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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:外伝
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35/99

手のひらじゃなくて

九月の十五日になった。

ピエトロが詰所で名前を書いた朝から、三か月が経つ。

昼はまだ汗ばむのに、日が落ちると、港から上がってくる風が肘の内側まで冷たい。


波止場裏の倉には、麦の粉と濡れた縄の匂いがこもっていた。

ガレナは麦袋の山の陰にしゃがんで、樫の木剣を膝に寝かせた。

屋敷を抜けるときは、いつもどおり庭のレモンの枝をつたって塀の外へ下りた。

枝の先の実は、まだ青くて固かった。


戸口の脇の空き樽に、ピエトロが腰かけている。

覆いをかけたランタンを、膝のあいだに挟んでいた。

札には、倉を荒らす大鼠の群れを追い払うこと、とある。

札を取ってくるのも、銅貨を受け取るのもピエトロで、鼠を叩くのはガレナだ。

十四にならないと、詰所の帳面に名前は書けない。

夏のあいだ、ずっとこの組み方でやってきた。


「なあ、まだかよお。夜番の爺さん、鐘が十鳴るころに出てくるっつってたろがよ。

とっくに過ぎてんじゃねえの」

ピエトロは、声だけは抑えたつもりらしかった。


「お前がしゃべるから出てこねえんだよ。黙ってろ」


「なら、鳴いてやろうか。鼠の声なら、ガキのころから……」

ピエトロの手が、喉へ上がった。


「やめろ。気持ちわりい」

港口の岩場で、長い首を傾けてピエトロの顔を覗きこんでいた鵜が浮かぶ。

ピエトロは喉から手を下ろして、樽の上で膝を抱えた。


床板の下で、かり、と音がした。

麦袋の山のいちばん下、板の隙間から鼻先が一つ出る。

二つ、三つ。

後から後から這い出してくる。

どれも、屋敷の台所に居つく猫ほどの大きさがあった。

濡れた毛が束になって、暗がりで光っている。

ガレナは膝の上で指を折った。

八匹。


先頭の一匹が、麦袋の縫い目に歯を立てた。

布の裂ける音がした。

ガレナは息だけで言った。

「今だ」


ピエトロがランタンの覆いを払った。

倉の中が、いっぺんに黄色くなる。

鼠たちがそろって固まった。

ガレナは麦袋の陰から跳び出し、いちばん近い一匹へ木剣を振り下ろした。

打ったのは、麦袋だった。

裂け目から麦がざあっとこぼれて、足もとを埋める。

鼠は、もうそこにいない。


八つの影が、ばらばらに散った。

三つが麦袋の山を駆け上がり、二つが梁へ跳び移る。

残りの三つは、壁ぞいに奥へ走った。

梁の下へ駆けこんで、木剣を突き上げる。

切っ先が梁の角をかすめて、木屑が目に落ちてきた。

細い尾が、鼻先を横切っていく。

振り返って、壁ぞいの三つを追った。

脚は、坂を駆け下りるときと同じだけ出ている。

それでも、鼠のほうが速い。


一匹が、酒樽と壁のあいだに頭を突っこんで詰まった。

ガレナは木剣を横に払った。

樽の縁ごと叩いた手応えがあって、鼠は床に転がり、それきり動かない。

右の拳の関節が、樽の箍に擦れて熱かった。


残りは、倉のいちばん奥へ流れていった。

腐った床板が一枚、欠けている。

影が一つずつ、その穴へ落ちた。

ぽちゃん、ぽちゃん、と下で水が鳴る。

波止場の下の海だ。


ガレナは穴の前にしゃがんで、右の手のひらを穴の上に出した。

腹の底から、力を手のひらへ寄せる。

朱い灯りが、ぽつりと灯った。

豆粒ほどの、消えかけた炉の燠のような鈍い赤だった。

二つ数えないうちに、手のひらへ吸いこまれるようにして消えた。

穴の底は、黒いままだった。


七つの灯記しの朝も、こうだった。

クレメンテは手のひらを一目見て、帳面に「朱」と一字だけ書き、次の子を呼んだ。

次の子の手には、黄色いのが拳ほどに灯った。

後ろで、誰かがくすっと笑った。


「八匹いて、一匹かよお」

ピエトロがランタンを提げて、奥まで来ていた。

床の麦を、靴の先で蹴る。

「札にゃ群れを追い払えって書いてあったろがよ。袋まで裂いてよお。明日ベネデットに何て言やいいんだよ」


