令状
年が明けて最初の朝の鐘が、坂の上から降りてきた。
夜中の十二打より、一つ一つが長い。
フランカは詰め所の椅子から立った。
膝が鳴る。
一晩、同じ形で座っていたのだ。
朝番の若い夜警が、欠伸を噛みながら波止場の角を曲がってくる。
「姉さん、早いっすね。頭は?」
「東の倉さね。椅子、温めといたよ」
帽子を一度脱いで、かぶり直した。
前掛けは外さない。
夜警のなりで行くと、夜のうちに決めてある。
坂を上がる。
石段の縁に、霜が白く残っていた。
踏むと、靴の底で細かく割れる。
黒い棒は杖にせず、肩に担いだ。
右手の指が、まだ少し遠い。
握れば握れる。
けれど、握った感じが手のひらまで届くのに、一拍かかった。
親指で、鉄の輪をなぞる。
夜の明かりでは浅く見えた凹みが、朝の光の中だと、木剣の角の形をはっきり残していた。
港で担いだ粉袋なら、何百と石畳に落としてきた。
それでも、輪は一度も凹まなかった。
「……八年もの、だよ」
誰に言うでもなく言った。
長屋の前を過ぎる。
テレーザの家の戸は、まだ閉まっていた。
坂のいちばん上まで来ると、白い塀が続いている。
塀の上から、黄色い実をつけたレモンの枝が、通りへはみ出していた。
アルディーニの屋敷だ。
門の内側が騒がしい。
「お嬢様」と呼ぶ声が、あっちの戸口からこっちの戸口へ、行ったり来たりしている。
朝になって、寝台が空なのに気づいたのだ。
フランカは門の前で足を止めた。
大きく一度、息を吐く。
白いのが、帽子のつばの前で散った。
「さて。言いに来たんだ、言って帰るさね」
門を叩くと、若い女中が飛んできた。
夜警の前掛けを見るなり、顔から血の気が引く。
「お、お嬢様が、何か……」
「生きてるよ。怪我も無い。奥方に取り次いでおくれ。
夜警のフランカ・ロッシが、お嬢さんのことで来たって」
女中が戻るより先に、玄関の扉が開いた。
女が一人、石段の上に出てくる。
背が高い。
首が長くて、そのぶん、こちらを見下ろす目が遠かった。
赤い髪を、頭の後ろで固くまとめている。
ガレナと同じ赤で、ずっと暗い。
深い緑の服に、金の飾りが一つだけ。
右手に、閉じた扇を持っていた。
朝の鐘が鳴ったばかりだというのに、髪の一筋も乱れていない。
寝ていないのか、それとも、毎朝こうなのか。
奥では、まだ使用人たちの声がしている。
女は石段を下りてこなかった。
「あなた、どちらから」
フランカは帽子を取った。
胸の前で持つ。
「街道口の、夜警の詰め所からです」
それから、まっすぐ顔を上げた。
「夜警が通しました。止めませんでした」
奥の声が、ぴたりとやんだ。
女中が、扉の陰で口を押さえる。
奥方の顔は動かない。
扇も動かなかった。
フランカは続けた。
「ゆうべ、年が明けてすぐです。お嬢さんが荷を背負って、街道の上り口に来ました。
坂下の漁師の倅のピエトロが、先に大荷物で来てました。
あたしが二人とも止めて、荷を改めて、上り口を塞ぎました」
棒を肩から下ろし、鉄の輪を奥方のほうへ向ける。
「それから、棒で手合わせしました。お嬢さんは木剣で。これは、そのときのです」
奥方が、扇の先で輪を指した。
「その凹みを、ガレナが付けたと言うのですか」
「付けました。この棒、八年使ってますけど、凹んだのは初めてです」
扇の先が、輪からフランカの顔へ上がった。
フランカは目をそらさなかった。
「転がしても転がしても、起きてきました。止める棒は、もうあたしの手に残ってなかった。
だから通しました。あたしが決めて、あたしが通したんです。
坂の誰かに言われる前に、自分で言いに来ました」
しばらく、誰も何も言わなかった。
門の外を、荷車が一台、軋みながら下っていく。
奥方が、扇を下ろした。
「お入りなさい」
扉の陰の女中に、目だけを向ける。
