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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:外伝
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まもるもの

聖堂の鐘が、坂の上から十二打って、やんだ。

年が明けたのだ。

アルディーニの娘が右の腕を抱えて坂を駆け上がっていった晩から、ふた月近くが経つ。

波止場の石畳には、霜の手前の冷たさが下りていた。


酒場の前の屋台は、鐘の前にあらかた畳まれている。

年越しの酒で潰れた水夫が二人、樽にもたれて寝ていた。

フランカは夜警の詰め所の前に椅子を出し、腰を下ろしていた。

帽子のつばを目の上まで下ろし、腕を組んで、顎を胸に落とす。

黒い棒は膝のあいだに立てて、肩にもたせかけてある。

頭の座り方。

八年見てきて、ようやく形だけは似てきた。


頭のコスタンツァは、鐘の前に東の倉の見回りへ出ていった。

「年の変わり目は、倉の錠がゆるむべ」とだけ言い、帽子をかぶり直して、それきりだった。


つばの下から、波止場の端が見える。

詰め所の脇で、街道の石畳が丘へ上がりはじめる。

二年前の三月、ノアが樫の棒を提げて上っていった道だ。

秋口から、夜更けにこの前を赤い頭が何度も抜けていった。

港口の岩場へ、波止場裏の倉へ、古い舟小屋へ。

帰りの足音は、いつも行きより重い。

フランカは帽子の下で、一度も顔を上げなかった。


来年十四になったら街を出る。

あの娘がそう言っているのは、坂じゅうが知っていた。

声が、よく通るのだ。

「……年、明けちまったさね」

誰もいない石畳に言った。

棒の先で、石畳を二度突く。



寝ている水夫の向こうで、石畳を擦る音がした。

重い荷を引きずる音だ。

音は酒場の角で止まって、それきり動かない。


「ロッシ」

暗がりから、声が来た。

低くて、喉の奥で潰したような声。

「東の倉だべ。錠が一つ、ねじ切られてる。来い」


頭の声だった。

語尾の「べ」の落とし方まで、よく似ている。

フランカは顎を胸に落としたまま、動かない。

頭は、人を呼びつけない。

用があれば自分で来て、目を閉じたまま隣に座る。


「下手だね」

帽子の下から言った。

「頭はね、来いなんて言わないよ。用があったら自分で来て、隣で寝たふりするのさ。

ほら、出てきな、ピエトロ」


酒場の角で、咳払いが一つした。

それから、いつもの声が返ってきた。

「……なんで分かんだよお。親父だって網元のじいさんだって、これで振り向いたんだぞ」

ピエトロが角から出てきた。

背中に、自分の胴ほどもある麻袋を負っている。

両手にも包みを一つずつ提げて、肩で息をしていた。

二十一になった首は太く、冬だというのに袖をまくっている。


「振り向かせて、何するつもりだったんだい」

「なんもしねえよ。ちょっと、その、詰め所の前を空けてもらおうと思っただけじゃねえの」

「それを、何かするって言うのさ」


フランカは椅子から立たなかった。

帽子のつばを指で押し上げて、顎で麻袋を指す。

「下ろしな。中、見せてもらうよ」

「なんでだよ! おれの荷だろがよ!」

「年の変わり目の夜中に、街道口へ大荷物で来る男の荷さね。見ない夜警がどこにいるんだい。

闇市の器具が出てきたら、そのまま海に放るからね」

ピエトロの手が、喉のほうへ上がりかけて止まった。

「……入ってねえよ。もう懲りたっつってんだろがよ」


麻袋の口を開けた。

干し魚が束で三つ。

巻いた縄と、油紙に包んだ黒パン。

底のほうに、樫の木剣が一本寝ていた。

柄に布が巻いてあって、ピエトロの手には小さい。

フランカは木剣を持ち上げた。

布が手の脂で黒く光り、握るところだけすり減っている。

「これ、あんたのじゃないね」


ピエトロは横を向いた。

「替えだとよ。一本折ったら困るからって、おれに持たせやがんの。自分の荷は自分で持てってんだよ」


フランカは木剣を袋に戻し、口を縛り直して、ピエトロの胸に押し返した。

「器具は無いね。いいよ」

「いいのかよ」

「荷はね」



坂から下りてくる路地に、足音がした。

軽い。

走っている。

赤い頭が、畳んだ屋台の骨組みのあいだを抜けてきた。


ガレナは背中に包みを一つ負い、腰に木剣を差していた。

外套は、商家の娘が着るにしては粗い灰色の羊毛で、袖が少し長い。

どこで手に入れてきたのか。

吐く息が白かった。

フランカの前で止まると、ピエトロの麻袋とフランカの顔を順に見る。

挨拶は無い。

