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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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46/99

天に堕ちて、血は昇って

ソラーナの選鉱場でベリアトと別れた日から、二十四日が過ぎた。

十月の八日。

グリージョ山地の灰色の岩に、夕日が横から当たっていた。

風には、枯れ草の匂いが混じっている。


荷馬車の護衛は、昼前に終わった。

麓の村で受け取った銅貨は、四人で割ると一人ぶんがやけに軽い。

尾根道を戻るあいだ、ラウロはそれをまだ数えていた。

「三日歩いて、これだぞ。靴の底のほうが高くついた」

「靴は直せるだろ。直せねえのは、おめえの算盤だ」

先頭のブランが振り向きもせずに言う。

「……休憩ー」

最後尾のイルウェンが、麻袋を肩に掛け直して言った。

「さっきしたばっかりだろ」

「……うん。もう、した。だから、またー」

ノアは二人のあいだを歩きながら、外套の上から背中の荷を押さえた。

袋の中の翼は、ヴァリエルが継ぎ直してから、跳ねなくなった。

歩くたびに、肩甲骨の下で同じ重さが揺れる。

「ノア、笑ってる」

「うん。ラウロの算盤、おかしい」

「お前までそれかよ」


そのとき、頭の上が暗くなった。

夕空を、大きな影が横切る。

鳥にしては、羽ばたきが重い。

影は一度高く上がり、翼を大きく広げて、一行の頭上数メートルで止まった。

白い板を重ねた翼。

小柄な体が、逆光の中で細く見える。

風が、羽ばたきに押されて砂を巻いた。


「規格外! そこを動くな。血統管理省の命により、おまえを都へ連れ戻す。おとなしく出頭せよ!」

声が裏返っていた。


「……なんて?」

ラウロが口を開けたまま、空を見上げる。

ノアは足を止めた。

背中の荷が、急に重くなった。

あの天使だ。

ヴァレンツァの路地で網をかぶって、屋根の上で母さんに叩き落とされた、あの天使。

半歩下がって、ラウロとイルウェンの前に出る。

「……やだ。ボクは行かない」


ブランが、ノアの前に半歩出た。

空の天使から目を離さず、腰の短剣の柄に手を置く。

顎で、道の脇の岩の斜面を示した。

「ラウロ、ノアの前。イルウェン、筒。……斜面へ下がるぞ、道から外れろ」

それから、天使に向けて声を張った。

「坊主、降りてきて話しな。上から怒鳴られちゃ首が痛えってんだ」

天使は降りてこなかった。

翼がもう一度、大きく羽ばたく。

「走れ!」


一行は道を外れて、岩だらけの斜面を駆け下りた。

靴底の下で小石が崩れて、後ろへ転がっていく。

背中のすぐ上で、羽ばたきの音がついてくる。

谷寄りの斜面で、ブランが足を止めた。

四人とも、息が上がっていた。

イルウェンが筒を構えて、空へ向ける。

天使が、筒の向きを見た。

高く旋回して、斜面から離れていく。

「……行ったか?」

ラウロが膝に手をついて言った。

行っていない、とノアは思った。

離れたふりだ。

こちらの息が整うのを待っている。

「ブラン、上」

そう言い終える前に、影が斜面の上手から落ちてきた。


翼をたたんだ急降下だった。

ブランの脇を翼で払って、すり抜ける。

ノアの外套の肩口を、両手がつかんだ。

「下がれ、地上の者! 用があるのは規格外だけだ!」

足が、地面から浮く。

つま先が岩を引っかいた。

ノアは浮きかけた足で斜面を蹴って、体をひねった。

相手の手首を両手でつかむ。

膝を、その腹に打ち込んだ。

「ぐっ…」

重みが、手首からそのまま下へ伝わる。

「離せ」

同時に、後ろから腰に腕が回った。

「渡さねえって言ってんだろ!」

ラウロが全体重をかけて、ノアを地面へ引き戻している。

剣を抜く間も惜しんだのだ。

その背中のさらに後ろで、イルウェンが半分しか開かない目のまま、筒を天使の翼の付け根に向けていた。

「……撃つー」

低い音がして、弾が翼の付け根の上をかすめた。

つかんでいた手が、ほどける。

天使は地面すれすれでよろめき、腹を押さえて空へ舞い上がった。


「撃ったな! 天使に筒を向けるのは重罪だぞ!」

筒の届かない高さまで上がって、天使が叫んだ。

息が荒い。

「……規格外、仲間を巻き込みたくないなら、一人で出てこい!」

手のひらが、光った。

白に近い強い光が、目の高さで弾ける。

次の一つは、岩に当たって砕けた。

石が飛ぶ。

足もとの斜面が揺れた。

「うわっ」

「岩陰だ、散れ!」

ブランの怒鳴り声が聞こえて、ノアは大きな岩の陰へ飛び込んだ。