「お前の札だろ。お前が言え」


「言やあ、帳面に一行書き足されんのはおれじゃねえの!」

ピエトロの声が倉に響いた。

梁の上で、何かが走る。

逃げたと思った一匹が、まだ上にいたのだ。

足音は屋根の隙間から外へ抜けて、それきりになった。


ガレナは木剣を床に立てた。

右手を開いて、握って、また開く。

灯りの残りは、どこにも無い。

「……遅え。振るのも、走るのも、全部。叩いても手がしびれるだけで、骨まで届かねえ」

穴の下で、波が杭を叩いている。

「三年って言われて、もう一年半だぞ。このまんまじゃ、あいつらどころか鼠にも追いつけねえ」


ピエトロは何か言いかけて、口を閉じた。

ランタンの覆いを、半分だけ下ろした。



二日後の朝、ガレナは井戸の水で手を三度洗った。

拳の関節に、箍で擦った傷が一本、赤く残っている。

袖を引っぱって、それを隠した。


母は、奥の小部屋で手紙を書いていた。

窓からの光が、机の上の紙を白く照らしている。

机の端に、閉じた扇が置いてあった。

ペンの先が、紙の上を細かく走る。


「お母さま」

戸口で言った。

ふだんは「母さん」で済ませている。

ペンが一度だけ止まって、母は顔を上げないまま言った。

「頼みごとですね。何でしょう」


「……灯りの作法、習いたい。です。

春の集いで、みんな手のひらに灯して見せ合ってたろ……ましたでしょう。あたしだけ、やらなかった」

半分は本当だった。


母がペンを置いて、顔を上げた。

ガレナの顔を見て、目を下へ移し、袖の中の右手で止める。

閉じた扇を取って、膝に置いた。

「よろしい。オノリオ先生という方がいます。取引先のお嬢さまがたに、灯りの作法を教えておられる方です。

カルヴィのヴィオランテさんも、習っておられます」


ガレナの口の端が下がった。


「顔に出ています」

扇の先が、ガレナの顎を指した。

春の集いの日、顎の下に当てられた象牙の冷たさを思い出す。

ガレナは口を結び直した。

「先生には、わたくしから屋敷へお越しいただくようお願いしておきます。

あなたの灯りは、灯記しの日から、手のひらに三つ数えるあいだ乗ったためしがありません。

灯りまで粗末では、困ります」

扇の先が顎から下りて、袖のあたりで止まった。

「先生の前に出す手です。それまでに、傷は治しておきなさい」


右手を、背中に回した。

「……はい」

母はもう、手紙に目を戻している。

ペンの先が、また紙の上を走りはじめた。



オノリオが屋敷に来たのは、五日後の昼過ぎだった。

母は塩商の奥方との約束があって、ちょうど門を出るところだった。

女中が連れてきた老人に会釈して、それだけ言う。

「娘に、人前で恥ずかしくない灯し方を。よろしくお願いいたします」

深い緑の背中が、坂を下りていった。


老人は、その背中が見えなくなるまで、門の内側で頭を下げていた。

顔を上げると、白い髭が胸のあたりまで垂れている。

黒い上着の袖口が擦り切れて、肘に当て布がしてあった。

脇には、紐で綴じた手帳を挟んでいる。

背は、ガレナとほとんど変わらない。

ガレナのほうは、袖をまくった綿のシャツに、膝までの古いズボンだった。

行事の日でなければ、母は身なりに口を出さない。


「オノリオと申します。お嬢さま、はじめまして。さて、作法の稽古でございますね。

まずは手のひらを上に、指をそろえて……」

老人の目が、手のひらへ行く途中で止まった。

まくった袖から出た前腕へ、それからズボンの下の脛へ、ゆっくり下りていく。

「……失礼。もう少し、袖を上げていただけますか。いや、そのままで。ああ、なるほど」


「なんだよ。手、見るんじゃねえのか」


「手はあとで見ます。面白い」

オノリオは手帳を開いて、炭の棒で何か書きつけた。

「毎朝、何をなさっていますか」


「坂を下まで駆けて、上まで駆ける。井戸の裏で木剣、二百回」


「二百回。面白い。では、手のひらに灯してみてください。いつもどおりに」


ガレナは右手を出して、指をそろえた。

朱い灯りが、ぽつりと出る。

倉の穴の上で灯したのと、同じ大きさだった。

二つ数えるあいだ揺れて、消えた。

「……な。こんなんだよ。灯記しのときから、ずっと」


