夏は大変だな
峠の下りで、空が白んだ。
町を出た翌日の、三月二十一日の朝だった。
夜通し歩いた足の裏が、靴の中で熱を持っている。
街道の脇に、葉を広げはじめた栗の木が一本立っていた。
その根もとの影に、四人は荷を下ろした。
ノアは幹に背中を預けかけて、やめた。
帆布の袋の中で、翼の骨が幹に当たって、こつ、と鳴ったからだ。
少し前に座り直して、膝を抱えた。
足もとの草が、朝露で冷たい。
ブランは木の根に腰を落として、水筒の栓を抜いた。
ひと口飲んで、口を手の甲で拭った。
垂れた耳が、こっちへ向いた。
三人の顔を、順に見ていく。
「大丈夫か」
ノアも水筒を傾けて、ひと口飲んだ。
それから、ブランを見た。
「平気」
本当だった。
一晩歩いても、膝は笑っていない。
粉袋を担いで坂を三往復した日のほうが、まだくたびれた。
ラウロは幹の反対側に寄りかかって、肩で息をしていた。
剣の鞘を膝に立てて、息が落ち着くのを待っている。
それから、ノアのほうを一度見やった。
「大丈夫、だ。足は重いけどな、あと半日なら持つ。お前こそ、大丈夫かよ」
イルウェンは、座ったまま動かなかった。
半分しか開いていない目だけが、ブランのほうへ動いた。
「……うん」
ブランは鼻を鳴らした。
水筒の栓を閉めて、膝に手をついて立ち上がる。
「気にすんな。夕方には町だ。水は今のうちに飲んどけ。飯は歩きながらだ。いくぞ」
「もう?」
ラウロが言った。
「もうだ」
ブランは荷を背負い直して、街道へ出た。
峠を越えると、道は丘のあいだを縫って下っていった。
丘の斜面は、どこまでも麦だった。
まだ膝の高さにも届かない青い麦が、風が吹くたびに、同じ向きへ一斉に寝る。
海の匂いは、もうしなかった。
かわりに、湿った土と草の匂いがした。
ノアは黒パンをかじりながら歩いた。
テレーザの弁当の残りだった。
乾いて硬くなっていたけれど、噛むと麦の味がした。
先を歩いていたブランが、歩幅を落としてノアの横に並んだ。
反対側に、ラウロが来た。
イルウェンは、少し遅れてついてくる。
「夕方に着くのは、ミラベルだ」
ブランは、前の丘を顎で指した。
「このへんの麦は、全部あそこに集まる。で、行商が海のほうへ運び出す。穀倉の中継地ってやつだ。
商人が出入りするだけの、ただの町だ」
そこで、ブランの目がノアの背中に落ちた。
「だが、そいつが見つかりゃ、ただの町じゃなくなる。どこに隠すか。お前ら、どう思う」
ノアは背中に手を回した。
帆布の上から、畳んだ翼の骨に指が触れた。
母が縫った袋の、ごわついた縫い目。
「外れない。大きな袋で覆っておく」
ラウロが、自分の肩から袋を下ろした。
口を開けて、中の着替えと砥石を抜き出し、自分の外套の物入れに押しこむ。
空になった袋を、ノアに突き出した。
「こいつも使え。袋が重なってりゃ、形はごまかせる。
それにな、お前の背丈じゃ、でかすぎる荷は目立つんだよ」
「ありがとう」
ノアは袋を受け取った。
ラウロの汗の匂いと、剣の油の匂いがした。
道端で一度足を止めた。
帆布の袋の上から、ラウロの袋をかぶせる。
紐を胸の前で回して、結んだ。
細長かった荷の形が、少しだけ丸くなった。
ブランが後ろから、黙ってそれを見ていた。
ミラベルに着いたのは、日が丘の向こうに落ちかけた頃だった。
門の前には、麦袋を積んだ荷車が三台並んでいた。
門番は荷車の数を数えるのに忙しくて、四人連れには目もくれなかった。
