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遥かなる幻想郷まで  作者: ichir0roie
2章:罪なき子
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最後の話

十二月の施療院は、夜になると石の床から冷えが上がってきた。

旅の人と町を歩いた夏から、五か月が経つ。

酢で煮た布の匂いが、寝台のあいだにこもっている。

ノアは、左の脇腹の熱で目を覚ました。

天井の梁が、油皿の火で揺れていた。

北の峠の手前、炭焼き小屋の裏で、育ちすぎた熊の爪が脇腹に入った。

そこまでは覚えている。

荷車の上で、ラウロが何度も名前を呼んでいた。

イルウェンの手が、布の上から傷を押さえていた。

秋から急に伸びた長い指が、布ごと赤く濡れていた。

ブランは荷車を押しながら、ずっと何か怒鳴っていた。

その先は覚えていない。


寝台の脇の丸椅子で、誰かが舟を漕いでいた。

灰色の前掛けに、髪を布で包んでいる。

膝の上に包帯の束を抱えたまま、頭が前に落ちて、はっと上がる。

細い肩と、酢で赤く荒れた指先。

手習いで六つの年から隣の席だった、アガタだった。

ノアが身じろぎすると、寝台が軋んだ。

アガタの頭が跳ね上がった。

「あ……あの、起きました? ええと、動かないでください。縫ってあるので。ロジーナさんが、十四針」


「十四? ……ラウロたちは?」

ノアは天井を見たまま言った。


「十四です。ブランさんは、夜中に司祭さまに追い出されました。

荷車を押してきてから、ずっと大きい声で怒鳴ってたので……。

ラウロくんとイルウェンさんは、廊下の長椅子で寝てます。あの、お水、飲めますか?」

アガタは木の椀を持ってきて、ノアの頭の後ろに手を差し入れた。

その手が、少し震えていた。


「手、冷たい」


「ご、ごめんなさい。さっきまで井戸で布を洗ってたので。朝まで、わたしが番です。

何かあったら、呼んでください」

アガタは椀を傾けながら、ノアの髪から目をそらした。


ノアは水を二口飲んで、目を閉じた。

脇腹の熱が、脈に合わせて疼いた。

疼くたびに、熱の広がりが少しずつ狭くなっていった。



朝の鐘で、アガタが包帯をほどきはじめた。

乾いた血で、布が肌に貼りついている。

アガタはぬるま湯を含ませた布を当てて、端から少しずつ剥がした。

最後の一枚が取れた。

アガタの手が止まった。

盥の湯が、小さく揺れた。


ノアも、自分の脇腹を見下ろした。

開いた傷は無かった。

肋の下から腰骨の上まで、薄い桃色の線が一本走っているだけだった。

十四針の黒い糸が、肌の上に乗っていた。

縫い留めているのではなく、置いてあるように見えた。


「……あの」

アガタの声がかすれた。


「言わないで」

ノアはアガタの顔を見た。


アガタの唇が動いて、何も出てこなかった。

一度、戸口のほうを見た。

それからノアに目を戻した。

「言いません」

短かった。

アガタは新しい布を取って、傷の上に当てた。

前と同じ厚さに重ねて、前と同じところで結んだ。

「ええと……まだ、痛いってことにしてください。起きるときは、ゆっくり。脇を押さえて」


「分かった」


廊下で足音がして、鍵束の鳴る音が近づいてきた。

戸口に、大柄な女が立った。

五十を過ぎた年で、袖を肘までまくった腕が太い。

腰に鍵を十ほど下げていて、灰汁の匂いがした。

「どれ、見せてごらん。熱は引いたかい」


「あの、ロジーナさん、今、わたしが替えたばかりで……」


「替えたばかりなら、ほどいても同じだろ」

ロジーナはアガタの手をどけて、結び目をほどいた。

布が落ちた。

ロジーナは何も言わなかった。

太い指で、糸の端を一本つまんだ。

引くと、糸はするりと抜けた。

抜けた糸を指の先で持ったまま、ロジーナは長いあいだ桃色の線を見ていた。

「……ゆうべ、あたしが縫ったんだよ。指が入るくらい開いてた。あんた、朝まで付いてたね。何か見たかい」

アガタのほうを向いた。


アガタの手が、前掛けを握った。

「……見ていません。寝てしまって」


