ごめんあそばせ
四月の二十日、アルディーニの屋敷の庭では、レモンの木が白い花を開いている。
ノアたちが波止場から出ていった朝から、一年と一月。
花の匂いは、二階の窓まで上がってきていた。
「息を吐きなさい」
母が、ガレナの背中の紐を引いた。
ガレナは言われたとおりに吐いた。
紐が、肋のあいだに食いこむ。
「……きっつ。坂を三往復したあとより苦しい……ですわ」
「喋らなくてよろしい」
母は紐の端を結ぶと、鏡台の扇を取った。
背が高く、首が長い。
ガレナと同じ赤い髪は、ずっと暗い色で、頭の後ろで固くまとめてある。
深い緑の服に、金の飾りが一つだけ。
扇は閉じたまま、指のあいだに収まっている。
今朝も夜明けに坂を下まで駆け下りて、駆け上がってきた。
井戸の裏で、樫の木剣を二百回。
三年と言われた朝から、一日も欠かしていない。
あと、一年。
汗だくで戻ると、母が湯を張って待っていた。
その木剣は、いま寝台の下にある。
右手が、左の腰へ行った。
いつも木剣を差しているところだ。
指がつかんだのは、つるつるした絹だった。
鏡の中に、深緑のドレスの娘が立っている。
母と揃いの色。
肘までの袖から先の腕だけが、日に焼けて茶色い。
髪を結い上げられたせいで、ツリ目がいつもよりもっと吊っていた。
口を結ぶと、誰かを睨んでいるようにしか見えない。
「……悪そう」
「口を閉じていなさい。閉じていれば、あなたは十分にアルディーニの娘に見えます」
母は扇の先で、ガレナの肩を一度だけ押した。
背中が、勝手に伸びた。
昼の鐘が鳴るころ、坂を客が上ってきた。
年に一度、取引のある商家を招いて庭で開く、春の集いだ。
父は広間で酒の樽を開けさせていて、門の内側には母とガレナが並んだ。
最初に門をくぐったのは、船主のカルヴィ家だった。
十二隻の船持ちだと、母から三回は聞かされている。
主人は腹が突き出ていて、指の一本ごとに指輪が光っていた。
奥方の後ろから、娘が一人ついてくる。
年はガレナと同じくらいだろう。
白に近い桃色のドレスを着て、細く巻いた髪を耳の横へ垂らし、手にはレースを張った扇を持っていた。
肌の白さは、坂の子の誰とも比べものにならない。
稽古したとおりに、裾をつまむ。
膝を折る。
頭を下げたら、下げすぎて自分の靴の先が見えた。
慌てて起こした体の、踵が裾の端を踏んでいる。
前へつんのめりかけたところで、左足が勝手に一歩出て、石畳を踏みしめた。
転ばない。
毎朝の坂の下りで、何百回もやっている動きだった。
「あ、あたし……わたくし。ガレナ・アルディーニ、ですわ。本日は、ようこそ、ですわ」
カルヴィの主人が、腹を揺らして笑った。
「いやいや、元気なお嬢さんだ。うちのヴィオランテにも見習わせたいくらいですな」
娘のヴィオランテは、扇で口もとを隠していた。
扇の上で、目だけが細くなる。
「ごきげんよう、ガレナさま。お噂どおり、お元気そうで」
鈴を振ったような、小さな声だった。
お噂って、なんの噂だよ。
聞き返す前に、カルヴィの一家は広間へ入っていった。
客はそれからも続いた。
油商の一家、塩商の一家、樽屋の親方。
今度は下げすぎないよう首に力を入れたら、浅すぎて、うなずいただけになった。
最後に来たのは、ベルティの家の母娘だった。
父親の姿は無い。
娘はガレナより一つか二つ下に見えた。
薄い水色のドレスの裾に、下ろした縫い目の跡が一本、白く残っている。
去年のを伸ばしたのだ。
それくらい、ガレナにも分かる。
娘は早く浅く礼をして、母親の後ろへ隠れた。
母親のほうは、どの客よりも深く頭を下げて門をくぐっていった。
客がみな広間へ消えると、母は閉じた扇の先を、ガレナの顎の下に当てた。
軽く持ち上げられて、顔が上を向く。
象牙の扇は、ひやりと冷たかった。
「今日は、アルディーニの娘でいなさい」
それだけ言って、母は広間へ歩いていった。
顎を上げたまま、ガレナはしばらく門の前に立っていた。
右手がまた左の腰へ行って、絹だけをつかんだ。
