ラファルの憂鬱
ヴァレンツァの坂の上で水の礼を言ってから、七か月と十三日が経った。
九月の二十四日。
夜明け前の翼の間は、床の石まで冷えていた。
露台へ続く戸の隙間から、雲の上の風が細く入ってくる。
夏のあいだは無かった、乾いた冷たさだった。
ラファルは架台の前に立って、手の甲を額に当てた。
熱い。
昨日の夕方から、ずっとこうだった。
季節が変わるたびに、体はかならず一度こうなる。
「……熱など、無い」
声に出すと、少しましになった気がした。
療室の者に知られれば、出発は三日延びる。
三日あれば、審議がまた一つ増える。
上衣の背の留め具を外して、肩まで下ろした。
架台に掛けた翼は、夜のあいだに磨かせておいた。
白い板が重なって、灯りの無い部屋でも薄く光って見える。
ラファルは架台に背を向けて、膝を折った。
肩甲骨のあいだの接続口に、付け根の金物が触れた。
冷たい。
付け根が口に食いこんで、針を何本もいっぺんに刺したような痛みが走った。
息を止めて、数を三つ数えた。
痛みが消えて、翼の重さも消えた。
十歳の接続審査の日も、この架台の前だった。
父は白衣の襟を直してから、架台の翼に手を置いた。
「最初の翼です。約束どおり、貴君が都でいちばん先に繋ぐ。貴君の体は規格どおりに出来ている。
何も恥じることはありません」
父の手は、翼の付け根を端から端まで覆うほど大きかった。
あの日から、その手が自分の背に触れたことは無い。
立ち上がると、膝が少し笑った。
架台に手をついて、息を整える。
地面に足をつけているあいだは、いつもこうだ。
翼があっても無くても、床の上の体は同じだった。
あの夜も、同じ痛みのはずだった。
屋根の上で、規格外は肌着ごと上着を捲り上げて、裸の背中に母親の翼を押し当てた。
口は、無いはずだった。
台帳にそう書いてあった。
それなのに、あれの背中は翼を咥えこんで、勝手に開いた。
ラファルは、自分の肩越しに付け根を見下ろした。
「……審査も受けずに、か」
手のひらで、付け根の継ぎ目をなぞった。
金物の継ぎ目が、指の下で硬く並んでいた。
最初の報告は、帰った翌日だった。
裁定局の報告室は、壁も机も白い。
係官は台帳を開いたまま、一度も顔を上げなかった。
「降下の目的。聖都よりの照会、白色の灯りの保持者の確認。結果は」
「保持者を確認した。都の台帳から外された者、四つの年の逃亡者と一致する」
「確保は」
「していない」
係官の筆が、一行ぶん進んだ。
「次。逃亡時の同行者、派遣官ミレア・ヌンティアの所在は」
ラファルは膝の上で両手を握った。
額の傷の布が、まだ取れていなかった。
坂の上で、冷たい水で絞った布を当てられた。
あの女の手は、払わなかった。
「照合していない」
係官が、初めて顔を上げた。
薄い灰色の目だった。
「同行者の照合は、照会の手順に含まれます」
「照会の対象は、白色の灯りの保持者だ。同行者ではない。照合していない者の欄は、作れない。
規程どおりだ」
「規程に、同行者の照合を省いてよいという条文はありません」
「省いてはならないという条文も、無い」
ラファルは、机の端を見たまま言った。
「……無い。探したが、無い」
係官はしばらくラファルを見ていた。
それから、また台帳に目を落とした。
「記録します」
それだけだった。
ミレア・ヌンティアの欄は、その日も、次の日も、作られなかった。
血統管理省の審議は、三月に始まった。
長い机の向こうに、審議官が三人並んでいた。
三人とも同じ灰色の上衣を着て、同じ角度に首を傾けていた。
机の端、記録係の隣の席に、父が座っていた。
省の調整官として、身内の審議に口を挟まない席だった。
膝の上で手を組み、背筋をまっすぐ伸ばして、一度もこちらを見なかった。
真ん中の一人が、写しを読み上げた。
「序列一位、レグルス家の跡取り。降下の申請を経ずに単独で降り、規格外を確保できずに帰還した。