オノリオは、消えたところを見ていなかった。

見ているのは、ガレナの前腕だった。

「いま消えたとき、腕のほうが少し熱くなりませんでしたか」


「……なった、かも」


「やはり。面白い、面白い」

三行書いて、炭の棒を耳に挟む。

ガレナを東屋の腰掛けに座らせて、自分は立ったまま、手帳を胸に抱えて話しはじめた。

「よろしいですか、お嬢さま。灯記しの帳には、色と、手のひらに出た大きさしか書く欄が無いのです。

書けるのがそれだけなので、帳ではそれが全部になる。大きく明るく出る色が上で、出にくい色が下。

ですが色というのは、得意なものの違いでしてね。

熱を扱うのが得意な色がある、粘るのが得意な色がある、散るのが得意な色がある。

わたしは学院で二十年ばかりそれを調べまして、それで朱はですね、朱という色は、

外へ出るより中にとどまりたがる。手のひらに呼んでも、すぐ引っこむでしょう。あれは、戻っているのです。

どこへかと言えば、そもそも灯りというものの出どころが……」

話すほど、口が速くなっていく。


「長え。つまり、なんだよ」


オノリオは口を開けたまま止まった。

それから、髭の中で笑った。

「つまり、脚に集めてごらんなさい、ということです。ふくらはぎと、腿の裏に。

灯すつもりでなく、流しこむつもりで」


ガレナは腰掛けから立って、芝の上で足を肩の幅に開いた。

手のひらに寄せるときと同じように、腹の底から力を引く。

それを、下へ落とした。

膝の裏が、ぬくくなる。

ふくらはぎが、坂を上まで三度駆けたあとのように熱い。

なのに、脚は重くなかった。

足の裏が、芝を押し返してくる。

試しに軽く跳ぶつもりで、膝を曲げた。


芝が、足の下から消えた。

耳のそばで風が鳴る。

レモンの梢が、目の横を下へ流れていく。

足の裏に、硬いものが当たった。

塀の上だった。

大人が手を伸ばしても指が届かない塀の、両足でやっと立てる幅の瓦。

踵が片方外れかけて、両腕を振り回す。

体が止まった。


塀の向こうに、坂が見えた。

屋根が段々に重なって、そのずっと下に波止場と海がある。

左の端に、ノアたちが越えていった丘の道が、糸のように細く見えた。

「……跳べた」


「面白い!」

下で、オノリオが手帳を顔の前に掲げていた。

「面白い、面白い! 一度で、塀の上まで。一度でですよ!」

炭の棒が指から落ちて、芝を転がっていく。

老人は気づかずに、指で手帳をこすっていた。


ガレナは塀から跳び下りた。

膝が一度沈んだだけで、脛はどこも痛まない。

胸の中で、心臓がうるさかった。


「では、腕に。木剣はお持ちですか」

オノリオが、東屋の柱を指した。

「あれを打ってごらんなさい。軽くで結構です。軽くで」


寝台の下から木剣を取ってきて、柱の前で構える。

さっき脚に落としたものを、今度は肩から腕へ流した。

二の腕が熱くなって、指の先まで熱が詰まる。

軽く、と言われたのを思い出して、いつもの半分の力で振った。


ごおん、と柱が鳴った。

遠くの鐘楼の鐘を、一つ聞いたような音だった。

東屋の屋根が揺れて、藤の葉がばらばらと降ってくる。

両の手のひらが、じんとしびれた。

木剣は割れていない。

柱の打ったところに、白っぽい凹みが一つ残った。


凹みを、指でなぞった。

「……半分しか、振ってねえぞ」


「半分で、それです。面白い」

オノリオは凹みに顔を寄せていて、髭の先に藤の葉が一枚ひっかかっていた。


急に、息が上がってきた。

額の汗が目に入って、首の後ろが、日に当たりすぎたときのように熱い。

「なんだこれ、あっちい」


「体の中で灯りを燃やしていますからね。燃やせば熱が出て、汗も出て、息も上がる。

やりすぎると、夏の荷揚げの男たちのように倒れます。今日は、ここまで」

オノリオは手帳を閉じて、門のほうへ目をやった。

母が下りていった坂のほうだ。

「奥方には、作法の稽古ということにしておきましょう」


「なんでだよ。ちゃんと教わったって言やいいだろ」


「わたしは昔、これを大きな声で言いましてね。灯帳に書いてあることと違うことを。

それで学院を出されました。灯帳と違うことを言う者のところには、聖堂から人が来るのです」

