旅の人、ふたたび
坑の底から戻って、二十五日が経った。
九月の十四日。
朝の井戸の水は、もう指に冷たい。
坑夫長屋の裏の路地には、鶴嘴を担いだ男たちが列になって、坑の口へ歩いていく。
ノアは桶を引き上げながら、その列をなんとなく眺めていた。
隣の石の縁では、イルウェンが半分眠ったまま座っている。
列の中に、昨日まで坑の口で背を折って咳き込んでいた中年の男がいた。
今朝は、咳をしていない。
歩く背が、まっすぐだった。
男は襟を開けて、仲間に何か話している。
開いた襟の首筋に、赤いものが見えた。
花の形をしている。
焼いた鉄を押し当てたあとのように、縁だけが濃い。
「旅の人がくれた粒だ。代価は取らなかった」
男は得意そうに、自分の胸を叩いてみせた。
ノアの手が、縄の上で止まる。
ただでくれるなんて、あやしい。
あの赤い跡は、何だ。
隣の袖が、指で一度だけ引かれた。
イルウェンが、薄目のまま男の首を見ている。
「……あの首ー。……花ー」
ノアは頷いて、桶を置いた。
列に歩み寄り、男の前に立つ。
「それ、誰にもらったの」
男は目を丸くしたあと、人のいい顔で長屋の奥を顎で示した。
「奥にいるよ。行ってみな」
長屋の奥の一間は、薄暗かった。
窓は板で半分塞がれ、細い光が床に一本だけ落ちている。
咳が聞こえた。
乾いて、喉の奥で引っかかるような咳だ。
若い坑夫が敷布の上で背を丸め、その枕元に、男が一人座っていた。
長身で、肩と胸が厚い。
黒い短髪の下で、赤みの強い琥珀の目が、こちらを向いた。
ヴァレンツァで一日を一緒に歩いた旅の人だ。
ベリアト。
左手は、あの時と同じ布に包まれて、膝の上から動かない。
ベリアトは目を丸くした。
それから、笑った。
右手は咳き込む坑夫の胸に置いたままだ。
口の前に指を一本立て、静かに、と示す。
空いた指先で、ノアを手招いた。
「……ノア? 坂の娘じゃないか。こんな所まで、どうしたんだ。
少し待っててくれ、こいつを先に楽にしてやるから」
ノアは右手を脇に挟んだ。
「……うん。待つ」
黙って中へ入り、戸口に近い壁際に立つ。
ベリアトの手が置かれた胸と、その坑夫の首筋を見ていた。
そこにも、花の形の赤い跡がある。
咳が、少しずつ間遠になった。
やがて寝息に変わる。
ベリアトは毛布を掛け直して立ち上がり、ノアの前まで来た。
厚い外套と丸めた背を、上から下まで眺める。
口の端が上がった。
「ずいぶん着込んだな、亀みたいだぞ。まあいい、会えて嬉しいよ。
……そうだ、坂の下の咳の子、ティナは元気にしてるか?」
右手が、ノアの肩を軽く叩いた。
背が固くなる。
ノアは肩を引き、外套の背を壁のほうへ向けた。
「知らない。三月に街を出た」
そう言ってから、寝ている坑夫の首筋を見て、ベリアトを見上げた。
「……粒、キミが配ってるの?あの赤い跡、なに」
ベリアトは穏やかに頷いた。
首筋の跡を一度だけ振り返る。
「ああ、俺が配ってる。代価は取らない。あの跡は、粒が体に根づいた印だ。
灼けたみたいに見えるが、痛みはもう無い。こいつの肺は、もうあの粉に負けない」
声が、少し低くなる。
「……どう思うかは、あんたが決めろ」
続けて、声をさらに落とした。
「ティナのこと、気になっててな」
ノアは黙っていた。
寝息だけが、部屋の中にある。
咳は、本当に止まっている。
それでも、ただで治るなんて、信じられなかった。
「ティナは知らない。……代価が無いなら、キミは何がほしいの」
ベリアトの笑いが、すこし引いた。
布を巻いた左手を、外套の陰へ下ろす。
