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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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ちょっとだけ、浮いた

ヴァレンツァを出て、二十三日になる。

四月の風は、川の上を渡ってくるぶんだけ冷たかった。


カプレオを出たのは、夜明け前だった。

オルソ川に沿って、街道を北へ遡る。

鉱石を積んだ平底の川舟が、何艘も下ってきてすれ違った。

川岸の窯から、素焼きの壺を焼く煙が上がっている。

ノアは、背中の荷を揺すり上げた。

帆布の袋の上から、灰色の外套をかぶせてある。

袋の中で、折れた左の端がときどき跳ねた。

歩くたびに、外套の裾の内側を小突く。


日が西へ傾いたころ、街道の先に、鐘楼が見えた。

川港の町だ。

屋根の上に、尖った塔が一本だけ抜きん出ている。

夕日を受けて、塔のてっぺんの金具が光った。


先頭のブランが、足を止めた。

垂れた耳が、一度だけ塔のほうへ向く。

それから、何も言わずに街道を外れた。

川の西に広がる、草の薄い丘へ。


「おい、親父。町、すぐそこだろ。今夜は宿じゃねえのかよ」

ラウロが、後ろから声をかけた。


ブランは振り返らなかった。

灌木の脇を抜けて、斜面を上っていく。

ノアは黙ってついていった。

塔のことは、ノアにも分かった。

あんなに高い塔のある町なら、聖堂も大きい。


イルウェンが最後尾で「……坂ー」と言った。

麻袋は、ノアの肩にある。

イルウェンが運ぶのは、自分の体だけだ。


丘を二つ越えると、街道も川も見えなくなった。

低い灌木と、ところどころに転がる岩。

人家も、畑も、道も無い。

丘の陰に、すり鉢のような窪地が口を開けていた。

ブランは、その底に荷を下ろした。

風下を一度見回してから、足もとの枯れ枝を拾って、ラウロへ放る。

「今夜はここだ。町は抜けねえ、聖堂がある。ラウロ、火。窪地の底で小さくな、丘の上から見えねえように。

イルウェン、水汲んでこい、暗くなる前に」


ラウロは枝を受け止めた。

「……聖堂か。分かったよ。火なら任せとけ」

それだけ言って、しゃがみこんだ。

石を三つ集めて、風の来るほうへ並べる。


「……水ー?」

イルウェンが、窪地の縁で革袋を受け取った。

半分閉じた目で、丘の向こうを見る。

「……川、遠いー」

「さっき越えた丘の裾に、湧き水が出てた。行け」

「……はーい」

イルウェンは、坂を歩くとは思えない遅さで、丘の陰へ消えていった。


ブランは岩に腰を下ろした。

腰の革袋から酒を一口含んで、栓を締め直す。

「見張りは俺が最初、次ラウロ、明け方イルウェン。……ノア、あんたは寝ろ。荷は抱えたままでいい」


ノアは、肩の麻袋を下ろしかけた手を止めた。

「ボクも見張る。四人いる」


「三人で足りる」

ブランは、窪地の縁の向こうを見たまま言った。

「宿無しの初めての晩だ。あんたが寝られるかどうか、先に試しとけ」


ラウロが、火口に石を打ちつけながら笑った。

「親父、ノアだけ甘くねえか。……まあいいや。俺の番、ちゃんと起こせよ」

「起こさなくても起きろってんだ」


火は、窪地の底で小さく点いた。

枯れ枝の爆ぜる音が、すり鉢の壁に返ってくる。

丘の上から見下ろしても、たぶん光は見えない。

イルウェンが戻ってきたころには、空の西だけが赤かった。

革袋の水は、半分しか入っていなかった。

「……重かったからー、半分ー」


カプレオで買った黒パンと、干した魚を、四人で分けた。

ノアは、火の向こうのラウロとイルウェンを見た。

屋根の無いところで食べるのは、初めてだ。

口の中のパンが、宿で食べるより固い気がした。



眠れなかった。


ノアは、窪地の底で横になっていた。

外套の下で、翼を体の前へ回して包んでいる。

