旅立ち
三月の二十日になった。
坂の途中のアーモンドに、白い花がつきはじめていた。
板戸を開けると、朝の風にもう霜の匂いが無かった。
天使が帰った朝、ブランから、「北の峠の雪が落ちるまで待て」と言われて。
それから、四十日が経っていた。
ノアは卓の端に腰かけて、背中の重さを肩で探った。
翼は、今朝も背中から外れなかった。
母が古い帆布で縫った長い袋が、畳んだ翼をすっぽり包んでいる。
上から外套をはおると、後ろからは細長い荷を背負っているようにしか見えない。
袋の中で、折れた左の端だけが少し曲がって収まっていた。
母は、二月に詰めた麻袋をもう一度ほどいて、詰め直していた。
黒パンを布で包み、干し魚を入れ、靴下を丸めて押しこむ。
針箱を入れて、いちばん上に糸巻きを一つ載せた。
青い糸だった。
「冬の上着は置いていきなさい。峠を越えたら、もう要らないわ。そのぶん、薄い肌着をもう一枚ね」
「母さん。これ、やっぱり母さんのだ」
ノアは袋の口ではなく、自分の肩を見ていた。
母の手は止まらなかった。
「取り返したりしないわ。それはもう、あなたの背中のものでしょう」
「なら、母さんも来て」
母は肌着を畳んで、袋に入れた。
入れてから、袋の口を両手で押さえた。
「私はここに残るわ。聖堂から、そのうち人が来るの。灯改めの人たちよ。
あの晩の翼を、坂じゅうが見たでしょう。誰かがお話しする相手にならないといけないわ」
「ボクが相手する」
「いけません」
声が、あの晩の屋根の上と同じになった。
「灯改めは、私が引き受けます」
母は袋の紐を引いて、結んだ。
それから、いつもの声に戻った。
「行き先は、私に言わないでね。知らなければ、知らないと言えるもの」
ノアは卓の縁を指でなぞった。
指が、角のところで止まった。
「あとで話すって、言った」
母の手が、結んだ紐の上で止まった。
しばらく、そのままだった。
それから、ノアの向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。
「……そうね。言ったわ」
母は膝の上で両手を重ねた。
窓の外で、樫の枝が一度鳴った。
「あなたは、都で生まれました。雲より上にある都です。
四つのとき、私があなたを抱いて、そこから降りました」
短く切って、それ以上は言わなかった。
「天使の、都?」
「そうです」
「それだけ?」
母は重ねた手をほどいた。
ノアの外套の襟に手を伸ばして、折れていたところを直した。
「続きは、帰ってきたらにしましょう」
ノアは上着の内側に手を入れた。
柄のすり減った網針に、指が触った。
「バルドも、続きは今度って言った。言って、次の朝にいなくなった」
母の指が、襟の上で止まった。
油皿の無い朝の部屋で、母の顔ははっきり見えた。
目が、少しも動かなかった。
「なら、あなたが聞きにきてちょうだい。私は、ここにいるわ。どこへも行かない」
「……帰ってくる」
「ええ」
母は襟から手を離した。
足もとの影が、ちらりと光った。
「で、僕ですけどね。こっちに残ります。ミレアさんのそばに」
光が影の縁で、落ち着きなく揺れた。
「なんで」
「きみには仲間が四人もいるじゃないですか。ミレアさんには僕しかいません。
それに、聖堂の人が来たら、横から茶々を入れる係が要るでしょう?」
「ピリム」
母が言った。
「はいはい。茶々は小さめにします」
光が影から抜けて、窓のほうへ流れた。
開けた板戸の前で一度止まって、戻ってきた。
風が一度だけ、ノアの髪をくしゃりと乱した。
「きみの旅は、報告の対象にしませんよ。欄がありませんから」
それきり、光は母の足もとの影に沈んだ。
ノアは乱れた髪を手で押さえた。
