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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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降臨

年が明けて、二月の十日になった。

昼が近くなっても、聖堂の裏の石畳から霜が消えなかった。

踏むと、靴の下でしゃりっと鳴る。

ノアは背負子を下ろして、施療院の軒下に薪の束を積んだ。

脇腹の布は、年が明けてすぐに外した。

桃色の線は、もう指でなぞってもどこにあったのか分からない。

上着の内側には、柄のすり減った網針が一本入っている。


ラウロが隣で束の縄をほどきながら、指に息を吐きかけた。

「これで十二束。冬の薪は割がいいってベネデットは言うけどさ、薪より先に手が割れるぞ、これ」


「割れてない」


「お前のはな」

ラウロは赤く腫れた指の節を、ノアの鼻先に突き出した。


鐘が鳴った。

昼の鐘には、まだ早い。

一つ、二つ、三つと続いて、止まらなかった。

軒下で包帯を干していた見習いの娘が、手を止めて空を仰いだ。

広場のほうで、誰かが叫んだ。

「上だ!」


ラウロが先に走り出した。

ノアは背負子を置いたまま、その後を追った。


聖堂の前の広場には、もう人が集まりかけていた。

魚籠を提げた女も、前掛けのままの粉屋も、首を反らして同じところを見ている。

灰色の雲の下に、白い点が一つあった。

点は落ちるように近づいてきて、途中で大きく開いた。

薄い板を何枚も擦り合わせたような、乾いた音がした。

翼だった。

ペガサスは、どこにもいなかった。


「一人だぞ」

「降臨は春だろ。まだ二月だ」

「なんで今なんだよ……」


白いものは広場の上を一度回って、聖堂の階段のいちばん上に降りた。

翼がたたまれるたびに、かしゃ、かしゃ、と板の触れ合う音がした。

ノアは、翼の骨の並びを見ていた。

押し入れの奥の包みとも、ザッコの作業場で見た折れた骨組みとも、同じ並びだった。


降りてきたのは、子どもだった。

階段のいちばん上に立っているのに、二段下の大人と頭の高さが変わらない。

白い上衣に銀の帯を締めて、頬が寒さで赤くなっていた。

手首が細く、背中の翼だけが体より大きかった。


「静粛に!」

高くて、よく通る声だった。

広場が一度しんとなった。

後ろのほうで、誰かが噴きだした。


子どもはそっちを睨んで、胸を張った。

「聖都よりの照会に基づき、降下した! 当地の灯帳に記載の無い、白色の灯りの保持者を捜索する。

該当者は速やかに出頭せよ。隠匿した者も同罪とする!」


「……なんて?」

「いんとく、って何だ」

「出てこいってことだろ、たぶん」


聖堂の扉が開いて、アンブロージオ司祭が出てきた。

薄くなった白い頭を下げ、両手を胸の前で重ねている。

後ろに帳面を抱えたクレメンテがついてきて、階段の途中で足を止めた。

紐を指でほどいて、また結んでいた。

「天使さま、ようこそお越しくださいました。……皆さん。

天使さまは、白い灯りを持つ者を探しておられるそうです。心当たりのある人は、名乗り出なさい、と」

アンブロージオは広場へ向き直って、ゆっくり言い直した。


広場がざわめいた。

「白いのだ」

「港口の岩の……」

「天の子だよ、ほら」


ラウロがノアの前へ半歩出た。

「ピエトロが秋の船で出てってて助かったな。あいつがいたら、今ごろ真っ先にお前を指さしてるぞ」

声は低かった。


アンブロージオは、天使のほうへ向き直った。

「報せをお送りしたのは十二月でございました。お裁きは、春の降臨の折にと伺っておりましたが」


「春まで待つ理由が無い。聖都の審議は遅い。だから僕が来た」


「お一人で、でございますか」


「一人で足りる!」