ロジーナはアガタの顔を見て、それからノアの髪を見た。

布を拾って傷の上にかぶせると、結びもせずに立ち上がった。

「そのまま寝てな」

鍵の鳴る音が、廊下を聖堂のほうへ遠ざかっていった。


アガタは前掛けを握ったまま、戸口を見ていた。

「……ごめんなさい。止められなくて」


「キミのせいじゃない。帰る」

ノアは脇を押さえて、寝台から足を下ろした。


「え、あの、まだ……」


「ここにいたら、もっと見られる」


アガタは口を開いて、閉じた。

それから、ノアの上着を棚から下ろしてきた。

「……裏の戸まで、案内します。ラウロくんたちには、わたしから言っておきます」



施療院の廊下の長椅子で、ラウロが剣を抱いたまま座って眠っていた。

その隣で、イルウェンが麻袋を枕にして横になっていた。

秋から急に背が伸びて、膝から下が長椅子の端からはみ出している。

ノアは二人の前を、足音を立てずに通りすぎた。


裏の戸へ出るには、聖堂の脇の廊下を抜ける。

石の壁から、冬の冷たさがにじみ出ていた。

香の煙の匂いが、廊下の奥から流れてくる。

香部屋の戸が、手のひら一つぶん開いていた。

中から、ロジーナの声がした。

「十四針ですよ、司祭さま。朝には糸が浮いてた。あたしは三十年、傷を縫ってきたんです」


アガタの足が止まった。

ノアも止まった。

戸の隙間から、机が見えた。

机の上には、封をした手紙が束になって積んである。

その向こうに、白い髪の薄くなった老人が座っていた。

アンブロージオ司祭だった。

手習いの頃と同じに、両手を膝の上で重ねていた。

「落ち着きなさい、ロジーナ。深く見えて浅い傷というのも、あるでしょう」


「指が入ったんです。見習いの子は、寝てたから見てないって言いますけどね」


机の脇に、痩せた男が立っていた。

灯記しの帳面を胸に抱えて、帳面の紐を結び直している。

一度結んで、ほどいて、また結んだ。

クレメンテだった。

「司祭さま。あたしから申し上げにくいんでございますがね。

灯帳の裏の頁に、秋にセラフィナが書き足しておりまして。港口の、白いのの件で。

そこへ今の話が並びますとね、月の終わりの写しと一緒に、上へ行くんでございますよ。決まりなもんで」

クレメンテは紐の結び目を指でなぞった。


「私が預かる、というわけにはいきませんか」


「……預かっても、写しは行きます」


香部屋の中が静かになった。

アンブロージオは膝の上の手をほどいて、机のペンを取った。

「では、手紙を添えましょう。名は書きません。証も無い。この港に、帳に無いものがいるらしい。

それだけを書きます」


「名を書かなくたって、あの髪じゃ……」


「ロジーナ」

アンブロージオの声は、柔らかいままだった。

ロジーナは口を閉じた。


「聖都は、それで、どうなさいますかね」

クレメンテが言った。


アンブロージオはペンの先を見ていた。

「帳に無き色は、天の裁きに委ねよ」

その一句だけ、声が硬かった。

「……そう書いてありますからね。聖都は自分では決めないでしょう。

天使さまに、裁きを仰ぐことになります」


アガタの指が、ノアの袖をつまんだ。

引っぱられて、ノアは歩き出した。

足の下で床板が一枚鳴った。

振り返らなかった。


裏の戸を開けると、坂の上から風が吹き下ろしてきた。

坂の途中のアーモンドはとうに葉を落としきって、黒い枝だけが揺れていた。

アガタは戸の柱に手をついて、しばらく息を整えていた。

「あの……わたし、何も見てませんから。誰に聞かれても」


「うん」


「……七つのときも、見てません」


ノアは振り向いた。

アガタの顔が、耳まで赤くなっていた。

アガタは何か言いかけて、やめて、戸の中へ駆け戻った。

戸が閉まった。

ノアは脇腹を押さえた。

布の下の線は、もう疼かなかった。


路地の向かいの壁に、荷車が一台立てかけてあった。

その轅に腰を載せて、ブランが腕を組んでいた。

垂れた耳が片方だけ、戸の鳴ったほうへ向いた。

目が開いて、ノアの脇腹の包帯のあたりで止まった。

顔までは上がってこなかった。

「……歩けんのか」


「歩ける」


