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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:外伝
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38/82

令状

年が明けて最初の朝の鐘が、坂の上から降りてきた。

夜中の十二打より、一つ一つが長い。

フランカは詰め所の椅子から立った。

膝が鳴る。

一晩、同じ形で座っていたのだ。


朝番の若い夜警が、欠伸を噛みながら波止場の角を曲がってくる。

「姉さん、早いっすね。頭は?」

「東の倉さね。椅子、温めといたよ」

帽子を一度脱いで、かぶり直した。

前掛けは外さない。

夜警のなりで行くと、夜のうちに決めてある。


坂を上がる。

石段の縁に、霜が白く残っていた。

踏むと、靴の底で細かく割れる。

黒い棒は杖にせず、肩に担いだ。

右手の指が、まだ少し遠い。

握れば握れる。

けれど、握った感じが手のひらまで届くのに、一拍かかった。


親指で、鉄の輪をなぞる。

夜の明かりでは浅く見えた凹みが、朝の光の中だと、木剣の角の形をはっきり残していた。

港で担いだ粉袋なら、何百と石畳に落としてきた。

それでも、輪は一度も凹まなかった。

「……八年もの、だよ」

誰に言うでもなく言った。


長屋の前を過ぎる。

テレーザの家の戸は、まだ閉まっていた。

坂のいちばん上まで来ると、白い塀が続いている。

塀の上から、黄色い実をつけたレモンの枝が、通りへはみ出していた。

アルディーニの屋敷だ。

門の内側が騒がしい。

「お嬢様」と呼ぶ声が、あっちの戸口からこっちの戸口へ、行ったり来たりしている。

朝になって、寝台が空なのに気づいたのだ。


フランカは門の前で足を止めた。

大きく一度、息を吐く。

白いのが、帽子のつばの前で散った。

「さて。言いに来たんだ、言って帰るさね」


門を叩くと、若い女中が飛んできた。

夜警の前掛けを見るなり、顔から血の気が引く。

「お、お嬢様が、何か……」

「生きてるよ。怪我も無い。奥方に取り次いでおくれ。

夜警のフランカ・ロッシが、お嬢さんのことで来たって」


女中が戻るより先に、玄関の扉が開いた。

女が一人、石段の上に出てくる。

背が高い。

首が長くて、そのぶん、こちらを見下ろす目が遠かった。

赤い髪を、頭の後ろで固くまとめている。

ガレナと同じ赤で、ずっと暗い。

深い緑の服に、金の飾りが一つだけ。

右手に、閉じた扇を持っていた。

朝の鐘が鳴ったばかりだというのに、髪の一筋も乱れていない。

寝ていないのか、それとも、毎朝こうなのか。


奥では、まだ使用人たちの声がしている。

女は石段を下りてこなかった。

「あなた、どちらから」


フランカは帽子を取った。

胸の前で持つ。

「街道口の、夜警の詰め所からです」

それから、まっすぐ顔を上げた。

「夜警が通しました。止めませんでした」


奥の声が、ぴたりとやんだ。

女中が、扉の陰で口を押さえる。

奥方の顔は動かない。

扇も動かなかった。

フランカは続けた。

「ゆうべ、年が明けてすぐです。お嬢さんが荷を背負って、街道の上り口に来ました。

坂下の漁師の倅のピエトロが、先に大荷物で来てました。

あたしが二人とも止めて、荷を改めて、上り口を塞ぎました」

棒を肩から下ろし、鉄の輪を奥方のほうへ向ける。

「それから、棒で手合わせしました。お嬢さんは木剣で。これは、そのときのです」


奥方が、扇の先で輪を指した。

「その凹みを、ガレナが付けたと言うのですか」

「付けました。この棒、八年使ってますけど、凹んだのは初めてです」


扇の先が、輪からフランカの顔へ上がった。

フランカは目をそらさなかった。

「転がしても転がしても、起きてきました。止める棒は、もうあたしの手に残ってなかった。

だから通しました。あたしが決めて、あたしが通したんです。

坂の誰かに言われる前に、自分で言いに来ました」


しばらく、誰も何も言わなかった。

