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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
3章:闘争
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40/82

灯らずとも

ミラベルを出て、八日が経った。

カプレオの朝は、魚と潮と、焦げた獣脂の匂いがした。

ヴァレンツァの港と同じ匂いのはずなのに、ここでは何倍にも濃い。


宿の一階の卓で、ブランが黒パンを千切っていた。

ゆうべの酒が残っているのか、目の下が腫れている。

ラウロが向かいに座ると、ブランはパンを置いた。

「今日から詰所の仕事を取る。……先に言っとく。ここの受付は、名前より先に組の灯りの色を聞いてくる。

ヴァレンツァみたいに顔なじみで回してくれる奴はいねえ」


「色なら、俺は無い。前衛が灯らずだって言うしかねえだろ」

ラウロはパンに手を伸ばした。

「その分、値切られても粘る。顔役は俺だ」


「粘るのは勝手だ。けど、本気で食ってくなら、組の手の内くらいは全部知っとけ。

隠し事のある組は、仕事の途中で死ぬってんだ」

ブランの目が、卓の端へ流れた。

ノアが、右手を膝の上に下ろした。

外套の背中が、椅子の背もたれから浮いている。

ノアの手の内なら、ここにいる全員が知っている。

ブランの目は、ノアを通り越していた。


その先で、イルウェンが卓に頬をつけていた。

寝ているのかと思った。

「……はーい」

間延びした声と一緒に、イルウェンの右手が卓の上に出た。

手のひらが、上を向く。

そこに、灯りが立った。


薄い緑だった。

春先の若葉を、光に透かしたような色。

白のほうへ、ずいぶん寄っている。

量は手のひらに収まるほどで、揺れもせず、湯気のように静かに立っていた。

宿の卓の木目が、その緑に染まって見えた。


ラウロは、パンを持ったまま動けなかった。

イルウェンと知り合って、八年になる。

同じ組になって、一年。

その間、一度も見たことがない。

「……お前、灯れたのかよ。なんで今まで黙ってた」


「……灯れるって言ったらー、灯せって言われるからー」

イルウェンは、半分閉じた目のまま言った。

緑が、手のひらの上で少しだけ縮んだ。

「……詰所でもー、灯せって言われたけどー、筒を出したらー、それで書いてくれたー」


「帳面には、筒使い、色の欄は空だ。ベネデットの字でな」

ブランが、知っていたような顔で言った。

「白に寄った緑だ。受付が見りゃ、目の色を変えるぞ。……だが、色を書き足すには灯帳の写しが要る。

こいつは森の出で、写しが無え。写しの無い色は、聖堂に回される」


聖堂、と聞いて、ノアの肩が小さく動いた。

「じゃあ、詰所では見せない?」


「見せない。使うのは外だ」

ブランはパンを取り直した。

「暗い所の明かりは、イルウェンに持たせる。……いいな」


「……ちょっとだけならー」

イルウェンは手を握った。

緑が、指のあいだから消えた。


ノアが、自分の右手を見ていた。

握って、開いて、また膝の上に戻す。

「イルウェンも、灯らずじゃなかった。……きれいな色。葉っぱみたい」


ラウロは、自分の手のひらを卓の下で開いた。

何も無い。

七つの帳の前で開いたときと、同じだった。

ノアは白で、ブランは灰で、イルウェンは緑。

灯らず組は、二人だと言った。

今、本当に灯らないのは、この卓で一人だけだ。

手を握って、立ち上がった。

「分かった。手の内は分かった。……札、取りに行くぞ。顔役は俺だ」



灰鷹の詰所は、港へ下りる大通りの角にあった。

石造りの三階建てで、戸口の上に灰色の鷹の看板が二羽並んでいる。

ラウロは戸を肩で押した。


広間は、ヴァレンツァの詰所が四つは入りそうだった。

天井から吊った灯具が、朝なのに黄色く灯っている。

依頼札の板は壁一面にあって、上から順に「金」「銀」「銅」「鉄」と木の札で仕切られていた。

