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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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こよみ

丘の窪地で野宿した晩から、一月と六日が経った。

五月の十八日。

山の上の雪は、まだ白く残っていた。


オルソ川の西の丘を抜けて、北へ大きく回りこんだ。

宿のある村では泊まり、無いところでは窪地で火を小さく焚いた。

道はだんだん上りになって、川は細く、速くなった。

そうして朝のうちに、ソラーナの南の門をくぐった。


門の先は、まっすぐな上り坂の大通りだった。

鉱石を積んだ荷車が、石畳を軋ませて上り下りしている。

車輪の鉄の輪が石を噛むたびに、腹の底まで響いた。

通りの突き当たりの山肌に、黒い穴がいくつも口を開けていた。

坑口だ。

その上から、煙が空に灰色の筋を引いている。

カプレオの港の、魚と潮の匂いは無い。

ミラベルの、麦と湿った土の匂いでもない。

鼻の奥に来るのは、鉄と煙の匂いだった。


通りの上のほうで、鐘が鳴った。

聖堂の鐘とは違う、低くて重い鐘だ。

三つ鳴って、少し空いて、また三つ。

それを合図に、通りが坑夫で埋まった。

坑口から、煤けた男たちの列が下りてくる。

顔も腕も黒い。

肩に鶴嘴を担いで、足を引きずるように歩いている。

すれ違うように、坂の下から別の列が上っていく。

こっちはまだ顔が白い。


ノアは、足を止めなかった。

人の波に押されながら、坑口の煙と、軋む荷車を目で追った。

目が、少し細くなる。

煤けた肩が、横からぶつかってきた。

樫の棒を立てて、肩と肩のあいだに隙間を作る。

外套の下で、肩を寄せた。

背中に沿わせて畳んだ翼を、袋ごともう少し低く押さえる。

誰も、こっちを見ていなかった。

坑夫の列も、荷車の御者も。

ここでは、誰も「天の子」を知らない。

それでも、背中の袋だけは、誰にも触らせたくなかった。


ノアは、隣のラウロの袖を引いた。

人の流れの切れ目を、顎で示す。

「鐘、重い音。……こっち、空いてる」


四人は切れ目を抜けて、通りの端へ出た。

通りの中ほどに、石造りの二階建てが見えた。

戸口の上に、灰色の鷹の看板が一羽。

灰鷹の詰所だ。

カプレオの詰所の、半分もない。


ラウロが、看板の前で足を止めた。

三人を振り返る。

「あそこだ。話は俺が通す。灯らずの俺が先に出たほうが、向こうも構えねえ。

ノアは後ろで黙って聞いてろ、要るとこだけ頼む。いいな?」


戸口の脇に、板が一枚下がっていた。

「組の札は名義人が持参のこと」と書いてある。

ブランは板を顎で指して、懐から灰鷹の札を出した。

札の裏に、自分の名前と「銅の二」が入っている。

「話はあんたでいい。ただ札は名義人持参だとよ、俺も入る。後ろで札だけ出して黙ってる。

ノア、ラウロの後ろ。イルウェン、外で荷と通りを見てろ」


戸口の奥から、男が一人出てきた。

煤のついた前掛けをした、中年の男だった。

手に、帳面の束を抱えている。

「交代刻の後は、坑道の護衛の札待ちで中が詰まってる。入れるのは名義人と、話す者の二人までだ。

荷と長物は外に置いてくれ」


ラウロは、背中の剣を鞘ごと外した。

イルウェンの手に押しつけて、番の男にうなずく。

それから、ノアを振り返った。

「わかった、俺と親父の二人で入る。ノア、棒と袋持ってイルウェンと外にいろ。すぐ戻る。……剣、頼む」


「親父じゃねえってんだ」

ブランは札を指で弾いて、先に戸口をくぐった。

ラウロが、その後ろに続いた。



鐘が鳴りやんだ。

坑夫の列は坑口へ吸いこまれて、通りが少し空いた。

行き交うのは、荷車を押す男ばかりになった。

山のほうから、煤の混じった風が吹き下ろしてくる。


ノアは、戸口脇の壁際に立っていた。

壁に、背中は預けない。

筒の麻袋と樫の棒を、足もとに寄せた。

外套の下で、片手を背中へ回す。

袋の口の紐を、指でなぞった。

緩んでいない。

母さんが縫った帆布の、ごわついた縫い目。

その奥で、翼が冷たく、重い。

手のひらを当てたまま、背中の付け根を一度だけ押さえた。

それから、手を外套の中から出した。


隣で、イルウェンが半分の目を通りへ向けていた。

ラウロの剣を、両手で抱えている。

ノアは、イルウェンの横に半歩寄った。

「イルウェン、寒くない?」


イルウェンは、すぐには答えなかった。

ラウロの剣を、壁に立てかける。

一拍おいてから、ノアの肩に寄りかかってきた。

冬のあいだに伸びた背が、ノアの肩と同じ高さにある。

「……うん。……寒いー。……あなた、あったかいー」