「なんで止まってんだよ、ピエトロ。先に上って待ってろって言ったろ」

「止められたんだよ! 夜警に!」


ガレナが、フランカを見上げた。

背は、フランカの肩までしかない。

ツリ目の縁が、寒さで赤かった。

「フランカ姉さん」

「姉さんて呼ぶのは、坂の子だけさね。あんた、いつから坂の子になったんだい」

「七つから」


すぐに返ってきた。

フランカは椅子から立った。

立てていた黒い棒を、片手で取る。

先の鉄の輪が、石畳に触れて、ちん、と鳴った。

「十四になったのかい」

「なった。鐘が鳴ったから、なった」

「登録は」

「しねえ。灯帳の写し取ったら、聖堂から家に知れる。あたしはピエトロの札で行く。

街の外の札は、二人いなきゃ受けらんねえし」

「おれの札で、だとよ。おれの都合はどこ行ったんだよ」


ピエトロが言いかけて、ガレナに睨まれて口を閉じた。

フランカは棒を両手で横に持ち、街道の上り口の真ん中に立った。

石段の一段目に、踵が当たる。

「アルディーニの娘を、夜中に街の外へ通した。朝になったら、坂じゅうがそう言うよ。

言われるのは夜警さね」

「だから、なんだよ」

「だから、通さない」


ガレナの右手が、腰の木剣の柄に行った。

「……やんのか」

「ほれ、来な」


ガレナが木剣を抜いた。

抜いたときには、もう踏みこんでいた。

速い。

坂の子の脚の速さではなかった。

外套の裾の下で、何か朱いものが一度だけ透けた。


木剣が上から来る。

フランカは棒の真ん中で受けた。

樫と樫がぶつかる、乾いた音。

重い。

港で担いだどの粉袋より、上から来るこの一振りのほうが重かった。

腕の骨に響いて、肘まで抜ける。


ガレナは木剣を引かない。

受けられたまま、押してくる。

フランカは棒を斜めに倒し、押す力を横へ流した。

流れた先へ、ガレナの体が半歩よろける。

その足首を、棒の尻で払った。

ガレナが、石畳に転がった。


「かわさないんだね、あんた」

「かわす暇があったら、打つ」


ガレナはもう立っていた。

二度目は横から来た。

フランカは一歩下がる。

木剣の先が外套の前を掠めて、風が鳴った。

ガレナは振り抜いた勢いのまま、体ごと回ってくる。

全部入れている。

止めない。

当たるまで振る。

荷運びのころの、自分の振り方だ。

回って戻ってくる先に、フランカは棒の尻を置いた。

置いただけだった。

ガレナの腰が、自分の勢いで棒に乗る。

足が浮いて、また背中から石畳に落ちた。


フランカは棒を握り直した。

手のひらが、さっきの一振りでまだしびれている。

「もういいだろ。帰んな」

「やだ」


ガレナが起きた。

背中の包みの紐が片方切れて、肩からずり落ちている。

それを引きはがして、石畳に放った。

「三年って、言われたんだ。もうすぐ二年だぞ。ノアたちは待ってねえ。

待ってねえなら、あたしが行くしかねえだろ」


三度目、ガレナは踏みこまなかった。

その場で木剣を肩に担ぎ、肘を一度、後ろへ引く。

右腕に何かを流しこむような引き方だった。

袖の中で、腕がひとまわり太くなった気がした。

「おい、ガレナ。全部はやめとけって」

ピエトロが言った。

ガレナは聞いていない。


木剣が来た。

フランカは棒の先で受けた。

鉄の輪のところだった。

ごおん、と鳴る。

聖堂の鐘を、すぐ耳の横で一つ打ったような音。

寝ていた水夫の一人が、樽から転げ落ちた。

フランカの両手が、手首から先、自分のものでなくなった。

棒が指から抜けかける。

抜けない。

指は動かないのに、握った形のまま固まっていた。


ガレナの木剣は、振り抜いた先で止まらない。

腕に入れたものが、まだ前へ行きたがっている。

フランカは握った形の手のまま、棒を回した。

木剣の下に棒を差し入れ、振り抜く勢いの行き先を、少しだけ上へ向けてやる。

ガレナの体が、自分の腕に引っぱられて浮いた。

石畳の上を越えて、波止場の縁に積んだ樽のほうへ飛んでいく。


「っ、おい!」

ピエトロが麻袋を放り出した。

両の手のひらから、暗い青がこぼれる。

夜の沖の色だった。

水のように垂れて、それなのに落ちきらない。

ピエトロが両手を突き出すと、青いものは樽の前で戸板ほどの幅に広がった。

ガレナの背中が、その中に沈んだ。

音がしない。

濡れた網に石を落としたときのように、青い膜が一度大きくたわんで、元へ戻る。

ガレナは膜の中で止まって、ずるずると石畳まで下りてきた。

青いものは、ピエトロの手のひらへ引っこんで消えた。


フランカは、しびれた手で棒を下ろした。

「……なんだい、今の」