表通りは、夕方の買い物の人で混んでいた。
ブランはそこを避けて、裏の路地を選んで歩いた。
ノアは、ラウロの背中だけを見て歩いた。
すれ違う人の目が、自分の背中の荷に向くかどうか。
確かめたくて、振り返らなかった。
宿は、路地の突き当たりにあった。
二階建ての、麦わらの匂いがする宿だった。
ブランが帳場で、部屋を二つ取った。
「ラウロは俺とだ。ノアとイルウェンで一つ」
部屋には、寝台が二つと、小さな窓が一つあった。
イルウェンは、入るなり窓側の寝台に倒れこんだ。
筒の詰まった麻袋を、ノアが床に下ろす音も聞いていないようだった。
ノアは、戸の閂を掛けた。
それから、背中の紐をほどいた。
ラウロの袋を外し、母の帆布の袋を肩から抜く。
袋の口から、白いものが少し覗いた。
畳んだ翼だった。
背中の付け根から生えたまま、外れない翼。
ノアは寝台に腰かけて、翼を少し開いてみた。
骨が、肩の続きのように動く。
狭い部屋で、右の翼の先が壁に触った。
慌てて畳んだ。
今度は、肩の後ろへ高く寄せて、細く畳んでみる。
付け根が引きつれて、息が詰まった。
低く、背中に沿わせて畳む。
それなら、背中が平らに近くなる。
けれど、折れた左の端だけが、どうしても外へ跳ねた。
寝台に横になってみた。
仰向けになると、畳んだ翼が背中の下で突っ張って、背骨が浮いた。
肩の付け根が、張って痛い。
起き上がって、壁に寄りかかって座った。
今度は、翼が寝台の端からずり落ちて、床に先が着いた。
「……寝られない」
隣の寝台で、イルウェンは仰向けのまま天井を見ていた。
目は、相変わらず半分だけ開いていた。
何も言わなかった。
窓の外が暗くなった。
宿の下の路地を、誰かの足音が一つ通っていった。
ノアは横向きに寝てみた。
下になった右の翼が、体の下で潰れる。
少し持ち上げて、前へ回してみた。
翼が、肩から胸の前へ、ゆっくりと被さってきた。
左の翼も、同じように前へ回した。
折れた端が、膝の上で止まった。
背中が、軽くなった。
付け根の張りが、すっと抜けた。
羽根が頬に当たって、くすぐったかった。
母の匂いが、まだ少し残っている気がした。
布団より、ずっと温かい。
ノアは翼の内側で、膝を抱えた。
目を閉じると、すぐに眠りが来た。
隣の部屋では、ラウロが寝台の端で剣を抜いていた。
布で刃を拭き、峠の砂を払って、鞘に納める。
水を一杯飲んで、そのまま寝台に倒れこんだ。
ブランは、反対側の寝台の縁に腰を下ろしていた。
靴紐をほどいて、片方ずつ靴を脱ぐ。
夜通し歩いて、昼も歩いた。
これ以上起きていれば、どこかで判断を間違える。
「ラウロ。俺はもう寝る。朝まで頼むぞ」
返事は無かった。
ラウロは、もう寝息を立てていた。
ブランは、脱いだ靴を寝台の下に揃えた。
「……頼まれてねえってんだ」
自分で言って、自分も横になった。
翌朝、宿の一階の食堂には、麦粥の匂いが立ちこめていた。
四人は、壁際の卓を囲んだ。
ノアの背中には、また帆布の袋とラウロの袋が重なっていた。
宿の主が、帳場の奥から粥の鍋を運んできた。
置いて戻るとき、主の目がノアの背中の荷を一度なでた。
昨夜、宿に入ったときも、同じ目をしていた。
ノアは粥を匙ですくった。
熱かった。
ひと口飲みこんでから、三人を見た。
「昨夜、翼で体を覆ったら、楽に寝られた。前に回して、包むみたいにすると、背中が張らない。