金の板の前には誰もいない。

銀の板の前で、揃いの青い外套の四人連れが、札を一枚ずつめくって品定めしていた。

鉄の板は、いちばん下の、床に近いところだった。

札は三枚しか掛かっていない。


「お前らは、そこで待ってろ」

ラウロは壁際の長椅子を顎で指した。

ブランが黙って腰を下ろし、ノアがその隣に座った。

外套の背中が、椅子の背もたれに当たらないよう、浅く座っている。

イルウェンは麻袋を床に寝かせて、座るなり目を閉じた。


受付の台は、広間の奥に五つ並んでいた。

空いていた端の台へ行く。

受付の男は、ラウロより十は年上に見えた。

頬がこけていて、帳面を繰る指だけがやけに速い。

男は顔を上げずに言った。

「組の灯りの色は。前衛は誰で、何色だ」


名前より先に、それか。

ブランの言ったとおりだった。

ラウロは灰鷹の札を台に置いた。

男の目を、まっすぐ見た。

「前衛は俺だ。灯らず、色はない。組はエンジェルウィング、四人。……色で札が決まるなら先に言ってくれ。

言わないなら、鉄で受けられる仕事を全部見せろ。運び、護衛、下水、何でもいい。期日は守る」


男のペンが、止まった。

それから、鼻で短く笑った。

「灯らずの前衛か。帳面の名義は誰だ。名義の色で見てやる」

男の目が、ラウロの肩越しに長椅子のほうへ流れた。


ラウロは台に手をついたまま、動かなかった。

指の節に、力が入る。

長椅子の端で目を閉じている、あの緑を見せれば。

朝の卓で決めたことが、喉まで出かかって、止まった。


後ろで、長椅子が軋んだ。

肩を、軽く叩かれた。

振り向くと、ブランが横に来ていた。

ラウロを台の脇へ押しやって、自分が台に肘をつく。

「名義は俺だ。ブラン・ソルガ、銅の二。……色が気に入らねえのは知ってる。

だから一番安い仕事でいい、下水でも荷運びでも出してくれ」


男は、ブランの手のひらを顎で示した。

ブランは手を開いて、台の上に出した。

手のひらの上に、煙のような灯りが立った。

灰色だった。

黒のほうへ、ずいぶん寄っている。

量は多く、炎のように揺れもしない。

それでも男の目は、色のところで止まって、量を見なかった。

「銅の二でも、その色じゃな」

男は帳面を三枚繰った。

台の下から、札を一枚引き抜く。

「港の、ガッロ商会の倉だ。地下の水路に泥鰻が棲みついた。犬くらいある、鰻のお化けみたいなやつだ。

駆除。銅の組と合同で、取り分は等級割り。……受けるなら、昼の鐘に倉の前だ」


「等級割りってのは」

ラウロが口を挟んだ。


「等級の高いほうから多く取る。決まりだ」

男はそれだけ言って、札を台の上で滑らせた。


ブランが札を取って、ラウロの胸に押しつけた。

「受けた。……行くぞ、顔役」


ラウロは札を握った。

板の縁が、手のひらに食いこんだ。

ヴァレンツァの詰所の台で、自分が言ったことを思い出した。

名義は、そのうち俺のに変える。

等級が要るなら、上げる。

札の裏には、ブランの名前と、「銅の二」の字が書きこまれていた。



ガッロ商会の倉は、港の東の、倉ばかりが並ぶ一角にあった。

倉の床の跳ね上げ戸を開けると、湿った冷気が下から顔に吹きつけてきた。

石段が、暗がりへ下りている。

腐った藻と、泥の匂いがした。


合同の組は、四人だった。

前衛は二人。

一人は首の太い大男で、鼻の頭が日に焼けて皮がむけていた。

背負った幅広の剣は、ラウロの剣の倍は厚い。

もう一人は背の低い女で、腰に短い鶴嘴を下げていた。

大男は石段の上でエンジェルウィングの四人を眺めると、ラウロの剣の柄で目を止めて、口の端を上げた。

「灯らずの前衛ってのは、お前か。まあ、後ろからついて来な」


水路は、膝まで濁った水に沈んでいた。

天井は低く、幅は人が二人並べるかどうかだった。

大男が剣を抜いた。

刃の根元に手のひらを当てる。

橙の灯りが刃を伝って、剣が熾火のように赤く焼けた。

その赤が、水路の壁を照らした。

女のほうは、しゃがんで水の中に手を入れた。

