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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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43/99

翼をなおす

ソラーナの門をくぐった日から、一月と二十日が経った。

七月の八日。

山の上の雪は、もう筋になって残っているだけだった。

坑口の煙は、夏の空にまっすぐ上っていく。


昼前、ラウロとブランは灰鷹の詰所を出た。

坑道の護衛の札を一枚、ブランが懐に入れている。

荷運びと見張りの、銅貨の仕事だ。

それでも、宿代には足りる。


ブランは宿へ向かう坂を折れずに、町役所の塔のほうへ歩いた。

ラウロは黙って後ろに付いた。

この一月半、仕事を拾うたびに、ブランは同じことを聞いて回っていた。

灯りで動く道具を直せる者はいないか。

詰所の番も、鍛冶屋も、首を横に振った。


塔の下の暦板の前に、腰掛けが一つ置いてある。

そこに、老人が座っていた。

背が低く、腰が曲がっている。

坑夫上がりらしく、首と肩だけが太い。

板の縁に掛けた右手は、薬指と小指が根元から無かった。

ラウロは、その手から目が離せなかった。


ブランが、帽子に指を掛けて軽く下げる。

「よう、刻み手の。灯りで動く道具を直せる者を知らねえか」


老人は、腰掛けから顔だけを上げた。

ブランを見て、それからラウロを、頭から足まで眺める。

「おまはんか。あの寒がりの子は、このところ顔を見せんな。……灯具の直し手なあ。ええか、数えるぞ。

この町で灯具をいじる者は、役所の下請けが一つ、坑の詰所の修繕番が一つ、それと名を出さん者が幾人か。

どれに当たるかは物によるがね。何を直したいんだで。誰の持ち物で、どこで壊れた。

それを言わんと、わしも口を開けんがね」


寒がりの子。

ノアのことだ。

ラウロは口を開きかけた。

ブランの目が、横からこっちを見た。

黙ってろ、という目だった。

ラウロは、口を閉じた。


ブランは帽子のつばを指で押し上げた。

板の縁の、欠けた指をちらりと見る。

「寒がりは宿で丸まってるよ、心配いらねえ。……物は仲間の持ちもんだ。

背負って使う古い灯具でな、遺跡物の類いだってんだ。壊れたのは山向こうの空き地で、落っことした。

骨組みが一本曲がって、繋ぎがうまく噛まねえ。役所の下請けに持ってきゃ帳面に載るだろ、それは困る。

名を出さねえほうで、口の堅い腕のいいのを一人、あんたが数えた中から教えてくれりゃ、礼はする」


嘘と本当が、半分ずつ混ざっている。

翼とは、一言も言わなかった。


老人の顔色は、変わらなかった。

ラウロを、もう一度だけ眺める。

それから欠けた右手の指で、板の縁を三度叩いた。

こつ、こつ、こつ。

声が、少し低くなる。

「背負う灯具か。ほう。……名は出さん。出さんのが、あの者の戸を開けるこつだで。ええか、数えるぞ。

今日が七の月の八日。晩の鐘が一つ鳴って、二つ目が鳴る前。物を布に巻いて、ここへ持って来い。

わしが坑夫長屋の奥まで連れて行く。わしが一緒でなけりゃ、あの戸は叩いても開かんがね。

礼は銭でなくてええ。その代わり、物の持ち主も連れて来い。

持ち主の背に合わせて骨を曲げにゃ、繋ぎは噛まんで。それでええか、おまはん」


持ち主の背。

ラウロは、欠けた指から目を上げた。

この爺さんは、もう分かっている。

分かっていて、言わせないでいる。

持ち主を連れて来いというのは、ノアを連れて来いということだ。