耳に炭の棒を挟もうとして、指で耳の上を探る。

棒は、そこに無い。

「……おや」


レモンの木の根もとに、炭の棒が転がっていた。

ガレナは拾って、オノリオの手に押しこんだ。

「次、いつ来んだよ」


オノリオは炭の棒を見て、それからガレナを見た。

「七日後に。作法の稽古に、参ります」



日が傾いてから、母が帰ってきた。

ガレナは汗を拭いた顔で、門まで出た。

母は東屋の前で、足を止めた。

腰掛けの上にも石の床にも、藤の葉が散らばっている。

閉じた扇の先が、柱の白い凹みのほうへ一度だけ向いた。

「稽古は、いかがでしたか」


「……作法、むずかしい。です」


母は、凹みから目を離さなかった。

少しして、扇を胸の前に戻した。

「葉は、女中に掃かせなさい」

それだけ言って、屋敷へ入っていった。

廊下の足音は、一度も乱れない。

ガレナは拳を開いて、握った。

「……ばれてんのか?」

足もとで、藤の葉が一枚、風に裏返った。



港口の岩場は、潮が引いて黒い背中を並べていた。

稽古が三度目を数えた日の昼過ぎ。

白い富士壺の岩の上に、ピエトロが立ちふさがっていた。


「おまえ、屋敷の塀の上まで跳んだって? 樽屋のおばさんが坂から見たっつってたぞ。

下から一っ跳びで、猫みてえに乗っかってたってよお」


「見間違いだろ」


「見間違いで、塀の上に赤い頭が乗っかるかよ! こないだの倉の件、ベネデットにえらい顔されたんだぞ。

帳面に一行書き足されてよお。名義貸してやってんのは、おれだろがよ。何したんだよ。教えろよ」

ピエトロが、岩を踏み鳴らした。


ガレナは、木剣の柄を握った。

手を開いて、また握る。

オノリオは、見込んだ相手にしか教えないと言っていた。

ピエトロのどこを見込めばいいのか、見当もつかない。

けれど、十四まであと半年ある。

そのあいだ、札を取ってくる者が要る。

「……教えてやる。その代わり、次の札も取ってこい」


「おう。取ってきてやらあ」

ピエトロが、にやりと笑った。


ガレナは岩に腰を下ろして、オノリオの長い話を頭の中から一つずつ引っぱり出した。

半分も出てこない。

「色で、得意なもんが違うんだと。あたしの朱は、中にいたがる。

だから手のひらじゃなくて、脚とか腕に流す。お前の青のことは知らねえ。出してみろ」


「知らねえっておまえ、教えるっつったろがよお」


「知らねえもんは知らねえよ。いいから出せ」


ピエトロは、右の手のひらを上に向けた。

暗い青が灯る。

夜の沖に近い色だ。

ガキのころ、ともし比べで坂の子に見せびらかしていたのと同じ、丸い灯りだった。

「ほらよ。親父とおんなじ青。これの何が得意だってんだよ」


「丸くすんな。こぼしてみろ」


「こぼす?」

眉を寄せて、ピエトロは手のひらを少しだけ傾けた。


青い灯りが、手のひらの縁からとろりと垂れた。

光のくせに、落ちるのが遅い。

煮詰めた魚の汁が、冷えて固まりかけたときの垂れ方だった。

岩に落ちても、散らない。

富士壺のあいだで、ひとかたまりのまま青く揺れている。


「……なんだこれ。おれ、こんなん出したことねえぞ」

ピエトロが、手のひらと岩の上を見比べた。


「出そうとしたことねえんだろ。もっと出せ。器にしてみろ」


ピエトロが両手を合わせると、手のひらのあいだに青いものが溜まっていった。

指を動かすたびに縁が持ち上がって、椀の形になる。

ガレナは足もとから拳ほどの石を拾い、肩の高さから椀の真ん中へ落とした。

石は、青い中へ沈んだ。

音も、しぶきも無い。

底のほうで、石がゆっくり止まる。

椀が一度だけ大きく揺れて、元の形に戻った。


「おう? 今の、重さ来なかったぞ。手に、なんも来なかった」

ピエトロの声が裏返った。


「勢いを、食ったんじゃねえの」

言いながら、ガレナにもよく分かっていない。


岩の割れ目から、蟹が一匹這い出した。

甲羅が手のひらほどもある、赤黒い蟹だ。

横ばいで、潮だまりのほうへ走っていく。

「おい、あれ」


ピエトロは椀を傾けて石を捨て、青いかたまりを片手ですくって蟹へ放った。

かたまりは宙で細く伸びて、蟹の脚にかぶさり、べたりと岩に貼りついた。

