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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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刀の子

廃坑のゴブリンを巣へ帰してから、二月が経った。

年が明けて、一月の十九日。

ソラーナの裏山は、膝まで雪に埋まっている。

踏むたびに、靴の下で雪がきしんだ。


冬の坑道筋の札は、ブランが取ってきた。

雪で閉めた古い坑の口を、一つずつ見て回る。

戸板が割れていないか、雪崩で塞がっていないか、何か棲みついていないか。

「冬場の坑は、獣の寝床にちょうどいいってんだ。見回りだけで銅貨が出る。楽な札だ」

楽な札のはずだった。


三つ目の坑の口で、ブランが足を止めた。

耳が、前を向いている。

「……待て」

坑の口の脇で、雪がふくらんでいた。

ふくらみが、動く。

雪を背中からこぼしながら、白い毛の塊が起き上がった。

後ろ脚で立つ。

ラウロの背丈の倍はあった。

雪熊だ。

坑の奥で冬を越すはずの獣が、腹を空かせて下りてきたのだ。


熊が吠えた。

息が白く噴いて、獣の脂の匂いが雪の上を流れてくる。

ラウロは剣を抜いた。

両手で握り、小指と薬指で締める。

俺が下がったら、後ろに抜ける。

「下がってろ! 前は俺だ!」

雪に足を踏ん張る。

熊の前脚が、真上から落ちてきた。

剣で受けた。

腕から肩へ、杭を打ちこまれたような重さが来る。

膝が雪に沈んだ。

押し返せない。

剣が、じりじりと肩口まで下がってくる。

目の前に、黄色い牙と、熱い息。

熊の、もう片方の前脚が上がった。


ノアが、横で雪を蹴る音がした。

それより先に、後ろから気の抜けた声がした。

「……ラウロー、頭さげてー」

首をすくめた。

緑の光と風が、髪の上をかすめていく。

振り上げた前脚の付け根に、それが当たった。

熊が吠えて、のけぞる。

剣から、重さが外れた。

熊は雪に赤い点を散らしながら、坑の奥へ駆けこんでいった。

足音が遠ざかって、消える。


ラウロは、雪に膝をついたままだった。

腕がしびれている。

剣の先が、まだ細かく震えていた。

止めたんじゃない。

押しこまれていただけだ。

剣を雪に突き、それを杖にして立ち上がった。

坑の奥を睨んだまま、震える手を一度握り直す。

「……助かった、イルウェン。正直、もたなかった」

振り返ると、イルウェンは岩に腰を下ろしたまま、筒を膝に戻していた。

「……ん」

それだけだった。

ノアは、ラウロの隣で止まっていた。

踏み出しかけた片足が、雪にめりこんでいる。

飛ぶな。

灯すな。

ブランの決まりを守ったまま、ノアは間に合わなかったのだ。

「ラウロ、肩」

「平気だ」

平気ではなかった。

剣を鞘に戻すのに、二度しくじった。


ブランが、坑の口の雪に残った血の跡をしゃがんで見ていた。

「浅えな。奥で丸まって、春まで出てこねえだろ。……戸板を打ちつけて、詰所に知らせりゃ札は終わりだ」

立ち上がって、ラウロの顔を見る。

何か言いかけて、やめた。

「お前は先に下りてろ。腕、冷やしとけ」

受けずにずらせ。

カプレオの宿の裏で、物干し竿に何度も転がされて覚えたはずのことだった。

熊を前にしたら、全部飛んだ。



昼過ぎ、ラウロは一人でソラーナの町へ戻った。

坑夫の大通りは、鉱石を積んだ荷車が雪を踏んで行き交っている。

車輪の跡に溜まった泥水が、凍りかけていた。

右の肩が、歩くたびに鈍く痛む。


道端に、老人が立っていた。

胸まで伸びた白いひげ。

髪は後ろで一つに結んである。

粗末な服に、薄い外套が一枚。

ブーツは、つま先の革がめくれていた。

痩せていて、荷車の一つも押せそうにない。

冒険者には見えなかった。

けれど、腰に一本だけ挿した細身の剣の鞘が、冬の日を受けてぎらりと光った。

ボロい格好なのに、鞘だけが妙に手入れされている。

あれは、使う奴の剣だ。


ラウロは足を止めた。

老人の腰と、立ち姿をしばらく眺める。

雪の上に立っているのに、体がどこにも力んでいない。

荷車が脇をすれすれに通っても、一歩も動かなかった。

ラウロは近づいて、声をかけた。

「なあ、爺さん。その剣、飾りじゃねえよな」


老人は、目を半ば閉じたままだった。

ラウロの顔ではなく、右の腕に一度だけ目をやる。

かばっているのを、見られたのだ。

「飾りに見えるなら、お主の目はまだ飾りじゃのう」

しわがれているのに、よく通る声だった。


言い返せなかった。

けれど、聞きたいことは聞く。

ラウロは、細い鞘に目を落とした。

自分の剣の、半分ほどの幅しかない。

「……かもな。じゃあ聞くけど、そんな細いので何を斬るんだ?