天使は階段の石を踏み鳴らした。

その音が、思ったより小さかった。

人垣のあちこちで、笑い声が上がった。

「ちっちゃい天使さまだ」

誰かが言った。

天使の耳まで赤くなった。

「わ、笑うな! 静粛にと命じた! 笑った者の顔は、全員、記録……」

声が途中でひっくり返った。

笑い声が、もう一回り大きくなった。


クレメンテが帳面を胸に押し当てて、首をすくめた。

「あたしは……写しを決まりどおりに送っただけでございますよ」

誰も聞いていなかった。


ノアはラウロの背中の後ろにいた。

右手を、上着の脇に挟んでいた。

足もとに目を落とした。

霜の上に落ちた影は、ただ黒かった。

ピリムは光らなかった。


遅くない。

六年前の春の天使たちは、何を言われても「記録する」と「検討する」しか言わなかった。

この天使は、報せが上がって二月で、自分で降りてきた。


天使の目が、広場の上を動いていた。

顔は見ていなかった。

人の手のあたりを、一人ずつなぞっていく。

首を少し傾けて、目を細めた。

その目が、ラウロの肩の後ろで止まった。


ラウロがノアの袖をつかんだ。

「行くぞ」

人垣の外へ出るまで、ラウロは振り向かなかった。

聖堂の角を曲がって、ようやく袖を離した。

「俺は詰所に行って、ブランとイルウェン引っぱってくる。お前は家に帰れ。表の坂じゃなくて、裏の路地な。

軒が低いから、上から見えにくい」


「キミは」


「俺は灯らずだ。あいつが探してんのは白いのだろ」

ラウロは歯を見せて笑って、坂を駆け下りていった。



裏の路地は、家と家のあいだを縫って坂の上まで続いている。

軒が迫っていて、昼でも石段の半分に日が当たらない。

冬の物干し竿は空で、縄だけが壁に垂れていた。

ノアは三段とばしで上った。

自分の息と、石段を蹴る音しか聞こえなかった。


井戸のある踊り場まで来たとき、頭の上で板の擦れる音がした。

壁に、大きな影が走った。


白いものが、井戸の縁に降りた。

翼は踊り場いっぱいに開いて、端が両側の壁をかすめていた。

井戸の縁に立って、天使はやっとノアと目の高さが揃った。

「見つけた。おまえだ」


「人違い」

ノアは右手を脇に挟んだまま言った。


「違わない。僕の目は灯りの色を見る。おまえの右手は白い。脇に挟んでも漏れている。

広場で白いのは、一つだけだった」

天使は翼を背中にたたんだ。

かしゃ、と音がした。


「帳面には、灯らずって書いてある。聖堂で見てきて」


「地上の灯帳など、写しの写しだ。照合の根拠にならない」

天使は井戸の縁から石段に下りた。

下りると、頭がノアの顎の下にきた。

見上げる形になって、口が横に引き結ばれた。

「ノア」


ノアの足が、石段に貼りついた。

この町で、天使に名を言ったことは無い。


「都の台帳に、おまえの名はある。ただし、外されている。四つの年に、逃亡者として。

連れて逃げた者の名も載っている。派遣官、ミレア・ヌンティア」

天使は一段上がった。

それでも目の高さは届かなかった。


「……母さんは、ベルナ」


「地上で名乗っている名など、台帳は知らない」


四つの年。

四つの子が、一人で逃げられるはずがない。

押し入れの奥の、白い骨の包みが目に浮かんだ。

母の手が、あの包みの前で止まったのを覚えている。


「逃亡者は連れ戻す。規定どおりだ。おまえを都へ移送し、登録の処置を受けさせる。これは執行だ。来い」

天使の手が伸びてきて、ノアの右の手首をつかんだ。

脇から、手が引き出された。

指は細くて、冷たかった。

握る力は、六つの子と変わらなかった。

ノアは手首を一度ひねった。

それだけで、天使の指はほどけた。


天使は、空になった自分の手を見た。

「……抵抗するのか。執行に」


「痛くない」


天使の顔が、首まで赤くなった。

「黙れ!」

翼が開いた。

踊り場の両側の壁に端がぶつかって、漆喰が剥がれ落ちた。