「知らねえよ! 勝手に出たんだよ!」

ピエトロは、空になった自分の手のひらを見ていた。

指が震えている。

「おまえ、全部はやめとけって言ったろがよ! 今の、樽に頭から行ってたぞ!」


「行ってねえだろ。お前が止めたから」

ガレナは石畳に座ったまま言った。

息が荒い。

額から、湯気が上がっていた。

それでも、木剣は手から離していない。



フランカは、棒の鉄の輪を見た。

輪の一か所が、木剣の形に浅く凹んでいる。

八年使って、初めての凹みだった。


八年前の夏、長屋の裏の空き地で、荷運びの棒を上から下から横から振った。

ノアは全部かわした。

一度も当たらなかった。

あの子の頭に手を置いて、目立つから夜警には向かない、と言った。

目立たないでいてくれれば、守ってやれると思っていた。

それが通ったのは、坂じゅうが翼を見た晩までだった。


ガレナが、木剣を杖にして立った。

膝が一度笑って、それでも立った。

「まだ、やんのかよ」


フランカは返事をしなかった。

棒の先で、石畳を二度突く。

それから棒を肩に担いで、上り口の真ん中から、一歩脇へ退いた。


「……え」

「通りな」


ガレナが、口を開けたまま止まった。

先に声を出したのは、ピエトロのほうだった。

「いいのかよ! さっき、夜警の顔がどうとか言ってたろがよ」

「言ったさね。だから朝になったら、あたしが坂の上のお屋敷に行くよ。

お嬢さんは夜警が通しました、って、奥方の前でそう言う」


「なんでだよ。黙ってりゃいいだろ。知らねえって言やあ、姉さんは何も……」

ガレナが言いかけた。


フランカは笑った。

大きな声になって、転げ落ちた水夫がまたこっちを見た。

「黙ってんのは、もうたくさんさね。十一のときから、坂の上の子のことをずっと黙ってた。

黙ってたって、守れやしなかったよ。だから今度は、前に立って言うのさ。

投げる石があるなら、夜警に投げなってね」


ガレナは木剣を腰に差した。

口の端が、何か言おうとして動いて、結局、横に引き結ばれる。

礼は出てこなかった。

代わりに、石畳に放った包みを拾った。

切れた紐を結び直そうとして、指がもたつく。

腕に入れたものの熱が、まだ指先に残っているのだ。

フランカは黙って手を伸ばし、結んでやった。

自分の指も、まだ半分しびれている。

結び目は、不格好になった。


「……ノアに、何か言うことあるか」

包みを背負いながら、ガレナが言った。

目はフランカの顔を見ていない。


言いたいことなら、坂の上の長屋の井戸のまわりに、いくらでも落ちていた。

フランカはそのどれも拾わなかった。

「あたしの棒、まだ持ってるか見といて。白っぽくて、握るとこがすり減ってる樫のやつさね。

折ってたら承知しないって言っといて」


ガレナは少し考えてから、うなずいた。

「知ってる。出てくとき、あいつ、あれを高く上げてた」


フランカは、麻袋を拾い上げているピエトロのほうを向いた。

「ピエトロ」

「なんだよ」

「その子の背中、あんたが守んな」

「おれがかよ! 見たろ今の! こいつのほうがよっぽど……」

「見たよ。樽の前に青いのを張ったのは、あんただった」


ピエトロの口が、開いたまま止まった。

手が喉のほうへ上がりかけて、途中で麻袋の紐を握る。

「……追いかけねえって言ってんだろがよ。おれは札取ってくる係なだけじゃねえの」

「札取ってくる係でいいよ。背中は空けんじゃないよ」


ピエトロは返事をしなかった。

麻袋を背負い直して、ガレナより先に石段に足を掛けた。


「行くぞ、ピエトロ」

「おまえが言うなよ! おれが先に上ってんだろがよ」


ガレナが、その後ろについた。

三段上って、振り返る。

「フランカ姉さん。次は、凹ますだけじゃ済まさねえからな」

「ほら、早く行きな。朝の鐘までに丘を越えないと、屋敷の人に見つかるよ」



二つの足音が、石段を上っていった。

重いのと、軽いの。

丘の道の暗がりに入ってからも、重いほうが何か言って、軽いほうが言い返すのが、しばらく聞こえていた。

それも、じきに聞こえなくなった。


フランカは椅子に戻った。

膝のあいだに棒を立てて、肩にもたせかける。

鉄の輪の凹みに、親指が触った。

指の先には、まだ半分しか感じが戻っていない。


沖の空が、ほんの少しだけ薄くなっていた。

朝の鐘には、まだ間がある。

坂の上の屋敷へは、鐘が鳴ってから行けばいい。

フランカは帽子のつばを、目の上まで下ろした。

腕を組む。

顎を、胸に落とす。

寝てはいなかった。

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