「生まれで決まる世の中を、ひっくり返したい。それだけだ。前にも言ったろ、変えられるって。
……ティナのことは、あんたが帰ったら見てきてくれよ。約束だ」
生まれで決まる世の中を変えたいのは、ノアも同じだ。
同じなのに、その左手は隠している。
ノアは布に目を落とした。
「約束はしない。……その左手、なに」
ベリアトは左手を軽く持ち上げた。
布は解かない。
すぐに下ろして、肩をすくめた。
「最初の代価だ。誰かが先に払わなきゃ、奇跡は地上に届かなかった。それ以上は、今度な。
……夕方、町外れの選鉱場で治った連中と会う。気になるなら来いよ。自分の目で見て決めりゃいい」
夕方の選鉱場には、砕いた鉱石の山と洗い桶が並んでいた。
石の粉の匂いが、赤い日に焼けている。
仕事を終えた坑夫が七、八人、ベリアトを囲んで笑っていた。
どの首筋にも、手首にも、胸元にも、花の形の赤い跡がある。
咳をする者は、いない。
ノアに気づいたベリアトが、右手を上げた。
「来たか」
坑夫の一人が袖をまくり、手首を突き出してくる。
ノアは顔を寄せた。
触れずに、じっと見る。
縁の濃い赤い花が、脈に沿って一輪だけ咲いていた。
坑夫の顔と、跡を見比べる。
この人たちは、笑っている。
救えるものなら、ボクはいままで、何を救えたのだろう。
ノアはベリアトの前まで歩いた。
「……咳、止まってる。ベリアト。粒は、どこから来るの」
ベリアトは坑夫の肩を叩いて下がらせ、ノアに向き直った。
声が、低くなる。
「来たな。……粒は、古い言い伝えを継ぐ者たちが作ってる。俺はそれを運んで、渡すだけの伝承者だ。
どこの誰が、までは言えない。それで勘弁してくれ」
そのとき、砂利を踏む足音が近づいた。
酒の瓶を下げたブランが、少し離れた所で足を止めた。
ベリアトの左手と、坑夫たちの跡を、一通り眺める。
それから瓶を下げたまま、ノアの横まで来て、肩を軽く叩いた。
「ノア、宿だ。飯が冷める。……連れが世話になったな、あんた」
ベリアトは笑って、右手を軽く上げた。
ブランの目を、一度だけ、まっすぐ見返す。
「世話なんかしてないさ。こっちが見られてただけだ。飯は冷めないうちに食わせてやってくれ。
……ノア、またな」
ブランは短く顎を引いた。
周りの坑夫たちの目が、瓶に寄っている。
一番近い男に、放るように瓶を渡した。
「……ああ。そいつは置いてく、あんたらで飲め。行くぞ、ノア」
背中を押される。
歩き出す前に聞こうとしたことが、喉の奥に残っていた。
ノアは押されるまま、二、三歩、歩いた。
選鉱場の笑い声が、背に追いついてくる。
出口の壁に、ラウロがもたれて待っていた。
ノアは右手を脇に挟んで、足を緩めた。
頬が熱い。
「みんな、咳してなかった。……ボクたちが救えなかった分を、あいつは救ってる」
ラウロは壁から背を離して、横に並んだ。
「……なら、いいじゃねえか。救えなかった分まで背負うなよ。お前の手は、お前の手だ」
一度だけ、ノアは選鉱場を振り返った。
それから、三人で宿へ戻った。
冷めかけた飯が、卓に出ていた。
夜の小部屋に、灯りは無かった。
窓から入る月で、荷の口が白く見える。
ノアは窓辺に座り、結った髪をほどいた。
荷の底から、青い糸を取り出す。
指に巻いて、しばらく眺めた。
右の手のひらを開く。
白い灯りが、豆粒ほどにともった。
すぐに握って、消す。
手の中に、熱だけが残った。
糸で髪を後ろに一つ結い直し、外套の背を抱えるように膝を寄せた。
「……母さん。ボク、どうしたらいい」
窓の外では、坑の口の煙が、月の下をまっすぐ上っていた。




