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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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坑の底

翼の継ぎ目を直してもらってから、一月と十二日が経った。

八月の二十日。

朝のうちから、ソラーナの坂は熱い埃の匂いがしていた。

外套の下は汗でじっとりしている。

左の端はあれ以来、一度も勝手に跳ねない。


灰鷹の詰所の掲示板に、札が一枚増えていた。

北の坑道で落盤があった。

取り残された坑夫を運び出すこと。

崩れた坑に棲みついた岩喰いを追い払うこと。

岩喰いは犬ほどの大きさの地虫だと、札の端に小さく添えてある。

札の前に、煤けた顔の男が立っていた。

胸が厚く、五十がらみ。

坑夫組の頭だと、番の男が小声で教えてくれた。

腕の立つ組を探しているらしい。


ブランが、迷わず札を剥がした。

ノアたち三人は、その後ろに並ぶ。

「親方、この札、うちが受けます。エンジェルウィング、四人です」

ブランは右手を持ち上げ、手のひらに小さく灯りをともした。

黒に近い灰色だ。

頭の目が、そこに留まる。

黙ったまま、靴の踵が半歩ぶん、床を引いた。

「……色は見ての通りですがね、暗い坑で灯りに頼らず虫の巣を当てるのは得意なんで。

ノア、イルウェン、見せてやれ」

ブランは顎で後ろを示した。

イルウェンは壁に寄りかかったまま、目だけを動かす。

見せる気は、あまり無さそうだった。


ノアは外套の背の荷を揺らさずに、一歩前へ出た。

手は外套の中に入れておく。

灯りは見せない。

腕で見せればいい。

頭の目を、まっすぐ見る。

「ボクはノア。跳ぶのと、潜るのは得意。案内して」

頭は渋い顔のまま、鼻から息を抜いた。

「……北の口だ。案内を付ける」

札は、ブランの手に残った。



坑の中は、外よりずっと冷たかった。

カンテラの光が届くのは、前の三歩ぶんだけだ。

その先は、黒い。

落盤の手前まで、五、六人の坑夫が案内してくれた。

誰もが、しきりに咳をしている。

乾いた咳が、岩の壁に当たって何度も戻ってくる。


古い木の支柱が、ところどころで軋んだ。

天井から細かい石屑が、ぱらぱらと落ちてくる。

奥で、何かが岩を擦る音がした。


ラウロが、手近な支柱に掌を当てた。

揺れを確かめ、天井の石屑を見上げる。

それから振り返って、手で列の形を示した。

「ここの支柱、腐ってる。触るな、肩も当てるな。

並びは一列、ブランが先で耳、ノアが次、俺、イルウェンは後ろで灯り絞って足もとだけ。

剣はここじゃ振れねえ、俺は突きだけにする。坑夫の皆さんはここで待っててくれ、咳も音になる」

ブランが鼻を鳴らして、先頭に立った。

ノアはその後ろにつく。

外套の下で、翼は大人しく畳まれている。


最後尾で、イルウェンの手のひらに若葉色の灯りがともった。

ラウロの足もとだけを、丸く照らす。

肩には筒が掛かったままだ。

「……筒、ここじゃ撃たないー。……落ちるからー」

手は、筒に伸びなかった。


進み出す前に、待つ坑夫の一人がノアの袖の近くで声を落とした。

痩せた若い男だった。

咳の合間に、息が笛のように鳴る。

「気ぃつけてな。……なあ、灰色の粒で咳が止まった奴がいるって話、聞いたことあるか。

ほんとなら俺も欲しいんだが」

灰色の粒。

ノアは小さく首を振った。

「聞いたこと無い。……あとで聞く」

男は、少しだけ笑った。

笑うと、また咳が出た。


先で、道が二つに分かれていた。

上は、崩れた岩の隙間。

下は、這ってしか通れない穴。

ノアは上の隙間を指し、自分の胸を指した。

下の穴は、ラウロに目で渡す。

「上はボクが行く」

崩れた岩の縁に指をかけ、支柱には触れずに登り始めた。

音を立てない。

石が一つ、足の下で鳴りかけて、止まった。


隙間の向こうは、天井の低い広い穴だった。

岩の床に、白っぽい筋が何本も走っている。

筋の先で、岩が動いた。

岩ではなかった。

犬ほどの大きさの、灰色の地虫が三匹、身をよじっている。

口が、岩の角を噛んで削っていた。


下からブランの声が、低く届いた。

耳で、位置を当てている。

右、奥、二つ。

ラウロの剣先が、突きだけで一匹を壁に押し戻した。

ノアは手の届く石を拾い、上から続けて落とす。

石が岩を叩くたびに、地虫は嫌がって古い坑のほうへ下がっていった。

三匹とも、奥の暗がりに消えた。

イルウェンの若葉色の灯りは、その間ずっと、味方の足もとを照らしていた。


取り残されていた坑夫は二人。

片方は、脚を折っていた。

ラウロとブランが交代で担ぎ、ノアが先に立って狭い所の石をどけた。

坑の口までが、やけに長かった。



夕方の坑の口は、赤く染まっていた。

坑夫たちが、運び出された仲間を囲んでいる。

誰かが水を飲ませ、誰かが咳き込んだ。

頭が、小袋を持ってブランの前に来た。

袋の口は固く縛ってある。

指先で、つまんでいる。

ブランが手のひらを出すと、頭はその上に、落とすように袋を放した。

指は、一度もブランの手に触れなかった。


ブランは、落ちてきた袋を軽く握って重さを確かめた。

肩をすくめ、腰に下げる。

「どうも、親方」

それから、ノアの頭を軽く押して、坑の口に背を向けた。

「……ノア、行くぞ。今夜は一杯ぐらいおごってやる」


ノアは歩きながら、一度だけ振り返った。

頭が、外套の裾で自分の手を拭っていた。

ブランの手に触れた所はどこも無いのに、念入りに。

ノアは前に向き直り、ブランの横に並んだ。

ブランの手の甲に、自分の手の甲を軽く当てる。

「うん。ボクが払う」

ブランは鼻で笑った。

手の甲が、一度だけ当て返してくる。

「十年早えってんだ。……一杯だけだぞ」


背後で、咳の音が続いていた。

灰色の粒。

ノアは、その言葉を口の中で一度だけ転がして、坂を下りた。

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