鳥にも効くのかよ
六月の十日、波止場の石畳は昼前から焼けていた。
イザウラの船を降ろされて、一月になる。
船のほうは半月前に荷を積み直して、次の港へ出ていった。
遠ざかっていくその帆を、ピエトロは酒場の窓から見送った。
酒場の奥の隅は、昼でも薄暗い。
樽を二つ並べて板を渡しただけの卓に、欠けた杯が一つ。
水で割った葡萄酒は、舐めると舌の奥が酸っぱかった。
戸口寄りの卓では、荷揚げの男が二人、揚げた小魚を指でつまんでいる。
片方は樽屋の裏に住むマリオで、女房の尻に敷かれているのは坂じゅうが知っていた。
ピエトロは喉に手をやって、咳払いを一つした。
「マリオ! あんた昼から何杯目だい! 樽の底まで舐める気かい!」
高くて、語尾が甲高く跳ねる女の声だった。
マリオの肩が跳ね、指から小魚が落ちて床を転がる。
戸口を振り向いてから、奥の隅に目を移した。
ピエトロは杯を持ち上げて、にやりと笑ってみせた。
「似てたろがよお。耳の裏っかわまで真っ赤にして、振り向いてやんの」
隣の男は鼻を一つ鳴らしただけだった。
マリオは床の小魚を拾い、息を吹きかけて口に放りこむ。
「……おまえなあ。もう二十だろ。九つのころと同じことやって、何が面白えんだ」
「面白えだろがよ! おまえ今、跳ねたじゃねえの。魚落としたじゃねえの」
ピエトロの声が大きくなる。
二人とも、もう振り向かない。
九つのころは、これで坂の子が五人も六人も腹を抱えたものだ。
網元の声で呼べば、年下のラウロは泣きそうな顔で波止場まで駆けてきた。
杯の縁を指でなぞる。
酒は、底のほうにしか残っていなかった。
「で、どうすんだよ、これから」
マリオが、背中を向けたまま言った。
「イザウラの姐さんの船、沈めかけたんだって?
預かり荷の箱開けて、中の金物いじって、船底の板から水噴かしたって聞いたぜ」
「かけただけだろがよ! 沈んでねえんだから」
ピエトロが卓を叩くと、杯が跳ねた。
「ありゃあ、魚寄せみてえなもんでよお。回すとこがあって、回しゃあ唸んだよ。唸りゃあ何か起きんだよ。
使い方さえ分かりゃあ、大したもんだったんだって。道具は使ってこそだろがよ」
「親父さんの網を裂いたのも、同じ口じゃなかったか」
隣の男が、小魚の骨を皿に吐いた。
口を開けたが、何も出てこない。
ピエトロは杯を傾けて、底の酸っぱいのを一息に流しこんだ。
三年前の夏、闇市で買った器具を網の中に沈めた。
魚は寄ってきた。
寄りすぎて、網が真ん中から裂けた。
父は何も言わず、次の朝、舟から網を下ろして、ピエトロの櫂を浜に放っただけだった。
それきり父の舟には乗っていないし、船を降ろされてからは家の戸口にも立っていない。
寝床は、波止場の船小屋の筵だ。
「おい、ピエトロ。そういや聞いたか」
マリオがようやくこっちを向いて、わざとゆっくり言った。
「ラウロの坊主な。去年の三月に、剣しょって出てったぜ。
白いのと、獣人のおっさんと、エルフの姉ちゃんと組んでよ。組の名前まで帳面に載ってんだとさ」
「知ってるよ。組んでたのは、おれが船に乗る前からだろがよ」
「組んでただけじゃねえ。街の外まで出てったんだ。あの灯らずがよ」
空の杯を握る指に、力が入った。
「……あいつ、九つんときは、おれの後ろで鼻たらしてたんだぞ」
「今は冒険者さまだ。おまえは何さまだ?」
マリオが笑った。
さっきの声真似のときより、ずっと大きな笑い声だった。
「だから言ったろがよ! あの晩、港口で白いのを見たって! おれの言ったとおりじゃねえの。
あいつ、天使と屋根の上で……」
「その話は、うちじゃしないよ」
台の向こうから、しゃがれた声がした。
ドーラが、布巾でコップを拭いていた。
五十を過ぎて、背中が少し丸い。
髪から覗く耳の先は細く尖り、琥珀色の目が薄暗がりで光る。
コップを棚に置くと、ドーラはピエトロの卓まで来て、空の杯を取り上げた。
「もう一杯って顔だね」
「……ツケで」
ドーラは台に戻り、壁の板に白墨で線を一本足した。
ピエトロの名の横に並んだ線が、これで十本になる。
「世の中は変わらないよ」