負傷あり。相違は」
「相違がある! 申請は、聖都の照会で足りると判断した。前例もある」
「前例は、ペガサスを伴う派遣官の降下です」
「……地形が、不適当だった」
ラファルは声を張った。
「地上の街は軒が低く、路地が狭い。翼が広がりきらない。そのうえ、現地に協力者が四名いた」
「四名。内訳は」
「剣を持った者が一名。木剣を持った者が一名。魔術器具を持った者が一名。網を落とした獣人が一名」
「年齢は」
ラファルは、口を横に引き結んだ。
赤い髪の、自分より背の低い子どもの顔が浮かんだ。
鉄かよ、と叫んでいた。
「……地上の、子どもだ。大半は」
机の端で、父が白衣の襟を直した。
それだけだった。
筆の音より小さかったのに、ラファルの耳にはいちばん大きく聞こえた。
審議官の一人が、筆を置いた。
右の一人は、置かなかった。
「規格外の抵抗の程度は。台帳によれば、規格外は接続口を持たない。飛行の手段は無いはずです」
ラファルの指が、膝の上で上衣の布をつかんだ。
屋根の上で、あれは翼を開いた。
母親の翼を、自分の背に繋いだ。
口の無い体が、口を作った。
言えば、台帳が嘘になる。
台帳が嘘なら、あれは規格外ではなく、もっと別の何かになる。
別の何かになれば、裁定局が引き取る。
血統管理省が引き取る。
僕の手から、離れる。
「……台帳どおりだ。規格外は、飛ばなかった。陸の路地を逃げただけだ」
言い終えてから、父のほうを見そうになって、やめた。
「では、なぜ追わなかったのです」
「負傷していた。帰還を優先した。規程どおりだ」
「記録します。検討を続けます」
審議は、四月にもう一度、五月にもう一度開かれた。
三度とも、最後の言葉は同じだった。
記録する。
検討する。
六年前に地上へ降りた天使たちが、ヴァレンツァの広場でも同じことを言っていたのだと、
あとで聖都の写しを読んで知った。
「……遅い」
帰り道の回廊で、ラファルは一人で言った。
誰も振り向かなかった。
父の書斎に呼ばれたのは、夏の終わりだった。
窓の外は雲が低く、部屋の中まで白っぽい光が入っていた。
父は窓の前に立って、省から持ち帰った写しを読んでいた。
読み終えるまで、ラファルは扉の前で待った。
父は背が高い。
肩幅が広く、窓の光をほとんど一人でふさいでいる。
同じ家で、同じ規格で設計されたはずなのに、
ラファルの目の高さは父の胸の二つ目の留め具にも届かなかった。
「ラファル。審議の記録は、私のほうで整えておきました」
父は写しを机に置いて、端を指で揃えた。
「地上の子ども四人に、路地で網を掛けられた。省の写しでは、そう読めます。
序列一位の家の跡取りが、です。……お怪我が額だけで済んで、何よりでした」
声は、いつもどおり丁寧だった。
顔も、いつもどおり動かなかった。
ラファルは、両手を体の脇で握った。
額の傷は、とうに塞がっている。
その場所だけが、熱くなった。
「レグルスの家の記録には、何も起きなかったと書かれます。省の記録も、じきにそう落ち着くでしょう。
それから、あの子の名を、この家で口にされませんように。前にも申し上げましたね。
台帳から外されたものの名を呼ぶのは、序列一位の者のすることではありません」
「父上。僕はまだ、何も終えていません」
「ええ。ですから、何も起きなかったのです」
「では、何も起きなかったことの続きを、僕にやらせてください」
父の指が、写しの端で止まった。
「聖都の者は遅い。都の者は、もっと遅い。審議を待っていれば、あれは地上のどこかで年を取ります。
灯りの色を見分けられて、雲の縁まで一人で飛べるのは、この都に僕しかいない。
レグルスの家の者が始めたことは、レグルスの家の者が片をつける。それが、筋です」
言いながら、声が大きくなっていくのが分かった。
止められなかった。
「片がつけば、記録に書けます。何も起きなかった、ではなく」