母が立ってきて、ノアの後ろに回った。
手首に巻いていた青い糸を、母の指がほどいた。
髪を一つにまとめて、糸で結んだ。
結び目を作るところで、指が一度止まった。
それから、きつく結んだ。
「行ってらっしゃい」
ノアは麻袋を肩に掛けた。
背中の包みの上で、袋の紐がずれた。
「行ってくる」
戸を出ると、長屋の前の樫の下に、テレーザが立っていた。
あの晩に天使が折った枝の付け根から、薄緑の芽が二つ出ている。
テレーザは太い腕に布の包みを抱えて、前掛けで手を拭いていた。
その横に、フランカがいた。
夜警の前掛けをつけたまま、黒い棒を肩に担いでいる。
夜番の明けらしく、目の下が青かった。
左手には、もう一本、白っぽく擦り切れた樫の棒を提げていた。
「ほら、これ持ってきな。荷運びのころの棒さね。あんたにゃ一度も当たってくんなかったやつだよ」
フランカは樫の棒を突き出した。
ノアは棒を受け取った。
握るところが、フランカの手の形にすり減っていた。
「当たらなかったのは、ボクのせいじゃない」
「言うようになったねえ」
フランカは笑って、ノアの頭をがしがしと撫でた。
結んだばかりの髪が、また少し乱れた。
「突くのにも使えるし、坂じゃ杖にもなるさね。当たんなかった棒なら、あんたの手にも馴染むだろ」
撫でていた手が、ノアの頭の上で止まった。
「……守るもんが無くなっちまったよ、約束。あの晩、坂じゅうが見ちまったからね」
「フランカ。余計なこと言うんじゃないよ」
テレーザがフランカの背中を叩いて、布の包みをノアの胸に押しつけた。
「弁当だよ。黒パンと、ゆで卵と、干した無花果。今日のうちに食べときな。腐らせたら承知しないからね」
「ありがとう」
「礼なんか要らないよ。どこへ行くかも聞かない。お袋さんのことは任せときな。家賃はきっちり取るけどね」
テレーザは腰に手を当てた。
向かいの家の板戸が、指一本ぶん開いていた。
テレーザはそっちへ首を回した。
「見るなら堂々と見な! 出てけって言いたいやつは、あたしんとこへ言いにきな! 聞いてやるから!」
板戸が、音を立てて閉まった。
テレーザは鼻を鳴らして、ノアの外套の襟を直した。
母が直したところと、同じところだった。
背中の包みには、触らなかった。
「ほら、行きな。待たせてるんだろ」
ノアは坂を下りはじめた。
アーモンドの木の下で一度振り返ると、フランカが黒い棒を高く上げていた。
母は、戸口の中にいて見えなかった。
波止場は、朝の荷揚げの声で埋まっていた。
濡れた縄と魚の匂いが、潮風に混じって流れてくる。
網を担いだ男が二人、ノアの背中の包みを見て、口を閉じた。
すれ違ってから、後ろで「天の子」と小さく言うのが聞こえた。
防波堤の根もとに、三人が待っていた。
ラウロは、背に剣を負っていた。
路地で欠けた刃は研ぎ直してあって、鞘の口が新しい革で巻いてある。
「遅えぞ。テレーザさんに捕まってたろ」
「弁当もらった」
ノアは包みを持ち上げてみせた。
「俺らのぶんは?」
「無い」
イルウェンは、麻袋の上に座っていた。
冬のあいだに伸びた背は、座っていてもラウロの肩に届く。
横顔だけ見れば、人間の十七、八の娘だった。
黒い石の筒が、袋の口から何本も覗いている。
ノアの顔を見ると、イルウェンは立ち上がって、袋を両手で押して寄こした。
「……持ってー」
「お前、もう自分で持てるだろ、その背なら」
ラウロが言った。
「……持てるのと、持つのは、ちがうー」
「背中に一個しょってんのに、まだ持たせんのかってんだ」
ブランが、ノアの背中の包みを目で測った。
垂れた耳が、ぴくりと動いた。
「重さ、平気か」
「平気」
ノアはイルウェンの麻袋を、自分の袋と一緒に肩に掛けた。
