借り物の翼で
夜の鐘が九つ鳴っても、坂の灯はまだ半分も消えていなかった。
戸も窓も閉めきった部屋で、油皿の火が一つだけ揺れていた。
ノアは窓の板戸を指一本ぶんだけ押して、外を覗いた。
隙間から、凍った風が目に刺さった。
港の上の暗がりに、白い点が一つ浮いていた。
「まだいる」
「灯が消えるまで待ちましょう。暗いほうが、上からは見えにくいわ」
母は卓の上に麻袋を二つ広げていた。
黒パンを布で包んで入れ、干し魚を三枚入れ、ノアの冬の上着を丸めて押しこんだ。
その上に、糸巻きを一つ載せた。
青い糸だった。
母の手は、一度も止まらなかった。
ノアは板戸を閉めて、卓の端に立った。
「聞かないの? 何があったか」
「あなたが走って帰ってきたときの顔で、足りたわ。ブランさんたちが待っているのね。
詰所の裏だったかしら」
母は靴下を二足、揃えて丸めた。
「……うん」
ノアは卓の縁を指でなぞった。
「あいつ、都って言った。四つの年に逃げた者だって。ボクの名前、知ってた。母さんのも」
母の手が、靴下を握ったところで止まった。
油皿の火が、一度だけ横に倒れた。
「……そう」
母は靴下を麻袋に入れた。
「針も持っていきましょう。どこへ行っても、服は破れるもの」
「母さん」
「あとで話すわ。ここを出て、あなたが眠れるところまで行ったら」
母は針箱の蓋を閉めた。
閉めたまま、蓋の上に手を置いていた。
足もとの影が、ちらりと光った。
昼のあいだ一度も光らなかった影だった。
「上、まだいますねえ。さっきから同じところをぐるぐる。律儀ですよ、あの坊ちゃん。
夜風、冷たいのにねえ」
軽い声が、影の中から早口で湧いてきた。
「昼は、光らなかった」
ノアは影を見下ろした。
「光ったら見つかるじゃないですか。あの子の目は色を見るんですよ。きみのも、僕のもね。
見つかったら僕まで報告の対象です。書く欄、もうありませんけど」
「ピリム」
母が、影のほうを見ずに言った。
「はいはい、黙ります」
光が一度速く揺れて、影に沈んだ。
母は針箱を袋に入れて、立ち上がった。
部屋の奥の押し入れを開けて、冬の布団を二枚、床に下ろした。
その奥へ腕を入れて、長い包みを引き出した。
六つの冬に、ノアが上着を探して引っぱり出した包みだった。
あのとき母は、昔の仕事の道具だと言った。
重いから使わない、とも言った。
母は包みを床に置いて、紐をほどいた。
布の中から、白い骨が折り重なって出てきた。
板を重ねたような骨の並びは、昼の天使の背中にあったものと同じだった。
付け根に近い一か所だけ、新しい金物が巻いてあった。
継ぎ目の色が、ほかの骨より明るかった。
「それ、ザッコのとこで直してた。九つのとき。折れてた」
母が顔を上げた。
「……見ていたのね。あのときは、ザッコさんにありがとうも言えなかったわ」
母は継ぎ目を指の腹でなぞった。
それから、包みの布を畳みはじめた。
「これは置いていけないの。持っていくわ」
かしゃ、と外で音がした。
板を重ねる音だった。
屋根の上を、風がひと筋、低く走った。
影の中で、光が跳ねた。
「来ました。港じゃありません。真上です」
母は畳みかけた布を床に落とした。
「ノア。ここにいなさい。窓から離れて」
柔らかいところが、どこにも無い声だった。
母は襟の紐をほどいて、服の背中を肩まで下ろした。
油皿の火に、母の背中が白く浮いた。
肩甲骨のあいだに、指先ほどのくぼみが二つ並んでいた。
ノアは、そんなものを見たことがなかった。
母は白い骨の付け根を両手で持ち上げて、背中へ当てた。
指が付け根の下のほうへ回って、何かを押した。
乾いた音が一つして、骨が母の背に留まった。
母の肩が、小さく跳ねた。
「母さん、それ……」
「ここにいなさいと言いました」
母は戸を開けて、外へ出た。
冷えた空気が部屋に流れこんできた。
ノアは戸口まで走った。
長屋の前の石畳に、母が立っていた。
背中の骨が、かしゃ、かしゃ、と音を立てて開いていった。
長屋の軒から軒まで届くほどの、白い翼だった。
「出てこい、規格外!」
頭の上から声が降ってきた。
長屋の屋根より一つ高いところに、昼の天使が浮いていた。
翼の一打ちごとに、体がそこにぴたりと留まっていた。
「隠匿する者も同罪だと言ったはずだ! 出てこなければ、屋根ごと……」
天使の声が、そこで止まった。
坂の上に広がった白い翼を、見下ろしていた。
「……派遣官の、翼?」
母の翼が一つ打った。
石畳の霜が、風で舞い上がった。
母の体が、天使と同じ高さまで上がった。
「レグルスの家の子ですね。帰りなさい。ここは、あなたの来るところではありません」
「僕を知っているのか。ならば僕も知っている! ミレア・ヌンティア。四つの子を連れて逃げた派遣官!