ブランは轅から腰を上げて、荷車の向きを変えた。

「炭焼きに返してくる。坂の下までは同じ道だってんだ」

荷車が、先に坂を下りはじめた。

ノアはその三歩後ろを歩いた。

ブランは一度も振り返らなかった。

轍の軋む音が、坂の下まで続いた。



三日たっても、ノアは包帯を巻いたままにしていた。

荷運びにも出ず、昼過ぎに波止場へ下りた。

防波堤の突端では、白い波が石を叩いていた。

しぶきが風に乗って、頬に当たると冷たい。


突端の石に、小さい背中が一つ乗っていた。

古い帆布を継ぎ合わせた外套に、毛糸の帽子を耳まで下ろしている。

膝の上に網を広げて、網針を動かしていた。

指の節がどれも瘤のように太くて、網針を持つ手は震えていたが、目だけは網から離れなかった。

「おう、おまえさんか。腹を裂かれたというて、波止場じゅうの噂じゃったぞ。ほっつき歩いてええのか」

バルドは、ノアが来るのを見もしないで言った。


「浅かった」

ノアは隣の石に腰を下ろした。


「そうかい。浅いなら、ええわい。ほれ、端を持っとれ。風で持っていかれる」

バルドはノアの脇腹を見なかった。

網の端を、ノアのほうへ放ってよこした。


ノアは網の端を膝に押さえた。

バルドの吐く息が、白く流れていった。

しばらく、網針の音と波の音だけが続いた。


「今日は寒いでな、とっときの話をしてやろう。ザハラの南の端の港で、網干しの婆さんに聞いた話じゃ。

わしが三十のころじゃったから、もう五十年も前になるわい」

バルドは網針を止めて、海のほうへ顎を上げた。

「昔の昔、海にまだ船が一艘も浮いておらなんだころ。人はな……」

そこで黙って、網の目を一つ、指でなぞった。


「……それで?」


「空から来たというてな。星のあいだを渡る、でっかい船でじゃ」


「空から?」


「空から。降りた者は陸に散って、畑を作って、手に灯りをともすのを覚えた。

そのうちに、空のことを忘れてしもうた。降りなんだ者もおった。上に残って、ずっと下を見とる。

そっちは、忘れなんだ」

バルドは網針の先で、灰色の空を指した。


「何を見てるの?」


バルドは網針を網に戻した。

波が一つ、石に当たって砕けるまで黙っていた。

「……数を、じゃ。上の者はときどき降りてきて、数える。下に何人おって、どんな色を灯すか。

帳面につけて、帰っていく。それでな、たまに、数が合わんことがある」


ノアの手が、膝の上の網をつかんだ。


「下の者の子の中に、上の色が混じって生まれる。そうすると、白い羽の者が降りてくる。

その子を迎えにじゃ」


「迎え?」


「婆さんは迎えというた。わしは、連れ戻しじゃと思うたがな。

連れていかれた子がどうなったかは、話に無い。話というのは、帰ってきたやつがするもんじゃからな」

バルドは鼻をすすった。


波が突端の石にぶつかって、しぶきが二人の足もとまで飛んだ。

ノアは網を握ったまま、空を見た。

雲が低くて、どこにも切れ目が無かった。

「……その子。逃げなかったの?」


「逃げた子の話もあるわい」

バルドは咳を二つして、網針を膝に置いた。

両手をこすり合わせて、息を吹きかけた。

「じゃが、そっちは続きじゃ。今日は指が動かん。続きは今度にしよう」


「今度って、いつ?」


「明日でも、あさってでも。わしはここにおる。それより、その端を舫いで結んでみい。教えたじゃろ」

バルドは網の端を指さした。


ノアは網の端を杭の輪に回して、結んだ。

輪を作って、くぐらせて、引いた。

バルドは結び目を指でつまんで、二度引いた。

「よし。それが解けなんだら、船は流れん。帰れ、帰れ。腹が冷えるわい」

網針の柄で、ノアの頭を軽く叩いた。


ノアは立ち上がった。

防波堤の根もとで一度振り返った。

バルドは海のほうを向いて、また網針を動かしていた。



日が落ちてから、母の繕い物を抱えて酒場へ下りた。

網の仕事が止まってから、母の針仕事を受けてくれる店は、ここと船宿だけになっていた。

戸を開けると、魚を焼く煙と、温めた酒の匂いが顔に当たった。


客は少なかった。

奥の台の端に、痩せた男が一人、背中を丸めて座っていた。