樫の棒を右手に持ち替えた。
防波堤の突端のほうを、ノアは一度見た。
バルドの座っていた石の上には、誰もいなかった。
網は片づけられていた。
杭の輪に、舫いの結び目だけが一つ残っていた。
十二月に、ノアが結んだ結び目だった。
「待てよ!」
石畳を蹴る足音がして、赤い髪が荷揚げの人垣をすり抜けてきた。
ガレナだった。
樫の木剣を腰に差して、背中に小さな包みを背負っている。
息を切らして、ノアの前で止まった。
「あたしも行く。支度してきた」
「十二のガキ、連れてけるか。中身、なんだそれ。パンか」
ブランが、ガレナの包みを指で弾いた。
「パンと、木剣の替え!」
「三年待てって言ったろ」
ラウロが言った。
「言われたよ! だから三年待つつもりだったよ! そしたらお前ら、一年も経たないで出てくじゃねえか!」
ガレナの声が、荷揚げの声より大きかった。
網を担いだ男たちが、こっちを振り向いた。
ノアは、ガレナを見下ろした。
「三年」
ガレナの口が、横に引き結ばれた。
ツリ目の縁が、赤くなった。
下唇を噛んで、ノアを睨み上げた。
濡れてはいなかった。
「……分かったよ。行けよ。さっさと行け」
ガレナは背中の包みを下ろして、足もとに叩きつけた。
ブランが、先に歩き出した。
イルウェンが、何も持っていない手をぶらぶらさせて、それに続いた。
ラウロはガレナの頭に手を置きかけて、払われた。
ノアは、樫の棒を握り直して歩いた。
波止場の端から、街道の石畳に上がった。
後ろで、石を蹴る音がした。
振り返ると、ガレナが防波堤の根もとの杭の上に立っていた。
両手を口に当てていた。
「追いつくからな!」
杭の上で、ガレナの体が揺れた。
「すぐ追いつくから! お前より強くなって、追いつくからな!」
ノアは、樫の棒を高く上げた。
ガレナは、手を振り返さなかった。
杭の上に立ったまま、腕を組んでいた。
街道は、海沿いから外れて丘へ上がっていった。
道の脇の草が、もう青かった。
日が高くなって、外套の下で背中が汗ばんだ。
丘のてっぺんで、イルウェンが道端の石に腰を落とした。
伸びた脚を、道の真ん中まで投げ出した。
「……休憩ー」
「まだ一刻も歩いてねえ」
ブランが言いながら、自分も水筒の栓を抜いた。
ノアは、後ろを振り返った。
坂の町が、手のひらに載るほど小さくなっていた。
屋根が段々に重なって、そのてっぺんに聖堂の鐘楼が一本立っている。
坂のいちばん上の長屋は、どれがどれか分からなかった。
坂の途中に、アーモンドの白いのが点のように一つ見えた気がした。
防波堤は、海に投げた糸のように細かった。
その向こうで、海が朝の光を返していた。
ラウロが隣に来て、同じほうを見た。
「小っちぇえな。灯らず組の小屋、あのへんだったよな」
防波堤の突端を指さした。
指の先には、白い波しか見えなかった。
「うん。バルドの石も、あそこ」
ブランは、振り返らなかった。
水筒を腰に戻して、丘の向こうの道を見ていた。
「振り返んのは、一回にしとけ。二回目から足が重くなるってんだ」
ノアは肩を揺すって、背中の包みを背負い直した。
帆布の袋の中で、翼の骨がかしゃ、と小さく鳴った。
粉袋よりずっと重かった。
母の背中から外したときと、同じ重さだった。
上着の内側で、網針の柄が胸に当たった。
ノアは、樫の棒を地面に突いた。
「行くか」
ラウロが言った。
「行こう」
イルウェンが、ブランに腕を引かれて立ち上がった。
ノアは前を向いた。
丘の下り坂が、知らない畑のあいだを抜けて、ずっと先まで続いていた。
外套の肩に、白い花びらが一枚ついていた。
風が吹いて、花びらは町のほうへ飛んでいった。
ノアは、それを目で追わなかった。