台帳に、おまえの名もある!」
天使の顔が、月の無い空でも分かるほど赤くなった。
「知っています」
母は、それだけ言った。
天使が翼を畳んだ。
石を投げたように、まっすぐ母へ落ちてきた。
母は動かなかった。
天使の手が届く一歩手前で、母の片翼だけが打った。
母の体が、横へ滑った。
天使は母のいたところを突き抜けて、長屋の煙突の横をかすめた。
煉瓦が一つ欠けて、坂を転がり落ちていった。
ノアは戸口の柱をつかんでいた。
「母さん、飛べたの?」
「飛べたんですよ、昔はね。八年ぶりにしちゃ、上等です」
足もとの影で、ピリムが言った。
天使は屋根の上で翼を立て直して、また来た。
今度は横から、翼の縁を振ってきた。
母は屋根すれすれまで下がって、長屋と長屋のあいだに渡した物干しの縄の下を、翼を畳んでくぐった。
天使は翼を開いたまま追ってきた。
縄が翼に絡んで、天使の体が空中でがくんと止まった。
その上へ、母が戻ってきた。
母の翼の縁が、天使の背中を打った。
鈍い音がして、天使は屋根の瓦の上に落ちた。
瓦が三枚、割れて滑り落ちた。
「……っ、まだだ!」
天使は縄を引きちぎって、飛び上がった。
肩が大きく上下していた。
吐く息が白く、途切れ途切れに流れていた。
母は天使の上に浮いて、息を乱していなかった。
「もう一度言います。帰りなさい。あなたの体では、朝まで持ちません」
「僕の体のことを、おまえが言うな!」
天使は、母へ向かってこなかった。
翼を大きく打って、真上へ上がった。
一打ちごとに、体が小さくなっていった。
長屋の屋根も、聖堂の鐘楼も越えて、白い点になった。
母が、その後を追って上がった。
翼が打つたびに、骨の付け根で、きい、と金物の軋む音がした。
母の上がり方は、天使よりずっと遅かった。
半分も行かないうちに、白い点が止まった。
点が、大きくなった。
落ちてくるのだとノアが気づいたときには、もう母のすぐ上にいた。
母は横へ滑ろうとした。
さっきと同じ動きだった。
天使はさっきより速かった。
翼と翼が、正面からぶつかった。
金物を叩き割るような音が、坂じゅうに響いた。
白い板が何枚も、夜空に散った。
母の左の翼が、付け根の近くで折れ曲がっていた。
明るい色の継ぎ目のところだった。
右の翼だけが打って、母の体がくるりと回った。
回りながら、長屋の屋根へ落ちてきた。
瓦の割れる音が続いた。
母は屋根の斜面を滑って、棟の端に片手をかけて止まった。
「母さん!」
ノアは戸口を飛び出した。
軒下に積んだ薪の山を蹴って、軒の縁に手をかけた。
体を引き上げると、足の下で瓦が鳴った。
屋根の上は、風が強かった。
割れた瓦の破片が、足もとで滑った。
ノアは斜面を這うように登って、母の横に膝をついた。
母は棟に頬を押しつけて、肩で息をしていた。
折れた左の翼が、斜面に垂れていた。
骨の先から、小さな白い板がまだ一枚ずつ剥がれて、坂の下へ落ちていった。
「ノア。下りなさい」
母は顔を上げなかった。
声だけが硬かった。
「やだ」
棟の反対の端で、軽い音がした。
天使が降りていた。
翼を背中に半分たたんで、膝に手をついていた。
口を開けて、喉の奥で息を鳴らしていた。
それでも、顔を上げたときには笑っていた。
「……終わりだ。翼の折れた派遣官と、口の無い規格外。二人とも、連れていく」
ノアは、母の背中を見た。
翼の付け根が、母の背の二つのくぼみに食いこんでいた。
さっき部屋で、母の指が付け根の下のほうを押していた。
ノアは手を伸ばして、付け根の下を探った。
指の先に、小さな出っ張りが触った。