土色の灯りが、濁った水の底へ沈んでいく。

女が立ち上がって一歩出ると、足もとの泥が、踏み固めた土のように硬くなっていた。

二人は、それを繰り返しながら、ずんずん奥へ進んでいった。


赤い光は大男の背中の向こうにあって、ラウロの足もとまでは届かない。

「イルウェン、明かり。ラウロの足もとだ」

ブランが、後ろから短く言った。


「……はーい」

ラウロの肩の後ろに、薄い緑が灯った。

イルウェンが、手のひらを低く差し出している。

緑は水の上に薄く広がって、ラウロの膝のまわりの濁りを照らした。

水の底の泥まで、うっすらと見える。

前を行く大男が、肩越しに振り返った。

緑を見て、片眉を上げた。

「なんだ、灯る姉ちゃんがいるんじゃねえか。そっちが前に出りゃいいだろうに」

返事を待たずに、また前を向いた。


前の暗がりで、水が盛り上がった。


見える。

緑の明かりの端で、水のうねりが、こちらへ一本の線になって寄ってくる。

「来るぞ、下がってろ!」

ラウロは腰を落とした。

半歩引きながら、背中の剣を抜いた。

抜きざまに、斜め下から首の付け根へ斬り上げる。

型どおりだった。

ヴァレンツァの井戸の裏で、何千回と振った線だった。


刃が、ぬるりと滑った。

手応えが、無い。

泥鰻の皮の上を刃が走って、そのまま宙へ抜けた。

踏ん張った左足が、泥に沈んだ。

膝が折れた。

水が、腰まで上がってきた。

明かりは、ちゃんと足もとにあった。

それでも、刃は通らなかった。


泥鰻が、目の前でのたうっていた。

黒くて、太い。

ラウロの腿ほどもある胴が、水を叩いて跳ねる。

丸い口が開いて、細かい歯が並んでいるのが見えた。

前の大男は、まだ振り返っていない。


肩越しに、何かが突き出された。

樫の棒だった。

フランカがノアに譲った、使い古しの棒だ。

棒の先が泥鰻の頭を捉えて、水の底へ叩き伏せた。

ノアが、ラウロの横に踏みこんでいた。

棒に体重を乗せて、のたうつ頭を押さえつけている。

外套の裾が、水に浸かって黒く重い。

手のひらは、棒を握ったまま、何も灯していなかった。

「ラウロ、立って」


ラウロは剣を杖にして、泥から膝を抜いた。

そこへ、大男が戻ってきた。

赤い刃が一度振り下ろされて、泥鰻の首が落ちた。

焼けた刃が水に触れて、じゅっと白い湯気が立った。

「おう、押さえといてくれたか。助かるぜ」

大男は、ノアにだけ言った。


そのあと、二匹出た。

二匹とも、首を落としたのは大男だった。

ラウロは二度とも前に出た。

一度目は、刃がまた皮の上を滑った。

二度目の前に、後ろで「……つかれたー」と声がして、足もとの緑がふっと消えた。

明かりの外で足を取られて、一歩遅れた。

その一歩のあいだに、赤い刃が横から入ってきた。


水路が、三つに分かれていた。

大男が剣を掲げて、赤い光を一本ずつの暗がりへ向ける。

「どっちだ。どれも同じに見えやがる」


ブランが、片手を上げた。

「灯り下ろせ、うるせえ」

大男が眉を寄せたが、剣を下ろした。

ブランは、垂れた耳を左へ向けた。

しばらく、誰も動かなかった。

水の滴る音だけがした。

「……左だ。細いほうの奥、水ん中で何匹も擦れてる。巣だろ。ラウロ、前。ノア、棒で押さえる役だ。

イルウェン、休んだら明かり」


その後ろで、壁にもたれたイルウェンが、半分閉じた目のまま右を指さした。

「……そっちー。水、来てるー」


「お前のは、水の来るほうだろ」

ラウロが言った。


「……うん。水はー、来てるー」

イルウェンの筒は、麻袋の中で覆いを掛けられたままだった。

前に人が詰まった水路では、撃てる線が無い。


大男は、左の細い水路へ光を向けた。

奥で、黒いものが何本も絡み合って、ぬらぬら光っていた。


そこから、一刻近くかかった。

ラウロは、前に出た。

足もとの緑は、灯っては消え、しばらくしてまた灯った。

灯っていても、刃は皮の上を滑った。

消えるたびに、泥に足を取られた。