あいつに黙って、決めるわけにはいかない。


ラウロは、短くうなずいた。

「分かった。鐘一つと二つの間、布に巻いて持ってくる。持ち主も連れてくる。

……ただ、持ち主に話すのは俺からだ。来なかったら、その時はまた頼みに来る」


老人は、ラウロにゆっくりうなずき返した。


ブランが横から、一歩前に出た。

「来なかった時のために、せめてどんな奴かだけ聞かせてくれ。叩いても開かねえ戸ってのは、どういう戸だ」


老人は、腰掛けから動かなかった。

声も、平たいままだった。

「おまはんの口から話すのでええ。……どういう戸か、か。ええか、数えるぞ。一つ、あの者は銭で動かん。

二つ、帳面に名を書く者と、役所の匂いのする者には開けん。三つ、物を見せる前に由来を語る客は嫌う。

黙って物を卓に置いて、壊れた所だけ指で差す客になら開ける。

種がどうだ顔がどうだは、わしの口からは言わん。言えば、おまはんらが勝手に訪ねて行くでな。

わしの刻んだもんを勝手に写されるのも、わしの知り人を勝手に叩かれるのも、同じに嫌いだで。

来なんだら、またここへ来い。わしはこの腰掛けから、そうそう動かんがね」


ブランは、鼻を一つ鳴らした。

「上等だ」


塔を離れて坂を下りながら、ラウロは一度だけ振り返った。

老人は、もうこっちを見ていなかった。

暦板の「一五八九」を、欠けた手でなぞっていた。



宿の部屋は、二階の奥にある。

窓を開けても、坑口の煙の匂いしか入ってこない。

昼過ぎの部屋は、むっと暑かった。


ノアは、窓の下の床に座っていた。

外套は着たまま。

フードだけを下ろしている。

背中の袋の中で、翼を前へ回して膝に抱えるように包んでいた。

汗が、首筋を一本流れていく。


戸が開いて、ラウロとブランが入ってきた。

ラウロが、塔の下でのことを話した。

直し手を知っているが、名も種族も言わない爺さんのこと。

晩の鐘の一つ目と二つ目の間に、物を布に巻いて、持ち主も連れて来いと言われたこと。

銭で動かず、帳面に名を書く者を嫌い、由来を語る客には戸を開けない直し手のこと。

「持ち主に話すのは俺からだ、って言っといた。行くかどうかは、お前が決めろ」


ブランが、寝台の端に腰を下ろした。

酒の瓶を出しかけて、やめる。

「帰りに坑道筋の飯屋で、坑夫どもの噂を拾った。

坑道筋の外れの選鉱小屋に、エルフの女の灯具屋がいるそうだ。人間の客は戸口で追い返す偏屈だとさ。

ジルドが言ってたのは、多分そいつだ」


ジルド。

塔の下の、指の欠けた老人の名前だった。

ノアは、外套の上から背中の袋に手をやった。

あの老人は、五月にも背中を見ていた。

袋のことも、行き先のことも聞いてきた。

だから、このひと月半、塔の前は通らなかった。


黙って物を置いて、壊れた所を指す。

それなら、ボクにもできる。


ノアは、ラウロとブランの顔を順に見た。

それから、部屋の隅の寝台に目を向けた。

イルウェンが、横になったまま半分の目でこっちを見ていた。


「ありがとう、ラウロ、ブラン。行く。晩の鐘の一つ目と二つ目の間だね。布はボクが巻く」


寝台の上で、イルウェンの片手がゆっくり上がった。

指が、天井を差したまま止まる。

「……エルフなら、わたし、行くー。……戸口、開けさせるー」


ラウロが、目を丸くした。

「お前が、自分から行くって言った?」


イルウェンは答えなかった。

上げた手を、そのまま寝台に落とした。

目が、閉じた。


ノアは、膝の上の翼を袋ごと抱え直した。

左の端が、袋の中で一度だけ跳ねた。



晩の鐘が、一つ鳴った。

低くて、重い音だった。