母の手が、ノアの手首をつかんだ。
「いけません」
つかむ力が、弱かった。
「母さん、今、飛べない」
ノアは出っ張りを押しこんだ。
乾いた音がして、付け根が母の背中から浮いた。
母が短く息を呑んだ。
ノアは両腕で翼を抱えた。
市場へ運ぶ粉袋より、ずっと重かった。
「何をしている」
天使が棟の上で体を起こした。
「外装は、接続口が無ければ繋がらない。おまえは審査も受けていない。台帳にある。口の無い体だと」
ノアは翼を足もとに立てかけた。
上着の裾をつかんで、下に着ていた肌着ごと、首まで捲り上げた。
夜風が、裸の背中にまともに当たった。
冷たいというより、痛かった。
翼の付け根を両手で持って、自分の背中へ回した。
肩甲骨のあいだに、押し当てた。
冷たい金物が、肌に触っただけだった。
何も起きなかった。
「無駄だと言っている。規格外は、規格外らしく……」
背中が、熱くなった。
押し当てたところから、熱が肩へ、腰へ、指の先へ広がっていった。
皮膚の下で、何かがひらいた。
目を開けるときの瞼に似ていた。
付け根の金物が、ひらいたところへ食いこんできた。
針を何本もいっぺんに刺されたような痛みが、一息のあいだだけあって、消えた。
両腕の重さも消えた。
翼が、肩の続きになっていた。
右の翼を開こうと思う前に、右の翼が開いていた。
左は、折れたところから先がうまく動かなかった。
それでも、開いた。
「……ノア」
母が、棟から顔を上げていた。
目が、ノアの背中を見ていた。
天使の口が、開いたまま止まっていた。
「なんで……口は、無いはずだ。台帳に……」
ノアは棟を蹴った。
翼が一度打った。
屋根が、足の下から遠のいた。
思ったより、ずっと高く上がった。
天使の頭が、下にあった。
天使は、まだ母のほうを見ていた。
首だけが、ゆっくりこっちへ回りはじめていた。
ノアは翼を畳んだ。
体が、天使へ向かって落ちた。
右の翼の縁が、天使の肩に当たった。
路地で木剣が跳ね返ったのとは違う、重い手応えがあった。
天使の体が棟から外れた。
翼を開こうとして、開ききらないまま、屋根の斜面を転がり落ちていった。
軒を越えて、長屋の前の樫の枝を何本か折って、根もとの石畳に落ちた。
それきり、動かなかった。
ノアは、空の上にいた。
下りようとして、翼をどう動かせばいいのか分からなかった。
右ばかりが広がって、体が傾いた。
坂の家々の屋根が、斜めに見えた。
その向こうに、港の灯が三つ四つ、黒い海の縁に残っていた。
耳もとで、風が鳴っていた。
「……高い」
左の翼を、動かないなりに開いた。
体がやっと平らになった。
ノアは石畳に向かって、ほとんど落ちるように降りた。
膝を打った。
痛くなかった。
長屋の二階の板戸が一枚、音を立てて閉まった。
閉まる前の隙間に、誰かの目があった。
夜明け前になると、坂の上の霜が青く見えた。
樫の木の下に、天使が寝かされていた。
母が膝をついて、天使の額の傷を布で押さえていた。
母の服の背中は、まだ肩まで下りたままで、上からノアの上着が一枚掛けてあった。
「水を汲んできてくれる? 井戸の、いちばん下の冷たいのがいいわ」
母は天使の顔から目を離さなかった。
声は、いつもの声に戻っていた。
ノアは動かなかった。
「なんで手当て。こいつ、母さんを落とした」
「頭を打っているもの。このまま置いておいたら、朝までに冷えてしまうわ。怪我をしている子よ」
母は布を裏返して、傷に当て直した。
ノアは井戸へ行って、釣瓶を落とした。