重い。

でも、肩のところだけ温かかった。

ノアは、そのまま寄りかからせておいた。


イルウェンの半分の目は、通りの先を見ていた。

通りの突き当たりの手前に、石積みの塔が一本立っている。

その根もとに、大きな板が掛かっていた。

板の前に、人が二人いる。


戸口から、さっきの番の男がまた顔を出した。

「連れの二人な、札の書き付けで昼の鐘まではかかるとよ。戸口に荷を置かれちゃ、荷車が通れねえ」

男は、通りの先の塔を顎で指した。

「塔の下で待ってな。陽が当たって、風も来ねえ。暦板の前って言や、連れにも分かる」


「うん、ありがとう」

ノアは、筒の麻袋を担ぎ直した。

樫の棒と、壁のラウロの剣を、まとめて片手に持つ。

外套の前を合わせた。

背中の袋は、低く押しつけたまま。

空いた肩で、寄りかかるイルウェンを支えた。

「……イルウェン、歩いて。塔の下、陽が当たる」


「……歩いてるー」

イルウェンの足は、ほとんど前に出ていなかった。



塔の根もとは、番の男の言ったとおり日だまりになっていた。

風が、塔の陰で止まっている。


大きな木の板が、塔の壁に掛かっていた。

大人の背丈の倍はある。

表には、細かい刻み目がびっしり並んでいた。

横に線が何本も引かれて、線のあいだに小さな印が彫ってある。

坑道の交代の刻と、祭りの日だった。


板のいちばん上に、大きな数が刻んであった。


一五八九。


四つの数だった。

ノアは、イルウェンを肩に乗せたまま足を止めた。

左から一つずつ、目でなぞる。

ヴァレンツァでは、年は「大潮の年」とか、「降臨から何年」とかで済んでいた。

テレーザも、ドーラも、バルドも、年を数で言ったことは無かった。

年に、数がある。


「おーい、そこの旦那!」

板の前から、声が飛んできた。


中背で痩せぎすの男だった。

三十くらいに見える。

袖を肘までまくっていて、指の先が墨と石の粉で黒い。

男は大きく手招きしてから、板の脇をちらりと見た。

そこに腰掛けが一つあって、老人が座っていた。

背が低く、腰が曲がっている。

男は老人から目を戻すと、両腕を大きく広げて、板の頭の数を指さした。

「連れの嬢ちゃんは眠たげだけんど、ちょっと寄ってかんか。おれはトマソ、この塔の暦番しとる。

なんちゅうか、あの頭の数、一五八九な、あれがどっから数えはじまったか知っとるか?」

旦那、と呼ばれた。

フードを深くかぶっていて、外套で体の形も分からないのだ。

トマソは急に背筋を伸ばして、声を低くした。

「……ソラーナの古い帳面には、こう記されておる。

『年越しの鐘の鳴るたび、聖堂の窓に灯り一つをともし、その灯りの数をもって年の数となす』とな!」


灯り、と聞いて、ノアの右手が外套の中で動いた。

握って、そのまま止めた。


「トマソ、灯りの話はおまはんの婆さまの寝物語だで」

腰掛けの老人だった。

平たい声だった。

上がりも下がりもしない。

「帳面に、そんなもんは書いとらん」

老人は座ったまま、右手を板の縁に掛けた。

その手には、指が三本しか無かった。

薬指と小指のあったところが、つるりと丸くなっている。

顔色ひとつ変えずに、ノアを見上げた。

「……旅の衆、あれは灯りの数じゃねえ、ただ刻んだ数だがね。ええか、数えるぞ。左から、千、百、十、一。

一が千、五が百、八が十、九が一、合わせて千五百八十九だで。

年越しの鐘が鳴った朝、末の一の位をわしが削って、一つ進めて刻み直す。

この手でな、二十八年欠かしとらん」

老人の目が、一度、ノアの担いだ麻袋へ動いた。

「……おまはん、どっから来なすった。南の衆かね」


トマソは、両腕を広げたまま口を開けていた。

言い返したそうだった。


ノアは、板の数を見上げた。

千が一つ、百が五つ、十が八つ、一が九つ。

老人の欠けた指を見た。

二十八年。

ノアが生まれる前から、あの指で刻んでいる。

麻袋の肩紐を握り直して、半歩だけ、袋を老人から離した。

「うん、南。……二十八年、すごい」


老人は、手のひらを横へ出した。

トマソが、開けていた口を閉じた。

「トマソ、黙っとれ」

それから老人の平たい目が、ノアの外套の背中へ行った。

麻袋へ行った。

順に、ゆっくりと。

「……南の衆かね。ええか、数えるぞ。今日は五月の十八日、昼の交代まであと二刻。

坑夫だって上は脱いどる日和だで。それをおまはん、冬の外套をきっちり着込んで、背中を丸めとるがね。

背に何ぞ負っとるんか、それとも寒がりかね」

老人の目は、麻袋で止まった。

「その筒の袋も、えらい大事そうに抱えとる。中身は何だね。……で、ソラーナから先はどこへ行きなさる。

北の峠か、ブルチャ野の方か」


外套の中で、袋の中の左の端が小さく跳ねた。