ノアは背を向けて、踊り場の脇の、もっと細い路地へ飛びこんだ。


樽屋の蔵と網屋の裏のあいだは、両手を広げると指が両方の壁に触る。

網屋の軒には、繕いかけの網が竿に掛けて干してあった。

濡れた麻と、魚の脂の匂いがした。

後ろで、板の擦れる音と、石段を蹴る足音がした。

翼では入ってこられない。

走って追ってきている。


路地の出口に、人影が四つ見えた。

「ノア!」

ラウロだった。

剣を抜いて、肩で息をしていた。


その横に、赤い髪が立っていた。

樫の木剣を両手で握って、ツリ目をいっぱいに開いている。

「あれか! ちっちぇえ!」


「ガレナ。なんで」


「詰所の前にいたんだよ! ラウロが天使だって叫びながら飛びこんでったら、そりゃ来るだろ!」


その後ろから、イルウェンが麻袋を引きずってきた。

この冬のうちに急に背が伸びて、目の高さはもうノアとほとんど変わらない。

伸びた脚をまだ持て余していて、膝から下がそれぞれ勝手なほうへ出る。

壁に手をついて、肩で大きく息をしていた。

「……走ったー。坂、ずっと……走ったー。……脚、長いの、邪魔ー」


ブランは、しんがりから路地を覗きこんだ。

垂れた耳が、ぴくりと立った。

網屋の軒の網を見上げて、それから路地の幅を目で測った。

「ここで止める。ラウロ、前。イルウェン、筒。撃つ前に……」


「……言うー。分かってるー」


「ガレナ。あんたは下がってろってんだ」


「やだね」


ブランは舌打ちして、樽屋の壁の出っ張りに足をかけた。

二度蹴って、網屋の軒に上がった。


天使が、路地の中ほどで足を止めた。

翼を背中にぴたりとたたんでも、端が壁を擦っていた。

肩が上下している。

吐く息が白くかたまって、短く途切れた。

坂を上ってきただけで、額に汗が浮いていた。

「……道を、空けよ。都の執行を妨げる者は、同罪と……」

言葉の途中で、息が続かなくなった。


「息、切れてんぞ。天使さま」

ガレナが木剣の先で天使を指した。


「切れていない!」

天使は大きく息を吸って、声を張り上げた。

それからラウロに目を移して、剣を握る手をじっと見た。

「……何も見えない。灯らずか。灯らずの人間が、僕の前に立つのか」


ラウロの指が、剣の柄を握り直した。

節が白くなった。

「立つよ。こいつは渡さねえ。帰れ」


天使が踏みこんだ。

片方の翼だけを半分開いて、横から振った。

板を重ねた翼の縁が、棍棒のようにラウロへ向かった。

ラウロは剣で受けた。

金物どうしのぶつかる音が路地に響いて、ラウロの体が横へ飛んだ。

肩から樽屋の壁にぶつかって、ずり落ちた。

「……っ、重っ」


「ラウロ!」

ガレナが横から飛びこんで、木剣を翼に叩きつけた。

鈍い音がして、木剣が跳ね返った。

ガレナは取り落としかけて、両手を振った。

「かってえ! なんだこれ、鉄かよ!」


「……撃つー」

今度は、撃つ前だった。

イルウェンの筒の先で黒い石が鳴って、天使の足もとの石畳が弾けた。

砕けた石が脛に当たって、天使は跳びのいた。

跳んだ拍子に、翼が勝手に開いた。

両方の端が壁にぶつかって、翼は開ききらないまま止まった。


軒の上で、影が動いた。

ブランが、竿ごと網を落とした。

網は、開きかけの翼の上にまともにかぶさった。

天使は網の中で腕を振りまわし、足をもつれさせて、仰向けに倒れた。


「当たったろ」

軒の上で、ブランが言った。


「今度はな!」

ラウロが壁に手をついて起き上がりながら、叫び返した。


網の中で、天使がもがいた。

翼が一度、大きく羽ばたいた。

網の目が弾けて、麻の切れ端が路地に散った。

二度目で、網は真ん中から裂けた。

天使は網の残りを肩から払い落として、立ち上がった。

顔が青白かった。

膝が、小さく震えていた。

喉の奥で、ひゅうひゅうと息が鳴っていた。


ノアは前に出た。