脚が動く。

動いたぶんだけ、青い中で止まる。

振り上げかけた鋏も、途中で止まった。

蟹は泡を吹いてもがいたが、一歩も出られない。


「見たかよ! 見たかよ、おい! 網いらずじゃねえの! これで港の魚寄せりゃ、一網……」

ピエトロが、岩の上で跳ねた。


「また網裂く気かよ」


ピエトロの口が、開いたまま止まった。

それから、もっと大きな声で笑った。

「裂かねえよ! 網がいらねえんだから、裂けるもんがねえだろがよ!」

笑いながら、蟹の上にもう一つかたまりを重ねる。

蟹は、もうぴくりともしなかった。


日が傾くまで、ピエトロは手のひらの青を出したり引っこめたりしていた。

蟹を三匹、小魚を二匹、青い中に捕まえて、そのたびに「見たかよ」と言った。

沖の空が、橙に焼けはじめる。


「なあ、ガレナ。おまえの朱とおれの青、ぶつけたらどうなんだよ。石の勢い食ったんだぞ、これ。

おまえの拳も食えんじゃねえの」

ピエトロが、手のひらに青を溜めたまま言った。


「やめとけ」


「やめとかねえよ。比べようじゃねえの」

ピエトロは両手を前に突き出した。

青いものが手のひらのあいだに薄く広がって、戸板ほどの幅の、揺れる膜になる。

その後ろで、足を踏ん張った。

「ほら、来いよ。こいつは盾だ。石も止まったんだぞ」


ガレナは立ち上がって、木剣を岩の上に置いた。

右の拳を握って、肩から腕へ流しこむ。

二の腕が熱くなり、拳の中まで熱が詰まった。

柱のときの半分の、さらに半分。

膜の真ん中へ、拳を突き出した。


拳が、青い中に沈む。

手の甲に、冷たい水飴を押したような重さが来た。

止まらない。


ばしゃっ、と膜が真ん中から弾けた。

青い粒が岩の上一面に散って、富士壺の上で一つずつ光っては消えていく。

ピエトロの体が、後ろへ飛んだ。

岩の縁で、踵が滑る。

尻から潮だまりに落ちて、水が腰まで跳ね上がった。


潮だまりに座ったまま、ピエトロは自分の両手を見ていた。

手のひらには、何も残っていない。

「……っ、なんだよ、今の」


「半分の、半分だぞ。お前がやれって言ったんだろ」

ガレナは拳を開いた。

手の甲が、少しだけ冷たかった。


「言ったよ! 言ったけどよお!」

ピエトロの声が岩場じゅうに響いて、沖で海鳥が一羽、鳴いて飛び立った。


ガレナは潮だまりの縁にしゃがんで、右手を差し出した。

ピエトロはしばらくその手を睨んでから、濡れた手で握った。

ガレナは引いた。

引きすぎた。

ピエトロの体が潮だまりから抜けて、岩の上で爪先立ちになる。

「引っぱりすぎだろがよお!」


「あ。……ごめんあそばせ」


「なんだそりゃ」

ピエトロは手を振りほどいて、ズボンの尻を絞った。

水が、ぼたぼたと岩に落ちる。

六月にも、同じところで尻を濡らしていた。


ガレナは木剣を拾って腰に差し、沖を見た。

港口の高い岩の向こうで、海が日の最後の光を返している。

「来年、十四になったら街を出る。お前も来いよ」


ピエトロの手が、喉へ上がった。

「追いかけねえって、言ったろがよ」


「追いかけんのは、あたしだ。お前は札取ってくる係。街の外の札は、二人いなきゃ受けらんねえんだろ。

今とおんなじだよ」


「おれの都合は、どこ行ったんだよ」


ガレナは、指を一本立てた。

「ドーラんとこのツケ、何本になった」


ピエトロの口が開いた。

何も出てこない。

喉に当てた手が、そのまま下りなかった。

足もとの岩を、一度蹴る。

「……札、取ってくりゃいいんだろがよ。次のは」


「来年のは?」


「来年のことなんざ、来年だろがよ!」

ピエトロは坂のほうへ歩き出した。

岩から岩へ跳ぶたびに、濡れた靴が滑る。

一度だけ振り返って、右の手のひらを上に向けた。

暗い青が、とろりと灯る。

今度は垂れずに、手のひらの上で揺れていた。

ピエトロはそれを見下ろして、何も言わずに拳の中へ握りこんだ。


岩の上に、ガレナ一人が残った。

右手を開く。

手のひらには、何も灯っていない。

握った。

拳の中が、まだぬくかった。

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