ノアは、ラウロの横で棒を構えて、跳ねてくる頭を水の底へ押さえるだけだった。

自分から前へ跳びこまない。

ノアの膝が一度、跳ぶ前のように沈みかけて、止まったのを、ラウロは見た。

とどめは、毎回、赤い刃と、土色の足場の前衛だった。



倉の前に上がると、日は西へ傾きかけていた。

ガッロ商会の手代が、帳面を見ながら、取り分を一人ずつ手渡していった。

大男の手に、銀貨が一枚と、銅貨が何枚か。

ラウロの手のひらには、銅貨が三枚だった。

ノアも三枚。

イルウェンも三枚。

ブランの分を足しても、大男一人の分に届かない。


大男が、ラウロの肩に手を置いた。

分厚い手だった。

焼けた刃の熱が、まだ残っている気がした。

「巣を当てたのは、そっちの親父の耳だな。灯らずの前衛はランタン持ちで十分だ。

……ああ、ランタンなら後ろの姉ちゃんがいたっけな。明かり持たせてそれじゃあ、世話ねえや」

合同の組の残りの二人が、声を上げて笑った。


言い返せるだけの働きを、してない。

明かりがあっても、斬れなかった。

それがいちばん、腹が立つ。

ここで噛みついたら、ノアが困る。

ラウロは、肩の手を払わなかった。

手首をつかんで、ゆっくり外させた。

それから、歯を見せて笑った。

「ああ。巣を見つけたのはうちの親父だ。次も呼べよ、取り分は耳の分も乗せてな」


大男は、一拍置いて、また笑った。

今度は、少しだけ短かった。


ラウロは、銅貨を数えもせずに巾着へ落とした。

ブランのほうへ、顎を一度だけしゃくった。

ブランは耳を片方だけ動かして、何も言わなかった。

イルウェンは麻袋をノアに押しつけて、倉の壁にもたれていた。


帰り道は、ラウロが先頭を歩いた。

倉の並ぶ通りを抜けて、坂を上る。

港の荷車が、横を何台も通り過ぎていった。

誰も、しばらく口をきかなかった。

坂の途中で、ラウロは背中の剣を抜いた。

刃を夕日にかざす。

皮の上を滑った跡が、うっすらと白く残っていた。

その手前に、小さな欠けが一つある。

二月に、天使の翼で壁へ叩きつけられたとき、石に当てて欠いた所だ。

研ぎ直しても、消えなかった。

親指の腹で、滑った跡をなぞった。

それから、鞘に収めた。

振り向かずに、言った。

「悪い。今日は俺、何もできなかった。明かりもらっても、皮に刃が通らねえ。

明日から研ぎ方と斬り筋、変える。……お前、棒で押さえるだけで良かったのか?」


すぐ後ろで、足音が一つ早くなった。

ノアが、ラウロの横に並んだ。

樫の棒を、肩に担いでいる。

外套の裾から、まだ水が垂れていた。

「うん。押さえたら、ラウロが立った。それで良かった。研ぐの、ボクも手伝う」


ラウロは、前を見たまま歩いた。

ノアが本気で跳べば、あの水路は一刻もかからなかった。

灯せば、明かりも要らなかった。

それをしないのは、ブランの決まりがあるからだ。

それだけのはずだった。

「……砥石、俺のしか無えぞ」

それだけ言った。


後ろで、イルウェンが「……明日も明かりー?」と聞いた。

ブランが「明日もだ」と返した。

「……えー」

間延びした声が、坂の上へ流れていった。



宿は、坂の上の路地の奥にあった。

裏手に、物干しの縄を張った狭い空き地がある。

夕方に降った小雨で、地面はまだ柔らかかった。


ラウロは、そこで剣を振っていた。

月が、宿の屋根の上に出ていた。

型を、最初から最後まで。

終わったら、また最初から。

シャツが汗で背中に貼りついて、腕が重い。

それでも止めなかった。

止めると、昼の手応えの無さが、手のひらに戻ってくる。

朝の卓の、薄い緑も。


裏口の戸が鳴った。

ブランが、杯を一つ持って出てきた。

空き地の端の木箱に腰を下ろして、黙って杯を傾ける。

ラウロは構わず振り続けた。

十本ほど振ったところで、ブランが口を開いた。

「やめとけ、夜に振っても腕は太らねえよ。……ぬめる皮は斬るんじゃねえ、刃を寝かせて押し切るんだ。

足も、泥なら踏ん張るな、滑らせとけ。ほら、もう一回振ってみろ」