ミラベルの宿で覚えた寝方だ。

こうすれば、背中が地面に当たらない。

それでも、地面は宿の床より固かった。

小石が一つ、腰の下にある。

どかしても、すぐまた別のが当たる。


火は熾きになっていた。

ラウロの寝息と、イルウェンの寝息が、少しずれて聞こえる。

風が、灌木の枝をこすって鳴らしていた。

宿では聞こえない音だ。


袋の中で、左の端が跳ねた。

寝返りを打ったわけでもないのに。

右の翼は、ノアが思うとおりにじっとしている。

左だけが、勝手に動く。

母さんの背中にあったときから、折れていたところだ。


ノアは、起き上がった。

袋を胸に抱え直して、寝ている二人をまたぐ。

窪地の縁の岩に、ブランが座っていた。

暗い丘の稜線のほうを見ている。

ノアはその隣に黙って腰を下ろして、膝の上に袋を抱え直した。


ブランは、何も言わなかった。

ノアも、しばらく何も言わなかった。

丘の向こうの暗がりに、昼に歩いた街道があるはずだった。

見えない。

袋の中で、また左の端が跳ねた。

「ブラン。……これ、直せる? 母さんの翼」


ブランは、道のほうを見たままだった。

足もとの枝で、熾きの残りを寄せる。

赤い火の粉が、少しだけ上がって消えた。

それから、ノアの膝の袋に目をやった。

「……知らねえよ。俺は鍵と罠しか触ったことがねえ。翼なんざ見当もつかねえ。

けどな、北に行きゃ何か知ってるやつがいるかもしれねえ。だから歩いてんだろ」


ノアは、袋の口の紐を指でつまんだ。

直せる、とは言われなかった。

でも、直せない、とも言われなかった。

紐の結び目を、親指でなぞる。

母さんが縫った袋だ。

縫い目が、ところどころ二重になっている。


「……開くなよ」

ブランが、低く言った。

「ここで袋の口ほどいたら、丘の向こうまで光るぞ」


ノアは、紐から指を離した。

「開かない。……見てただけ」


「見るだけにしとけ」

ブランは、また稜線のほうへ顔を戻した。

垂れた耳が、ノアのほうに半分だけ向いている。

「寝られねえなら、そこに座ってろ。ラウロの番になったら、あんたも横になれ」


「うん」

ノアは膝を抱えた。

袋の上に、顎を乗せる。

帆布は、母さんの家の押し入れと同じ匂いがした。



ラウロに番が替わって、一刻ほど経った。

ブランは、火のそばで外套にくるまって眠った。

ラウロは熾きの前に座っていたが、首が前へ、横へと揺れている。

舟を漕いでいた。


ノアは、そっと立ち上がった。

「……ちょっと、出てくる」

ラウロは「おう」と言ったきり、目を開けなかった。


窪地を上がって、丘を一つ越えた。

もう一つ越えた。

振り返っても、火の明かりは見えなかった。

丘の陰の、さっきより深い窪地に下りる。

周りは、灌木と岩だけだった。

街道も、川港の町の灯も、丘の向こうに隠れている。

風は、弱い。


ノアは、窪地の底でぐるりと一回りした。

丘の稜線を、一つずつ見る。

灯りは、どこにも無い。

人の声も、犬の声もしない。

「……誰もいない。うん」


外套を脱いで、岩の上に置いた。

袋の口の紐をほどく。

母さんの縫った帆布が、肩からするりと落ちた。


背中に、力を入れた。


翼が、ひらいた。

白い光が、窪地の底いっぱいに広がった。

灌木の影が、四方の斜面へ長く伸びる。

自分の足もとの小石まで、一つずつ見えた。

ブランの言ったとおりだ。

丘の向こうまで光る。


右の翼は、すっと伸びた。

左は、折れたところから先が、少し遅れて開いた。

端が、震えている。


ノアは、地面を蹴った。


足が、土から離れた。

膝の高さまで、体が浮いた。


浮いた、と思ったのと同じときに、体が左へ傾いた。

左の端が、風を受けずに跳ねている。

右だけが、空気をつかんでいる。

傾きが、止まらない。

歯を食いしばった。

右の翼を、少しだけ畳む。

左の肩に、力を入れる。

体の傾きが、半分戻った。

一つ、息をした。