喉の奥で、ごろ、と笑った。
「何がだよ」
答えは返ってこない。
ドーラは杯にさっきより水の多い葡萄酒を注いで、ピエトロの前に置いた。
日が傾いてから、ピエトロは酒場を出た。
網干しの竿が並ぶ坂下の路地を抜ける。
三軒目の戸口に、父の網が掛けてあった。
裂けたところが、目の細かい新しい糸で繕ってある。
戸の中から、弟の声と、鍋を置く音。
足は止めない。
網の下を肩をすぼめてくぐり、そのまま坂を上った。
行くあてがあったわけではない。
アーモンドの木には、もう青い実がついている。
坂を下りてくる夕方の風が、汗の乾いた首筋を冷やした。
井戸の裏から、木が風を切る音がした。
「……二百八、二百九、二百十」
女の声だ。
井戸の縁に手をついて、裏を覗く。
赤い髪の娘が、樫の木剣を振っていた。
髪を後ろで一つに縛り、袖は肩までまくり上げている。
むき出しの腕は日に焼けて茶色く、細いのに、振り下ろすたびに筋が浮いた。
六年前、坂の子の輪に「入れろ」と突っかかってきた、アルディーニの娘。
あのころはピエトロの腰までしか背が無かったのが、今は肩まである。
「二百十一……」
振り上げたところで、木剣が止まった。
ツリ目が、井戸の縁のピエトロを見つける。
「ピエトロじゃねえか。船、沈めかけたんだって?」
ガレナは木剣を肩に担ぎ、腹を抱えて笑いだした。
笑い声が、井戸の中で響く。
「かけただけだ! どいつもこいつも、同じことばっか言いやがって」
「だって坂じゅう知ってるぞ。姐さんに襟首つかまれて、桟橋に放り出されたって。
樽屋のおばさんが見てたって」
笑いやむと、ガレナは木剣の先をピエトロに向けた。
「で、なんだよ。昼から酒くせえぞ。お前、何やってんだ」
「なんもしてねえよ。休んでんだよ」
「ラウロは冒険者だぞ。
灯らずで、鉄の一で、みんなに笑われて、それでも登録して、顔役やって、ノアと出てったんだぞ。
お前、何やってんだ」
ガレナの声が、一段大きくなった。
ピエトロは喉に手をやった。
咳払いは、出なかった。
木剣の先は下りない。
ツリ目も逸れない。
「……うるっせえな!」
坂の上まで届く声だった。
「おれだって登録ぐらいする! 冒険者なんざ、なろうと思えばいつだってなれんだよ!」
「へえ。いつ」
「明日だよ!」
言ってから、自分の声が耳に返ってきた。
なに言ってんだ、おれ。
ガレナのツリ目が、ゆっくり細くなる。
口の端が上がった。
「言ったな。朝、詰所の前な。見に行く。逃げたら、坂じゅうに言いふらすからな」
木剣を、肩に担ぎ直す。
「逃げるかよ」
井戸の縁から手を離すと、手のひらに石の冷たさが残った。
背中で、また木剣が風を切りはじめる。
「二百十二、二百十三……」
灰鷹の詰所の戸は、朝の鐘より先に開いていた。
その脇の壁にもたれて、ガレナが腕を組んでいる。
腰には木剣。
「来たな」
「来るっつったろがよ」
大股でガレナの前を通りすぎ、戸をくぐる。
革と墨の匂いがした。
帳場の台の向こうに、男が一人座っていた。
四十の終わりくらいで、頭の上のほうが薄い。
両袖に黒い袖覆いをかぶせ、ペンを耳に挟んでいる。
台の上には帳面が三冊、角を揃えて並べてあった。
男は顔を上げ、ピエトロの顔と、後ろのガレナの顔を順に見た。
「おはようございます。ご用件は」
朝の詰所には、ほかに誰もいない。
それでもピエトロは台に両手をつき、腹の底から声を出した。
「登録だ! 坂下のカルーゾの長男、ピエトロ! 冒険者になりに来てやったぜ!」
帳場係は、耳からペンを抜いた。
「ベネデットと申します。承りました。では三つ、伺います」
帳面の一冊を開く。
「一つ、お名前と生まれ年。二つ、灯帳の写し。これは聖堂から届いている束で、こちらで確かめます。
三つ、今のお暮らし向き、ということで」
「暮らし向きって、なんだよ」
「何で食べておられるか、です」
ベネデットは台の下から紐で綴じた束を出し、指で繰って、一枚を抜いた。
「カルーゾ、ピエトロ。十三年前の灯記しで、青。お父上と同じ色、と。よろしいですね」
「……おう」