だから、外套を手直しすれば、袋が無くても隠せると思う」
ブランは匙を止めた。
ノアに目でうなずいてから、帳場のほうをちらりと見た。
主は、背中を向けて皿を拭いている。
ブランは卓に身を寄せて、声を落とした。
「いい考えだ。だが、ここは目が多い。外套の話は、外でしろ」
それから、指を一本立てた。
「先に、旅の決まりを言っとく。灰鷹の札が通るのは、同盟の詰所だけだ。外じゃただの木切れだ。
だから、同盟の外には出ねえ。仕事を拾って、食いつないで、町から町へ渡る」
二本目の指を立てた。
「まずはカプレオへ下る。同盟の真ん中の港町だ。人と荷が多い。四人連れくらい、すぐに紛れる。
商家の町で、聖堂より商会のほうが強え」
三本目。
「でかい聖堂のある町は避ける。遠回りになってもだ」
四本目の指で、ノアを指した。
「ノア。飛ぶな。灯すな」
最後に、顎でラウロをしゃくった。
「顔役はラウロだ。話はこいつが通す。……逃げる旅でもな、俺らは冒険者をやめねえ。これでいく」
ラウロは杯を手に取って、ブランとノアを順に見た。
それから、うなずいた。
「受ける。顔役は俺がやる。それにな、冒険者をやめるなんて、最初から考えてねえよ。
逃げようが何しようが、お前らは相棒だ。町から町へ、やるしかねえだろ」
ノアは、ブランを見てうなずいた。
「飛ばない。灯さない」
卓の下で、右手を握った。
手のひらは、冷たいままだった。
イルウェンは、黙ってうなずいた。
それから、冷めかけた粥に匙を沈めた。
ミラベルの市は、朝から人で埋まっていた。
麦の袋と、干し肉と、塩の壺が並んでいる。
荷車の車輪が石畳を鳴らして、行商の呼び声がその上に重なる。
ヴァレンツァの市場と違って、魚の匂いがしなかった。
布屋の屋台は、市の入り口にあった。
店番は、四十がらみの女だった。
袖をまくった腕が太く、日に焼けた顔でよく笑う。
女は、ノアの背丈と背中の荷をひと目で測った。
奥の棚から、厚い外套を一着引き出して、両手で広げてみせた。
裾が長く、フードの付いた、濃い灰色の外套だった。
ノアの肩から下を、背中の荷ごとすっぽり包めるだけの幅がある。
「お嬢ちゃんの背なら、これかね。まだ寒い時期でもないのに、ずいぶん大きいのを選ぶんだね」
女は首をかしげて、値を言った。
ノアは外套を受け取った。
厚い羊毛で、手のひらに重い。
ヴァレンツァの市場で、母がしていたことを思い出した。
母は、すぐには値を言わなかった。
まず品物を手に取って、ひっくり返して、悪いところを一つ見つけてから、落ち着いた声で言った。
ノアは、外套を裏返した。
縫い目は、真っすぐだった。
飾りの縫い取りは、一つも無い。
「生地は厚い。でも、作りは簡単。もっと下げて」
女は声を上げて笑った。
「作りが簡単なのは、丈夫ってことさ。ほつれる所が少ないんだよ」
笑いながら、指で何かを数える仕草をした。
それから、口をへの字に曲げた。
「……一割。それ以上は、うちの亭主に叱られる」
それ以上は譲らない、という顔だった。
ノアは、うなずいた。
腰の巾着から銅貨を数えて、女の手のひらに載せた。
その場で、古い外套を脱いで、新しいほうを羽織った。
背中の荷が、外套の下に沈んだ。
裾が、くるぶしの近くで揺れた。
「お嬢ちゃん、値切り方が堂に入ってるね。おっかさん仕込みかい」
女が言った。
ノアは、フードの縁を引いた。