親父の言うことは、癪だ。

でも、たぶん当たってる。

ラウロは一度、息を吐いた。

構え直す。

踏ん張っていた足の力を抜いて、地面を擦るように半歩滑らせた。

刃を寝かせたまま、斬り下ろさずに前へ押し出す。

そこから、手前へ引いた。

二度、三度と繰り返した。

手首の角度を確かめて、剣を下ろした。

「……こうか。重さが刃に乗る。斬るより疲れねえな。……なんで昼に言わねえんだよ、親父。

明日も見てくれ」


ブランは杯を木箱の上に置いた。

空き地の隅に、物干しの竿が二本、立てかけてあった。

一本を取って、ラウロのほうへ放る。

ラウロは片手で受け止めた。

もう一本を、ブランは自分で構えた。

柔らかい地面の上に、足を開いて立つ。

酒で少し弛んだ腹の上で、竿の先だけがぴたりと止まっていた。

「親父じゃねえってんだ。昼は泥鰻が先だろ。……剣は置け、刃が欠ける。棒でやる。

俺が鰻だ、ぬるっと来るぞ。滑らせて、寝かせて、押せ。来い」


ラウロは剣を鞘ごと木箱に立てかけた。

竿を構えて、踏みこんだ。


ブランは、正面にいなかった。

打ちこんだ竿の先が、空を切った。

ブランは横へ抜けていて、竿の先でラウロの足首を払った。

背中から、泥に落ちた。

冷たい。


起き上がって、また打ちこんだ。

また横へ抜けられて、また払われた。

三度目も、同じだった。

仰向けのまま、物干しの縄の向こうの月を見た。


ブランは、息も乱していなかった。

「灯る奴相手でも同じだ。正面に立つな」


三回転がされて、ようやく分かった。

自分には、正面に立つ癖がある。

型の最初の構えが、もう相手の正面だった。

ラウロは一度だけ、長く息を吐いた。

竿を杖にして、起き上がった。

背中の泥は払わなかった。

ブランの正面から、わずかに斜めへずれて、足を滑らせるように構え直す。

「……正面に立つな、な。分かった。もう一本。今度は俺が横に抜ける」


そこから、半刻あまり続いた。

横へ抜けようとしては、足を払われた。

十回を過ぎてからは、数えるのをやめた。

起き上がるたびに、背中の泥が重くなった。

それでも、抜け方は少しずつ変わっていった。

払われる足が、半歩ずつ遅くなる。

一度だけ、竿の先がブランの袖をかすめた。

一本には、遠い。

木箱の上の杯は、とうにぬるくなっていた。


ブランが、竿を下ろした。

肩で一つ息をついて、木箱の杯を取り、ぬるい酒を一気に空けた。

竿を宿の壁に立てかける。

それから、ラウロの背中の泥を、手のひらで一度だけはたいた。

「今日はここまでだ。……いいか、灯りのあるやつは正面で受けて焼き切る。

うちの組で、それができねえのはあんた一人だ。だから受けるな、ずらせ、相手の力で相手を転がせ。

明かりはイルウェンに持たせろ。一本取るのは、ノアでも誰でも、隣のやつに任せりゃいい。

生きて立ってりゃ前衛だ。……寝ろ。明日も泥だぞ」


ブランは、裏口へ歩いていった。

戸の前で、一度足を止めた。

垂れた耳が、こちらへ向いた気がした。

振り返った顔は、月明かりの陰になって見えなかった。

戸が開いて、閉まった。


ラウロは、しばらくその戸を見ていた。

一本取るのは、隣に任せろ。

隣にいるのは、ノアだ。

水路で、棒で泥鰻を押さえていた背中を思い出した。

外套の下で、折れた翼の端が跳ねていた。

足もとには、イルウェンの緑があった。

俺の役は、あいつらの隣で倒れずに立ってることか。

「……生きて立ってりゃ前衛、か。分かったよ、親父」

小さく言った。


壁から竿を取った。

一度だけ、斜めにずれて足を滑らせ、寝かせて押す振りを、ゆっくりなぞった。

竿を、壁に戻した。

木箱の剣を取って、鞘から少し抜く。

月の光に、刃の欠けが一つ、黒く見えた。

指でなぞって、鞘に収めた。

手のひらを開いてみた。

やっぱり、何も灯らなかった。


明日も、泥だ。

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