坑口から下りてくる坑夫の列と入れ違いに、四人は塔の下へ向かった。


ジルドは、約束どおり腰掛けから立ち上がった。

何も言わずに、坂の脇の路地へ入っていく。

ノアは、外套の下で布に巻いた背中を少し丸めた。

ジルドは一度だけ振り返って、その背中を見た。

目は、すぐに前へ戻った。


坑夫長屋の路地は、曲がるたびに細くなった。

軒の低い戸口から、煮炊きの煙と、子どもの泣き声が漏れてくる。

長屋が切れたところで、石を積んだ古い小屋が一つ、山肌に張りつくように建っていた。

選鉱小屋だ。

窓の板の隙間から、灯りが細く漏れていた。


路地の口で、ジルドが止まった。

小屋のほうへ顎をしゃくる。

それ以上は、一歩も近づかなかった。

ラウロとブランも、ジルドの横で足を止めた。


ノアとイルウェンの二人で、戸の前に立った。

イルウェンが、こん、と一つだけ戸を叩いた。


しばらくして、戸が半分だけ開いた。

女が一人、隙間から顔を出した。

エルフだった。

耳の先が、イルウェンよりも少し長い。

細身で、背がやや丸い。

作業台に長く屈みつづけてきた、という肩をしていた。

年の頃は、母さんよりも上に見えた。

右手に、細い工具を持ったままだった。

その指は節くれだって、細かい火傷の痕で斑になっている。


女は、イルウェンとノアを上から下まで眺めた。

路地の口のラウロに、ちらりと目をやる。

「なんだい、晩の鐘が鳴ったってのに。同族なら戸は開けてやるよ、まったく。

けど人間のはそこから一歩も入れないからね。で、あんたら何の用だい。灯具の直しなら手短に言いな」


早口だった。

エルフの口から坑夫の言葉が出てくるのが、ノアには妙に聞こえた。


イルウェンは、戸口に突っ立ったままだった。

半分の目で、ノアの背中の布包みを指さす。

それから、ノアの袖をつまんで、自分の隣に引き寄せた。

「……直しー。……これ。……この子、同族の連れー。入れてー」


女の目が、ノアの耳に行った。

それから、外套の下で盛り上がった背中に行った。

女は、長いため息をついた。

「なにが同族の連れだい、耳がまるいじゃないか、まったく」


戸が、大きく開いた。

女は、顎で中を示した。

「……ふん、まあいい、背中のそれが気になるからね。入んな、二人とも。

だけどそこの路地の人間のと獣人のは、外で待たせときな。それとあんた、目ぇちゃんと開けてしゃべりな。

寝ぼけてる娘に、灯具の話はできないよ」


イルウェンは、目を少しだけ開けようとした。

開かなかった。

半分のまま、中へ入る。

「……開いてるー」



中は、物で埋まっていた。

作業台の上にも、壁の棚にも、灯具の部品と鉱石の屑が積んである。

棚の上の段には、背の割れた古い本が詰めこまれていた。

油と、焦げた硝子の匂いがした。

作業台の脇に、背もたれの欠けた椅子が一つ。


イルウェンは、ノアの背中を作業台の前へ軽く押し出した。

自分は、その椅子に腰を下ろした。

勧められても、いないのに。

「……背中の、見てあげてー」


女が、イルウェンをじろりと睨んだ。

手の工具を、作業台に置く。

「勧めてもない椅子に座るんじゃないよ、まったく。

それにあんた、眠たげな顔して、目だけは棚の背表紙をなぞってるね。

森の連中のそういう気取り、あたしには通じないよ」


イルウェンは返事をしなかった。

半分の目が、棚の古い本から離れなかった。


女はノアの正面に立った。

背中の布包みに、目を落とす。

「……で、そっちのあんた。背中のそれ、自分で外せるのかい。何なんだい、それ。いつから背負ってる」


由来は、言わない。