「皆、広間には来なくてよろしい」
広間は、外より少しだけ暖かかった。
炉に火が入ったばかりで、薪の脂の匂いがする。
大きな窓から、庭が見下ろせた。
レモンの木と、その向こうに白い東屋。
奥方は卓のそばに立ったまま、フランカにも椅子を勧めなかった。
勧められても、座る気は無い。
前掛けには、ゆうべの石畳の泥が付いている。
扉の外から、年寄りの男の声がした。
「奥様、街道へ人を出しますか。今から馬なら、峠の手前で追いつけますが」
奥方は、閉じた扇を卓に置いた。
こつ、と小さく鳴る。
手から扇が離れたのを、フランカは初めて見た。
「出しません」
声は高くも低くもない。
「あの子がそこまでして出ていったのなら、行き着くところまで、自分の足で行かせます。下がりなさい」
扉の向こうで、足音が遠ざかっていった。
奥方は窓のほうを向いた。
フランカも、つられて庭を見る。
東屋の柱の一本、ちょうど人の胸の高さに、白く木肌の出たところがあった。
拳を一つ押し当てたくらいの、浅い凹み。
親指が勝手に、鉄の輪の凹みを探した。
「ノアというのは」
窓を向いたまま、奥方が言った。
「あの子が追っていった、ノアというのは、どういう子ですか」
フランカの口が、半分開いた。
言えることなら、いくらでもあった。
四つで坂に越してきたこと。
手のひらに灯った白いもの。
木から飛び降りても、膝ひとつ擦りむかなかったこと。
十一の年から、ずっと黙って抱えてきたことばかりだ。
今さら黙っておく訳も、もう無い。
それでも、どれも口から出てこなかった。
「坂の長屋にいた子です。二年前の三月に、街を出ました」
それだけ言って、棒を握り直す。
「……それより奥方、お嬢さんのことを話させてください」
奥方は振り向かない。
止めもしなかった。
「かわさないんです、あの子。あたしの図体は見りゃ分かるのに、真っ向から打ちこんでくる。
転がされても起きて、また同じとこへ打ってくる。
三べん目には、もう、あたしの手が言うこと聞かなくなってました」
右手を開いて、また握る。
指の先は、まだ半分しか戻っていない。
「ガレナの、顔は」
フランカは瞬きをした。
「顔? 傷は無いですよ。転がったときに背中を打ったぐらいで。
あとは……ずいぶん、喧嘩慣れした顔してましたね」
奥方の右手が、卓の上へ動いた。
指が扇の手前まで行って、止まる。
それから、こちらを向いた。
「顎です」
声を落とした。
「あの子の顎は、上がっていましたか」
フランカは目を閉じた。
街道口の石畳。
寝ていた水夫と、樽。
自分の肩までしかない赤い頭が、下から睨み上げてくる。
木剣を担いで、肘を引いたときも。
樽の前で、青いものに受け止められて、ずり落ちてきたときも。
石段を三段上って、振り返ったときも。
目を開けた。
「上がってました。打ちこんでくるとき、ずっと」
奥方は、一つ息をついた。
「よろしい」
それだけだった。
笑いはしない。
卓の扇を取り上げ、また窓のほうへ向き直る。
フランカは帽子を胸に当てたまま、頭を下げた。
そのまま、黙って広間を出た。
門まで、さっきの女中が送ってきた。
目の縁が赤い。
門をくぐったところで、女中が二階を見上げて、小さく声を漏らした。
「あそこ、お嬢様のお部屋……」
フランカも振り返った。
二階の窓が一つ、開け放してある。
真冬の朝の風が、まっすぐ吹きこんでいるはずだ。
窓辺に、深い緑の背中が立っていた。
固くまとめた暗い赤の髪。
こちらには振り向かない。
主のいない部屋のほうを、向いている。
フランカは帽子をかぶった。
つばに指を掛けて、目の上まで下ろす。
それから、窓に向かって少しだけ頭を下げた。
坂を下りる。
棒の先が石段に当たって、ちん、と鳴った。
凹んだ輪でも、鳴る音は変わらなかった。