目の奥が、まだ白い。

目をこすっても、ちらつく。

仲間の姿は、岩に遮られて見えなかった。

ブランの声だけが、少し離れたところから聞こえる。

ボクが出れば、みんなは撃たれない。

外套の紐を締め直した。

岩の縁から、空の位置を見る。

天使は、まだ高いところにいた。

ノアは仲間の声と反対側の斜面へ、岩伝いに低く走り出した。


息が切れる前に、背中の上で羽ばたきが近づいた。

振り向く間もなかった。

背中に、熱い塊が叩きつけられた。

息が、全部出ていった。

膝が折れて、岩がすぐ目の前に来る。

腕が、胴に回った。

「逃がすか、規格外!」

遠くで、誰かが名前を呼んでいる。

地面が、離れた。



冷たい風が、頬に当たっていた。

目を開けると、空だった。

空が薄暗い。

腕に抱えられて、体が揺れている。

下に、暗くなりかけた谷と尾根が流れていく。

数分、気を失っていたのかもしれない。

仲間の姿は、どこにも無かった。

「動くな。ここは空だ、暴れれば落ちる」

前を向いたまま、天使が言った。

「……おまえは規格外として都へ出頭する。決めたのは僕だ。今度は、僕の勝ちだ」

ノアは体の力を抜いた。

目だけ動かして、下の地形と、空の暗さを見る。

今は落ちられない。

隙を待つ。

「……勝ってない」

「なに」

「キミ、名前は」

天使が顎を上げた。

「勝っている! おまえは僕の腕の中だ! ……ラファル。ラファル・レグルス。

序列一位、レグルス家の跡取りだ。覚えておけ」

羽ばたきは続いている。

仲間のいる山が、どんどん後ろへ遠ざかっていく。

ノアは、ラファルの横顔を見た。

ボクと同じくらいの歳の顔だった。

「ラファル」

名前を呼ぶと、腕が少し強張った。

「都は、ボクを捨てようとした所。母さんが、ボクを連れて逃げた。母さんは下で待ってる。みんなも。

ボクは帰る」

下に、木の茂った斜面が近づいていた。

ノアはラファルの腕に噛みついた。

肘で顎を打つ。

「いっ…!」

身をよじると、体がずり落ちた。

「離すか…! 暴れるな、落ちるぞ、馬鹿!」

噛まれた腕を引かないまま、もう片方の腕が胴を締めつけてくる。

重さに引かれて、高度が落ちた。

ラファルは小柄だった。

ノアを抑えきれずに、腕が胴から首へずり上がる。

喉に、前腕が食い込んだ。

息が、詰まる。

ノアは懐に手を入れた。

ナイフの柄が、指に触れた。

殺したくはない。

でも、離させる。

抜いたナイフを逆に握って、柄頭で肘の内側を強く打った。

「ぐっ」

腕が緩んだ。

顎を引いて、腕の下へ首を抜く。

空気が、喉に流れ込んだ。

「放せ! 刃を捨てろ!」

ラファルの手が、ナイフを持つ手首をつかんだ。

外へねじり上げてくる。

ノアも、手首を返して逆へ引いた。

二人の腕が、空の上でもつれる。

握りが、ずれた。

使い慣れない持ち方だった。

刃先が向きを変えて、ノアの脇腹に沈んだ。

熱い。

それから、遅れて痛みが来た。

「……あ」

声を出したのは、ラファルのほうだった。

手首をつかんでいた力が、抜けた。

血に濡れた自分の手を、見ている。

「……ちが、僕は、刺すつもりじゃ……!」

羽ばたきが、一拍止まった。

体ががくんと沈む。

谷の暗がりが、下から迫ってきた。

ノアは片手で、柄ごと脇腹を押さえた。

もう片方の手で、ラファルの襟をつかむ。

「……飛んで。ラファル、羽、止めるな」

ラファルの目が、ノアを見た。

「わかってる…! しがみついてろ!」

両腕が、ノアを抱え直した。

歯を食いしばって、羽ばたく。

上へは上がりきれないとわかったのか、落ちる向きを斜めにずらした。

木の少ない、開けた場所を探している。

風が耳の横で鳴った。

背中の袋が、風にあおられて膨らむ。

滑空に変わった。

谷の底が、近づいてくる。

「……ラファル」

「黙ってろ!」


河原の石に、体が叩きつけられた。

もつれたまま、二人で転がった。

石が背中を打って、肺の空気が抜ける。

転がるあいだに、脇腹のナイフが抜けた。

ラファルが、短く叫んだ。

刃が、その腹を深く裂いていた。

血が、石の上に落ちる。

自分の血と、ラファルの血が、同じ石の上で混ざった。

しばらく、二人とも呻くことしかできなかった。


水の音がする。

谷底は、暗くなりかけていた。

痛みの波が、少し引いた。

先に起き上がれたのは、ノアだった。

脇腹から血は出ているが、思ったより浅いかもしれない。

ラファルは、横で腹を押さえて丸まっていた。

顔が白い。

息が、浅くて速い。

翼は泥にまみれて、広がったままだった。

抜けたナイフが、近くの石の上に落ちている。