綱を引くと、背中の翼が勝手に少し開いて、井戸の縁に当たった。
「……じゃま」
翼は、言われたように畳まれた。
ノアは桶を抱えて戻った。
母は布を水に浸して、絞った。
天使の頬の泥を、端から拭いた。
それから、ノアの背中を見上げた。
「痛い?」
「痛くない。でも、取れない」
ノアは背中に手を回して、付け根を探った。
母の背で押した出っ張りは、どこにも無かった。
付け根は、肩甲骨のあいだの皮膚に、ぴたりと埋まっていた。
「取らなくていいわ」
母は布を桶に落とした。
しばらく、水面を見ていた。
「……持っていきなさい」
「母さんのでしょ」
「今は、あなたの背中のものよ。私の背中では、もう、ああは飛べないわ。直しながら使いなさい。
ザッコさんに見せたら、きっと怒るわね」
母は折れた左の翼の先に手を伸ばして、剥がれかけた白い板を一枚、指で押さえた。
板は、押さえたところで止まった。
「母さんは?」
母は答えなかった。
天使の額に、新しい布を当てた。
天使の瞼が動いた。
目が開いた。
最初に母を見て、次に樫の枝を見て、最後にノアの背中の翼を見た。
「……っ」
起き上がろうとして、肘が崩れた。
「じっとしていて。額が切れているの」
母は天使の肩を、手のひらで軽く押さえた。
天使は、押さえられたまま動かなかった。
「……なぜ、手当てをする。僕は、おまえたちを連れ戻しに来た」
「知っているわ。きつくない?」
母は布の端を結んだ。
天使は答えなかった。
口を横に引き結んで、空を見ていた。
東のほうが、少しずつ白くなりはじめていた。
長い間があった。
「……手当てを受けた者を、そのまま連行する決まりは、無い。連行してはならないという決まりも、無い。
……無い。探したが、無い」
天使は肘をついて、今度はゆっくり体を起こした。
肩に置かれた母の手を、払わなかった。
「ミレア・ヌンティア。おまえは見逃す。僕の報告に、おまえの欄は作らない」
それから、ノアを見上げた。
坂に座りこんでいても、立っているノアの腰のあたりまでしか頭が届かなかった。
「規格外。おまえは違う。今日は路地が狭くて、屋根の上で油断しただけだ。負けたとは思っていない」
「キミの負け」
「負けていない!」
天使の声が裏返った。
樫の枝から、鳥が一羽飛び立った。
天使は膝に手をついて、立ち上がった。
背中の翼が開いた。
折れたところは、どこにも無かった。
「一度、都へ帰る。聖都の者は遅い。都の者はもっと遅い。だから次は、僕が決めて、僕が来る」
翼が一つ打って、天使の足が石畳から離れた。
樫の梢の高さで、天使は一度止まって、母を見下ろした。
「……水は、礼を言う」
声が、急に小さくなっていた。
翼がもう一つ羽ばたいた。。
白いものは坂の上から離れて、明けかけた空の、雲の切れ目のほうへ上がっていった。
すぐに、どこにいるのか分からなくなった。
足もとの影で、光が速く揺れた。
「いやあ、欄は作らないそうですよ、ミレアさん。僕と同じですねえ。報告しない仲間が一人増えました」
「ピリム」
「はいはい」
光は影に沈んだ。
母は桶の水を、樫の根もとに流した。
立ち上がろうとして、少しよろけた。
ノアは母の腕をつかんだ。
背中の翼が、つかんだのと同じ向きに、少しだけ開いた。
母はその翼を見て、ノアの背中に手を回した。
翼の付け根ではなく、その下の、ノアの背中に。
冷えきった手だった。
「重いでしょう」
「重くない」
ノアは、母の腕を離さなかった。
樫の枝の向こうで、東の空の端が白くなっていた。
折れた左の翼の継ぎ目に、その光が当たっていた。