今朝、熊に剣ごと押しこまれたばっかりでさ」


老人は、今度はラウロの腰の剣に目を落とした。

ゆるりと背を向ける。

「何を切らぬと言うんじゃ」

通りの裏のほうへ、顎をしゃくった。

「……ついて来い。お主の剣を抜いて見せい」



通りの裏に、雪の積もった空き地があった。

崩れた石垣が三方を囲んでいて、人の足跡は一つも無い。

老人は真ん中まで歩いて、振り向いた。

「構えてみい。それから、振ってみい」


まだ、腕が重い。

けれど、型だけは崩さない。

ラウロは剣を抜き、小指と薬指で締めて中段に構えた。

左足を意識して、踏み出す。

袈裟。

斬り上げ。

最後は横薙ぎで、刃を寝かせて押し切るように振り抜いた。

雪の粉が、刃の起こした風で舞う。

息を吐いて、構えに戻った。

「こんなもんだ」


老人は黙って頷いた。

それから、腰の剣をするりと抜いた。

片刃で、わずかに反っている。

刃の上に、波のような模様が浮いていた。

老人の肩から、力が抜けた。

腕が、ゆらりと上がっていく。

遅い。

眠って、剣を取り落としそうなほど遅い。

振りかぶった剣の先が、背中のほうへゆっくり傾いていく。

「そのままでおれ」


何が起きたのか、分からなかった。

音もしなかった。

気づくと、老人の姿が、ひげの先からめくれたブーツのつま先まで、全部見えていた。

さっきまで、自分の剣の切っ先に隠れていたはずの所まで。

手元が軽い。

足もとの雪に、何かが刺さっていた。

自分の剣の、先だった。

切っ先から三割のところで、断たれている。

手に残った剣の断面が、鏡みたいに光っていた。

老人の剣は、もう鞘に納まっていた。


見えなかった。

何ひとつ。

ラウロは短くなった剣を握ったまま、雪に刺さった切っ先と、手元の断面を交互に見た。

「……は? 今、何した」


老人は、答えなかった。

背を向けて、雪を踏む。

「お主には、それくらいの長さで十分よ。鍛錬せい」

それだけ言って、通りのほうへゆっくり歩いていった。

名前を聞くのを、忘れていた。

追いかけようとして、足が動かなかった。

老人の足跡は、来たときと同じ幅で、まっすぐ通りへ続いていた。


ラウロは、雪から切っ先を抜いた。

指で断面をなぞる。

引っかかりが、一つも無かった。



夕方、宿の裏の空き地にも雪が積もっていた。

井戸の滑車が、風できいきい鳴る。

ラウロは、三割短くなった剣を構えた。

昼の老人の、眠るような振りかぶりが、頭から離れない。

力で振るんじゃない。

抜いた力のまま、落とすんだ。

一度、息を吐いて肩を下げる。

ゆっくり振りかぶって、振り下ろした。

刃がぶれた。

もう一度。

今度は、振りかぶりをもっと遅くする。

落とす瞬間だけ、握りを締めた。

やはり、ぶれる。

三度目。

四度目。

「……くそ、速くならねえ。もう一回」


裏口の戸がきしんだ。

ブランが、杯を手に出てきた。

旅に出てから小さくなった、いつもの杯だ。

柱にもたれて一口やり、二、三振り、黙って眺めている。

それから、顎で剣を指した。

「おい、ラウロ。そいつ、どうした。随分と寸が詰まってるじゃねえか。

……あと、遅くしたって速くはならねえだろ。何やってんだ、それ」


ラウロは振る手を止めた。

短い剣を持ち上げて、ブランに見せる。

笑われてもいい。

あれは、本物だった。

「斬られた。昼に町で会った爺さんに、俺が構えてる剣ごと。見えもしなかった。

振りかぶりは寝てるみたいに遅かったのに、だ。……それを真似してんだよ。

どうやったらああなるのか、分かんねえけど」


ブランは杯を下ろした。

近づいてきて、断面を覗きこむ。

指の先で、縁をなぞった。

耳が、一度だけ後ろへ寝た。

しばらく、何も言わなかった。

「……やめとけ、とは言わねえよ。どうせ聞かねえだろ」

断面から指を離す。

「いい手本、見つけてきたじゃねえか。けどな、そいつは見せてもらっただけだ。

爺さんが本気で振ったら、もっと速えはずだ。お前に見えるように、わざと遅くしてくれたんだってんだ」

「わざと?」

「わざと。……見えなかったもんを形だけなぞっても、そりゃ踊りだ。

遅いのは振りかぶりだけで、肩も肘も抜けてたんじゃねえのか。お前、落とすとこで握り締めてる。

そこで全部ぶれてんだよ」


握り締めている。

言われてみれば、落とす瞬間に、指が勝手に締まっていた。

小指と薬指だけ。

締めるんじゃなく、添えるだけ。

ラウロは頷いて、構え直した。

「踊りでいい、今は。……落とすとこで締めない、だな。見てろ」

肩と肘を、だらりと緩める。

小指と薬指だけを柄に軽く残して、ゆっくり振りかぶった。

締めない。

剣の重さに、任せる。

刃が落ちた。

さっきより、ぶれが少ない。

雪の上の空を、刃筋がまっすぐ通った。

ただ、やはりゆっくりだった。


ブランは黙って、それを見届けた。

杯の残りを、一息に飲み干す。

「……通ったな、今の」

裏口の戸に手をかけた。

「型を体に入れろ。入ったら、実戦じゃ全部速くやるんだ。速さは、そいつの重さが勝手に連れてくる。

百回まっすぐ落とせたら、次を考えろ」

戸を半分開けて、振り返らずに付け足す。

「暗くなる前に切り上げて、飯食え」

戸が閉まった。


ラウロは、短い剣を見下ろした。

今朝、熊に押しこまれた剣だ。

長さが三割減って、手の中で軽い。

もう一度、肩を下げた。

「一つ」

刃が、まっすぐ雪の上を通った。

「二つ」

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