ベネデットが帳面をめくる。
その拍子に、前の頁が一瞬だけ開いた。
太い字の一行に、丸い囲みがしてある。
ピエトロには読めない形の字だった。
その下に、名前が四つ、縦に並んでいる。
ブラン。
イルウェン。
ノア。
ラウロ。
ラウロの名の横に、小さい字で何か書き添えてあった。
読む前に、頁は返された。
喉が、ごくりと鳴った。
「……今のは」
「前の方々の欄です。では、お暮らし向き」
ベネデットはペンの先を墨に浸した。
「船を降りられて一月。お父上の舟には、まだ、ということで」
「なんで知ってんだよ!」
「波止場は狭いので」
ピエトロの欄の端に、細い字が三行並んだ。
「等級は鉄の二。灯りのある方の、はじめの等級です。
街の外の依頼は、二人以上でなければお受けできません。報酬は等級で決まります。
以上三つ、よろしいですね」
「よろしいも何も……」
「あたしは来年だからな!」
ガレナが、ピエトロの脇から台に身を乗り出した。
「来年、十四になったら来る。覚えとけよ。ガレナ・アルディーニ」
ベネデットはガレナの顔を見てから、帳面のいちばん後ろの頁を開き、隅に何か書いた。
「来年のことは、来年に伺います、ということで」
ペンを置くと、壁の板に打ちつけた依頼の札を一枚外す。
「ピエトロさん。ちょうど、街の内の依頼が一つあります。
港口の岩場に大鵜が一羽棲みつきまして、張った網の魚を毎朝持っていく。
岩場に網を張っている漁師の方々の連名です」
「鳥かよ。鳥一羽」
「育ちすぎた鵜です。背丈が、そちらのお嬢さんの腰ほどあるそうで。殺さなくてかまいません。
追い払っていただければ。港口は街の内ということで、お一人でもお受けできます」
「受けてやるよ」
ピエトロは札をひったくった。
「鳥一羽、昼までに片づけてやらあ」
昼を過ぎて潮が引くと、港口に黒い岩の背が並んで現れた。
岩肌には、白い富士壺がびっしりついている。
干からびた海藻と、魚の腐った匂い。
岩と岩のあいだに杭が打たれ、潮の引いた水たまりの上に網が三枚張ってあった。
船小屋の裏から借りてきた鉤竿を担いで、ピエトロは岩を渡った。
後ろから、足音がついてくる。
「おまえ、来んなっつったろがよ」
「街の内の依頼だろ。散歩だよ、散歩」
ガレナは木剣を腰から抜いて、岩から岩へ跳んだ。
足の運びが、ピエトロより軽い。
いちばん沖寄りに、屋根ほどの高さの岩が一つ突き出していた。
四年前の秋、漁船が乗り上げたのもあのあたりだ。
夜の船倉の板の隙間から白いのが漏れたのを、ピエトロは甲板の上から見た。
何度言っても、誰も本気にしなかった。
唾を吐く。
岩のてっぺんに、黒いものが乗っていた。
首が長く、背の羽が油を塗ったように光っている。
嘴の先は、釣り針のように曲がっていた。
鵜は網を見下ろして、首を左右に振っている。
「あれか! でけえ!」
ガレナが言った。
「でかくたって鳥だろがよ」
岩の根もとまで行って、ピエトロは鉤竿を振り上げた。
竿の先は、鵜の足もとの岩にも届かない。
二度振って、二度とも風の音しかしなかった。
鵜は首を傾けてピエトロを見下ろしたまま、動かない。
「当たってねえぞ」
「見りゃ分かる!」
足もとの石を拾って投げる。
石は鵜の頭のずっと上を越えて、海に落ちた。
二つ目は岩の腹で跳ね返り、ピエトロの脛に当たった。
「……っ、いってえ!」
鵜が羽を広げた。
ピエトロの頭の上をゆっくり越えて、網の上に降りる。
網の目に首を突っこみ、銀色の小魚を一匹くわえ出した。
喉が動いて、魚が消える。
また羽ばたいて、高い岩のてっぺんへ戻った。
「ぐわっ」
「笑われてんぞ」
口を押さえたガレナの手の隙間から、声が漏れていた。
「笑ってねえよ、鳥が!」
ピエトロは岩に手をかけて、登りはじめた。
三歩目で、濡れた海藻を踏む。
足が滑った。
尻から水たまりに落ちて、冷たい潮が腰まで染みた。
「ぐわっ」
また鳴いた。
水たまりに座ったまま、ピエトロは岩のてっぺんを睨んだ。
くそ鳥が。
喉に手をやる。
「……ぐわっ」
腹の底から出した。
「ぐわっ、ぐるるるる」
