目の前に上げて、指を開いたり閉じたりしている。
「……なんだ、今の」
誰も、答えなかった。
ノアも、答えを持っていなかった。
ただ、さっき自分が踏ん張れずに投げ出された重さを、ブランは両手で止めたのだ。
牙を外し、皮を剥いだ。
皮は、四人で担いでも肩に食いこんだ。
帰りの道は、二日かかった。
ソラーナの詰所で報酬を受け取り、ラウロの剣を研ぎに出した。
泥を吸った靴は二足捨て、裾の破れた外套も新しくした。
ノアの外套は、前のより裾を長くした。
翼の先が、跳ねても隠れるように。
三月の二十二日の晩、四人は酒場の隅の卓を囲んでいた。
炉の火が、卓の上の皿の脂を光らせている。
猪の肉ではなく、羊の煮込みだった。
ブランの前の杯は、半分で止まっていた。
ヴァレンツァの井戸端では、日が落ちる前から三杯は空けていた男だ。
ノアは、それを黙って見ていた。
イルウェンが、頬杖をついたまま、ブランの止まった杯をちらりと見た。
自分の杯を、ブランのほうへ少し寄せる。
「……あの黒いのー。……言いたくなったらでいいー」
ブランは、止まった杯を見下ろした。
耳が、一度だけ後ろへ寝た。
それから、自分の杯をイルウェンの杯に軽く当てた。
こつ、と鳴る。
「……俺にも分かんねえよ。二十年も腐らせてた灯りが、重くなるだけだったってんだ。……笑えるだろ」
ラウロが、匙を止めた。
ノアは、卓の下で自分の右手を握った。
白い灯りを隠すために、何年も握ってきた手だ。
イルウェンは、杯を当て返して、一口だけ飲んだ。
「……笑わないー。……重いの、わたしは助かったー」
少し間があいた。
「……本では、見たことないー」
「お前が読んだ本でも、か」
「……うん」
ブランは、鼻で笑った。
笑ったけれど、杯には手を伸ばさなかった。
両手を卓の上に置いて、手のひらを上に向ける。
灯りは、ともさない。
ただ、じっと見ていた。
ノアは、自分の杯をブランの杯の隣に置いた。
こつ、と鳴った。
「ボクも、助かった」
ブランは、ノアを見なかった。
手のひらを握って、卓の下に引っこめる。
「……飯、冷めるぞ」
炉の火がはぜた。
ブランの杯は、店を出るまで半分のままだった。