二つ。

三つめで、左の端がまた跳ねた。

「……っ」


足から降りた。

踵が土を打って、膝が少し沈んだ。

転ばなかった。


ノアは、しばらくそのまま立っていた。

翼は、まだひらいたままだった。

白い光の中で、自分の影が、四つの斜面に一つずつ落ちている。

足もとの土に、踵の跡が二つ残っていた。

「……うん」


翼を畳んだ。

光が、背中のほうへ吸いこまれるように消えた。

窪地が、元の暗さに戻る。

目が慣れるまで、しばらく何も見えなかった。


ノアは、岩に背中を預けて座りこんだ。

畳んだ翼が、岩と背中のあいだで固い。

見上げると、星が多かった。

ヴァレンツァの坂の上で見るより、ずっと多い。


母さんは、あの晩、屋根の上を飛んだ。

八年ぶりだと言っていた。

左が折れて、屋根に落ちた。

ボクは、膝の高さまでしか上がらない。

同じ翼なのに。


坂の上の長屋は、今ごろ真っ暗だろう。

テレーザは寝ている。

母さんは、たぶん起きている。

窓のところに座って、港のほうを見ているかもしれない。

ピリムが、影の中で何か茶々を入れている。


右の手首に、指をやった。

青い糸は、もう手首には無い。

母さんが、ノアの髪を結ぶのに使った。

指を上げて、後ろ頭の結び目に触れる。

糸は、ちゃんとそこにあった。


腰の網針に、指が当たった。

バルドの網針だ。

木の柄が、手の熱で少しぬるい。


ノアは、しばらく星を見ていた。

それから立ち上がって、袋を背中にかぶせた。

口の紐を、きつく縛る。

母さんがやっていたのと同じ結び方で。

外套を取って、羽織った。

裾に、草の切れ端がついたのには気づかなかった。



窪地に戻ると、空の東が、わずかに薄くなっていた。


火のそばで、ラウロが外套にくるまって眠っていた。

ブランも眠っている。

番は、イルウェンに回っていた。

イルウェンは窪地の縁に膝を抱えて座り、東の空を見ていた。

起きているのか、寝ているのか、分からない顔だった。


ノアは、その隣に腰を下ろした。

袋を、膝に抱え直す。


イルウェンが、半分閉じた目でノアを横から見た。

それから手を伸ばして、ノアの外套の裾をつまんだ。

草の切れ端を、指先で払い落とす。

「……おかえりー。……草、ついてたー」


それだけだった。

どこへ行ったのかも、何をしていたのかも、聞かなかった。

イルウェンは、また膝を抱え直して、東の空に目を戻した。


ノアは、払われた裾を見た。

草は、もう無い。

「ただいま。……ありがとう」


しばらく、二人で黙って東を見ていた。

空の色が、黒から紺に変わっていく。

丘の稜線が、少しずつ浮かび上がってきた。

灌木の枝の先に、露がついているのが見えた。

足もとの草が、ひやりと冷たい。


肩に、重さがかかった。

イルウェンの頭が、こくりと揺れて、ノアの肩に落ちていた。

すぐに、寝息が聞こえた。

束ねた髪からはみ出した耳の先が、ノアの頬に当たってくすぐったい。


番の者が、寝ている。

ブランに見つかったら、何と言うだろう。

ノアは、肩を動かさないように座り直した。

自分の外套の端を引っぱって、イルウェンの膝にかける。

「寝てていい。ボクが見る」


イルウェンは、返事をしなかった。

寝息だけが、肩のところで続いている。


ノアは、首だけ回して西を見た。

東はもう白みはじめているのに、西の空はまだ暗かった。

星が、いくつか残っている。

あの下の、ずっと先に、ヴァレンツァがある。

坂の上の長屋がある。

母さんがいる。


肩の上の寝息に、ノアは小さく言った。

「……ちょっとだけ、浮いた。ないしょ」


イルウェンの耳の先が、少しだけ動いた気がした。

寝息は、変わらなかった。


袋の中で、左の端が一度だけ跳ねた。

ノアは袋を胸に抱き寄せて、まだ暗い西の空を見ていた。

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