嘴の奥で転がすような、濁った声だった。
鵜の首が止まった。
長い首が、横にゆっくり傾く。
黒い目が、ピエトロを探している。
「……ぐる、ぐる」
今度はもっと低く、短く鳴いてやった。
網の上で魚を見つけた鵜が、仲間を呼ぶときの声。
ガキのころから、波止場で何百回と聞いてきた。
鵜が羽を広げて、一段下の岩に降りた。
首を傾けたまま、もう一段。
ピエトロの座る水たまりの、すぐ向こうの岩まで来て羽を畳み、首を伸ばして顔を覗きこんでくる。
仲間を探す目だ。
背中が、潮とは別のもので冷えた。
喉を押さえた手が、動かない。
「……ピエトロ」
岩の反対側で、ガレナが低く言った。
両手で、木剣を握り直している。
鉤竿の柄を探ると、指に触った。
「ぐる」
もう一声。
鵜が、首をこっちへ伸ばした。
ガレナが岩の陰から跳んだ。
木剣が、鵜の羽の付け根に落ちる。
濡れた布団を叩いたような、鈍い音。
鵜が甲高く鳴いて、首を振り上げた。
ピエトロは水たまりから立ち上がりざま、鉤竿を横に払った。
竿の腹が、鵜の胸に当たる。
濡れた網の束を叩いたときと同じ、重い手応えだった。
鵜は岩から転げ落ち、張ってあった網に片足を絡め取られた。
羽ばたくたびに、浮きの木が岩に当たってからからと鳴る。
ガレナがもう一度、木剣を振り上げた。
「行け! 二度と来んな!」
振り下ろす前に、足が網から抜けた。
鵜は羽を大きく広げ、水の上を低く飛んで、港口の向こうの沖へ小さくなっていった。
網の上に、黒い羽が一本残っている。
ガレナは木剣を下ろして、肩で息をした。
それから、ピエトロを振り向いた。
「今の、なんだよ。鳥が、お前んとこに寄ってった。お前の声、鳥とおんなじだった」
眉が寄っている。
笑ってはいなかった。
「ガキのころからやってんだろがよ。おまえだって、網元の声で呼び出されたろ。七つのとき」
「あれか! あれ、ほんとに腹立ったんだぞ。
家の人に見つかる前に帰れって言われたと思って、坂を全部駆け上がったんだからな」
ガレナは木剣の先で、ピエトロの濡れた尻を突いた。
「……鳥にも効くのかよ。気持ちわりいな」
答えずに、ピエトロは網の上の黒い羽を拾った。
指の先で、冷たく濡れている。
仲間の声がしたから、降りてきた。
それだけの鳥だ。
羽を海に放る。
指が喉のほうへ上がりかけて、途中で止まった。
詰所で受け取った銅貨は、五枚。
ベネデットはピエトロの濡れた膝から下を見て、帳面に一行書き足した。
何と書いたのか、聞く気にはならなかった。
夕方になっても、波止場の石畳は昼の熱を持っていた。
沖の空が、橙に焼けている。
銅貨を拳に握りこんで、ピエトロは防波堤の根もとまで歩いた。
「五枚かよ。船よりしけてんな。姐さんとこじゃ、ひと航海で銀貨もらってたんだぞ」
言いながら、拳は開かない。
指のあいだで、銅貨がかち、と鳴った。
ガレナが防波堤の杭に跳び乗った。
去年の春、ノアたちを送り出したとき、この娘が同じ杭の上で何か叫んでいたと、マリオから聞いている。
杭の上で木剣を肩に担いで、ガレナは沖のほうを向いた。
「言っとくけどな。ノアたちに追いつくのは、あたしが先だからな」
「追いかけねえよ」
自分で思ったより、小さい声が出た。
「なんだよ。つまんねえな」
ガレナが、杭の上から振り向いた。
ピエトロは沖を見ていた。
港口の高い岩の向こうで、海が日の最後の光を返している。
イザウラの船が出ていった海の先も、ラウロたちの背中が消えた丘も、ここからは見えない。
あの鵜が飛んでいったほうにも、何も無かった。
「……追いかけねえって言ってんだろがよ」
銅貨の拳を、ズボンの尻で一度拭う。
濡れた布の冷たさが、まだ残っていた。
「ドーラんとこのツケ、一本ぶんにはなるか」
「一本かよ」
杭の上で、ガレナが笑った。
井戸の裏のときほど、大きな声ではなかった。
ピエトロは坂のほうへ歩き出した。
坂下の路地には、父の網が干したままになっている。
その前で、足が一度止まった。
それから網の下をくぐって、酒場のほうへ下りていく。
拳は、握ったままだった。