ノアはそれを拾って、腰に差した。

這って、ラファルの横へ行く。

外套を脱いで、裾を裂いた。

丸めて、腹の傷に当てて、両手で強く押さえる。

「ラファル。見せて。……押さえる。痛いけど、動くな」

ラファルの手が上がりかけた。

ノアの手を払おうとして、力が入らずに下りた。

「……命令、するな…。おまえ、こそ…血が、出てる…。……自分のを、押さえろ」

ノアは片膝で自分の脇腹を押さえつけた。

両手は、ラファルの傷から離さなかった。

「平気。ボクは治るの速い」

残りの布で、傷の上をきつく縛る。

結び目を引くと、ラファルが息を詰めた。

「……ラファル。ミレアって名前、都で聞いたことある?」

ラファルは、目をそらした。

「……ある」

声が小さくなる。

「ミレア・ヌンティア。四つの子を連れて逃げた派遣官…。台帳に、名がある。

……前に、空で僕が翼を折った。それでも、僕に水をくれた。……報告には、書いていない」

ノアは、ラファルの顔を見た。

母さんらしい。

それと、書かなかったこの子も。

「……うん。母さんは、そういう人。書かなかったの、ありがとう」

「礼は、いらない」

ラファルは顔を背けたまま、浅い息をついた。

「約束を、守っただけだ。……それと。……刺すつもりは、なかった。……すまない」

川の音が、しばらく続いた。

ラファルの傷からの血は、縛った布の下で止まりかけている。

気が緩むと、自分の脇腹の痛みと寒さが、いっぺんに来た。

「ボクも、ごめん」

ノアは外套の残りを、脇腹に押し当てた。

帯で上から、きつく縛る。

ラファルの隣に寄って、外套を二人の上にかけた。

手のひらに、白い灯りを小さく灯す。

傷を確かめて、灯りは指のあいだで消えた。

「……ちょっと、寝る」

そのまま、横に倒れた。



夜通し歩いた。

天使の飛んだ方角を追って、山の斜面を三人で探し回った。

ラウロの靴の底は、とうに石で擦り切れている。

夜が明けかけたころ、谷底の河原が見えた。

石の上に、乾いた血の跡が広がっている。

その先に、裂けた外套を二人でかぶって、並んで倒れている姿があった。

「ノア!」

ラウロは河原を駆け下りて、剣を抜いた。

切っ先を、天使の喉元に向ける。

ノアの横に膝をついた。

青白い顔で眠っている。

脇腹と、天使の腹には、ノアの外套の布がきつく巻かれて、どちらも血に染まっていた。

息は、ある。

「……おい、お前。動くな。何があった、言え」

天使は、目を開けていた。

仰向けのまま動かず、切っ先を見上げている。

後から駆けてきたブランが、ノアの首筋に指を当てた。

脈を取って、脇腹の布を確かめる。

天使には、目だけ向けた。

短剣には、手を伸ばさない。

「イルウェン、ノアの傷見てくれ。ラウロ、湯と火だ。……動くなよ、坊主。その腹で飛べやしねえだろ。

何があった」

イルウェンが、珍しく早足で河原を下りてきた。

天使には目もくれず、ノアの横にしゃがむ。

手の甲を、ノアの口もとに当てた。

手のひらに、緑の灯りを少しだけ灯して、布の血を照らす。

「……生きてるー」

それから、天使のほうを向いた。

「……あなた、動かないでー」


天使は、腹の布を手で押さえた。

かすれた声が出た。

「……動かない。動けない」

ラウロの剣先が、わずかに震えた。

「……僕が、さらった。空で、そいつがナイフを抜いて、奪い合ううちに…刃が、そいつの脇に入った。

落ちて、僕も切れた。……そいつは、自分の傷より先に、僕の腹を縛った。……先に、そいつを診ろ」

ラウロは、何も言えなかった。

ノアの脇腹と、天使の腹の布を、順に見る。

同じ外套の布だった。

縛り目の固さが、同じだった。

「……ノアらしいや」

ブランが息を吐いて、立ち上がった。

天使の横に回って、膝をつく。

腹の布を、そっとめくった。

天使の体がこわばる。

「イルウェン、こっちだ。坊主のほうが深え」

イルウェンの見立てでは、ノアの傷は浅く、血も止まっていた。

ブランは傷から目を離さずに言った。

「診てやる。ただし治ったら、なんでノアを追うのか洗いざらい話してもらうぜ。翼はしばらく畳んどけ」

天使は、目を閉じた。

泥にまみれた翼が、背の下でゆっくりと畳まれていく。

「……わかった。話す」

ひとつ息を吸った。

「ただし、命令に従うのではない。……治療の、礼としてだ」

ラウロは、剣を下ろした。

眠っているノアの顔を見た。

淡い金の髪に、乾いた血が一筋、こびりついている。

河原の石は、血の跡のところだけが、まだ黒かった。

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