答えなかった。
隣の革物の棚の前で、ラウロが剣帯を三本並べていた。
自分の腰の剣帯は、峠道で擦れて、革の縁が白く毛羽立っている。
一本ずつ留め具を引いて、強さを確かめた。
いちばん厚い一本を持ち上げて、店の男に見せた。
「この帯、いくらだ。毎日使うから、丈夫なやつがいいんだ」
ブランは、市の端の縄屋の前にしゃがんでいた。
束ねた縄の端を指でほぐして、撚りの詰まり具合を見る。
一巻きを持ち上げて、重さを手の中で量った。
「旅には縄が要るってんだ。丈夫なのと、軽いのと。細いのもくれ。いくつか要る」
縄屋の親父が、奥から三巻き出してきた。
イルウェンは、革細工の屋台の前に立っていた。
肩に掛けた麻袋の口から、黒い石の付いた筒が何本も覗いている。
店の男が、その筒をちらりと見た。
けれど何も聞かずに、並べた覆いの中から三つを選んで、イルウェンの前に押し出した。
「筒に合わせるなら、このあたりだ。どれにする」
黒い革の薄いもの。
厚手の帆布のもの。
紐で縛る麻のもの。
イルウェンは、しばらく三つを見下ろしていた。
それから、厚手の帆布のを指さした。
「……これー」
ノアは、靴の屋台に回った。
足もとを見下ろすと、ヴァレンツァから履いてきた靴の爪先に、穴が開きかけていた。
峠の石を、一晩じゅう蹴ってきた靴だった。
屋台に並んだ靴を、何足か手に取った。
底を手で曲げて、硬さを確かめる。
いちばん底の厚い、革の丈夫な一足を選んで、その場で履き替えた。
石畳の上で、二、三度踏んでみた。
足の裏に、石の角が当たらなかった。
宿の裏には、古い井戸が一つあった。
洗い場の桶が伏せてあるだけで、人の姿は無い。
麦わらを積んだ小屋の陰になっていて、路地からは見えなかった。
ノアは、新しい外套を脱いだ。
ラウロの袋を外して、ラウロに返した。
帆布の袋に入れたまま、翼を背中に沿わせて、低く畳む。
昨夜、寝台の上で何度も試した畳み方だった。
肩から下へ、背骨に沿って垂らす。
その上に、外套を羽織った。
フードを背中に落として、前の留め具を留めた。
細長い荷だったものが、厚い外套の背中に変わった。
少し背中の丸い、着ぶくれた旅人に見える。
ノアは、井戸のまわりを歩いてみた。
腕を回した。
振り返った。
外套の裾が、足に絡まない。
新しい靴の底が、湿った土を踏んだ。
ただ、折れた左の端だけが、うまく収まらなかった。
歩くたびに、裾の内側で、ぴょこんと跳ねた。
ラウロは、井戸の縁に腰かけて見ていた。
目が、跳ねる裾の内側を追っていた。
「悪くねえ。けど、折れた端が見えてる。それに、今からその厚さじゃ、どこ行っても目立つな」
ラウロは、空を見上げた。
春の日が、もう高かった。
井戸端の石が、日なたで白く乾いていた。
「夏は大変だな」
ノアは足を止めて、ラウロを見た。
外套の中で、背中がもう汗ばみはじめていた。
「何か巻く。夏までには、考える」
ラウロは、鼻で笑った。
「夏まで、か」
ブランが、縄の束を肩に掛け直した。
三人を、順に見回した。
「いくぞ。カプレオへ下る」
返事を待たずに、ブランは路地へ歩き出した。
南東の門のほうだった。
イルウェンが、帆布の覆いを掛けた麻袋をノアの前に置いた。
「……持ってー」
ノアは、麻袋を肩に掛けた。
樫の棒を、右手に持った。
外套の裾の中で、折れた端が一度跳ねた。
ノアは、それを手で押さえないで歩いた。