大人たちは広間の窓を開け放して、今年の船の割り当てだの、オリーブ油の値だのを話しはじめた。
娘たちには、女中が菓子の皿を持たせて、庭の東屋へやる。
「お嬢さまがたは、あちらでごゆっくり」
笑顔で言われた。
要するに、追い払われたのだ。
東屋の屋根には藤が這わせてあり、紫の房が手の届く高さまで垂れている。
甘ったるい匂いに蜂が一匹まとわりついて、羽音がうるさい。
ガレナは東屋には入らず、裏へ回った。
裏なら、広間の窓から見えない。
背中の紐を、少しだけゆるめるつもりだった。
生け垣の手前で、笑い声が聞こえた。
大きな声ではない。
喉の奥で転がすような、湿った笑いだ。
生け垣の陰から覗くと、藤の房の下に娘が四人いた。
三人が、一人を囲んでいる。
真ん中はヴィオランテで、両脇に、巻き毛をもっときつく巻いた娘と、背の低いそばかすの娘がついていた。
囲まれているのはベルティの娘で、アーモンド菓子を盛った皿を両手で持たされている。
「もう少し、下げてくださる? 給仕は、目より下で皿を持つものでしょう」
ヴィオランテが、扇の先で皿の縁を押した。
皿が下がる。
ヴィオランテは菓子を一つつまんで一口だけかじり、残りを皿に戻した。
「ねえ、ニーナ。お父さまの船、まだ見つからないのですって?」
ニーナと呼ばれた娘は、目を伏せた。
「……一月の嵐から、まだ」
「三か月ね。三か月も見つからない船って、見つかるものなのかしら」
巻き毛の娘が首をかしげた。
「見つかっても、積み荷は駄目でしょうね」
そばかすの娘がくすくす笑って、手の杯を傾けた。
杏の果汁が、水色の裾に落ちる。
下ろした縫い目の跡の上に、橙の染みが広がっていった。
「あら。ごめんあそばせ」
誰も、声を上げて笑いはしない。
三つの扇の陰で、喉だけが鳴っている。
ニーナは皿を持ったまま動かなかった。
皿の上で菓子がかちかちと小さく鳴るのは、手が震えているからだ。
なんだよ、あれ。
ガレナの右手が、左の腰の絹を握りしめた。
歯の奥が、ぎりっと鳴る。
坂の上なら、とっくに「やんのか」と怒鳴って、木剣を抜いている。
口を開けた。
顎の下に当てられた扇の冷たさが、まだ残っている。
口を閉じた。
開けて、また閉じる。
ガレナは裾を両手でつまみ上げた。
上げすぎて、脛まで出る。
構わず、大股で生け垣の陰から出ていった。
四人がいっせいに振り向いた。
ニーナの肩が跳ねる。
ガレナの顔を見るなり、皿を胸に抱えこんで、一歩下がった。
四人目が来た、と思ったらしい。
吊った目で、口を結んで、裾をからげて大股で。
鏡の中の悪そうな顔が、頭をよぎった。
ガレナはヴィオランテの前で止まり、母に仕込まれた言葉を、頭の中から一つずつ引っぱり出した。
「それ、よくない……ですわ。おやめになって、くださいまし……ですわよ」
藤の下が、一瞬しんとなった。
巻き毛の娘が、扇を口に当てる。
「ですわ、ですわ」
「ですわよ、ですってよ」
そばかすの娘が、ガレナの口の形を真似た。
ヴィオランテは、ガレナの腕を肘から指先まで眺めた。
「まあ、ガレナさま。その腕、坂の子みたいに焼けてらっしゃるのね。門の前でも思いましたの。
アルディーニのお家では、お嬢さまに井戸の水汲みをさせてらっしゃるのかしら」
ガレナは答えなかった。
ニーナの前へ回って皿を取り上げ、東屋の腰掛けに置く。
それから、ニーナの手を取った。
冷たい手だった。
杏の汁で、指がべたついている。
「行くぞ。……参りましょう、ですわ」
ニーナは目を丸くしてガレナを見上げ、引かれるまま、一歩を踏み出した。
東屋の脇を回ると、前は広い芝で、その向こうに広間の窓が並んでいる。
後ろから、ヴィオランテの足音がついてきた。
「お待ちになって、ガレナさま。お菓子を放っていかれるのは、お行儀がよろしくないわ」
声がすぐ横まで来る。
桃色の裾が、右の足もとへすっと寄ってきた。
脛に、何かが当たった。
毎朝跨いでいる井戸端の桶の縁ほども、硬くない。
脚は止まらなかった。
当たったものをそのまま前へ押しのけて、もう次の一歩を踏んでいる。