ジルドの言ったとおりだ。

ノアは、外套を肩から落とした。

布包みの結び目に指を掛けて、ほどく。

母さんが縫った帆布の袋が、床に落ちた。

女に、背を向けた。

畳んだ翼が、背中で重く揺れる。

ノアは肩越しに手を回して、付け根を指さした。

翼が、背中の痣に食いこむように繋がっているところ。

そこから左へ、折れたまま継がれた端。

「外せない。ここが壊れてる。直してほしい」


背中の後ろで、女が黙った。

戸はまだ開いていて、路地の風が背中に当たった。


足音が、戸口へ行った。

戸が閉まる音。

閂が、がたんと落ちる音。


足音が戻ってきた。

背中のすぐ後ろで、ふっと明るくなる。

女が作業台の灯具を一つ、手のひらで灯して翼にかざしたのだ。

指先が、折れた継ぎ目の上をそっと撫でた。

鉄の当て板と、鋲の頭を、一つずつ。

「まったく、戸を開けっぱなしで見せるもんじゃないよ、こんなの。……なんだいこの当て板は。

鍛冶屋が鍋の穴でも塞ぐみたいに鋲を打ちやがって、継ぎ目が泣いてるよ。

あんた、これ付け根まで痛むのかい。触るよ、痛けりゃ言いな」


付け根に、指が触れた。

背中の奥が、じんと鳴った。

ノアは、動かなかった。

「うん、少し痛む。平気。触って」


女の爪が、当て板の縁をなぞった。

継ぎ目を、灯りで透かして見ている気配がした。


かつん、と後ろで音がした。

イルウェンが椅子で身じろぎして、腰の袋から覗く筒が、椅子の脚に当たったのだ。


女の手が止まらないまま、声だけが振り向いた。

「ふん……中の継ぎは見事なもんだよ、昔の誰かの手だ。けど鋲が中の筋まで噛んでる。

鋲を抜いて当て板を剥がさなきゃ、何も言えないね。痛みはたぶんそこからだよ。剥がすには一晩かかる。

……それとあんた。その袋の筒、なんだい。口金も硝子もない、灯具じゃないね。

あたしの工房に得体の知れないもん持ちこむなら、先に見せな」


ノアは、肩越しに振り返った。

イルウェンが座ったまま、袋から筒を抜いていた。

口を床に向けたまま、作業台の端に置く。

指で、女のほうへ少し押しやる。

「……筒ー。……撃つやつ。……どこのかは、知らないー」


ローザの闇市で、とも、地下から流れてきた、とも言わなかった。

本当に、知らないのだ。


女は、筒を手に取らなかった。

指先で転がして、口を壁のほうへ向け直す。

継ぎ目と、刻まれた小さな印を、手のひらの灯りで照らして眺めた。

それから作業台の上を片手で払って、場所を空けた。

棚から、坑夫が腰に下げる安全灯を一つ。

撫でると光る硝子の球を一つ。

その二つを並べて、横に筒を置いた。

最後に、ノアの背中の翼を、顎で示した。

「撃つやつ、ねえ。口を人に向けるんじゃないよ、まったく。……いいかい、二人ともよく聞きな」


女は、安全灯を指で弾いた。

「こっちの安全灯と球は灯具だ。手のひらで灯りを入れてやって、初めて光る。

入れた分しか働かないし、口金と硝子があるから、灯りの入り口が分かる」


指が、筒に移った。

「この筒には、その入り口がない。

灯りを入れる道具じゃなくて、何か別のもんで動くか、もう中に溜めてあるかだ。

あたしの知った道具じゃないよ」


それから、ノアの背中に戻った。

「で、あんたの背中のは外装。体の外に着けて、力を足す。遺物の類だ。

普通は着けたり外したりするもんだけど、あんたのは肌に繋がってる。灯具とも筒とも違う。

あたしも、初めて見る作りだよ」


ノアは、作業台の三つを見た。

安全灯。

硝子の球。

イルウェンの筒。

それから、肩越しに自分の翼の端を見た。

母さんがあの晩、背中に着けて飛んだもの。