胸の前に帳面を置いて、その紐を指に巻きつけている。

顔が、耳の先まで赤かった。

クレメンテだった。

ドーラが台の向こうから、クレメンテの杯に酒を注ぎ足していた。

「ほら、もう一杯。今日はずいぶん帳面が重かったみたいじゃないか」


「重いっすなあ……。あたしはね、ドーラさん。帳面を守るのが仕事なんでございますよ。

書いたもんは、上へ行く。上へ行ったもんは、ちゃあんと読まれる」

クレメンテは杯を両手で包んだ。


「へえ。司祭さまの手紙は、読まれないって聞いたけどね」


「あれは別でさあ。二十六年、返事なんか来やしねえ。けど灯改めの報せは違う。

あれだけは、上のお方が必ず目を通しなさる。で、読まれたらね……降りてこられるんでございますよ。

天使さまが。冬が明けたら……そろそろっすなあ」

クレメンテは杯を傾けて、長く息を吐いた。


「そうかい。へえ。だろうね」

ドーラは布巾で台を拭いた。

それから、顔を上げた。

琥珀色の目が、戸口のノアで止まった。

ドーラは布巾を肩に掛けて、クレメンテの杯を指で押さえた。

「あんた、そのへんにしときな。明日の朝、司祭さまの顔が見らんないよ」


クレメンテが振り向いた。

ノアの髪を見て、赤い顔から色が引いた。

指に巻いていた紐がほどけて、帳面が台の上で開きかけた。

クレメンテは慌てて帳面を閉じ、紐を結び直した。

結び目が、二度ほどけた。

「い、今のは……酒の話でございますよ。聞かなかったことにしてくだせえ」


「いつ?」


「……知りません。ほんとに知らねえんで。あたしは、帳面をつけるだけなんでございますよ」

クレメンテは銅貨を台に置いて、帳面を抱えて立ち上がった。

ノアの横を、肩をすぼめて抜けていった。

戸が閉まって、冷たい風が一度だけ店の中を回った。


ドーラは銅貨を拾って、台の下の箱に落とした。

「そこ置きな」

ノアが包みを台に載せると、ドーラは結び目を解いて、前掛けの裾を一枚ずつ指でめくった。

数え終わって、銅貨をノアの手のひらに乗せる。

「あいつの話はね、半分は酒だよ」

次のコップを取って、拭きはじめた。

「……半分はね」


ノアは手のひらの銅貨を握った。

「降りてきたら、どうなる?」


「どうもならないさ。上から誰が降りてきたって、この店の酒の値段は変わらない。

世の中ってのは、そういうもんだ」

ドーラは喉の奥で笑った。

コップを棚に置いて、ノアのほうを見ないまま言った。

「寄り道しないで帰んな。今夜は冷えるよ」


外に出ると、潮の匂いが凍っていた。

防波堤の突端のほうは暗くて、何も見えなかった。

ノアは坂を上った。



翌朝、空の籠を取りに、また酒場へ下りた。

戸口に、ドーラが箒を持って立っていた。

掃いてはいなかった。

箒の柄を両手で握ったまま、防波堤のほうを見ていた。

ノアが来たのに気づいて、ドーラは籠を足もとから拾ってよこした。

「……バルドの爺さんがね。今朝、突端で見つかったよ。網を膝に載せて、座ったまんま。

眠ってるみたいだったってさ」

しゃがれた声が、いつもより低かった。


ノアは籠を受け取った。

取っ手を握ったまま、立っていた。


「もう運んでったよ。網元んとこの若いのが。行ってきな。籠は置いてっていい」

ドーラは箒の先で、石畳を一度だけ掃いた。


ノアは籠を戸口に置いて、走った。


防波堤の突端には、誰もいなかった。

バルドの座っていた石の上に、網が一枚、広げたまま残っていた。

網の目に霜が降りて、朝の光で白く光っていた。

端は、杭の輪に結んだままだった。

きのう、ノアが結んだ舫いだった。

風が吹いても、網は流れていなかった。


ノアは、バルドの石に腰を下ろした。

石は冷えきっていた。

網の上に、網針が一本落ちていた。

拾うと、柄がバルドの手の形にすり減っていた。

「続きは今度だって、言った」

波の音が、足の下から上がってきた。

「逃げた子の話」

誰も答えなかった。


ノアは網針を握って、空を見上げた。

雲は高く、一面の白だった。

何も降りてこなかった。

まだ。

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