父は、すぐには答えなかった。
窓のほうへ顔を向けて、雲の低いところを見ていた。
「理念の話をしましょう、ラファル」
窓を向いたまま、父は言った。
「この都が五千年崩れずにきたのは、規格と序列があったからです。台帳に載ったものは消えない。
消えないから、都は崩れない。けれど台帳には、規格外が一件、残っています。十七年前から、ずっとです」
父の手が、白衣の襟に触れた。
直すところなど、どこにも無い襟だった。
「あれを設計したのは、序列十二位から技能だけで上がってきた調整官でした。
技能のある者ほど、規格を軽く見る。
そういう者の作ったものが、地上で年を取り、白い灯りを撒いて歩き回る。それは、都の理念への瑕です」
ラファルは、父の横顔を見上げた。
十七年前の話を、父の口から聞いたのは初めてだった。
父が誰かのことを話すとき、声の底がこんなふうに平らになるのを、聞いたことが無かった。
その調整官の名を、父は最後まで言わなかった。
父がこちらへ向き直った。
「お体のほうは」
「問題ありません!」
声が、途中で裏返った。
父は眉一つ動かさなかった。
見下ろす目が、ラファルの細い手首のあたりで一度止まった。
「貴君の体は規格どおりです。細さは、高い血の証。路地の網ごときで、それを疑われませんように」
「……疑っていません」
「よろしい」
父は写しを引き出しに収めた。
「照会の続きとして、裁定局に申し入れておきましょう。許しが下りるには、時がかかります。
それまで、体を休めておかれますように。次は、記録に残る形でお帰りなさい。都の理念にかなう形で」
「……ありがとうございます、父上」
自分の声が、急に小さくなっていた。
父はもう、次の写しを手に取っていた。
許しが下りたのは、昨日の夕方だった。
審議の始まりから、半年が経っていた。
露台への戸を開けると、風が正面からぶつかってきた。
額の熱が、一度にさらわれた。
ラファルは露台の縁まで歩いた。
十歩もない距離で、息が上がった。
手すりに手をついて、肩で息をする。
「……問題、無い」
都の縁は、すぐそこだった。
屋敷の露台の先で石の地面が終わって、その向こうは雲だった。
東の端が、薄く赤くなりはじめている。
雲の白が、下のほうから少しずつ色を変えていく。
ラファルは手すりを蹴った。
翼が開いた。
一度羽ばたくと、体が手すりの高さを越えた。
二度目で、屋敷の屋根が足の下になった。
息が、楽になった。
床の上で上がっていた肩が、空では静かになる。
膝も笑わない。
ここでは、誰にも負けたことがない。
雲の縁まで出て、そこで止まった。
羽ばたくたびに、体がぴたりと宙に留まる。
下の雲に、切れ目が一つあった。
切れ目の底に、地上が見えた。
小さく、茶色く、遠かった。
北のほうに、山の稜線が黒く連なっていた。
聖都の写しの端に、灯改めの字で一行だけあった。
北の峠を越えた四人連れ。
白い髪の娘を含む。
あの坂の上で、あれは母親の翼を背負って、自分を屋根から落とした。
樫の枝を何本も折って、石畳まで落ちた。
目を開けたら、あの女が額を押さえていた。
あれは、立って見下ろしていた。
キミの負け、と言った。
「……ノア」
家では口にしてはならない名だった。
雲の上では、誰も聞いていない。
父も、ここまでは上がってこない。
「よくも、僕の顔に泥を塗ってくれたな」
風が強くなって、言葉の後ろを持っていった。
ラファルは、もう一度息を吸った。
「必ず、僕の手で捕まえる。都へ連れ戻して、台帳の前に立たせてやる。記録に残る形で、だ。
レグルスの血にかけて!」
声が、途中で裏返りかけた。
裏返らなかった。
額に手を当てた。
もう熱くなかった。
空の風が冷たいせいだと、ラファルは決めた。
北の山の稜線を、もう一度にらんだ。
それから翼を畳んで、雲の切れ目へまっすぐ落ちていった。