天使の翼が横に振られた。

ノアは膝を折って、翼の下をくぐった。

そのまま天使の胸の前まで入った。

右手を天使の背中へ回して、翼の付け根をつかんだ。

冷たかった。

金物の継ぎ目が、指の下で硬く並んでいた。

六つの冬、押し入れの包みを引き出したときに手のひらに残ったのと、同じ冷たさだった。

左足で、天使の踵を払った。


天使は、あっけなく石畳に落ちた。

ノアの手の中で、体が軽かった。

市場へ運ぶ粉袋のほうが、まだ重い。

翼の付け根を押さえたまま、ノアは天使の上に膝をついた。

天使が、下からノアを見上げた。

目の縁が赤くなって、濡れていた。

「離せ! 規格外が、僕に触れるな!」


知らない言葉だった。

ノアは、付け根を押さえる手に力を入れた。

「帰って」


天使の歯が鳴った。

翼が、両方いっぺんに打った。

石畳の上で起きた風が、ノアの体を横へ跳ね飛ばした。

ノアは壁を蹴って、石段に降りた。

その間に、天使は路地を駆け戻っていた。

踊り場まで出て、翼を開いた。

端が壁を削って、漆喰が雨のように落ちた。

白いものが、軒の高さを越えた。

屋根の上に出て、そこで止まった。


天使は屋根より上で、翼を広げていた。

路地にいたときとは、別のものに見えた。

羽ばたかないままで、体がぴたりと宙に留まる。

肩だけが、まだ大きく上下していた。

「今回は、地形が不適当だっただけだ!」

声が、途中で裏返った。

「空でなら、おまえたちなど……! 記憶しておけ。この街は低い。どこにいても、上から見える!」


「負け惜しみ!」

ガレナが木剣を振り上げて叫んだ。


天使は答えなかった。

翼を一つ打って、港のほうへ上がっていった。



路地を抜けると、坂の途中に出た。

アーモンドの枝の先で、固い蕾が赤くふくらみかけていた。

坂に並ぶ家の窓が、一つ、また一つと閉まった。

閉まる前に、隙間から誰かの目がこっちを見ていた。


ラウロは石段に腰を落として、肩を回していた。

剣の刃が、一か所欠けていた。

「……抜けたかと思った、肩」


「抜けてない。回ってる」


「お前が言うと、そうなんだろうな。……剣、欠けちまった。研ぎ直しだ」

ラウロは欠けたところを親指でなぞって、笑った。


イルウェンは石段に仰向けになって、長くなった脚を二段下まで投げ出していた。

「……休憩ー。……脚、つったー」


「寝んな」

ガレナが言って、自分も石段に座りこんだ。

木剣を握っていた手を開いて、閉じて、また開いた。

手のひらが真っ赤だった。

「あいつ、ほんとに天使かよ。あたしより背、低かったぞ。……鉄、かってえ」

言いながら、口の端が上がっていた。


ブランが軒から飛び降りてきた。

着地して、しばらく空を見上げていた。

港の上の灰色の中に、白い点が小さく回っていた。

「あれは帰ったんじゃねえ。上で息を整えてるだけだ」

ブランが、ノアのほうを向いた。

去年の夏から、こんなにまっすぐ見られたのは初めてだった。

「ノア。お袋さんとこへ戻れ。すぐ出るぞ」


「出るって、どこへ」


「街の外だ。どこでもいい。あいつの目が届かねえとこまでだ。荷と足は俺らで揃える。

あんたはお袋さんを連れて、詰所の裏まで来い」


ノアはブランの顔を見ていた。

「……来てくれた」


「ラウロがうるせえからだ」

ブランは耳を伏せて、目をそらした。

「話はあとだ。走れ」


ラウロが剣を鞘に戻して立ち上がった。

「詰所の裏で待ってる。行け」


「行く」

ノアは走った。

アーモンドの下を抜けて、坂のてっぺんの長屋へ向かった。

霜の溶けない石段を、四段とばしで上った。

長屋の前の樫が見えたところで、一度だけ空を見上げた。

港の上の白い点は、もう回っていなかった。

坂のほうを向いて、止まっていた。

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