ノアは、老人の目をまっすぐ見返した。

外套の前を、合わせ直す。

麻袋は、肩から下ろさなかった。

肩の上でイルウェンの頭がずり落ちかけたので、肩を少し上げた。

「寒がり。袋は連れの。行き先は、連れが決める」


老人は、何も言わなかった。

目も、外さなかった。


肩が、ふっと軽くなった。

イルウェンが、ノアから離れていた。

老人の隣の、腰掛けの空いた端に、そのまますとんと座りこむ。

一拍おいて、老人の袖を指でつまんだ。

「……わたしの年もー、数えてー」


老人は、袖をつままれたまま横目でイルウェンを見た。

顔色は変えなかった。

欠けた右手で、板の頭の数を指す。

「数えてやらんでもないがね、嬢ちゃん。おまはん、何年の生まれだね。

……ええか、年の引き方を教えとくぞ。板の頭の千五百八十九から、生まれた年を引く。残った数が年だで。

鐘をもう越したか越さんかで一つ違うが、それは細けえ話だがね」

老人は、ノアのほうへ顎をしゃくった。

「……せっかくだ、引くのは連れのおまはんがやってみな。今教えた読み方で、出せるかね」


イルウェンは、腰掛けに座ったまま、半分の目でノアを見上げた。

「……一五六七ー。……でも、ほんとはもっと長い気がするー。……ノア、引いてー」


ノアは、板の数と自分の指を見比べた。

一五八九から、一五六七。

千と五百は、同じだから消える。

一の位から、指を折った。

九から七で、二。

八から六で、二。

「二十二。イルウェン、二十二」


「……おー」

イルウェンは、それきり満足したように腰掛けにもたれた。


ノアは、折った指を開いた。

今度は、自分の分を数えかけた。

指を一つ折りかけて、止めた。

地上の暦で、ボクの年を引くと、どこから数えたことになるんだろう。

手を、外套の中に戻した。


老人が、小さく一つうなずいた。

「合っとる、二十二だで。飲み込みが早えがね」

平たい目が、外套の中へ消えたノアの手を追っていた。

「……で、おまはんは今、何を数えかけた。自分の年かね。おまはんは何年の生まれだね」


ノアは、板の末の「九」を見上げた。


ボクは、十七。

一五八九から、十七を引く。

一五七二。

それが、ボクの生まれた年の数だ。

雲の上の都で生まれて、四つのとき、母さんに抱かれて降りた。

ヴァレンツァの坂の上で育って、灯らずと書かれて、母さんの翼を背負って町を出た。

ぜんぶ、この板の上では数になる。


町を出る朝、防波堤の根もとで、ガレナに「三年」と言った。

一五八九に、三を足す。

一五九二。

あの末の「九」が、「〇」になって、「一」になって、「二」になる。

この人が、あと三回、年越しの鐘の朝に削って刻み直す。

外套の中で指を開いて、一つずつ折った。

一つ、二つ、三つ。

そのころには、母さんに続きを聞きに帰っていたい。


ノアは、老人に一度だけ目を合わせた。

「十七」


それだけ言って、目を通りのほうへ移した。

灰鷹の詰所の戸口から、ラウロとブランが出てくるところだった。

二人とも、通りを見回している。

ノアは片手を上げて、振った。

腰掛けのイルウェンの腕を取って、立たせる。

「連れ、戻った。ありがとう、おじいさん」



ラウロは、ブランの肩を軽く叩いた。

人の波を割って、足早に塔の下へ来る。

走ってきたのか、息が少し上がっていた。

「塔の下だって、番の男が言ってた。……誰だ、あの爺さんと痩せたの。行くぞ、親父」


ブランは、ラウロの後ろからゆっくり歩いてきた。

暦板の前で、腰掛けの老人に軽く頭を下げる。

客に向けるときの、あの丁寧な声だった。

「連れが世話になりました」

口を開けたまま立っているトマソには、一瞥だけくれた。

それから、イルウェンの腕を取って立たせ直した。

「……イルウェン、歩けるな。ノア、行くぞ」


老人は、何も言わなかった。

指の欠けた右手を板の縁に掛けたまま、平たい目でブランを見て、ノアの外套の背中を見た。


ノアは、ラウロに剣を返した。

ラウロは剣を背に負い直しながら、ノアの顔をのぞきこんだ。

「何か聞かれたか」


「年。イルウェンの、引いた」


「は?」


ブランが、ノアの背を押した。

押した手のひらが、外套の上から袋に当たった。

ノアは、押されるまま歩き出した。


坂を上がる手前で、一度だけ振り返った。

塔の根もとの板が、日を受けて白く光っていた。

頭の四つの数が、刻み目の影で黒く浮いて見える。

腰掛けの老人は、まだこっちを見ていた。


塔の上で、また鐘が鳴った。

三つ鳴って、少し空いて、また三つ。


ノアは、外套の中で手を握った。

指が三本、折れたままだった。

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