後ろで、どさっと音がした。
振り返ると、ヴィオランテが芝に尻をついていた。
桃色の裾が、芝の上に丸く広がっている。
その端から、片方の靴の先だけが、ガレナの歩いてきた筋へ突き出たままだ。
取り巻きの二人は、扇を持ったまま固まっていた。
広間の窓から、話し声が消えた。
いくつもの顔が、芝のほうを向く。
突き出た靴の先を見て、ヴィオランテの顔を見た。
足、掛けようとしたな。
で、勝手に転んだ。
口の端が上がるのを、止められなかった。
坂の駆けっこで、ラウロを最後の十歩で抜いたときの顔だと、自分でも分かる。
ガレナはニーナの手を離して、ヴィオランテの前にかがみ、右手を差し出した。
「まあ、たいへん。お怪我は、ございませんこと?」
ヴィオランテが見ていたのは、差し出された手ではなく、ガレナの顔だった。
白い頬から、さらに色が引いていく。
扇を握った手は、芝の上から動かない。
「ほら。お手を、どうぞ……ですわ」
ガレナは、手をもう少し前へ出した。
おそるおそる、ヴィオランテの指が乗った。
ガレナは引いた。
半分汲んだ桶より、ずっと軽い。
引きすぎて、ヴィオランテは芝の上で爪先立ちになった。
「……っ」
「あら。ごめんあそばせ」
さっきのそばかすの娘と同じ調子で、すらりと出た。
今日いちばん上手く言えたお嬢様言葉だった。
ヴィオランテは手を引っこめ、裾の芝も払わずに、巻き毛の娘の後ろへ下がった。
三人は扇を寄せ合って、東屋のほうへ戻っていく。
一人も振り返らない。
広間の窓では、カルヴィの主人がうなずいて、隣の客に何か言っていた。
大人の顔が、一つずつ中へ引っこんでいく。
窓の端に、深い緑の服が一つだけ残った。
母だ。
閉じた扇を顎の下に当てて、こっちを見ている。
遠くて、顔までは見えなかった。
「……あの」
ニーナが、ガレナの袖をつまんでいた。
一度目を伏せてから、顔を上げる。
「ありがとう、ございます」
「なんもしてねえ……ですわ。あいつが勝手に転んだんだ」
ガレナは腰掛けから皿を取ってきて、アーモンド菓子を二つつかみ、ニーナの手に押しこんだ。
「食え。……お召し上がりに、なって」
菓子を両手で持ったまま、ニーナはしばらくガレナの顔を見ていた。
それから、少しだけ笑った。
日が傾いて、最後の客が坂を下りていった。
広間では女中たちが杯を下げていて、陶器の触れ合う音が続いている。
開け放した窓からは、夕方の風と一緒に、レモンの花の匂いが入ってきた。
「ガレナ。こちらへ」
母は窓辺に立ち、扇を半分だけ開いて胸の前に持っていた。
広間を横切る二歩目で、また裾を踏んだ。
踏んだまま、母の前まで歩く。
裾の端には、芝の緑が一筋ついていた。
母は、ガレナの頭のてっぺんから足もとまでを順に見た。
「言葉は、半分もできていません」
「……はい」
「裾を踏んで歩いていました。門で一度、芝で二度。今も一度」
扇の先が、足もとを指した。
「礼は、はじめが深すぎて、あとは浅すぎました。アルディーニの娘は、そこまで頭を下げません。
かといって、うなずくものでもありません」
右手が、左の腰へ行った。
絹を握る。
目が、床へ落ちかけた。
顎の下に、扇の先が来た。
持ち上げはしない。
ガレナは、自分で顎を上げた。
「顎は、上がっていました」
扇が離れた。
「手の出し方も、悪くありません」
母は窓の外の芝へ一度だけ目をやって、ガレナに戻した。
「あなたにしては、よくできました」
母は笑わなかった。
半分開いていた扇が、ぱちりと閉じる。
そのまま背を向けて、母は広間を出ていった。
廊下を遠ざかる足音は、一度も乱れなかった。
窓辺に、ガレナだけが残った。
握っていた絹を放す。
手を開いて、また握った。
「……今の、ほめたのか?」
返ってくるのは、女中が杯を重ねる音ばかりだ。
裾をつまみ上げて、脛を見下ろした。
ヴィオランテの靴が当たったところには、痣一つ無い。
ただ、その奥がまだ少しだけ熱かった。
「……分かんねえ、ですわ」
裾を下ろして、広間の戸まで歩いた。
今度は、踏まなかった。