門の外を、荷車が一台、軋みながら下っていく。

奥方が、扇を下ろした。

「お入りなさい」

扉の陰の女中に、目だけを向ける。

「皆、広間には来なくてよろしい」



広間は、外より少しだけ暖かかった。

炉に火が入ったばかりで、薪の脂の匂いがする。

大きな窓から、庭が見下ろせた。

レモンの木と、その向こうに白い東屋。

奥方は卓のそばに立ったまま、フランカにも椅子を勧めなかった。

勧められても、座る気は無い。

前掛けには、ゆうべの石畳の泥が付いている。


扉の外から、年寄りの男の声がした。

「奥様、街道へ人を出しますか。今から馬なら、峠の手前で追いつけますが」

奥方は、閉じた扇を卓に置いた。

こつ、と小さく鳴る。

手から扇が離れたのを、フランカは初めて見た。

「出しません」

声は高くも低くもない。

「あの子がそこまでして出ていったのなら、行き着くところまで、自分の足で行かせます。下がりなさい」

扉の向こうで、足音が遠ざかっていった。


奥方は窓のほうを向いた。

フランカも、つられて庭を見る。

東屋の柱の一本、ちょうど人の胸の高さに、白く木肌の出たところがあった。

拳を一つ押し当てたくらいの、浅い凹み。

親指が勝手に、鉄の輪の凹みを探した。


「ノアというのは」

窓を向いたまま、奥方が言った。

「あの子が追っていった、ノアというのは、どういう子ですか」


フランカの口が、半分開いた。

言えることなら、いくらでもあった。

四つで坂に越してきたこと。

手のひらに灯った白いもの。

木から飛び降りても、膝ひとつ擦りむかなかったこと。

十一の年から、ずっと黙って抱えてきたことばかりだ。

今さら黙っておく訳も、もう無い。

それでも、どれも口から出てこなかった。

「坂の長屋にいた子です。二年前の三月に、街を出ました」

それだけ言って、棒を握り直す。

「……それより奥方、お嬢さんのことを話させてください」


奥方は振り向かない。

止めもしなかった。

「かわさないんです、あの子。あたしの図体は見りゃ分かるのに、真っ向から打ちこんでくる。

転がされても起きて、また同じとこへ打ってくる。

三べん目には、もう、あたしの手が言うこと聞かなくなってました」

右手を開いて、また握る。

指の先は、まだ半分しか戻っていない。


「ガレナの、顔は」


フランカは瞬きをした。

「顔? 傷は無いですよ。転がったときに背中を打ったぐらいで。

あとは……ずいぶん、喧嘩慣れした顔してましたね」


奥方の右手が、卓の上へ動いた。

指が扇の手前まで行って、止まる。

それから、こちらを向いた。

「顎です」

声を落とした。

「あの子の顎は、上がっていましたか」


フランカは目を閉じた。

街道口の石畳。

寝ていた水夫と、樽。

自分の肩までしかない赤い頭が、下から睨み上げてくる。

木剣を担いで、肘を引いたときも。

樽の前で、青いものに受け止められて、ずり落ちてきたときも。

石段を三段上って、振り返ったときも。

目を開けた。

「上がってました。打ちこんでくるとき、ずっと」


奥方は、一つ息をついた。

「よろしい」


それだけだった。

笑いはしない。

卓の扇を取り上げ、また窓のほうへ向き直る。

フランカは帽子を胸に当てたまま、頭を下げた。

そのまま、黙って広間を出た。



門まで、さっきの女中が送ってきた。

目の縁が赤い。

門をくぐったところで、女中が二階を見上げて、小さく声を漏らした。

「あそこ、お嬢様のお部屋……」


フランカも振り返った。

二階の窓が一つ、開け放してある。

真冬の朝の風が、まっすぐ吹きこんでいるはずだ。

窓辺に、深い緑の背中が立っていた。

固くまとめた暗い赤の髪。

こちらには振り向かない。

主のいない部屋のほうを、向いている。


フランカは帽子をかぶった。

つばに指を掛けて、目の上まで下ろす。

それから、窓に向かって少しだけ頭を下げた。


坂を下りる。

棒の先が石段に当たって、ちん、と鳴った。

凹んだ輪でも、鳴る音は変わらなかった。

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