ヴァレンツァでは、灯具も翼も、ひとまとめに「灯りで動く物」だと思っていた。

違うのだ。

三つとも、違う。


剥がすには一晩かかる、と女は言った。

一晩でも、何日でもいい。

直るなら、ここにいる。


ノアは、女にうなずいた。

「うん。一晩でいい。剥がして。ボクはここにいる」


女は当て板の鋲を、工具の柄で軽く叩いた。

こん、と鈍い音がした。

ノアの背中から手を離して、言う。

「ここにいるったって、寝床なんかないよ、まったく。で、あんた、どこまで直すんだい。

鋲と当て板を剥がして痛みを取るだけか、それとも折れた継ぎを元どおり、

昔の手に負けないくらいに継ぎ直すか。後のほうなら何日もかかるし、部品も要る」


女はそこで、椅子のイルウェンに向き直った。

「……代価の話もしとくよ。銭でもいいけどね、そっちの寝ぼけ娘。

あんた、さっきから棚の背表紙を読んでるだろ。あの古い字が読めるんなら、何冊か読んで聞かせな。

それで、手間賃の半分はまけてやるよ」


痛みを取るだけか。

元どおりか。

ノアは、女に向き直った。

まっすぐ、目を見る。

母さんの翼だ。

折れたままは、やだ。

「元どおりに。何日でもいい。部品は探す。寝床は床でいい」


それから、椅子を振り返った。

イルウェンは、筒と棚の本を交互に眺めていた。

「……イルウェン、頼める?」


少し、間があった。

イルウェンは、椅子に深く座り直した。

片手を、棚のほうへ伸ばす。

届かない。

「……うん。……座ったままなら、読むー。……本、取ってー」


女の口の端が、一度だけ動いた。

棚から、背の割れた古い本を三冊抜き出す。

イルウェンの膝の上に、どさりと置いた。

「人に取らせるんじゃないよ、まったく。ほら、これとこれとこれ。刻印の部品の束も、後で見せるからね」


作業台に戻って、工具を並べ直す。

手を止めずに、言った。

「……元どおりだね、分かったよ。床で寝るなら、筵くらいは出してやる。残り半分は、あんた、手を貸しな。

部品探しは町の者の伝手を当たるから、あんたが走るんだ。

それと仕上がったら、その翼であたしの継ぎ目がどれだけ持つか、ちゃんと見せに来な。

昔の誰より上手いって、あたしが確かめなきゃ気が済まないからね」


ノアは、うなずいた。

床に落ちた帆布の袋を拾って、腕に抱えた。


女の名は、ヴァリエルといった。

筵を出してくれたときに、ついでのように名乗った。



四日が経った。


最初の晩のうちに、ヴァリエルは鋲を抜いて、当て板を剥がした。

鋲が一本抜けるたびに、付け根の奥のじんとした痛みが、少しずつ薄くなった。

最後の一本が抜けたとき、ノアは作業台に額をつけて、長く息を吐いた。


イルウェンは毎日、背もたれの欠けた椅子に座っていた。

膝の上の古い本を、指でなぞりながら読み上げる。

間延びした声で、一行ずつ。

「……ここ、継ぎの、向きー。……こっちは、熱を逃がす、筋ー」

ヴァリエルは、その声を聞きながら手を動かした。

部品の束の刻印も、イルウェンが読んだ。

読み終えると、イルウェンは本を膝に載せたまま、椅子で眠った。


ノアは、工房の床の筵で寝た。

昼は、ヴァリエルの書いた品書きを持って町を走った。

ヴァリエルの伝手の、名を出さない者の戸口を叩き、細い真鍮の軸や、薄い板を集めて回った。

足りない手間賃の分は、坑道で稼いだ。

鉱石の籠を背負って坑口と選鉱場を往復し、足場の届かない高い梁に上って、滑車の縄を掛け替えた。

坑夫たちは、外套を脱がない子を不思議がったが、それ以上は聞かなかった。


部品の銭の掛け合いは、ブランが戸口越しにやった。

ヴァリエルは一度も戸の外へ出なかったし、ブランも一度も中へ入らなかった。

戸の隙間越しに、銭の数で言い合う声が、毎日一度は聞こえた。

ラウロは外で、部品の荷を運んだ。


四日目の夕方。

ヴァリエルが、最後の継ぎ目を締め終えた。


ノアは、作業台の前に背を向けて立っていた。

背中で、工具の音が止まる。

細い指が、継ぎ目の上を何度も撫でた。

一度。

二度。

三度。

小さな声が、背中の後ろでこぼれた。

「ここは昔の誰よりうまい」


それから、肩をぽんと叩かれた。

ノアは、振り向いた。

「……ほら、済んだよ、ノア。左の端、もう跳ねないだろ。継ぎは元どおり、いや元より細かくしといた」


ノアは、背中に力を入れた。

翼が、少しだけ開く。

左の端まで、すっと広がった。

跳ねない。

勝手に動かない。

右と同じに、ノアの言うことを聞いた。


ヴァリエルは、工具を作業台に置いた。

声が、少しだけ低くなった。

「ただね、飛べるかどうかは、あたしにゃ請け合えないよ。継ぎ目は持つ、そこは保証する。

けど翼に力を通すのは灯具と違って、あたしの手の外だ。

イルウェンが読んだ本にも、そこは書いてなかったろ。いきなり高い所から跳ぶんじゃないよ、まったく。

地べたで、少しずつ広げて試しな」


椅子のイルウェンが、本を膝に載せたまま、半分の目でうなずいた。


ヴァリエルは、少し迷うように戸口を見た。

それから、戸口へ歩いていって、閂を外した。

戸を開ける。

夕方の光が、細長く床に差しこんだ。

「……おい、ラウロ、ブラン。入んな。今日だけだよ、人間の。仕上がりくらい見せてやる」


路地の石に腰掛けていたラウロが、跳ねるように立った。

ブランが、その後ろからのそりと入ってきた。

二人とも、初めて工房の中を見回した。


ノアは、翼をもう一度だけ動かした。

左の端を、確かめる。

母さんの翼が、ちゃんと戻っていた。

目が、細くなった。

ノアは、ヴァリエルに深く頭を下げた。

「ありがとう。跳ねない。地べたで試す」


顔を上げて、ラウロとブランに背中を向けた。

畳んだ翼の、左の端を見せる。

「……ラウロ、ブラン、見て。直った」


ラウロが、口を開けたまま、左の端を見た。

ブランは何も言わずに、帽子のつばを指で下げた。


ノアは、帆布の袋に翼を収めて、外套を羽織った。

椅子のイルウェンの袖を、引く。

「行こう」



坑道筋の道を、宿へ戻った。

夕方の日が低くて、四人の影が坂の上へ長く伸びていた。

晩の鐘には、まだ間がある。

人通りは、ほとんど無かった。


ラウロとブランは、数歩先を歩いていた。

部品の銭が高かっただの、真鍮の軸は値切れただのと、言い合っている。

ノアは、イルウェンの袖を引いたまま歩いていた。

イルウェンは、眠そうな足取りで、引かれるままに付いてくる。

四日間、座りっぱなしで読んでいた人の足だった。


ノアは、袖から手を離した。

隣を歩きながら、イルウェンの顔を見た。

「イルウェン、ありがとう。四日も読んでくれた」


イルウェンは、半分の目でノアを見た。

「……うん」


それだけだった。

ノアは、足を速めた。

先を歩く二人に並ぶ。

ラウロとブランが、言い合いをやめてこっちを見た。

「……ラウロ、ブランも。ありがとう」


外套の下で、背中の袋が揺れた。

左の端は、もう跳ねなかった。

ノアは、坂の上の、坑口の煙の向こうの空を見上げた。

「明日、地べたで広げてみる。見てて」

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